(2)『不整合』
「ST始めんぞー。早く席に座れー」
教師の一喝でバタバタと慌てて席に着くクラスメイトたちを横目に、俺は窓から曇り空を仰いでいた。
実はこのクラス。結構、いや相当、人数が少ない。
総勢27人。
入学当初は35人いたのだが、やはり空気に合わない人種はいるようで、8人も学校を辞めていった。それにしても8人は多すぎやしないかとも思うが、平均がわからないからなんとも言えない。
しかも未だに在籍しているものの27人中2人は登校すらしてこない。いわゆる引きこもりというやつだ。つまり実質的には25人だけ。
そんなわけで、この教室には空いている机が多い。不登校の2人の机以外は、教室の後ろに適当に放置してあるから、半分物置扱いだ。
俺の席は窓際の一番後ろなんだが、5月の席替えで、運悪く隣と前が不登校の連中の机になってしまい、ハブられる気分が味わえる。
変わりたい奴は変わってくれ。
こんな配置のせいで罪もない俺みたいな奴が無意味に注目を浴びてしまう。
気にも止めていなかった不登校組を恨めしく思ったのはその席替えから数日間だけだったが。
教師の業務連絡を聞き流しつつ、机の横にかけたコンビニ袋から買ってきたパンの袋を取り出した。目立つのを避けるため、音がしないようにハサミで開封。
ペンケースで巧妙に隠しつつ、少し遅めの朝食を摂る。
ガラリ。
「すいません、遅れました」
扉が開く音に続いて、女生徒の声が聞こえてきた。
「おーす、おはようさん。お前が遅刻なんて珍しいな神凪ぃ」
やる気のない教師の声も聞き流し……ん? なんか今、ちょっと聞いたことあるような単語が聞こえなかったか?
「ちょっと寝坊しちゃったんです」
そういえば聞き覚えがなくもない声だな、と何も考えず顔を上げる。
「ムグッ……ゴホッ! ゴホッ!」
盛大にむせた。
「てめこら、麻倉ぁ! ST中になーにモノ食ってんだ! 昨日大橋に注意したばっかだろが! めんどくせえからいちいち注意させんじゃねえよ、バカ野郎」
「ゴホッケホッ……すんません……」
クラス中から笑い声が聞こえる。
ちくしょう。目立っちまった。何もかも、アイツのせいだ。
「ちょっとー、大丈夫?」
心配そうな女子の声。ほら見ろ。心優しい人なら気遣ってくれるのが普通なんだ。
心和ませながら顔を上げると、アイツこと神凪奇跡が前の机に鞄を置きながら、俺の顔を覗き込んでいた。
「うわっ!」
思わず飛び退く。そして俺は……背もたれに重心を預けるようにのけぞり、結果、背中から落下した。
「ぐはぁっ!」
「ちょ、ちょっと。そんなに驚かなくていいじゃない。手、貸そっか?」
何なんだ、コイツ!
「おい、麻倉ぁ! 他の教室から文句来たらどうすんだコラ! てめぇ相手しろよ。俺に振るんじゃねえぞ」
仕事しろ不良教師。
「すんません……」
とりあえず俺の平穏を取り戻そう。
心を鎮めるんだ。
「おい、麻倉って暗い奴かと思ってたら結構面白そうな奴だな」
「そうだな。これはいろいろ見せてくれそうだよな」
ぐはぁっ……。俺は普通に過ごしたいのに、それどころか地味に、誰にも過剰に気にされずに生きていたいのに……。
俺は机に突っ伏した。
「んじゃST終わり」
ガラリ。
すぐに教室が騒がしくなる。どうやら教師が出ていったようだ。
ちなみに教師教師言ってるのは名前がわからないからで、一応便宜上の敬意は示しているつもりだ。
「ヒト、ヒト」
前の席から呼ばれる。
「何だよ……」
そこで気づいた。今さら。
「お前、なんでそこに座ってんの?」
そこは不登校組の机でどっちがどっちか知らないがどちらも男子のはずだ。
本日2度目。未確認生物を見るような目で見られた。
「私の席だからに決まってるじゃない。何言ってるの? なんか朝から挙動不審が目につくけど……。何かあった?」
「おーし、そんなら説明してもらおうか。何で朝、俺の部屋に来たんだよ」
「ヒトが遅刻しないように起こしてあげたんだけど……」
「そこだ。遅刻なんてしたことないけど、んなことよりなんでお前が起こしに来んだよ、わざわざ俺の部屋まで」
「ついでよ、ついで。それとも何? 私が起こしにいっちゃダメなの?」
「なんで赤の他人のお前が起こしに来たのか訊いてんだよっ!」
思わず机を叩いて叫ぶ。そして当然だが、急に教室が静まり返った。
好奇の視線が、俺と神凪に集中する。呆気にとられたような顔で、口をパクパクさせる神凪奇跡。
「何……言ってるの……?」
神凪は心配そうな目で顔を覗き込んでくる。静まり返った教室内に、ヒソヒソと小声の会話が飛び交う。
「くそっ、お前ちょっとこっち来い!」
ただでさえ朝から混乱で頭が働かないのに。この状況は最悪だった。
「えっ!? もうすぐ1時間目始まるよ?」
「いいから!」
尻込みする神凪の手首を引っ掴み、教室を出る。後から思えばこの時の俺はどうかしていたのかもしれない。いや、間違いなくどうかしていた。
そのまま、何も考えず階段を上がり、屋上に出る。見回すと幸い誰もいなかった。
「戻ろうよ、ヒト」
後ろから聞こえる神凪の声に、掴んでいた手首を解放して、振り返る。
「お前、誰だよ!」
「……? 神凪……奇跡だけど……?」
「そうじゃない! お前俺の幼馴染みなんだってな!」
「当たり前じゃない。今さら何言ってるの? ……もしかして頭でも打った?」
「小さい頃日本にいなかった俺に、こっちの幼馴染みがいる訳ねーだろ!」
そう。俺は生まれた時から10歳過ぎるまで、イタリアにいた。
父さんの仕事の都合だったらしいが、当然のごとく詳しい理由は聞いたことがない。
日本にいたのはそれから今までの約5年間。必死で日本や、日本語の勉強をしていた俺に近づいてくる奴なんて興味本意の奴らだけで、ここ数年間友達なんて数えるほどしかできていない。
そんな俺に幼馴染みなんているはずがないのだ。
「お前のことなんか知らない。思い出せないんじゃない、知らないんだ! はっきり言って未だに何がなんだかわからないけど! 俺はお前が幼馴染みだなんてわからない! ほら、説明してみろ! お前は誰なんだ!」
我ながら何を言っているのかわからないぐらい頭に血がのぼっていた。
神凪は堅い表情になっていた。
「私は……」
神凪は肩を震わせながら、必死の様相で言葉を紡ぐ。
「神凪奇跡……ヒトの幼馴染み……」
そして、再び心配そうな目で俺の表情を窺ってくる。
「じゃあ何か? 俺がおかしいってのか! 周りは全部正しくて、お前は俺の幼馴染みだってか? お前小さい頃どこにいたよ? 日本だろ? なら俺が知るはず……」
「イタリア」
「……な……い?」
「私もヒトも昔イタリアにいた。2人ともベネチアに住んでた」
ベネチア。確かに俺がいたのはベネチアだ。
「だ、だからって俺はお前のことなんて知らない! 大体昨日までお前クラスにいなかっただろ!」
席替えなんてしていないから、俺の前に誰かが座っているはずがない。
「いたよ! いたもん。何言ってるの? ヒト……昨日も、今週末遊ぼうって言ってたじゃん。どうしちゃったの? なんか今日のヒト……怖いし、変。あんな目立つこと一番嫌がってたじゃん」
「お前のせいだろうが! そんな約束した覚えなんかねえし、そもそもお前と話したことなんてねえよ!」
まるで、俺が、俺だけがおかしいみたいじゃないか。明らかに昨日と今日で違う神凪がまともで、いつもと同じ俺が異常みたいじゃないか。
くそ、もう何がなんだかわかんねえよ。
神凪奇跡って誰だよ。なんで母さんは知ってんだよ。
なんで1人増えてんのに教師も誰も変だと思わないんだ。まるで俺が馬鹿みたいじゃないか。
「何その言い方! ヒト何怒ってるの!? もういい! 知らない! ヒトなんか知らない! 勝手にすればいいじゃない!」
神凪は、怒って屋上の扉を開け、中に入っていった。最後に俺をキッと睨み付けて、勢いよく扉を閉めた。
ガチャリ。
誰もいない屋上に施錠音が虚しく響く。
そして、その直後、キーンコーンカーンコーンと聞き慣れたチャイムが鳴る。1限目の授業が始まるのだろう。
「えっ……?」
ノブに手をかける。
回す。
引く。
ガンッ。
神凪のヤツ、鍵閉めやがった! なんて嫌がらせみたいなことを。というかイジメだろ、これ。