(8)『初めての部活動……(?)』
「それで頼みって何ですか?」
案外慣れていたのか、30分しない内に鍵の交換を終えてしまった七界先生にそう切り出す。
「それなんだが……」
ズズッと蓮池先輩の淹れたお茶をすすった七界先生はチラッと壁の時計を見て、
「麻倉お前、クロスと仲良さそうだな」
「まぁ、そこそこには」
廊下で話していたのを見られたのだろう。あるいはあれだけ大きな声だ。内容まで聞かれていても不思議ではない。
ちなみにクロスで通ってしまうのはもはや避けられない道だろう。
「ヤツのこの間のテストの点数を知ってるか? もちろん数学の」
「さっき職員室前で話してた……?」
「ああ」
「0点だったらしいですね」
らしいも何も、返却された授業後に答案用紙でオリヅルを作っていたのを見ているから知っているが。
それにしても、詳しくは憶えていないが、難易度はそれほど高くない。寝落ちしていたらしいが、あれで0点を取れるとなるとテストをボイコットするほど不真面目でなければよほど運のない馬鹿だろう。
「でもそれがどうかしたんですか?」
言っては悪いが礼文の定期考査や小テストの点がよくないのはいつものことだ。
今まで高得点でいきなり0点なら議題に挙がるとも思うが。
「お前、数学の成績はよかっただろ」
「……代わりに日本――国語が壊滅的ですけどね」
何となく嫌な予感がしてきたな。
「麻倉、お前が数学だけでも教えてやってくれないか?」
「無理です」
「即答か。一応理由を聞いておこうか」
「俺に誰かを教えるなんて芸当は出来ませんから」
今は自分のことだけで手一杯だ。
俄かには信じがたいが、身近な関係のはずの人間が知らない間に増えている(周りからすれば身近な関係の人間のことを綺麗さっぱり忘れているように映る)謎の現象。
少なくともあれを何とかできないことには――
「じゃあ任せたぞ、麻倉」
「人の話を聞いてましたか!?」
「快諾していたじゃないか、麻倉陽人」
「それは何処のマクラヒトさんなんでしょうねっ」
「お前以外にそんな眠くなりそうな名前の顔見知りは覚えがないな」
「今すぐ思い出してくださいっ……! じゃなくて、できませんってば!」
しかも人の名前を何て解釈しやがる。一度くらいは思ったことあるけど!
「一年ならまだ受験も就活もないし暇だろう。部活だって蓮池の文芸部なら週一活動。問題はないな」
生徒の意志とプライベートは無視ですか、七界先生。
というか、俺自身の意識では部活に所属していた覚えはこれっぽっちもないんだが、少なくとも蓮池先輩や七界先生の反応を見る限り、文芸部の一部員みたいだな。
こうなってくるとただの記憶喪失なんじゃないかとも思えてくるな。
結局のところピンポイント過ぎるところに疑問を抱かざるを得ないわけだが――
「じゃあ任せたぞ」
「ってちょっと待――ってください!?」
目の前で鍵を直したばかりの引き戸が閉まり、その向こうからパタパタと廊下を軽快に駆けていく足音が聞こえてくる。
そもそもどうして七界先生は黒巣に数学を教えろなんて言ったんだろう。生徒の出来が悪いのを何とかしようというならわからないでもないけれど、自分の仕事を一生徒に押し付けようとしたわけでもない。そうなると、単純に彼女を心配してのことだろうか。
どちらにしろ巻き込まれているのは何の罪もない一生徒なのだが。
「陽人くん、頑張って」
蓮池先輩の中でもこれは確定事項のようだった。
俺の中では確定事項どころか脳内会議の議題にすら挙がらなかったというのに。
「仕方ない……。引き受けた以上やらなきゃいけないかな……」
先輩の手前、一応そう言っておく。
上級生しかも異性(+ちょっとトロそう)の蓮池先輩にやらないということを説明し、七界先生に断りにいくことを考えると、多少は仲良くしているクラスメイトに数学を教える方が気が楽だ。
決して見栄を張って、案外可愛らしい外見の先輩にいいところを見せようとしているわけではない。
絶対に違う。
それはさておき、改めて蓮池先輩に向き直ると、先輩はちょうど流しで湯呑みを片付けている途中だった。
ブレザーを脱いで脇に置き、右手には泡の付いたスポンジを、左手には一度水洗いしたらしい湯呑みのひとつを、そして振り返った先輩は助けを求めるような視線を俺に――――。
(なるほど……)
一度はたくしあげたのだろう。少しシワのよったブラウスシャツの袖が手首まで下がってしまっている。
仕方なく先輩に歩み寄り、その右手首を下から支えつつ袖をまくりあげる。畳むような感じで丁寧にだ。これならそうそう落ちて来ないはずだ。
そんな作業の間にもずり落ちている左の袖が目に入り、左側に回って右と同じように丁寧にまくりあげる。
「ありがとう……」
失敗が恥ずかしいのか少し頬を染めた先輩の手を放すと、パッと素早く流しに向き直って湯呑みを洗い始めた。
俺はなんとなくその家庭的な光景を眺めてみる。そう言えば先輩からスポンジと湯呑みを受け取って、代わりに洗ってあげた方がよかったかな。
そっちの方が後輩らしくてよかったかもしれない、そんなことを考えていると、
「ひ、陽人くん……少し時間なくなっちゃったけど、今日はこの前の続きだから用意しておいてくれる……?」
「あ、はいっ」
この前の続きか。えっと……。
何を取ろうとしたのかはわからないが、動いていた手が止まる。
今日まで俺は、自分が文芸部員じゃないと思っていた。いや、自分が文芸部員だと思いもしなかったのに、先週の文芸部の活動で何をしたかなんてわかるはずがない。
その時、目に入ったのは積み上げられた冊子の一番上に置かれていた『活動日誌』と書かれた一冊のノート。定期で生徒会に提出するためのものだ。これなら必ず前回の内容が書いてある。
俺は咄嗟にそれを手に取り、音がしないようにそっと開く。
(先週の記録……)
一文目『ヒトくんと将棋』
(文芸部――――ッ!?)
既に活動内容に書けないものが書かれてるのですが!
二文目『二回目で中断。来週に持ち越しになっちゃった。私が指すの遅いからだね』
(既にただの日記化してるけどこれ!? しかも淡々と書かれてるだけの!)
仕方ない。とにかく将棋盤を探そう。
中断したということは駒がそのまま残ってる可能性が高い。
本来、将棋の試合の数え方は『局』。それを知らなそうな先輩が棋譜を覚えているとも思えないし、どこかにそのまま置いてある可能性が高い。
部室の中を見回す。
とりあえず見る範囲にはなさそうだ、と思っていると、部屋の奥の椅子の上にマグネット将棋盤が置いてあった。
(これか……)
これから、自分では指した覚えのない将棋の続きを指すのだろう。
どちらがどちらかわからないのは仕方がないとして、本当に文芸部の活動として合っているのだろうか。いや、合っているはずがない。
思わずここが何部かを先輩に訊こうとしてしまった俺はきっと間違ってないはずだ……。