俺と美希さん 〜side健太〜
「ちょっとした過労ですね。少し体が弱っているところに、風邪の菌が入っただけだと思います。」
「…良かった…。」
医師の診断を聞き、ホッと胸を撫で下ろす。
「詳しい事は、検査結果が出ないと分からないですが、恐らく大丈夫でしょう。今日一日様子を見て、問題なければ、二、三日の自宅療養でいいでしょう。」
「ありがとうございました。」
そう言って廊下に出た俺。
「どうだった?」
俺が出て来るのを待っていた、担任の先生が尋ねてくる。
「取り敢えずは大丈夫みたいです。」
「今日は、学校は早退でいいから側にいてやれ。明日も休んでいいから、明後日から出られるようなら学校に来い。」
「分かりました。」
先生も大袈裟なんだよ…。
一応、うちの家庭事情を知ってる先生が、妙に気を使っているのが少し鬱陶しかった。
もしかして、美希さんに惚れてたりして…。
アイツ、歳の割には若く見えるからなぁ。
美希さんがいる病室に入り、安らかな寝顔を見た俺は、本を読みながら彼女が起きるのを待っていた。
お昼過ぎ、突然、病室がノックされる。
「失礼します。こちらに、坂下美希さんが入院されていると伺ったんですが。」
四十歳ぐらいの男の人が入って来た。
「どちら様ですか?」
その男性は、俺の顔をまじまじと見てくる。
「…?もしかして…、健太君かな?わたくし、美希さんが勤めてる美容室の店長をしている木村と言います。」
「ああ、どうもお世話になってます。」
「俺、君がまだ小さかった頃、会った事あるんだけど、覚えてないかなぁ。大きくなったね。」
「はぁ…。」
「あっ、そんな事より、容態は?」
「過労だそうです。あまり心配はないみたいですが。」
「申し訳ない!そんなに働かせてるつもりはなかったんだけど、無理させちゃってたみたいで!」
四十歳ぐらいの男の人が、高校生の俺に頭を下げる姿は、少し可笑しかった。
「気にしないで下さい。自分の体調管理が出来ないこの人が悪いんで。三、四日で仕事に行けるみたいですから。」
「君がそう言ってくれると…。仕事の事は心配しないで、一週間は仕事を休むように伝えてよ。」
「分かりました。わざわざ来ていただいて、すいませんでした。」
「健太君はしっかりしてるなぁ。美希ちゃんの教育が良かったんだな。」
大人に誉められて悪い気はしない。
「あの…、木村さんは独身ですか?」
「結婚してるけど…、何で?」
「いえ、別に…。」
調子に乗って、また余計なことを言ってしまった。
また美希さんに怒られるかなぁ…。
美希さんは、俺の本当の母親ではない。
血縁上は、叔母にあたる。
色々、わけあって俺を引き取り、養子にしてくれた。
華奢な体型で、仕事の関係上、若作りをしている為、歳の割には若く見える。
友美が言うには、『すごい美人』らしい。
俺は、正直よく分からない。
「美希さん、いくつになったんだっけ?」
「三十歳ぐらい。」
「『ぐらい』って何だよ!」
「うるさい!女の人に歳を聞くもんじゃないの。」
歳を聞いても、いつもはぐらかされる。
俺の計算だと、三十二歳だけど…。
一度も結婚はしていない。
それは多分、俺の所為…。
美希さんは否定するが、思春期真っ只中の子供がいる、複雑な家庭事情の三十路女と、結婚したい男がそうそういるはずもない。
例え美人だとしても…。
「結婚出来ないなら別にいいんじゃねえの。俺が働き始めれば、美希さん一人、面倒見るくらいわけないよ。」
俺は美希さんに、ここまで育てて貰った恩がある。
それは、絶対に返さなければいけないものだと思っている。
俺の意地みたいなものだ。
「あんたは、世間を甘く見てる。大学に行け。」
と美希さんは言う。
美希さんの大学に行けという理由も最もなので、今はまだ迷っている。
幸い、悩む時間はまだある。
俺には、実母の記憶がほとんどない。
一緒にいたのは、六年ぐらい。
その内、俺の記憶にあるのは、二年ぐらいしかない。
実母がいた頃も、美希さんとは一緒に暮らしていたから、どちらの記憶か、はっきりしないものも多い。
美希さんと二人になってから十年になるので、記憶が上書きされているものも多いはず。
今では、写真で見る顔しか思い出せないくらいだ。
「段々、私の味付けに近付いてきたねー。」
「当たり前だろ。俺は美希さんに料理を教わったんだから。それより、自分の味付けを本当に覚えてるのかよ。最近は全く料理なんかしてないのに。」
「健太が小学生までは、私がちゃんとご飯を作ってたでしょ。」
「五年生からは俺が作ってた。」
「つい最近のことだよ。」
小さい頃、火や包丁を扱えるようになったら、ご飯は俺が作ると決めていた。
その為に、小さい頃からよく、料理作りは手伝っていた。
俺にとって、『お袋の味』とは『美希さんの味』の事を言う。
他にも、家の事は出来るだけ俺がやろうとしていたら、気が付くと美希さんがやってるのは、洗濯ぐらいになった。
洗濯も俺がやっても構わないのだが、色々気を使っているのだろう。
一応、俺は思春期の男なのだから、難しい問題も出てくるわけだし。
美希さんの自意識過剰だと、思わないでもないが…。
友美にも断言されたが、俺はどうやら『マザコン』らしい。
『美希さんが好き』と言う、気持ち悪い事を思ってるわけではない。
ただ、俺にとって、一番大事な人であるだけ。
それに、実の母親ではない。
それなのに、『マザコン』だと言われるなら、しょうがないという気がする。
俺は美希さんの事を、一度も『お母さん』と呼んだ事はない。
しかし、俺を生んでくれた実母には悪いが、俺の母親は美希さんだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
だから、俺の事は気にせず、結婚して幸せになって欲しいと思っている。
反面、美希さんを他の人に取られたくないという気持ちも、確かに存在する。
思春期の少年の心は、色々複雑なのだ…。
「あっ、健太?」
目が覚めた美希さんが、俺に気付く。
「おっ、気が付いたか。急に倒れるんじゃねぇよ、びっくりするだろ!」
「私、倒れたの?」
「ああ、過労だってよ。無理すんなって言っただろ!」
「ごめん…。」
「気が付いたなら、先生呼んでくる。」
病室を出た俺は、緊張の糸が切れ、危うく涙を流しそうになった。
大事に至らなくて、本当に良かった…。
医師から病状の説明を受けた美希さんを見届け、着替えを取りに行く為に、一旦、病院を出る。
携帯を確認すると、メールが一件入っていた。
友美からだった。
受信『話は先生から聞いたよ。美希さんはどんな様子?』
送信『さっき気が付いた。俺は今から一度、家に戻る。大事には至らなかったみたい。心配掛けて悪かったな。』
家の前に着くと、門の前で、友美が待っていた。
「何してるんだ?」
友美に声を掛ける。
「何って、心配だから待ってたんじゃない!」
友美の行動を見てると、俺の事が好きなんじゃねぇの?と思う事がある。
「メールで言った通りだよ。今のところ、心配ないから。」
「そう、良かった…。何かあったら、遠慮なく言ってよ。今日の夕飯、私の家で食べる?作ってる暇ないでしょ?」
「うーん、まだどうなるか分からないからなぁ。」
「遅くなってもいいから、帰る時、連絡してよ。」
「分かった。」
「じゃあね、バイバイ!」
「ああ…。」
制服姿の友美の背中を見送り、自分の家に入る。
やっぱり、アイツは俺の事が好きかも…、少なくとも、悪くは思ってないはずだ。
そんな妄想に近い事を考えながら…。