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出あうことのない二人、出逢う  作者: 柿ノ木コジロー
第3章 夕 ― ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
9/18

―― 僕。光と闇、独立した陰影

 人は死ねば無に戻る。

 何にも感じず、何も思わなくなった時が人の死と言えるのだろうか。

 逆に死しても尚、何かが残るのならば、それは僕は死とは認めたくない。

 何かを残せば、人は永遠に死を免れることができる。

 のだとしたら。


 僕はずっとそう信じていたからこそ、絵画を含めた芸術作品というものに底しれぬ魅力を感じていたのだろう。


 作品が残る、ということは、確かにその人の何かが残るということだ。しかしその人が『思う』ということはあくまでも自身の主観でしかない。その人間が『思う』ことを止めたら、一体何が残るというのだろう。


 君は気づいているだろうか。

 君は眠る時、何も考えていないはずだ。例えば少し前、君は夕刻の商店街で突然倒れた。僕はそれを知っている。原因は判らない、しかし、完全に意識を失い、近くの親切な店に運び込まれて介抱されていたのを、僕はたまたま見ていたんだ。



 その時、君は束の間、死んでいたのだと思わないか?



 夢はみたか? 多分、見ていない。見たとしても、覚えていないだろう。

 その時、君の『存在』はいったい、どこにあったのか。


 そうだ、その時に初めて、僕は君を見た。

 僕にとっての君が、初めて存在した瞬間……しかし君にはその記憶がない。完全に意識はなかったのだから。


 君が『そこに居なかった』時、僕は君を知ったんだ。


 光と闇とがくっきりと君のからだを照らし出す中で。それはまさしく、ひとつの作品だった……まさしく、カラヴァッジョの絵の世界だった。




 もの言わぬからだ、意思のない物体が単に光を受けて輝いているだけ。

 闇は光から生まれるのではない、ただ、光とは関係なく単にそこが闇だから存在するに過ぎない。

 お互いは無関係に存在していた。そこに通いあう精神はなかった。


 しかし、ふだん我々は大きく勘違いしている、光ある故、闇が生じるのだ、と。

 同じように勘違いしているのではないか? 善があるからこそ、悪があるのだというのも。


 カラヴァッジョの絵は違った。


 カラヴァッジョの絵は度々スキャンダラスな理由で人びとの非難を浴びた。『聖アンナと聖母子』は、あまりにもキリスト教の教義と相容れない邪悪な作品だとして、すぐに祭壇から外された。また、『聖母の死』は自らつき合いのあった娼婦をモデルにしたとして、受け取りを拒否された。


 彼自身が、傍若無人な青年だった。若い頃から素晴らしい才能で世に認められ、貴族や聖職者からひっきりなしの注文や援助やらがあった。その一方で、半月を絵画制作に費やすと、その後半月から1ヶ月は帯剣で街なかを歩きまわり、喧嘩やトラブルを巻き起こして歩くような輩だった。そしてついに、遊び仲間と揉めた弾みで、相手を刺し殺してしまう。


 死罪を恐れ、彼はそれから逃亡と流浪の日々を送る。


 それまで陰影鮮やかな、どことなく華美な中に退廃を漂わせたようなコントラストの強い作品が多かった彼だが、逃亡中にその影は少しずつ内面へと向かうように、色幅を減らし、光と影、そしてダイナミックな身体のラインや表情の際だつものへと変化していく。


 最後に、ローマ法王庁からの恩赦を願いつつも旅路の果てに斃れたとき、彼は何を思ったのだろうか。

 自らの罪を悔いて、善き魂として天に召されたいと本気で思っていたのだろうか。


 彼の心の中の闇は、くっきりした光との対象物として、善なるものから零れ落ちた影として存在していたのだと以前そう結論づけていたのに、僕は君を見つめながらふと思い返した。



 いや、むしろ逆なのではないか。


 彼は常に心の中に『光』のみを感じていたのかも知れない。


 誰にも曲げられることのない光を。太陽があちらから照らせば、それはまっすぐに自らの見据えるものに当たる。

 彼にとっての闇とは、光に照らされた愛すべき対象以外の、全ての社会――宗教、政治、世間のしきたりなど――とても剣を握り締めて辺りを睨みつけながらでなければ対峙し得ない、そんな過酷な世界の方だったのではないだろうか。

 だからこそ、ただひたすらに自らの理想とする光のみを求めてキャンバスに向かっていたとも考えられる。


 善悪を超越した、絶対的なものに向き合うために。 


 宗教を題材としながらも、彼はそれを超えた何かを追い求めようとしていた……

 僕はそう感じたからこそ、君の横たわる姿の中にカラヴァッジオの光を見たのだろう。



 君のからだにあたる光――呼吸がくるしくないようにと緩められた喉元と下腹を、そして胸元に乗せられた手を、そして安らかとも言える貌の上を、夏の暮れかかった斜光がきいろく染めている。


 僕はひとりでそれをじっと見つめていた、永遠とも思える一瞬の中で。




――その時には、私自身には何の興味は無かったのね。単なるモノとして、そこに在っただけだから。

 貴方が感じたのは、絶対的な光。私というモノを照らしていた、光そのものに魅せられていたのでしょう。


 そう、立ち去る間際までは。


 おうちに連絡が取れたよ、旦那さんがすぐ来るって、見ていてくれてありがとうね、アナタも忙しいでしょうに、と店の奥さんが走って来て、僕はきびすを返した、もう帰らねば。まだ遠くの街まで車で帰らねばならない。


 その時、目の端にかすかな動きを感じ、僕はふり返って横たわる君を見た。左手の指先が、軽く、動いたんだ。きいろい光を載せたまま。


 急に君の意思を感じた。


――どんな?


 私は、ここに在る ――― と。




―― でも貴方は言った、『私』が意識の無い時に、私はそこには存在しない、と。

 どうして貴方は、私がそこに『在る』と感じたの?




……わからない。

 ただ、君の指先がそうつぶやいた、そう感じただけだ。

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