あなたの隣に小説を
そうだ、琵琶湖にいこう。そんなノリで僕はJRに乗り込んだ。僕が書いた小説を琵琶湖に捨てるために。ある文学賞のために書いたんだけど、書いた本人が言うのもなんだが、かなり面白くない。漫画じゃないけど、河川敷で破って捨ててしまおうと思ったぐらいだ。そこで僕は琵琶湖に捨てることにしたんだ。彼女が「迷う時間があるなら、ちゃちゃっと凄いことやっちゃいなさいよ」と言っていたからかもしれない。彼女は、もうそんなことを言ってくれないことを思い出し、窓に目をやる。
田んぼ、田んぼ、畑と家、そして道路を挟んでまた田んぼ。窓の外の景色は現実を離れるようにスピードを上げる。流れていく景色を眺めながら彼女を、死んでしまった由美のことを思う。そういえば彼女が死んだのも琵琶湖だった。
「小説は好き?」
かちゃり、と音がして銃が頭に当てられる。触れるか触れないかのぎりぎりの位置だ。視界の端には女が立っている。いつ来たのだろうか。さっきの駅では誰も乗って来なかったはずだ。
あの日の教室を思い出す。当時、小説なんて興味なかった僕は「小説は好き?」という彼女の質問に、読んでいた漫画から顔を上げずに、いや、と答えた。漫画を読んでいる時点で察して欲しいものなのだが、たぶん彼女からしたらどうでもいいことだったのだろう。そのまま僕は図書室に連れていかれ、本の整理を手伝わされた。
「小説は好き?」二回目の質問は少し不機嫌な声になっていたので、あぁ、と答え首を振る。
「そう、よかった」
ちなみにいいえと答えるとね、と女が解説しはじめたので聞きたくない、と言って遮った。彼女が言っていたのだ。確かデザートが二種類から選べる喫茶店に行ったときだ。もしかしたら違う方が美味しかったのでは、と思った僕は、違う方を頼んだ彼女に感想を聞いてみたのだ。彼女は、
「終わった後で、選ばなかった方のことを聞いてもしょうがないじゃない。自分が選んだものに自信を持ちなさいよ」なるほどな、と思ったが、そう言った彼女は、ちゃっかり僕からもらって両方食べていた。彼女のそういうところに惹かれていたのかもしれない。
女は僕の目の前に座る。ちょうど座席が回転されて向かい合わせになっているのだ。相変わらず銃口は僕の頭に向いている。
「あなた、名前は?」
賢治と答えると、
「宮沢の?」と聞かれた。
「残念ながら、伊藤の賢治です」
そう、と言って二人の間にある備え付けのテーブルに銃を置いた。そこには僕の原稿があったのだが、いつの間にか女の横に置かれていた。
「じゃあ、ロシアンルーレットをしましょ」弾は一発だから、そう言いながら女はリボルバーを回す。
「あの、あなた誰です?」
「そうね、一発目で無事だったら教えてあげるわ。それとフェアにするためにあなたも回していいから」
どうやら拒否権はなさそうだ。僕は迷いながらリボルバーを回していた。なかなかの意気地なしぶりだ。
「迷う時間があるなら、ちゃちゃっとやっちゃいなさいよ」女の一言で僕は引き金を引いた。かしゃん、と音がして、僕の命は助かった。
「私は仲間からジョバンニって呼ばれてるの」少し寂しそうに笑い、銃を受け取った女は引き金を引いた。驚くほどに躊躇がなかった。何事もなかったかのように女は、ジョバンニは話を続ける。
「私ね、昔は二人で仕事してたのよ。物騒な仕事ね」たぶん殺し屋とかそういうのだろう。
「ただ私たち電車での仕事でミスしちゃって、私だけが無事に戻ったの。だから私はジョバンニって呼ばれてる。あなたは『銀河鉄道の夜』は好き?」今日はあなたがカムパネルラね、と少し言いにくそうに笑った。彼女に最初に薦められたのは『銀河鉄道の夜』だった。もちろん僕の好きな話のひとつだ。確かジョバンニが生き残ってカムパネルラが死んでしまうストーリーだったはずだ。
ジョバンニは銃をこちらへ押しやる。
「さあ、撃ちなさいよカムパネルラ」と言って僕の目を見る。僕は引き金をひく。また、かしゃん、と音がしてリボルバーが六分の一だけ回った。僕はジョバンニに銃を渡す。
「カムパネルラ、君は空にある島に行く話を知ってる?」そう言ってジョバンニは有名なアニメーション映画の題名を告げる。
「もちろん。あのシリーズの中で一番好きな話だよ」
「私も好きよ。あなたはヒロインの髪型はおさげとショートカット、どっちが好み?」そう言って引き金をひいた。また軽い音がして、リボルバーは元の位置から二百四十度進んだ。
彼女と初めて観た映画だ。忘れるはずがない。感想を聞かれた僕は、ヒロインが髪を撃ち抜かれてショートカットになったのがよかった、と答えたのだ。むっとしていた彼女は、次の日に長かった髪をばっさり切って、学校にやって来た。学校中で僕だけがその理由を知っていた。僕よりも男前だった彼女はそれからずっとショートカットだった。そういうところが好きだった。
「ショートカットが好みかな」そう答えた僕に笑顔で銃を渡す。そういえばジョバンニの髪は短い。残り二回、二分の一の確率で死ぬのだ。僕が無事ならジョバンニが死ぬ。緊張で喉が乾いた僕は、駅で買っておいたコーラを飲む。炭酸が喉をちくちく刺激する。大げさかもしれないが生きていることを実感する。
「それってペプシコーラ?」
「いや、コカ・コーラ」
「それじゃあいらないわ」僕から貰うつもりだったのか、ジョバンニは少しむっとしていた。そういえば好みがかなり合う彼女とも、コーラの好みだけは合わなかった。彼女曰くまろやかさが違うらしい。
僕は覚悟を決めて銃を構える。目を閉じて引き金をひくと、かしゃん、と音がした。目を開けるとジョバンニがいた。不意にジョバンニと彼女が、由美が重なる。
「ジョバンニ、もしかして君は由美なの?」
「違うわ。私は由美じゃない。少なくとも幽霊なら、JRより銀河鉄道に乗る方がそれらしいわね」
違うと言うのだから、彼女とジョバンニは別人なのだろう。
ジョバンニは隣にある原稿を見ると尋ねた。
「カムパネルラ、あなたって小説書くの?」 「とりあえず書いてみたんだ」恐ろしくつまらないけど、と付け足す。
「ねえ、最近出た物凄く短い短編小説知ってる?」と言って、ジョバンニは女だか男だかはっきりしない名前を言う。彼女も僕も好きだった作家だ。題名は『あのへんにありそうな僕の話』。物凄く短くて、でもその作家らしい話とやさしい文章が好みだった。
「私ね、あの話嫌いなのよ。話よくわかんないし。ただね、ひとつだけいいところをあげるとすれば、あの話よりも面白ければ出版してもいい、って基準になるところね」そう言ってジョバンニは引き金に指をかける。残り一回。ジョバンニにとって、死ぬとわかっていても引き金の重さは変わらないらしい。僕は目を閉じる。
かしゃん、ともう五回も聞いた音がした。目を開けるとジョバンニがからからと笑っていた。
「どうして?」
「カムパネルラ、あなた私が弾を込めるところ見た?」
僕は記憶を探すが該当するものはない。首を横に振ると、ジョバンニは満足そうに頷く。
「最初から弾なんて入ってないわ。だって危ないじゃない」
どうやら僕はジョバンニに騙されていたようだ。ただ嫌な気持ちではない。十九の誕生日に彼女に騙された、サプライズパーティーみたいな感覚だった。
ジョバンニが窓の外を指差しているので、見てみると電車がホームに入り始めていた。電車は徐々にスピードを落とし、窓の外の景色は現実に戻るように止まっていく。完全には止まっていないが、僕は立ち上がって扉まで歩く。ジョバンニの方を振り向くと、あの銃はしまわれていた。
「なぁ、ジョバンニよりカムパネルラが先に降りたら、原作と違うことにならないか?」
「それは宮沢の賢治が決めることね。あなたが気にすることじゃないわ」そう言って微笑んだ。なんだか軽くなった気がして、僕は電車を降りた。
改札を出て角のポストを右に曲がる。とりあえず応募してみるかな、そう思って立ち止まり、原稿を探すけれど見つからない。しまった、原稿はジョバンニの隣に置かれていたではないか。僕は慌てて改札まで戻った。ベテランの域に達しているであろう駅員は、慌てている僕からにこやかに事情を聞いくと、あちこちに電話をかけた後に戻ってきた。どうやら次の駅に届いていたらしい。僕はお礼を言って、十分後に来た電車に乗った。
次の駅に着いて駅長室に行くと、あのベテランの駅員の連絡のおかげで、すんなりと原稿を貰うことができた。ついでに琵琶湖までの道順を聞いて、僕は歩き始めた。教えてもらった角を左に曲がると自動販売機があった。彼女の好きだったペプシコーラのやつだ。僕はお金を入れて買う。僕は原稿とペプシコーラの缶を持って琵琶湖へと歩いた。
琵琶湖の畔まで来るとさすがに疲れた。
地面に腰を下ろして原稿をみると、わずかに開けたあとがある。まさか駅員に見られたか、そう思いながら僕が開けると、一枚の紙が落ちてきた。
あの話より面白い。それだけ書いてあった。きっとジョバンニが書いたものだろう。僕は買ってきたペプシコーラの缶を眺める。このまま投げ入れてやろうか。そう思ったが、不法投棄はいけないと思い直してプルタブを開けて中身だけ流す。ジョバンニに褒められたが、やっぱりこの原稿は捨ててしまおう。これもそのままではまずいと思ったので、僕はライターで原稿を燃やして灰だけを流した。
うん、これでいい。僕はジョバンニの感想が書かれた紙をポケットにしまい、空になった缶をゴミ箱に捨てた。そうだ、次の小説のタイトルは『あなたの隣に小説を』でいこう。