―― 僕。視線は更に追う
ルノワール、カーロ、確かに双方の見つめ方は全然違う。君の言うとおり、ひとつは癒される者として描かれた『対象』としての視線。彼女たちの目はこちらを向いてはいない、画家1人に注がれ、あるいは自らの前にある空気を眺めている。
彼女たちがどんなに心の中に泥沼を抱えていたにせよ、それは全て画家の心のフィルターに通されて絵画へと昇華されていった。
カーロの絵が僕に不安を与えるのは、画に佇む彼女の瞳が、フィルターを通されていない生の視線だからだろう。
絵画における生の視線とは何か。
そんなものが果たしてあり得るのか、僕はずっと懐疑的だった。画集の視線に本能的な叫びをあげた時ですら、頭では信じていなかった。
君に出逢った時に、ようやく知った。
視線は生きている。
絵画は、生きている。
感じていられる限り、それらは命をもつ。
感じることを教えたくれたのは君。
絵画に希望を、そして絶望を ―― 生きているということを教えてくれた。
だから今から君に逢いに行く。どうしても、直接逢って伝えたいから。
そうして、お終いにしたい。
フロントガラスの少し先に、君の街がみえてきた、もうすぐだ。




