―― 私。午後0時46分
パパ、知ってる? マツモト・シュンスケ。
昼休みに帰ってきた夫は、丼から顔を上げて、はあ? という目をした。
会社が家から歩いて十分くらいのところにあるので、夫は、昼にはいつも家に戻ってくる。
いつだったか、
「お弁当にしようか? いちいち面倒くさいでしょ、家に帰るの」
そう聞いてみたけれどもいや、別に、と言われてしまい、次のことばを飲み込んでしまった。
その時感じたちいさな昏い塊を、私は心にある濁った湖の底に静かに沈めたままだ。
―― マツモト・ユウスケ? そんな選手、この辺のクラブチームにいたかな。
「いえ、サッカーとかじゃなくて。マツモト、シュンスケって……」
―― なら、野球で? それともプロで?
私は聞こえないようにため息をつく。「違うの」
夫は急に興味を無くしたように、丼に目を戻した。「圭太の同級生か? 聞いたことねえ」
そのまま中身をかっこんでいる彼の頭頂部、地肌がじっとりと白く光ってみえた。
あの頭のてっぺんに指をかけた時、脂ぎった皮膚に手がかりもなく、髪もすり抜けて手が滑り落ちていってしまうそんな夜を想像した、すぐ鼻先に汗とほこりの混じった不潔な匂いまで蘇ってくる。二の腕のうら側にあたるぼさぼさの髪先。貪欲に胸に貪りつく丸抱えの頭部。乳首の先が急に痛んだ。おざなりの行為なのに、身体だけは鋭く反応してしまう。そんな自分の感覚が憎かった。心底、憎悪した。
今まで、憎悪とまではっきり分かる感覚を夫に抱いたことはなかった。
知人の紹介で初めて会ってから、穏やかで、優しくて、ユーモアのセンスもあって、一緒にいて居心地のいい人だとずっと感じていた。
結婚して十七年、もちろん喧嘩とかお互いの意見に齟齬をきたしたりということもしょっちゅうあった。
それでも、負の感情は長続きすることなく、収支計算の結果は毎年度やや黒字程度で、ごくありきたりの夫婦として過ごしてきた。
ここにきて、私はどうしてこうも彼の頭頂部を凝視しているのだろうか。
少し薄くなったのだろうか。地膚の妙に白く浮き上がっている。生きている者の色ではなかった。
「あのね……」
急激に膨れ上がった嫌悪感は、急に現れた彼のせいだったのだろうか?
目の前の色は、あの景色の白に、どこか通じていた。
なのに、今見えているその白はあまりにも私のこころと隔たっていた。
「私のおばあちゃんが昔住んでいた、神田のね」
おい、急に夫がまた顔をあげた。「ちょっと味、薄いな、醤油貸せや」
差し出された醤油注ぎを、妙に几帳面にぐるぐると丼の上で回し、醤油まみれになった表面を握った箸でこねるように混ぜている。ひどく汚い動作にみえた。
「お前さ、近頃薄味すぎんだよな、と思うとすげえ濃くなったり」
あ、もう時間だし、彼はあわてて残りを口に放り込んでいった。
あわただしく去っていく夫に、いってらっしゃいと呼びかけたが返事はなかった。
彼の姿が消えても尚私は消えた先を見送り続け、ようやくこわばった目線を外すと、重い意識のまま食器を片づけ始めた。
なぜだろう、とてもだるい。
そうだ、自分はお昼ご飯を食べるのを忘れていたんだ。夫も気づかなかったのだろうか。
よく考えたら、お弁当をあわてて作っていて……今朝も何も口にしていなかった。
他人の食べた残骸を流しに放り込み、前の床に座り込む。その場に沈んでいく私の目に最後に映ったのは、ご飯茶わんにへばりついた、どす黒いほどに茶色く染まったご飯粒の塊だった。
少し眠ろう。