表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ホラー短編集

ホラー小説「落とし物」

作者: sillin

「もしもし、落し物ですよ」


 肩を揺すられて、私はぼんやり目を開けた。

 温厚そうな顔の老婆が目を細めて覗き込んでいる。すぐに電車内だと言う事を思い出し、私は姿勢を正した。


「あっ、どうもどうも」


 差し出された封筒を受け取り、まだ眠気ではっきりしない頭のまま、それをポケットに仕舞い込んだ。


「いえいえ」


 老婆は笑い顔のまま背を向け、歩いていく。

 そしてすぐに、これは私の物ではないことに気がついた。私の持ち物はバッグ一つなのだ。


「あの」


 と声をだしても、老婆は耳が遠いのか気づかなかった。次の瞬間、電車は駅に止まって、空いていた車内にどっと乗客が押し寄せてきた。

 立ち上がって老婆を探したが、乗客にまぎれて見当たらない。降りたのかもしれなかった。


「なんなんだ」


 私の席は立ち上がった瞬間に取られている。少しいらいらした。

 思い返せば、あの近辺に座っていたのは私だけだ。誰か他の人が通りすがりに封筒を落としたのだろう。いらぬ親切心と言うわけだ。


 終点の駅で私は降りると、ゴミ箱へ封筒を放り込んだ。

 どうせ持ち主のわからないものだ。駅員に渡すのもうっとうしい。

 駅の構内では、何を急いでいるのかわからないがみんな早足だ。

 私もここへ来てから早足になった。もっとゆっくり歩きたいのだが、流されるように歩いているうち、自然と早足になる。


 意にそぐわないことだ。


 そう、まったく意にそぐわない。

 あの女もそうだ。ただの遊びだとお互いわかっていたはずなのに、妊娠した途端手の平を返しやがる。


 意にそぐわないことは大嫌いだ。

 ほとんど無理やり堕ろさせて、その結果女は妊娠できない体になった。ぐずぐずしている方が悪い、と思ってみても、やはりこちらにも良心はある。入院費から全部負担し、相当の金を積んで示談した。女は受け取らなかったが、女の親が受け取ったから同じだ。


 あれからだ。私はすぐいらつくようになった。仕事のストレスを女遊びで解消していたのに、遊ぼうと言う気にならないのだ。ストレスばかりが溜まっていく。


「もしもし」


 背中を叩かれて、私は立ち止まった。なんだろう、と振り向き、ぎょっとする。

 先ほどの老婆が細い目で見上げていた。


「これ、落としましたよ」


 差し出したのは捨てたはずの封筒だ。唖然とした。


「あ、はぁ」


 ため息のような相槌しか打てない。老婆はしっかり私の手に封筒を持たせると、


「お気をつけなすってね」


 と言い残して歩き去った。

 私は捨てたのだ。蓋付きのゴミ箱の中に、きっちりと。

 落としたんじゃない、捨てたんだ。なんでそれを拾い上げて持ってくる。


 私は突然に激昂した。

 ふざけている。嫌がらせだ。そうじゃなきゃ狂ってる。


 これは私のじゃない!

 大声でそう叫びたかった。だがあいにく私には社会人としての理性がある。


 虫のような人ごみも、路上に転がったホームレスも、床に散らばる黒いガムの染みも、全部が私の神経を逆撫でに刺激した。

 今まで味わったことのないほどひどい気分だった。なぜかあの女の顔が脳裏にちらついている。余計にいらいらした。


 競歩のような速度で家まで歩き、マンションのドアを閉める。

 部屋に入ってネクタイを解き、バッグをソファの上に投げ捨てて、すぐ冷蔵庫を開けた。缶ビールだけはいつも冷やしてある。


 一気に半分ほど飲み干して、ようやく少し冷静になった。

 封筒はバッグの上に横たわっている。捨てたらまた老婆がやってきそうな気がしたのだ。


「ったく……」


 毒づきながら拾い上げる。

 中身はどうやら、手紙などではないようだった。もぞもぞと糸のような束が膨らんでいる。封筒は投函するためではなく、入れ物としてちょうどよかったからのようだ。

 中を見てから捨てようと思った。缶ビールをテーブルの上に置き、その横で口を開いて逆さまにする。


「わっ」


 ぼた、と落ちてきたのは、黒い髪の毛だった。髪の毛の束。それだけだ。


「なんだ、気持ち悪い」


 腕を触ると、鳥肌を立てている。落し物だと言われた封筒に入っていたのは長い髪の毛だったのだ。

空恐ろしいような、不気味な感覚が背筋を寒くした。少し混乱した私は、まずは落ち着いて状況を整理しようと缶ビールを手に取った。


 その瞬間電話が鳴る。

 受話器を取った私は、何度か聞いたことのある声を聞いた。

 あの女の母親だ。


 母親は私に、女が森で自殺したと告げた。娘の死を説明するにしては、淡々としていた。


『一つ聞きたい事があるの』


「なんですか」


 私の声はかすれていた。


『通報される前に、誰かが髪の毛を切り取って行ったみたいなの。もしかしてあなた、それ持ってない? なんだかそんな気がするのよ』


 受話器が手から滑り落ちた。

 私は呆けた表情でテーブルの上の髪の束を見つめた。

 それは私が、綺麗だよとよく褒めていた部分だった。



                         ――おわり


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ