第2節
建物の中は閑散としていた。ランドルの言葉どおり、一応は集合住宅のような造りになっている。二階建ての建物は古びていて取り壊す寸前のような状態だ。階段の手摺は錆びついている。三人と一匹以外の人気はない。
「住民は二階に住んでいる一人だけ。偽名を使って住んでいた女性だな。三週間後にはここを取り壊す予定だったらしい」
ランドルの説明に納得する。探偵をしているらしいエリアルという男は、ランドルの説明を聞いているのか聞いていないのか、どんどん先に進んでいく。一階の部屋をあちこち見て回る様子に、デリックは焦燥感を覚えた。
「なぁ、住んでたのは二階なんだろ? 一階を見てどうすんだよ?」
デリックの声はしっかりと届いたようだ。ぱっとこちらを振り返ったエリアルは、デリックの姿を視界に入れて瞠目した。ぱちぱちと二、三度瞬きを繰り返しながらじっとデリックを見つめてくる。
「え、どうしてここにあなたが?」
零された彼の声は、本気で不思議がっている。こちらとしても同じ質問を返したい。どうしてって、オマエの相棒だがなんだか知らない警部に引っ張られて来たからだ。断じて自分の意思ではない。
「新しい助手じゃないのか?」
エリアルの困惑に、ランドルがさらなる困惑を返す。一番戸惑うべきなのはデリックのはずだが、デリックは二人の動揺を目にしてかえって冷静になった。
「オレはデリック・ユーイング。アンタが、えーとエリアル・テイラーでそっちの警部さんがランドル・ファロンだっけ? そんで足元のこいつがスコット、ね。よろしくな」
右手を差し出すが、二人と一匹はデリックの顔を見たまま静止画のように止まってしまった。仕方なしに相手の手を順番にとって無理やり握手しておく。そういえば自己紹介すらまだだった。
最後にスコットの前で膝を突いて、前足を取り、一方的に握手する。スコットは怪訝そうにうぅと鳴いた。人間の挨拶は犬には不要だったらしい。
「なんだよ? 仕方ないだろ。犬の挨拶の方法なんてオレは知らないんだって」
不服そうなスコットと視線を交わし、デリックは反論してみた。もう一声、うぅと呻られて苦笑する。納得いかないらしい。
あっはは――と、聞き覚えのある笑い声が再び耳に届いた。エリアルが、デリックとスコットを交互に見て笑っている。柔らかな笑顔は、アパートであるこの建物に入る前に警官に見せたぎこちないそれとはまるで違う。
どうやら彼は人見知りらしい。
「なにがおかしい?」
「すまない。おかしいんじゃなくて、嬉しいんだ」
「は?」
「スコットと向き合ってくれてありがとう」
「何が?」
エリアルの言葉の意味が分からず、眉を顰める。すると、なぜか彼ではなくランドルが呆れたように溜息を吐いて、口を開いた。
「普通は、犬と顔を合わせようとしないし挨拶もしない」
「……そうか?」
「少なくとも、人間にするようにはしないだろ」
「そんなもんかね」
茶化すように呟くと、エリアルが嬉しそうに笑った。毒気のないその笑顔に、落ち着かない気分になる。恥ずかしさを誤魔化すために、デリックはとりあえず視線を逸らしておいた。ランドルの溜息が再びデリックに襲い掛かるが、無視だ。
「それで? この男前の名前は分かったが、なんで事務所にいたんだ?」
「あ~と、スコットが彼のものを盗ったとか言ってたかな」
「またか。いい加減その収集癖をどうにかしたらどうだ? スコッティ」
エリアルの説明に肩を落としたランドルがスコットを見つめて苦言を呈すると、スコットはわんと一声鳴いて尾を振った。いや、褒めてない。スコットは怒られているのだが当人に自覚はないらしい。
デリックは二人と一匹の様子を眺めて、諦めの境地に入ってしまった。どうにでもなれと投げやりな気持ちがふつふつと生まれてくる。だめだ。投げやりになってはいけない。どうしても、スコットに盗まれた大切なものを取り返さなくては。
「知り合いじゃないのにどうして現場に連れて来たんだ」
「え、連れて来てない……」
「アンタだよアンタ! オレを強引に引っ張ってきたのは!」
「うるさいぞデリック」
「理不尽!」
真顔のままで話すランドルの真意は読めない。単純にとぼけているだけなのか、あるいは、ただ抜けているだけなのか。デリックの推測では前者だ。彼は間違いなく曲者タイプの人間だろう。
エリアルはいま一つ分からない。
「間違えて連れてきて悪かったな。というわけで、他人はとっととここから出ていけ」
「やっぱり理不尽だ! この男」
しっしと追い払うような仕草を向けられてしまった。その手を、エリアルがそっと掴む。
「なんだ?」
「ランドル、彼は他人じゃない」
「「は?」」
うっかりランドルと声が重なってしまった。エリアルが突拍子もないことを言った所為だ。
「さっき自己紹介した。握手も。彼は友人だ」
またしても毒気のない笑顔を浮かべて断言する彼に、デリックは妙な居心地の悪さを感じ、意味もなく背中を掻く。
呆れた顔のランドルは、しかし、溜息を一つ落として閉口した。彼のこの発言は、ランドルにとって決して突飛なものではなかったようだ。エリアルとランドルの間では日常的でありきたりなこと。しかし、もちろんデリックにとっては初めてのことだが。
わん、と足元でスコットが鳴いた。訂正しておこう。二人と一匹にとってはよくあることらしい。
いつの間にか友人にまで昇進したデリックをそのまま伴い、一階のキッチンに足を進める。キッチンの中は片付いていると表現するよりも、物が少ないと表現したほうが近い。清潔とまでは言い難いが、調理する場所として気になるほどの汚れはないように見える。
作りかけの昼食と思しき料理が雑多においてあることを除いて、何の変哲もない場所だった。
エリアルはキッチンを一周して、また戻って、今度は逆回りで一周して、また戻る。ランドルは壁や床、天井など隅々を睨むように見つめ、何らかの痕跡がないかを探しているようだ。
探偵と警官らしく働く二人をぼんやりと眺めながらも、デリックの焦燥は募った。今すぐにここから出たい。この場所にいるよりも、先ほどの――ランドル曰く――「事務所」に戻って、スコットが持ち逃げした大切なものを探さなくては。しかし、足に巻きついた尾がそれを許さない。
デリックが立ち止まるたびにスコットの尾が巻き付いてくる。よもやこの探偵犬、常にデリックを捕獲しておく任務でも言い渡されているのだろうか。
疑心暗鬼になってスコットと見つめ合うデリックの横を、音もなくエリアルが通り過ぎた。すぐにランドルが続く。スコットの尾から解放された足に安堵して、デリックも二人の後を追った。
――なぜ逃げないのか?
答えは簡単だ。今逃げるためには、デリックの前を歩く二人を押しのけて行くしか道はなく、エリアルはともかく、警官であるランドルから逃れられるとは思えない。
広い屋外ならともかく、狭い建物の中では身動きも碌にできないだろう。さらにつけ加えると、スコットに噛みつかれるのも御免だ。
ようやく二階に上がった三人と一匹は、たった一人だけだったという住人の部屋を覗いた。
女性らしく、室内はある程度整理整頓されていた。部屋の隅に積まれたダンボール箱の中から洋服の袖口が顔を覗かせている。おそらくは、クローゼットがわりに使用していたのであろう。
このアパートとは名ばかりの建物にデリックたちが入ってから数十分。ようやく、確かな生活感を目の当たりにできた気がする。エリアルが、シーツだけがかけられたベッドと呼ぶには寂しいマットレスの上に散らばった女性の服を手に取り、不思議そうに眺めていた。
何を不思議に思うことがあるのか。さっぱり分からない。ただの服だ。
彼の動向を見守っていたデリックは、唐突にこちらを見返してきたエリアルに瞠目した。この男に予備動作というものはないのだろうか。動き出すときはいつも突然で、リアクションを試されているのかと疑いたくなるほどだ。
「な、んだよ?」
「……こっちに来てほしい」
じっと見つめられて、デリックは仕方なく彼に近づいた。ランドルのような曲者相手ならば対処のしようもあるが、エリアルのようなタイプの人間はデリックにとって最も苦手とする分野だ。率直で、毒がない。裏を読めない男。あるいは、裏がない男。
デリックに残された対処法は一つ。一刻も早くこの場から逃げることだ。
近づいたデリックの腕を取って、エリアルが自分のもとへと引き寄せる。逆らわずにその力に従っておいた。首元に彼の顔が寄せられ、十秒も経たないうちに離れる。いつの間にか掴まれていた腕も自由になっていた。やはり動作が唐突だ。
「何の用だったんだ?」
「あなたって、不思議な人だ」
「はぁ……」
エリアルに言われたくはない。彼は交わしていた視線を逸らし、スコットを呼んだ。駆け寄ってきた探偵犬を一撫でして、耳元で何事かを囁く。途端にスコットがデリックの足元を走り去る。
当然と言われれば当然だが、素晴らしい脚力だ。瞬く間にスコットは建物の外へ出て行ってしまった。
「なんだ?」
「スコットに持って来てもらうものがあって」
「?」
スコットの目的もエリアルの言葉の意味も理解できないが、デリックにとってこれはチャンスだ。自分を見張り続けていた探偵犬は不在。ランドルは寝室を見に行くと言ってこの部屋にはいない。
エリアルとデリックだけが今、この室内にいる。これは逃げ出す好機。エリアルを振り切ることは、それほど難しくはないだろう。
彼に気付かれないように、一歩後退した。さらに一歩後退して、駆け出す――そうすれば、逃げ出せる。決意した瞬間、エリアルが呟いた。
「ここに居てほしい」
「っ――」
まるで、デリックの逃亡計画をはじめから知っていたような口ぶりだ。
「いるだろ?」
「そうだな、ありがとう」
さらりとお礼を言われて、さらに一歩後退しようとしていた足が床に縫い付けられたかのように動かなくなった。だから、このタイプの男が苦手なんだ。暴力でもなく、罵詈雑言でもなく、ただのシンプルで率直な言葉だけでデリックの体を支配してしまう。
「女性ならどんなタイプでも得意なんだけどな」
「ん?」
「独り言だよ」
寝室の扉が開いた。ランドルの帰還だ。これで千載一遇のチャンスを逃したことになる。デリックは溜息を吐いた。
エリアルは、こちらが考えていたよりもずっと手強い相手らしい。