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出あうことのない二人、出逢う  作者: 柿ノ木コジロー
第5章 真夜中 ― ジャクソン・ポロック
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―― 私。眠ったままそれを見る

 ベッドにもたれかかるように座っていた娘が急に立ち上がる。


 私は眠ったままそれを見る。心のスクリーンに映したその光景を。


「何だ?」夫はうたたねをしていたらしい、いつもよりとまどった口調で身を起こす。

 泡が口の中に溜まってしまったかのように「なんら」と聞こえる。

「ちょっと、トイレ」

 娘が立ち上がって運動靴にかかとを押し込んでいる。息子がゲーム機から顔を上げて言った。

「だったらさ、自販機でお茶買ってきてよ、濃いやつがいいな、冷たいので」

「やだよ」むっとした声。それでも声を潜めている。

「だって下まで行かなきゃでしょ。真夜中に女子ひとりで行かせるの?」

「トイレまで1人で行くんだろ? いっしょじゃん。それに自販機、この階にもあったし」

「でも廊下の向うのほうじゃん」

 おいお前ら、声でかいぞ、そういう夫の声も大きい。


 母さんが起きちゃうじゃないか。

 急に3人の呼気がこちらに流れてきたのを感じた。

 

 私が眠っているのを確かめたのか、声はまたあちらを向いた。

「頼むよ、お願い」

 えええ? と言いながらも、娘は元来お人よしなところがある。ぶつぶつ言いながらも兄から小銭を受け取って、病室の外に出て行った。


 時が経った。


「……遅いなあ」


 さっきから目が覚めてしまったらしい、夫は何度も時計をみている。

「おいお前、見て来いや」息子にそう声をかけた。

「なんでオレだよ」

「お前の頼んだお茶がなくて、下まで行っちまったかも知れねえだろ? 迷子になってるかも知れん」

「ならねえよ」

 そう言ってから少し不安にもなったらしく、腰の重い息子も立ち上がり、外に出る。


 また時が経った。


 夫はもう、話しかける人間がいない。眠っている私の顔と、吊り下げされた点滴のバッグ、そして、病室の出入り口を交互にみやっている。


「おっせえな……」


 消え入りそうな声。

 そこに看護師が見回りに来た。

「どうですか? 奥さまは」

 ひんやりした指先が手首の近くに触れ、冷たい体温計が脇に入るのを感じた。

「ずっと、眠ってます」

「脈は、正常ですね、体温は」ちょうど電子音が軽く響き、すでに軽く熱をもった体温計が引き出される。

「37.4……他に変わったことはないですね」

「はあ」夫は頭をかいて言葉を継いだ。

「子どもらが……男の子と女の子だけど、自販機だかトイレだか行っちまって、帰って来ないんすがどこかで見ませんでしたか」

「ああ、今夜はご家族で泊まられるんですか」

「2人だけ帰す訳にも行かねえし」まだ頭をかいている。

「どこかで見かけたらすぐ戻ってくるよう言って下さい」

 はい分りました、何かお変わりありましたらすぐ呼んで下さいね、と温かいが特に心のこもった様子もない返事を残し、看護師は次の仕事場へと去っていく。



 ついに夫も立ち上がった。


「ちょっとみて来るよ」こちらに向かって、どうせ聞こえていないだろうという軽いあきらめの混じった言い方で、病室を去って行った。



 私は眠ったまま、それを見る。


 

 外の廊下に出て、数歩進む。後ろの暗がりからついてくる影。娘はそれに気づかない。病室は西側の一番端にあって、ほかの個室はずっと空いているかぴったりと閉ざされている。4人部屋も既に寝静まっている。やや明るいトイレの少し手前で、後ろの影が突然伸びあがって彼女の口を塞ぐ。そして、汚物室のやや暗い仕切りに引きずっていってそして。


 すべてはほんの一瞬のこと。


 私は眠ったまま、それを見た。流れる血は歪んだ弧を描く。暴れることもなく、ほとんど苦しむことはない、束の間の痛み、それよりも何が起こったのか、気づいたのかどうか。


 息子もほとんど同じ場所で捕まった。上背があるせいか、少しだけ時間がかかったけど同じようにわずかな時間で片がついた。同じ汚物室の、掃除用具入れにもたれかかるように二つの身体が収められ、流れ出た血はモップで軽く、拭きとられる。手際の良さはかつて、高価な絵画作品を扱っていた時のように無駄がなく真剣味を帯びている。


 そして夫は、気づかないままそこを通り過ぎ、一応ナース室に声をかけようとする。子どもたちを見ませんでしたか? しかしそこには誰もいない。夜中の勤務はいつも人員ギリギリでまわっているから。彼は諦めて、下の階を見に行く事にする。エレベーターを呼んでしばらくぼんやりと立ち尽くしている、後ろについた白衣の男をドクターだと思い、少しだけふり向いてみたがしっかりと見ることをせず、その血にも気づかない。

 エレベーターが5階に到着する前に、彼も脇の食堂に引きずり込まれ、首を刺される。

 大きな男らしく、少しは抵抗したのだがやはり、誰もこんな危険な状況など想像したこともなかったのが災いした。夫もまもなく、喉を鳴らしながらその場に倒れ伏す。


 私は眠ったまま、一部始終を見る。薬が効いているせいか、何の感情も起きない、それよりも、これは夢なのか、それとも現実に起っていることなのかすら判断できない。

 眠ったまま、病室の外を見られるわけがない、だからこれはたんなる幻影に過ぎない。

 そう思っていても、あまりにも静かな病院内には、彼らの生きているという気配はひとつも感じられなかった。

 


 ドアの向う、病棟の廊下に、控えめな足音が近づく。そして、ここの前で止まった。




 ドアが開いた。音も無く。

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