第8話「規格外の退魔師」
通信機が鳴ったのは、伯父の家まであと二ブロックという距離だった。
ポケットの中で短く震える振動を、蓮は左手で取り出した。画面に表示された文字列を一瞥する。
——出動要請。渋谷区南部、霊脈淀みの残存個体。鬼火二体。
鬼火二体。左手一本で処理できる。
蓮は通信機をポケットに戻し、踵を返した。伯父の家の門灯が見える距離だったが、振り返りもしなかった。住宅街の角を曲がり、駅の方角へ歩き始める。左手で右手首を持ち直し、腕が揺れないように脇に押し当てた。
足裏に残っていた脈動は、まだ消えていない。
あの路地裏の石畳を通じて伝わってきた霊脈の震え——ではなかった。蓮の内側で何かが低く唸っている。厳山の背中を見送ったあの瞬間から、止まらない。
殴れない。焼けない。魔法陣の射程に捉えることすらできない。
蓮は歩く速度を上げた。厳山の糸目が脳裏にちらつくたびに、思考を別の場所へ押しやる。前世の戦場で、眠れない夜にやっていたのと同じ手法だった。分析を止めろ。結論の出ない思考に脳の帯域を割くな。目の前の敵を倒せ。倒し続けろ。倒すことだけが、今の蓮に許された確実な行為だ。
電車に乗った。平日の夕方、帰宅ラッシュとは逆方向の車内は空いていた。吊り革を左手で握り、窓の外を見る。夕焼けの残照が建物の隙間からオレンジ色の帯を引いている。ガラスに映った自分の顔は、血と土の染みがついたシャツを着た、ただの高校生だった。
——嘘だ。
七十年を戦場で生きた人間の目が、十七歳の顔の奥から覗いている。蓮はそれを知っている。厳山もおそらく、それを見抜いていた。
渋谷に着いた頃には日が沈んでいた。指定エリアは駅から南へ十五分ほど歩いた住宅街の裏手、古い排水路に沿った一帯だった。霊脈の淀みが地表近くに滲み出しやすい地形。蓮は排水路の柵を跨ぎ、暗がりの中で左手を掲げた。
指先に青白い光が灯る。魔法陣の基礎円。
二体の鬼火は排水路の曲がり角に固まっていた。拳ほどの大きさの青い炎が、湿った空気の中で不規則に明滅している。蓮が魔法陣を展開し始めた瞬間、二体が同時にこちらへ向かって加速した。
三秒。
左手の指が一閃し、空中に描かれた幾何学模様が白く発光する。冷徹な数学的精度で組まれた消滅式が、鬼火二体を同時に包んだ。青い炎が白い光に呑まれ、音もなく消失する。排水路に静寂が戻った。
蓮は左手を下ろした。指先が微かに震えている。
喉の奥に、鉄錆の味が広がった。薄く、だが確実に。右腕の痺れが肩甲骨の下まで這い上がってくる感覚を、蓮は無表情のまま受け入れた。
通信機を取り出し、左手の親指だけで処理完了の報告を入力する。
——鬼火二体、消滅。被害なし。
送信。
排水路を出て、柵を跨ぎ直す。住宅街の街灯が等間隔に並ぶ歩道を、蓮は伯父の家へ向かって歩き始めた。
*
伯父の家に着いたのは午後九時を回った頃だった。
玄関の鍵は開いていた。蓮が深夜に帰宅することを見越して、施錠しないまま全員が二階の自室に引き上げている。影蜘蛛の夜以来の慣例だった。蓮の靴音が玄関に響くと、二階の廊下を誰かが歩く気配がした。足音が止まり、ドアが閉まる音。蓮が通り過ぎるのを待っている。
リビングの明かりは消えていた。テーブルの上に、ラップをかけた皿が一つだけ置かれている。冷めた焼き魚と白飯。箸は添えられているが、「お帰り」の書き置きはない。義務として用意された食事。それ以上でも以下でもない。
蓮はそれを食べた。味はほとんど感じなかった。喉の粘膜が荒れているせいで、飯粒を嚥下するたびに鈍い痛みが走る。水を飲み、皿を洗い、物置部屋に戻った。
二畳半の物置部屋。壁際に布団が敷かれ、段ボール箱がいくつか積まれている。私物はほとんどない。蓮はシャツを脱ぎ、血と土の染みを確認した。洗濯機は一階だが、深夜に回せば騒音で伯父一家を刺激する。蓮はシャツを丸めて段ボール箱の脇に押し込み、替えのシャツに手を伸ばした——左手で。右腕は袖を通すのにも左手の補助が必要だった。
布団に横になる。天井の染みを見つめた。
思考が、厳山に戻る。
——お力を封印し、段階的に——
蓮は目を閉じた。封印の提案を反芻するのではない。あの男の声の質を分析している。柔らかく、温かく、どこまでも善意に満ちた声。前世で何度か聞いた種類の声だった。宰相が兵士に「休め」と言うときの声。指揮官が撤退を「戦略的後退」と言い換えるときの声。相手から選択肢を奪いながら、奪っていることを気づかせない声。
厳山は、蓮が喉を痛めていることまで看破していた。
蓮の戦闘データを採取していた。
そして——蓮を殺す気はなかった。少なくとも、今は。
利用する気だ。利用し、管理し、いずれ不要になれば排除する。その手順を、あの温厚な笑みの裏で、おそらく今この瞬間も組み立てている。
蓮は寝返りを打った。右腕が体の下敷きになり、痺れが肩から背中へ波紋のように広がった。左手で右腕を引き出し、腹の上に置き直す。指先には何の感覚もない。小指と薬指にかすかな圧覚が戻ってきているが、まだ自分の指だという実感がなかった。
——考えるな。
蓮は思考を打ち切り、呼吸を整えた。六十秒で入眠する技術は前世で身につけている。戦場では、眠れるときに眠る。それが生存の基本だった。
意識が沈む直前、足裏の脈動がもう一度だけ蘇り——消えた。
*
翌朝の教室は、蓮にとって別の惑星だった。
チャイムが鳴り、教師が教壇に立ち、黒板にチョークが走る。数学。二次関数の応用。蓮は窓際の席で頬杖をつきながら、教師の声を右から左へ流していた。
二次関数の解法を、蓮は前世で六十年以上前に理解し終えている。異世界の数理体系は現代日本のそれよりも遥かに複雑で、魔法陣の設計に必要な多次元幾何学の基礎として、この程度の内容は文字通り子供の算術に過ぎなかった。
教師の声が遠い。黒板の文字が霞む。蓮は窓の外を見た——のではなかった。視線は窓に向いているが、蓮の意識は足元の地下数十メートルを流れる霊脈の微かな脈動を追っていた。
北北東への偏向。第六話で確認した人為的な吸い上げのパターンは、二日経っても変わっていない。むしろ僅かに強くなっているように感じる。だが、蓮の分析精度は拒絶反応の蓄積で劣化し続けていた。ノイズが増え、微細な変動を拾い切れない。確信があったはずの分析結果に、靄がかかっていく。
——精度が落ちている。
その事実を認識しながら、蓮は何もしなかった。できることがなかった。拒絶反応を止めるには魔法の使用を止めるしかないが、魔法を使わなければ妖怪は倒せない。霊術は使えない。この世界の「型」は蓮の身体に刻まれていない。
詰んでいる——のではない。まだ動ける。左手一本でも魔法陣は展開できる。精度は落ちても、下位妖怪を消滅させるには十分な火力が出せる。今の蓮に必要なのは、倒し続けることだ。止まれば、厳山の影が追いつく。
昼休み。蓮は購買のパンを左手で持ち、廊下の隅で食べた。クラスメイトは蓮を避けていた。転入してからの数日間で、蓮の周囲には自然と人が寄りつかなくなっていた。敵意ではない。蓮の纏う空気が、十七歳のそれではないことを、言語化できないまま感じ取っているのだろう。
通信機が振動した。
蓮はパンの残りを口に押し込み、画面を確認した。出動要請。品川区北部、中型妖怪一体。推定・土蜘蛛系。
放課後まで待てるか——否。中型は放置すれば成長する。蓮は鞄を教室に置いたまま、校舎の裏口から外に出た。午後の授業を二つ飛ばすことになるが、出席日数は既に危険域に達している。もう一日二日の差に意味はなかった。
*
品川の現場は、再開発途中の空きビルだった。
三階建ての鉄筋コンクリート。窓ガラスが割れ、壁に蔦が這っている。退魔局から現場に先着していた二人の退魔師——二十代半ばの男女——が、ビルの入口付近で蓮を待っていた。
男の方が蓮を見て目を見開いた。
「朝霧——あの、朝霧蓮か?」
蓮は頷いた。
「マジか。噂の……」男は隣の女に小声で何か言い、それから蓮に向き直った。「あの牛鬼を単独で倒したっていう。いや、助かる。俺たちだけじゃ中型はキツくて」
「中の構造は」
蓮の声は低く、掠れていた。喉の粘膜がまだ回復しきっておらず、それ以上は続かなかった。
「あ、ああ。一階は広いフロア、二階と三階は個室が並んでる。土蜘蛛は二階の奥にいる……と思う。糸の痕跡が二階に集中してた」
蓮は男の報告を聞きながら、ビルの外壁を見た。二階の窓。割れたガラスの向こうに、薄暗い室内が覗いている。糸——蜘蛛系妖怪の粘着質の霊糸——が窓枠に張り付いているのが、蓮の目にも見えた。
「待機していろ」
蓮はそれだけ言って、ビルの入口に向かった。
「え——一人で?」男の声が背中に届いた。「援護は」
蓮は振り返らなかった。
ビルの内部は薄暗かった。割れた窓から差し込む午後の光が、埃の舞う空気を斜めに切っている。一階は広いフロアで、天井までの高さは約三メートル。コンクリートの柱が等間隔に並び、床にはガラスの破片と乾いた落ち葉が散らばっていた。蓮の靴底がガラスを踏み、乾いた音が響く。
階段。鉄骨むき出しの直線階段が、フロアの北東隅にあった。蓮は一段ずつ上がった。階段の手すりは錆びて冷たかったが、左手で掴む余裕はなかった。
二階の廊下。左右に個室のドアが並んでいる。かつてはオフィスか何かだったのだろう。廊下の幅は二メートル弱。蓮一人が通るには十分だが、横に並んでの戦闘は不可能な幅だった。
霊糸が見えた。
廊下の天井と壁の間に、半透明の糸が不規則に張り巡らされている。触れれば皮膚に貼りつき、霊力で硬化して拘束する。土蜘蛛系の基本的な罠。蓮は糸の配置を三秒で読み取り、身体を通せる隙間を見つけた。
左手を掲げた。指先に青白い光。
魔法陣が空中に展開される。直径六十センチの基礎円に、四重の幾何学紋様が重なる。蓮の魔法は——美しかった。無駄な線が一本もない、数学的な完全性を持つ設計図。だがそれは退魔師たちが「美しい」と呼ぶ霊術の型とは、根本的に異質なものだった。
廊下の奥から、低い震動が伝わってきた。
土蜘蛛が動いた。
蓮は魔法陣を前方に射出した。青白い光の円盤が廊下を直進し、霊糸を焼き切りながら奥の暗がりに突入する。爆裂音。壁と天井がひび割れ、粉塵が廊下に噴き出した。
一秒の間を置いて、蓮は粉塵の中を歩いた。
廊下の突き当たり。壁が半壊した個室の中に、体長二メートルほどの土蜘蛛が横たわっていた。八本の脚のうち三本が消失し、胴体に魔法陣の灼痕が深く刻まれている。まだ動いていた。残った脚が床を引っ掻き、蓮のいる方向へ向きを変えようとしている。
蓮は左手をもう一度掲げた。
二枚目の魔法陣。消滅式。
光が土蜘蛛を包み、三秒で消失した。
静寂。
蓮は左手を下ろした。指先の震えが、先ほどより大きくなっている。喉の奥の鉄の味が一段濃くなり、唾を飲み込むと粘膜が引き攣れるような痛みがあった。視界の端が僅かに滲んでいるが、まだ許容範囲だった。
通信機を取り出す。
——土蜘蛛一体、消滅。被害なし。
送信。
階段を降り、ビルの外に出ると、先着の二人がまだ入口で待っていた。男の方が蓮の顔を見て、何か言いかけて口を閉じた。蓮の表情に、戦闘の痕跡がなかったからだ。汗もかいていない。息も乱れていない。ただ左手の指先が微かに震えているだけで、それすら蓮は無造作にポケットに突っ込んで隠した。
「終わった」
「……二分、か?」男が腕時計を見ていた。
蓮は答えず、二人の横を通り過ぎた。背後で男が女に囁くのが聞こえた。
「——あれが、規格外ってやつか」
*
それから二週間が過ぎた。
蓮は毎日のように出動した。学校には午前中だけ顔を出し、昼過ぎには姿を消す。あるいは朝から来ない日もあった。出席簿に「欠席」の文字が積み上がっていくのを、担任教師は気にしている様子だったが、蓮に話しかける勇気がある教師はいなかった。蓮の目が——あの黒曜石の瞳が——十七歳の高校生のものではないことを、教師たちも直感的に察していた。
伯父の家では、蓮の深夜帰宅が日常になった。テーブルの上にラップをかけた皿が置かれ、二階から足音が消えた後に蓮が玄関を開ける。その繰り返し。蓮はそれを「合理的な距離」と定義し、感情を挟まなかった。庭の芝生に残る影蜘蛛の焦げ跡——直径約二メートルの黒い円——が、伯父一家の恐怖を毎朝更新し続けていた。
退魔局の中では、蓮の名前が急速に広まっていた。
東京に四十人から六十人。全員の顔と名前が概ね一致するほどの小さな社会で、「無血統の新人が中型妖怪を単独で二分以内に処理している」という情報は、火のない煙のように隅々まで行き渡った。
一週間目。世田谷の住宅街に出現した百目鬼——全身に眼球状の霊核を持つ中型妖怪——を、蓮は一枚の魔法陣から五つの消滅式を分裂展開して殲滅した。左手の指先が描いた一つの基礎円が完成した瞬間、内部の論理回路が起動し、五つの独立した攻撃術式として弾けるように拡散する。百目鬼の全身に散在する霊核を、五つの光が同時に貫いた。到着から消滅まで四十七秒。同行していた退魔局の観測班は、報告書に「連携なし・単独処理・所要時間一分未満」と記録した。
九日目。荒川沿いに発生した河童の群れ——下位妖怪四体——を、蓮は河川敷に降りることすらせずに処理した。橋の上から見下ろしながら、左手で四つの魔法陣を連続展開。水面が四回光り、四体が順に消えた。橋の反対側で見ていた通行人は「花火?」と首を傾げただけで通り過ぎていった。
十一日目。杉並区の古い神社の境内で、鎌鼬三体が同時に出現した。退魔局から三人の退魔師が出動していたが、蓮が到着したときには既に一人が腕を切り裂かれ、残りの二人が防戦一方の状態だった。
「下がれ」
蓮の掠れた一語が、境内に響いた。三人の退魔師が反射的に後退する。蓮は鳥居の下に立ったまま、左手を高く掲げた。
魔法陣が展開される。
一枚の基礎円。左手の指先が空中に描いた直径六十センチの幾何学紋様が、青白く完成した——次の瞬間、その円が内部の論理回路を起点に三つへ分裂した。一枚の設計図から三つの独立した消滅式が生成され、それぞれが異なる座標に射出される。鎌鼬は風を纏って高速移動する妖怪だったが、蓮の三枚の魔法陣は移動予測を織り込んだ射出角度で三方向に飛んだ。三体が一瞬で光に呑まれる。
境内に風が止んだ。
砂利の上に落ちた木の葉が、一枚もずれていなかった。
腕を切り裂かれた退魔師を治療している二人の横を、蓮は無言で通り過ぎた。背後から視線を感じた。畏怖と警戒が混ざった、言葉にならない種類の視線。蓮はそれを背中で受け止めながら、鳥居をくぐって境内を出た。
この日の報告書には「鎌鼬三体、消滅。処理時間——十秒未満」と記録された。
*
十二日目の夜。
蓮は新宿区の任務を終え、指定された合流地点へ歩いていた。雑居ビルの裏路地。街灯の光がネオンの色に染まり、アスファルトが赤や青に濡れたように光っている。
路地の角に、ひよりが立っていた。
黒基調の軽装。退魔師としての装備だが、二週間前に比べて目に見える負傷は減っていた。左膝のガーゼは外れ、右肩のブレザーの焦げ跡は別の服に替わっている。だが、蓮の目が読み取ったのは外傷の回復ではなかった。
ひよりの肩が強張っていた。顎の角度が僅かに上がっている。蓮を見る琥珀色の瞳に、蓮が初めて会った日にはなかった硬い光があった。
「報告」蓮は立ち止まり、掠れた声で一語だけ発した。
「……報告って何の?」
ひよりの声は低かった。抑えた声。感情を喉の奥で押し潰しているような響きだった。蓮はそれを認識したが、分析しなかった。ひよりの感情は、今の蓮にとって処理すべき情報ではなかった。
「異常の有無」
「異常なし。——あなたが一人で片付けてくれたから、私は何もしてないもの。異常なんてあるわけないでしょう」
蓮は答えなかった。
この二週間、ひよりは蓮の任務に毎回同行していた。退魔局の規定で、仮登録者の単独行動には正規退魔師の帯同が必要だったからだ。ひよりはその帯同者として指定されている。
だが、ひよりが実際に戦闘に参加したことは一度もなかった。
蓮がそうさせなかった。
毎回、同じだった。現場に到着した瞬間に蓮が前に出る。「待機」の一語をひよりに投げ、一人で妖怪の前に立ち、一人で魔法陣を展開し、一人で消滅させる。ひよりは後方で蓮の背中を見ているだけだった。
蓮にとって、それは合理的な判断だった。ひよりの霊力は退魔局の測定でゼロと判定されている。攻撃手段を持たない人間を戦闘に加えれば、守るべき対象が増えるだけだ。蓮一人で処理できる妖怪に対して、ひよりを前に出す理由がない。
合理的。
正しい。
——正しいはずだ。
「朝霧」
ひよりが蓮の名前を呼んだ。蓮は視線をひよりに戻した。
「……私は、何のためにここにいるの」
蓮はその問いに答えなかった。答える言葉を持っていなかったのではなく、答える必要を感じなかったからだ。ひよりが何のためにいるか——退魔局の規定による帯同義務。それ以上でも以下でもない。
沈黙が路地に落ちた。ネオンの赤い光がひよりの横顔を照らし、その輪郭を硬く際立たせていた。蓮はひよりの目を見た。
あの硬い光。引き上げられた顎。声を押し殺すように噛み締められた奥歯の輪郭。蓮はそれらを一つずつ読み取りながら、前世の戦場で何百回と見てきた表情の分類に照らした。——おそらく、怒りだろう。蓮に対しての。「いないもの」として扱われ続けることへの。そうとしか読めない外面の符号が、ひよりの全身から滲み出していた。
蓮はその推測を認めた上で、受け取ることを拒んだ。受け取れば、蓮の判断が揺らぐ。他者の感情に判断を委ねた瞬間に何が起きるか——蓮は、知っている。
エルマの顔が、一瞬だけ脳裏を横切った。
蓮はそれを即座に思考の外へ追いやった。
「帰るぞ」
二語。蓮はひよりの横を通り過ぎ、路地の出口へ向かった。
背後で、ひよりが拳を握る音が聞こえた——気がした。あるいは、蓮の耳が勝手に作り出した音だったかもしれない。
*
十九日目の午後。
蓮は学校を早退し、中野区の指定エリアに向かっていた。通信機には「鬼火一体」と表示されている。下位妖怪。左手の小指一本で事足りるような、取るに足りない敵だった。
電車の中で、蓮は左手の指を見た。
震えが止まっていた。——否。止まったのではなく、震えが常態化して、蓮の知覚が麻痺し始めているのだ。指先の感覚が微かに鈍い。魔法陣の展開に必要な精度は維持できているが、以前より一瞬遅い。〇・三秒ほど。その遅延が、蓮には正確に計測できた。
右腕は二週間前よりは改善していた。小指と薬指の圧覚がはっきりし、中指にも僅かな感覚が戻ってきている。だが握力はまだほとんどゼロに近く、拳を握ることはできない。右手で魔法陣を描くのは不可能だった。
喉の状態は横ばいだった。掠れた声はそのまま。長文の発話はいまだに困難で、蓮の会話は単語の羅列に近かった。ただ、厳山に察知された時点よりは多少回復している。十語程度なら、途切れずに発せるようになっていた。
中野の現場に着いた。住宅街の袋小路。鬼火一体が、電柱の影で青く揺れている。蓮は左手を掲げ、魔法陣を展開し、三秒で消滅させた。
通信機に報告を入力する。その指が止まった。
新着メッセージ。
退魔局からの緊急通信。
——全退魔師へ通達。港区南部パトロールエリアにて特異個体出現。分類:鏡女郎。物理攻撃無効。霊術反射確認。現時点で有効な攻撃手段なし。接触した退魔師二名が負傷。当該エリアの退魔師は交戦を避け、退避せよ。
蓮は通信機の画面を見つめた。
物理攻撃無効。霊術反射。
蓮の思考が、一瞬だけ停止した。
物理が通じない妖怪は珍しくない。霊的な存在である以上、物理的な干渉に耐性を持つ個体は一定数存在する。だが——霊術を反射する。攻撃を跳ね返す。それは、蓮がこの世界で遭遇したどの妖怪にもなかった特性だった。
蓮の魔法は霊術ではない。異世界の魔力回路で構成された、この世界の「型」とは根本的に異なる攻撃体系だ。霊術が反射されるとして、蓮の魔法も同様に反射されるかどうかは——分からない。
だが、「反射」という特性が何らかの結界によるものだとすれば、蓮の魔法もまた結界に阻まれる可能性がある。力の種類や体系がどうであれ、エネルギーそのものを跳ね返す壁なら、威力を上げたところで意味がない。蓮の魔法は霊術の上位互換に近い火力を持つが、それは「反射する壁」を貫通できることを意味しない。
拳で壁を殴っても、砲弾で壁を撃っても——壁が力をそのまま跳ね返すなら、結果は同じだ。
蓮は通信機をポケットに戻した。
港区南部。ここからなら電車で三十分ほどだ。
退避命令が出ている。蓮は仮登録者であり、正規の退魔師ではない。命令に従う義務は——厳密には曖昧だった。だが、今の蓮にとって重要なのは義務の有無ではなかった。
倒せない敵がいる。
二週間、蓮は倒し続けてきた。左手一本で、一人で、誰の助けも借りずに。それが蓮の答えだった。厳山の影も、前世の後悔も、ひよりの怒りも——倒し続けることで、全て塗り潰してきた。
だが今、通信機の画面は蓮に告げている。
——お前の魔法では、倒せないかもしれない。
蓮は電車に乗った。港区方面へ。
車内の窓ガラスに映った自分の顔を見た。黒曜石の瞳。光のない、七十年の戦場を知る目。その目が、初めて——何かを探しているように見えた。
蓮はすぐに視線を逸らした。
探してなどいない。確認しに行くだけだ。敵の特性を分析し、攻略法を組み立てる。それが大賢者の戦い方だ。一人で。常に、一人で。
電車が港区に近づくにつれ、左手の震えが微かに強くなった。拒絶反応とは違う震えだった。もっと深い場所——蓮が名前をつけることを拒んでいる場所——からの、震え。




