文章職人
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カツカツカツというキータッチ音が鳴り、パソコンのディスプレイ上に文章が映っていく。俺も文筆家として書くことに慣れてしまった人間だ。別に普段から抵抗なく書いている。実際、仕事の依頼は絶えず来ていた。直木賞作家として決して売れている方じゃないのだが、執筆依頼は来る。
朝起き出して窓を開け、山の新鮮な空気を入れた。屋内と屋外の空気を入れ替えてしまった後、キッチンへ入っていき、コーヒーを淹れるため、薬缶でお湯を沸かす。健康的な生活を送っていた。夜は午後十時過ぎに眠り、翌朝は午前五時前に自然と目が覚める。基本的に夜は眠る時間なのだ。
朝食にトーストを一枚焼いて齧った後、キッチンで淹れたコーヒーのカップを持ち、書斎へと入っていく。そしてパソコンを立ち上げ、メールをチェックし始めた。各出版社の担当編集者からもメールが入ってきている。それにあの連中は電話までしてくるのだ。「早く原稿を書いてくれ」と。応える形でずっとキーを叩き、小説やエッセーなどを書き綴っていた。
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「先生」と呼ばれることが未だに気恥ずかしい。実際、俺も若い頃は売れなかった。出端の十作ぐらいのミステリー小説はとんでもないぐらい売れてないのだし、増刷などまるで掛かってない。直木賞受賞後も苦戦が続いた。だが、その間相当な下積みがあったのである。だから逆境には強い。
ずっと文芸雑誌や週刊誌などに連載を持っていた。実質、原稿料で食べているのである。もちろん印税も入ってくるのだが、わずかなものだ。収入の七割ぐらいが原稿料で、印税は二割ぐらい、そして残りの一割が街の中枢にある大学で週に一コマ、文芸の講義をする際の講師としての報酬である。
考えてみれば、五十を超えると、まだまだイケると思っていても、体力が付いていかない。だが、別に構わなかった。俺自身、心が擦り切れるような時代を乗り越えてきている。原稿ならいくらでも書けるのだった。逆に言えばそっちの方に適性があるから、今、文筆家としてここまで来たのだ。
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作家は夢を売る仕事だと言われる。だが、実際やり始めたら、相当きつい商売だ。現に原稿は全部パソコンで打っているにしても、ドライアイや腱鞘炎などがひどい。慣れればそう抵抗はないのだが、出版社や担当編集者とのやり取りは基本的に全部電話かメールでやっている。今時、手書きでゲラのやり取りなどはしない。
きっちり正午になると、キッチンで自炊していた。大抵簡単にチャーハンや親子丼など冷蔵庫の残り物ですぐに作れるものを作って食べている。貧乏しているわけじゃないのだが、美味しい物ばかりは食べられない。逆に倹しくやっているぐらいだ。
年に二、三度、東京に行くことがある。ここは地方都市の山間部なので、街に出るだけでも大変だ。持っている車を一時間ほど運転し、やっと空港に辿り着く。そこから飛行機に乗り、羽田まで飛ぶのだ。新宿に行くまでに片道五時間ぐらいは掛かる。まあ、もちろん必要のない時は行かないのだが……。
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文芸賞の選考委員を掛け持ちでやっているのである。最終選考に残った作品を読むのだが、最近、これと言って骨のある作家がいない。単に駄文を書き綴っているだけで、本当に読み応えのある文章を書く力に長けてない人間たちばかりだ。嘆かわしいと思っていた。いつもダメ出しをしているので、他の選考委員たちからもいろいろと言われる。「なぜ倉岡先生はああも手厳しいんだろう?」と。
よかれと思って言っているのである。甘い基準で新人賞を受賞させたら、獲った新米たちは付けあがる。この程度の物を書いていたら、到底本職にはなれないと、厳しい姿勢で臨むのだ。選評にも辛口のことを遠慮なしに書く。皆思っているようだった。あの作家が選考委員だと通り辛いだろうなと。
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毎朝欠かさずコーヒーを飲み、体のコンディションを整える。それに疲れたら休むのだ。ちょうど午後一時から三十分程度、ベッドに横になる。昼寝から目覚めて起き上がれば、また活動していた。自由業なので、時間の管理が大変なのは事実だったが……。
午後二時前にいつもキッチンでコーヒーを一杯淹れ直し、飲んでから仕事の続きをする。原稿を送るのも、他に必要なことも全部自分でやっていた。秘書などを雇えば、何でもやってくれるのかもしれないが、あえてそんなことはしない。俺なりに文章職人としての意地があった。長年、現役で書き続けているという。
夕刻になると、山は冷え込む。午後四時前ぐらいから散歩に出かけるのだ。山中を散策するのに別に意味はない。ただ、体を動かさないと健康に悪いからそうしているのだ。ずっと体調を整え続けていた。
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街にある病院で定期的に検診を受けている。五十代ともなれば、どこかしらで病気が出てきてもおかしくない。だから、あえてそうしていた。健康維持は必須だと思う。ゆっくりと力を抜くことがある。年中働き詰めだからだ。
独身だった。婚歴はなく、ずっと独り身を通している。だが、それでいいのだった。作中で女性を描くのは得意だったが、別に結婚まですることはない。そう思っていた。一貫してこのペースだ。何も大きく心が変わることはない。
長年、書き物をしていて思うのは、やはり心の中の状態が作品に現れるということである。率直に感じていた。今の大学生など、文芸を教えても物になる人間はわずかなのだが、そう覚悟して講義している。出席は一切取らずに、単に一つ課題を与え、それに沿って小説を書かせるのである。単位を認定するかどうかは、そのレポートに懸かっているのだった。もちろん手厳しく臨む。甘いことは言わないし、責任があるから言えない。
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ちょうど十二月も半ばを過ぎると、冷え込みが厳しくなる。そんなことを感じていた。もうすぐ一年も終わりだ。来年の年頭に出る文芸雑誌に掲載予定の原稿を入稿し終えれば、一息つける。そんなことを思いながら、毎日送っていた。
山にも雪が降るのだが、今年も年の瀬は積雪に見舞われそうだ。覚悟していた。雪道だと、タイヤなどもやられたりするのだし……。だが、街に出るのはもっぱら買い物の時ぐらいで、後はほとんど山中から離れることはない。ずっとキーを叩き続けていた。文章職人なのだから、仕事は小説なりエッセーなり、文章を仕上げることだ。それに尽きる。
出版社の担当編集者と相談しながら、歩み続けた。仕事はいくらでも入ってくる。困ることはない。返って、こなせない分はお断りしているぐらいである。それが直木賞作家の現実だ。忙しいじゃ済まないのである。ずっとキーを叩くことを要求されるのだし……。いつの間にか、人生でもそういった時期に差し掛かっているのを感じていた。書斎の固定電話が午前中から鳴ったりすることもしょっちゅうなのだから……。
(了)