(4)『クロスレイブン』
結果報告。
誰に対する報告かは察してくれるとありがたい。
授業にはかろうじて間に合った。昼飯はまったく手をつけられなかった。つける時間がなかったのだ。
「根本的な解決になってねえじゃん……」
静かに授業を聞いている他の誰にも気づかれないような小さな声で呟く。
授業が終わるまでにまだ30分近く残っている。この授業が終わるまで空腹に耐えられるか心配になる。腹が鳴るなんて目立つことは絶対に避けたい。
「練習21の(1)をそうだな……黒巣、解いてみろ」
ガタン。
1人の女生徒が跳ね起きるように立ち上がった。
「いや、ですから先生。黒巣じゃなくて黒巣やっちゅーに」
「すまんすまん。で、答えは?」
「0!」
「正解」
この女子は俺が名前を覚えている唯一のクラスメイトだ。主な理由は自己紹介のインパクトが他に比べてずば抜けていたからだが、数少ない友達だから、と言うのもある。
流れに逆らわず、前に出てきて黒板に名前を書き付けて、全員が確認したのを見てから黒板消しでその上をなぞるように消し、そして振り返って言った。
「黒巣礼文です。趣味は姓名判断、今やっていることは改名の許可を親から貰うことです!」
常軌を逸している。
名も知らないクラスメイト曰く、『あいつが柏木二中のクロスレイブンか。なんかスゲー奴とメイトになっちまった』だそうで、どうやら中学時代は有名人だったらしい。
黒巣礼文。
誰でもとは言わないが、つい『クロスレイブン』と発音しかねない。それに加えて『こくそうれふみ』なんて読みにくいため、『クロス』やら『レイブン』と呼称されてしまうようになった。
俺からしたら可哀想な人だ。よく見ている訳では無いが名前や趣味以外は比較的普通の人なのに。
「(2)を……麻倉、解いてみろ」
「あ、はい」
確か練習21だったな。
ここがこうなって、あそこがああなって……結論としてこの教科書の作り方がおかしくないか、と。
「……0です」
「正解だな」
2連続で答えが0かよ。
確かに予想外と言えば予想外で、2回も暗算で検算する羽目になった。
窓の外をぼんやりと眺める。
「おし、次の問題を神凪、解いてみろ」
「えっと……0です」
…………この教科書大丈夫なのか?
放課後、教室を出ていくクラスメイト達の声を聞き流しながらボーッとしていた。鞄に物を入れようともせずに、最後の授業の教科書のページを無意味だと知りつつめくってみたりする。
「ヒト~っ」
今のところクラスで、席まで来て俺と話そうとするのは黒巣礼文ただ一人だ。
「よ、礼文」
ガタンッ。
歩み寄ってきていた黒巣礼文が、突然机に突っ伏した。そのままガタガタと身体を震わせる。もちろんガタガタと鳴っているのは主に机の脚だが。
「ど、どーしたんだ。礼文」
「私をそう呼んでくれるのはやっぱヒトだけだよぉ~」
「うぉ」
顔を上げた礼文は、目元いっぱいに涙を溜めていた。
ちなみにコイツが俺のことをヒトとよぶのは『枕』と思いっきり被るからだ。
「いつまでもそんなヒトでいてくれ~」
「任せろ、クロスレイブン」
「いや違うから! そっちじゃないから!」
ついからかいたくなって言った言葉に、鳩尾ツッコミを敢行した礼文は、『あっ』と叫んで我に帰り、すぐに腕を引っ込めた。
「ごめん、つい」
「いや……俺が悪かったから気にするな、礼文」
鳩尾を殴られると一瞬だけ息が止まることを、実体験で再確認できた。できるなら確認なんてしたくなかった。
「で、何で今日はまだ残ってんの?」
「え? 俺はいっつもこんなもんだけど」
きょとんとする礼文を見るのは久しぶりだった。
礼文はいつもなりふり構わず前に突き進むタイプで、細かいことはぶっちぎっていく。しかし馬鹿だとか無鉄砲と表すのは簡単だが、単純にそうかと言われれば違和感にも似た疑問符を浮かべたくなる。
見ているだけならそうも見えるが、実際に話してみたり関わってみると、礼文のキャラクター性はよくわからない、今までに会ったことのないタイプだとわかる。
結局よくわからない奴なのだ。
それはさておき。
「なんかその反応気になるな」
「神凪ちゃん、待ってるんじゃないの?」
「またそれか……。未だについていけないけど、加えて誰かに説明して欲しいけど、神凪がどこで待ってるって?」
「校門トコ」
「本当にわけわからんな……」
「ふむふむ、確かになんかおかしいよね、今日のヒト。頭打って記憶喪失とか?」
「たぶん違う。神凪のこと以外は全部知ってるし、覚えてる。そんなピンポイントな記憶喪失があるか」
そう言いつつも、俺は考えていた。
この状況、そんなピンポイントな記憶喪失があるとすれば説明がつくから、頭をよぎるぐらいはしても当たり前だろう。人としてはたぶん自然なことだ。
「で、なんで待ってるって?」
神凪がなんでそんなことをしているかもわからないし、未だに幼馴染みという設定を受け入れたわけでもないけれど、目立ちたくないならそう振る舞うしかない。
よくわからない何かが俺の周りで起きているとしても、わからなければどうしようもない。それならできる限り自分にできることをするまでだ。
俺の場合はただひたすらに『目立たないように』する。それが日常に平穏を保つ極意みたいなものなのだから。
「一緒に帰るためじゃあないの?」
「一緒に帰る、ね……」
「今日は黒川さん休みだし」
「黒川?」
「おっとそこまで! 別の娘のことは今、考えっこなしだよ」
やっぱり幼馴染みだと、そういうこともあるのだろうか。
確かに幼馴染みのような親しい者がいたら、と人間関係に本気で悩んだ時期もあったがこんなカタチで実現するとは思ってもみなかった。
俺にとっては最悪だ。仲が良いわけでもないのに『幼馴染み』になってしまった俺と神凪。向こうはちゃんとそんな認識を持ってるからややこしい。
カバンの中にペンケースとノート類をまとめて入れると、立ち上がる。
「行くの?」
「まあな、いろいろ整理しておきたいし」
「ふぅん、じゃ、また明日」
「おう、また明日な」
夕暮れも近くなって赤く染まった教室。
窓をバックにして立って、胸の前で小さく手を振る黒巣の笑顔が妙に絵になっていて、思わず見とれてしまった。
それをごまかすように、乱暴に扉を閉めて廊下を走った。
目立つとか目立たないとか、そんなことを気にする必要のない夕暮れ時なのに、つい誰かに見られてないかと不安になって辺りを見回してしまったのはなぜなのだろう。
教室に1人残った礼文は、さっきまで麻倉陽人の座っていた椅子に腰かけた。
「また、明日……かぁ。明日も、楽しくなるといいなあ……」
1人きりで呟く。
窓から校門を見ると、神凪奇跡が昇降口側から隠れるように立っている。
「幸せそうで良かったねぇ。私に感謝しなさいよ、神凪さん」
誰も聞いていない言葉を自嘲気味に吐き捨てる。
そして、礼文は机を抱きかかえるようにもたれ込み、うとうとし始める。
瞼がどんどん重くなる。
「眠っ……」
礼文は眠気に任せて机に突っ伏すと、すやすやと寝息をたて始めた。
これが黒巣礼文が欠かさず行っている放課後の日課だった。
「クロスレイヴンじゃ……ないっちゅーに」
寝言すらどこまでも不憫だった。