第5話「名前のある敵」
退魔局の訓練場は、地下二階にあった。
エレベーターの扉が開いた瞬間、空気が変わる。地上の事務的な蛍光灯の白さとは違う、古い石壁に反射する暖色の照明。天井は吹き抜けで高く、体育館二つ分はある広さの空間が、緩やかなアーチ状の柱で区切られていた。床は磨かれた石畳。壁面には木製の武器架けが並び、木刀、薙刀、短杖が整然と収められている。
蓮は一歩を踏み出した。
——指先の感覚が、ほんの僅かに戻り始めている。
朝、物置部屋の畳の上で目を覚ましたとき、右手の小指と薬指にぼんやりとした圧覚があった。昨日まで完全に死んでいた神経に、微弱な電気が流れ始めたような感触。だが握力はほぼゼロのまま、拳を握ることすらできない。
お前の身体は、もう限界に近い。
知っている。自分の身体の声を聴き損ねたことは一度もない。
「——こっちです」
半歩前を歩くひよりの声が、訓練場の高い天井に吸い込まれた。彼女のブレザーの右肩は焦げたままで、歩くたびに左膝を庇うような微妙な重心の偏りがある。スカートの裾から覗く左膝のガーゼがずれ落ちかけていて、その下から赤黒い滲みが露出していた。本人はそれを意識していないのか、あるいは意識した上で無視しているのか。
どちらにしても、この少女は自分の身体に対して雑だ。
蓮が訓練場に足を踏み入れると、空間の温度が二度ほど下がったような錯覚を覚えた。
——いや、錯覚ではない。
視線だ。
訓練場の奥で木刀を振っていた若い退魔師が、手を止めた。壁際で座り込んで書類を広げていた二人組が、顔を上げた。柱の影でストレッチをしていた女性退魔師が、こちらを見たまま動きを止めた。
噂は、もう回っている。
牛鬼を一撃で消し飛ばした、霊術ではない何かを使う、血統登録のない少年。昨日の夕方の出来事が、全員に顔を知られるほどの速さで伝播している。退魔師の世界は狭い。蓮はそのことを、前世の経験から知っていた。閉じた組織の情報伝達速度は、常に想定の三倍速い。
視線の質は、好奇ではなかった。
警戒だ。
自分たちの体系に属さない力を持つ存在が、自分たちの領域に入ってきた。その生理的な拒絶反応が、石畳の訓練場に低く充満していた。
「朝霧さん」
ひよりが足を止め、振り返った。琥珀色の瞳が、蓮の顔を真っ直ぐに見ている。
「ここが基礎訓練区画です。奥に模擬戦闘用の結界区画がありますけど、そっちは正規の退魔師しか使えないので」
「知らなくていい情報だ」
掠れた声が、自分で思ったよりも低く響いた。喉の粘膜がまだ荒れている。言葉を押し出すたびに、気管の内壁が紙やすりで擦れるような鈍い痛みがあった。
「……案内しているんですけど」
「必要な場所だけ教えてくれ。俺は見学に来たわけじゃない」
ひよりの眉がぴくりと動いた。言い返そうとして、飲み込んだ。蓮にはその逡巡が見えた。彼女が怒りを飲み込む動作には、幼い頃から繰り返してきた反射の滑らかさがある。
仮登録の書類処理が完了するまで、局内で待機する必要があった。蓮にとっては無駄な時間だったが、霊力測定の日程調整と訓練場の使用許可が同時に進んでいるらしい。ひよりが事務方と掛け合った結果だ。頼んだ覚えはない。
「——おい」
声は、訓練場の左手奥から飛んできた。
蓮は視線だけをそちらに向けた。
柱の陰から、一人の青年が歩み出てくる。二十歳前後。退魔師の作業着——黒地に銀の紋様が入った動きやすい上下——を着ているが、着こなしに余裕がない。袖口を何度も引っ張った痕跡があり、襟元が僅かに歪んでいる。中肉中背。髪を短く刈り上げているが、生え際が不揃いで自分で切ったことが分かる。
そして、その目。
蓮を睨みつける目に、怒り以外の何かが混じっていた。
「お前が、朝霧か」
声が震えていた。怒りの震えではない。もっと根の深いもの。自分の足元が崩れかけていることに気づいた人間が、必死にその事実を否定しようとするときの、あの震え。
蓮は無言で、青年の全身を観察した。
姿勢が悪い。重心が前に偏っている。両拳を握りしめているが、拳の形が甘い。親指が四指の内側に巻き込まれている。基礎訓練で真っ先に矯正される悪癖だ。突きを放てば自分の親指を折る。霊力の気配は——希薄だ。訓練場にいる他の退魔師たちと比べても、明らかに一段低い。
「聞いてんのか。お前だろ、昨日——」
「高瀬」
ひよりの声が、鋭く割り込んだ。
高瀬と呼ばれた青年が、ひよりを見た。その視線に、一瞬だけ別の感情が走る。侮蔑。神楽坂の出来損ない。その評価が、表情の端に滲んでいた。
「神楽坂か。お前が連れてきたのか、こいつを」
「仮登録の案内です。局の正規手続きで——」
「正規?」
高瀬が、短く笑った。笑い声というより、喉から空気が漏れたような音だった。
「血統登録もない奴が、正規も何もないだろ。どこの家だ。どの系譜だ。聞いたことねえぞ、朝霧なんて家名」
蓮はポケットから右手を出さなかった。
「家名はない」
声が掠れて、語尾がざらついた。蓮は一度唾を飲み込んでから続けた。
「退魔師の血統に俺は属していない。それが何か」
高瀬の顔から、血の気が引いた。蓮にはそれが見えた。肌の色が変わったのではない。顔の筋肉の動き方が変わった。怒りのために引き攣っていた表情筋が、一瞬だけ完全に弛緩し、すぐに倍の力で強張る。
「……ふざけんなよ」
声が低くなった。
「無血統の——ただの一般人が、退魔局の訓練場に立ってんのか。牛鬼を倒した? 霊術でもない得体の知れない力で? それが許されると思ってんのか」
蓮は、高瀬の目を見ていた。
怒りの奥にあるもの。蓮には、それが正確に読めた。
——恐怖だ。
高瀬にとって、血統は唯一の居場所だった。末端の家系、低い霊力量、修練を積んでも上限が見える才能。それでも「退魔師の血統である」という一点だけが、この閉じた世界での存在証明だった。
蓮は、その証明を根底から脅かす存在だ。
血統がなくても、圧倒的に強い。それが事実として成立してしまえば、高瀬の足場は消える。血統主義という梯子を外されたら、高瀬には何も残らない。
だから、許せない。
蓮は理解した。理解した上で、興味を失った。
「邪魔をするなら退く。俺は待機しているだけだ」
喉が軋んだ。短い言葉でも、声帯を通すたびに内壁の傷が開くような感覚がある。
「待機——?」
高瀬の声が裏返った。
「待機だと? お前は自分が何をしたか分かってんのか! あの牛鬼を——俺たちが何年も修練して、それでも倒せるか分からない大型妖怪を、お前は片手で——片手で——」
言葉が詰まった。高瀬の右拳が震えている。
訓練場の空気が、凝固していた。木刀を振っていた退魔師も、書類を広げていた二人組も、動きを止めたまま、こちらを見ている。誰も止めに入らない。それは高瀬への同調ではなく、蓮という異物に対する集団的な観察だった。
「高瀬、やめなさい」
ひよりが、高瀬と蓮の間に半歩踏み出した。
「あなたの気持ちは——」
「黙れ、出来損ない」
高瀬の言葉が、ひよりの動きを止めた。
「霊力ゼロの出来損ないが、偉そうに。お前だって神楽坂の恥だろうが。恥と恥が組んで、この場所に——」
「もういい」
蓮の声は、温度がなかった。掠れた低音が、訓練場の石壁に吸い込まれるように静かに落ちた。
高瀬が、言葉を切った。蓮が一歩前に出たからではない。蓮は動いていない。姿勢を一切変えていない。
だが、空気が変わった。
蓮が高瀬を見ていた。光のない目だった。数えきれない敵対者を——人間も、魔物も——あの瞳で値踏みしてきた男の、純粋な評価の視線。
「お前の霊力量は、この場にいる退魔師の中で最も低い」
蓮は一語ごとに喉の痛みを飲み込みながら、声を絞った。感情がないのではない。感情に割くだけの余力が、今の喉にはなかった。事実を読み上げている。それが結果として、軽蔑よりも冷酷な響きを帯びた。
「型の練度も甘い。拳の握り方を見れば分かる。基礎の修練が足りていない。足りていないのは才能ではなく、時間だ。お前は血統を語る暇に、素振りを千回やるべきだった」
高瀬の顔が、赤から白に変わった。
「——て、てめ——」
「俺に突っかかるのは自由だ」
蓮は一度言葉を切った。
「だが次にこの人間を出来損ないと呼んだら、俺はお前の実力を、この場の全員の前で証明する。お前が自分で思っているよりも、ずっと正確に」
沈黙が、石畳の訓練場に落ちた。
高瀬の唇が震えていた。言い返す言葉を探している。だが蓮の視線の温度のなさが、それを凍結させていた。怒りでも威圧でもない。純粋な無関心の中にある、一点の精密さ。お前を傷つける意図はないが、お前の実力を正確に暴く能力は持っている——という、静かな宣告。
「——それは、僕の前でやる必要はないと思いますが」
声は、訓練場の入口から聞こえた。
蓮は振り向かなかった。足音で分かった。石畳を踏む音の間隔と、重心の移動の正確さ。迷いのない歩幅。体重移動に無駄がない。
退魔師だ。しかも、今この場にいる誰よりも——格段に。
「御影さん……!」
高瀬の声が、別人のように変わった。怒りが瞬時に消え、代わりに畏敬と緊張が表情を塗り替えた。
蓮はゆっくりと振り返った。
青年が立っていた。
蓮より少し背が高い。百七十後半。黒い退魔師装束を纏っているが、高瀬のそれとは纏い方が根本的に違った。衣服が身体に沿い、身体が衣服を従えている。一分の隙もなく、それでいて窮屈さがない。動作のすべてが、長年の修練の上に成り立っている人間特有の、自然な統一感。
顔立ちは端正だった。切れ長の目。通った鼻筋。口元は引き結ばれており、感情の読めない造形をしている。髪は黒く、短く整えられ、一本の乱れもない。
だが蓮が注視したのは、顔ではなかった。
右手だ。
青年の右手が、自然に体側に垂れている。その手の指の配置。親指の位置。手首の角度。それだけで分かる。この手は、型を握り込んでいる。今この瞬間にも、意識の底で印を結ぶ準備が完了している。
——こいつは、強い。
蓮の中で、経験が静かに評価を下した。
「御影燐太郎」
青年が、名乗った。視線は蓮だけに向いている。高瀬にもひよりにも、一瞬たりとも逸れなかった。
「神楽坂分家の所属です。——朝霧蓮。昨日の牛鬼の件は報告で読みました」
蓮は沈黙した。喉を休ませる必要があった。
燐太郎は、蓮の沈黙を催促とは受け取らなかった。むしろ沈黙そのものを言語として処理し、自分のペースで言葉を続けた。
「あなたが使ったのは、霊術ではない」
断定だった。
「報告書にはそう記載されていました。術式の構造が既存の体系と根本的に異なる、と。——僕が聞きたいのは一つだけです」
燐太郎の右手が、僅かに動いた。指先が衣服の裾を掠める。無意識の動作ではない。印を結ぶ前の、最初の微動。
「手合わせを、していただけますか」
訓練場の空気が、再び凝った。だが先ほどとは質が違う。高瀬の絡みは感情的な摩擦だった。燐太郎の申し出は、刃物の切っ先を差し出されたような静けさがある。
蓮は燐太郎の目を見た。
規律。信念。そして——疑い。自分の信じてきたものが揺らぐかもしれないという、認めたくない予感。それが、切れ長の瞳の奥に、極めて薄い層として存在していた。
「……御影さん、この人はまだ仮登録の——」
ひよりの言葉を、燐太郎が遮った。視線を蓮から外さないまま。
「仮登録であっても、訓練場での模擬戦は局規定で認められています。双方の同意があれば」
「手続きの話をしているんじゃなくて——」
「神楽坂さん」
燐太郎が、初めてひよりに視線を向けた。その目に、蓮に向けていたものとは違う色があった。何か——距離を置こうとする意識的な冷淡さ。分家の人間が本家の人間に向ける、複雑な感情の表層。
「ご心配は理解します。ですが、これは僕個人の判断です」
ひよりの唇が、薄く引き結ばれた。何かを言いかけ、やめた。蓮を見た。蓮は彼女の視線を受け止めなかった。
「条件がある」
短く言った。
「俺の右腕は、今動かない。昨日の戦闘の後遺症だ。片手でやる」
沈黙。
高瀬が息を呑んだのが聞こえた。訓練場の奥にいた退魔師たちの間にも、小さなざわめきが走った。
燐太郎の表情は変わらなかった。変わらなかったこと自体が、蓮には情報だった。驚いていない。報告書に書いてあったか、あるいは——この男は、片手であっても構わないと判断するだけの情報を、すでに持っている。
「——了解しました」
燐太郎が頷いた。
「模擬戦闘用の結界区画を使います。怪我のリスクを最小限にするために」
「結界区画は正規退魔師しか使えないんじゃなかったのか」
蓮はひよりが先ほど言った情報を、そのまま返した。喉の痛みを最小限にするために、語数を削る癖がついていた。
「僕の権限で開放します」
燐太郎は迷いなく言った。規則を破っている自覚はあるが、それよりも優先する何かがある——そういう口調だった。
蓮は、ポケットの中で右手の指を動かそうとした。小指が、かすかに曲がった。それだけだ。
左手は——震えが止まっている。断続的に来る波の、凪の時間帯。この凪がいつまで続くかは分からない。
冷たく計算した。
片手で魔法陣を展開する場合、精度は六割。出力は四割。持続時間は短い。だが——模擬戦なら十分だ。この男を測るのに、フルパワーは要らない。
「いいだろう」
蓮はポケットから左手を出し、制服の袖を軽く捲った。手首の灼傷の端が一瞬覗いたが、袖口ですぐに隠れた。
「やろう」
短い一語にも、掠れが乗った。
*
結界区画は、基礎訓練場の奥にあった。
厚い石壁に囲まれた円形の空間。直径は約十五メートル。床は基礎訓練場と同じ石畳だが、ここには壁面と床面に淡い青の紋様が刻まれている。結界術式。模擬戦闘中の余波を空間内に閉じ込め、外部への被害を防ぐための仕組みだ。
天井は高く、中央に照明が一つ。白い光が円形の床を均一に照らしている。影は短く、足元に落ちている。
蓮は円の片端に立った。燐太郎は対面、約十メートルの距離。
ひよりは結界区画の入口の外に立っている。高瀬もいた。そして、訓練場にいた退魔師たちが、いつの間にか結界区画の入口に集まってきていた。七人。八人。壁の向こうから覗き込むように、円形の空間の中を見つめている。
蓮はそれを視界の端で認識し、無視した。
正面の燐太郎だけを、見ている。
燐太郎は右手の人差し指と中指を揃え、胸の前に立てた。印だ。蓮の知らない型だが、構造は読める。呼吸を整え、霊力を練るための基本姿勢。武術でいう構え。この男の起点。
その動作の美しさに、蓮は一瞬だけ意識を奪われた。
無駄がなかった。指の角度、肘の位置、肩の傾き、背筋の伸び方——すべてが完璧に均衡している。何千回、何万回と繰り返された型の果てに到達する、あの洗練。前世で、蓮もそういう武人を幾人か見てきた。刃を振るうことそのものが芸術になった者たち。
——こいつは正統だ。
蓮は左手を体側に垂らした。構えない。構えは、ない。魔法の発動に型は不要だ。必要なのは、空間に論理を描くこと。それだけ。
「始めます」
燐太郎の声が、静かに区画に響いた。
そして——動いた。
速い。
蓮の想定よりも、一段階速い。燐太郎が最初の一歩を踏み出した瞬間に、左手が印を変えた。二本指から三本指へ。呼吸が変わった。吐息と共に、燐太郎の身体から霊力が溢れた。
その霊力は——光だった。
視覚的に見えるわけではない。蓮の魔力回路が、異なる体系のエネルギーを「光」として知覚しているのだ。温かく、密度が高く、整然とした周波数を持つ光。霊術の体系が長い歴史の中で洗練してきた、安定したエネルギーの波形。
燐太郎の右手が、弧を描いた。
風の刃——ではない。空気が圧縮され、指向性を持って飛来する。音速には達していないが、十分な速度。蓮の右肩を狙っている。正確には、蓮の右肩の五センチ手前の空間を狙っている。
模擬戦。当てることが目的ではない。当てられる位置に打ち込むことで、相手の力量を測る。
蓮は左手を持ち上げた。
指先が、空間を引っ掻いた。
文字通りの意味だ。蓮の左手の人差し指が空中を走り、その軌跡に——薄い青白い光の線が残った。直線ではない。円弧と直線が組み合わさった幾何学模様。数式の断片。論理回路の一片。
魔法陣。
完全な展開ではない。片手で、時間もない。蓮が描いたのは魔法陣の十分の一にも満たない断片——だが、それで十分だった。
青白い光の欠片が、飛来する圧縮空気の前面に展開した。
接触。
燐太郎の霊術が、蓮の魔法陣の断片に触れた瞬間——霊力が分解された。圧縮空気を成立させていたエネルギーの構造が、数学的に解体され、ただの風に還った。蓮の髪が揺れた。それだけ。
訓練場の入口で、誰かが息を止めた。
燐太郎の目が、僅かに見開かれた。初めて、その整った表情に亀裂が入った。驚きではない。衝撃。自分の霊術が——正統な型を踏んだ完璧な一撃が——呆気なく無力化された事実を、感情が処理しきれていない。
だが、燐太郎の足は止まらなかった。
二歩目。三歩目。加速しながら、左手で次の印を組んでいる。今度は両手——右手も印に加わった。蓮の右肩を狙った最初の一撃は牽制だった。本命はここからだ。
燐太郎の両手が、胸の前で合わさった。
印が完成した瞬間、燐太郎は合わせた両手を石畳に向けて押し下げた。掌底から霊力が床面に叩き込まれる。地系統。石畳の表面を光の紋様が走り、蓮の足元に向かって伝播していく。足の自由を奪う拘束術。蓮は足裏から伝わる振動でそれを感知した。
燐太郎の両手が離れた。印を解いた直後——間髪入れず、右手が跳ね上がった。火系統。指先から放たれた霊力が熱を帯び、弾丸状に圧縮されて飛来する。
下から拘束、上から火弾。地系統の印を組み、放出し、即座に右手を火弾に転じる——二つの術式を限りなくゼロに近い時間差で繰り出す連携技。足を止めて上を避けさせ、足を奪う。あるいは足元に意識を向けさせて上の一撃を通す。
蓮は左手を使わなかった。
使えば三回のうちの一回を、回避に浪費する。
代わりに——身体を動かした。
骨に刻んだ反射。足元の石畳に霊力が結晶化するまでのコンマ数秒を、蓮は正確に測っていた。結晶化の起点は蓮の左足裏の直下。伝播速度から逆算して、固化するまでに〇・四秒。
その〇・四秒の間に、蓮は右足を軸にして体を半身にずらした。左足を石畳から引き抜くように浮かせ、腰を落として重心を右後方に逃がす。前世で剣士と渡り合っていた頃の、最小限の動きで斬線を外す体捌き。右足は石畳を踏みしめたまま、一度も地面から離れていない。
足元の石畳が結晶化した。蓮の左足があった場所を、白い鉱石のような霊力の塊が覆った。だが捕えたのは空気だけだ。
火弾が蓮の頬をかすめた。熱が、左の耳朶を焼いた。避けきれたのではない——半身にずらした結果、頭部への直撃が側面への掠りに変わった。ぎりぎりだ。紙一重。
だが、当たっていない。
蓮は浮かせていた左足を、結晶化した拘束術の脇——固化が及んでいない石畳の上に下ろした。右足の軸を保ったまま、姿勢を安定させる。もう固化は完了しており、拘束術の塊はただの冷たい石の感触しかない。
蓮の左手が、空中を走った。二度目の軌跡。今度は先ほどより長い。円弧が二つ。直線が三本。接続点が五つ。
魔法陣の断片が、蓮の前方に展開した。
先ほどの防御用の断片とは、構造が違う。これは——
圧力。
魔法陣の断片から、燐太郎に向かって不可視の圧力が放射された。空気を押すのではない。空間そのものに、ほんの僅かな指向性を与える。燐太郎の次の動作を、コンマ数秒だけ遅延させるための干渉。
蓮の魔法は、効率だ。最小のエネルギーで、最大の効果を。相手を圧倒する必要はない。相手の行動を一拍遅らせ、その一拍で次の手を打つ。そのためにしか、力を使わない。
燐太郎は圧力を感じ取った。霊力で身体を強化し、強引に踏み込もうとする。だが、その踏み込みが半歩分、遅い。
その半歩の間に、蓮は動いた。
左手が三度目の軌跡を描く。今度は——攻撃ではない。
燐太郎の印を結ぶ右手の前方、約三十センチの空間に、極薄の魔法陣の膜が展開された。透明に近い。燐太郎の視界には、おそらく見えていない。
燐太郎が次の印を結ぼうとした瞬間、指先がその膜に触れた。
膜が、燐太郎の霊力を——ほんの一瞬だけ——逸らした。
型が、崩れた。
印を結ぶ指の角度が、〇・五度ずれた。呼吸と指の動きの同期が、コンマ一秒だけ遅れた。それだけのことだ。だが、精密な型の体系において、その「それだけ」は致命的だった。
術式が不発。
燐太郎の霊力が、形を成さないまま空気に散った。光の粒子が、手の周囲で短く瞬いて消える。
燐太郎の動きが、止まった。
蓮も止まっていた。
二人の間の距離は、約四メートル。開始位置の十メートルから、ここまで距離が詰まっている。
沈黙が、結界区画を満たした。
蓮の左手が、僅かに震えていた。断続的な波が、凪の時間を終えて戻ってきている。三度の展開が限界だった。あと一度でも魔法陣を描けば、左手の指が言うことを聞かなくなる。
だが、それを表情には出さなかった。
「——今のは、何をした」
燐太郎の声は、静かだった。だが、その静けさの中に、今まで聞こえなかった音が混じっていた。揺れ。
蓮は答えなかった。左手をポケットに戻す。震えを隠すためだった。喉の奥に鉄の味が溜まっている。ここで長く喋れば、声が割れる。
燐太郎は数秒待ち、蓮が答える意思がないことを理解した。その沈黙の意味——手の内を明かす気はない——を、正確に読み取った表情だった。
右手が、まだ印を結ぶ形で止まっている。崩れた型のまま、修正もせず、下ろしもせず。
その目が、蓮を見ていた。
怒りではなかった。否定でもなかった。もっと根源的な何か。自分が信じてきた体系——美しく正統な霊術の完璧さ——を、初めて外側から叩かれた人間の、最初の反応。
「……邪道だ」
燐太郎が、絞り出すように言った。
「あなたのやったことは、邪道だ。型の隙を突くのではなく、型そのものを外部から操作して崩す。それは——戦いではない。システムの破壊だ」
「そうだ」
蓮は一語だけ返した。掠れきった声が、結界区画の石壁に低く反響して消えた。
それ以上は言わなかった。言う必要がない。何を使い、どう崩したか——この男に教えてやる理由がない。蓮が「そうだ」と認めたのは、邪道という評価に対してではない。お前の型を壊した、という事実に対してだ。
燐太郎の顔に、血の色が戻らなかった。
沈黙が長く続いた。蓮の沈黙は拒絶ではなく、純粋な不要の判断だった。説明しても、この男の中の「邪道」という結論は変わらない。ならば声帯を消耗する意味がない。
結界区画の入口から、退魔師たちのざわめきが聞こえていた。だが蓮の耳には遠い。蓮が聞いていたのは、燐太郎の呼吸の変化だった。整っていた呼吸が、わずかに乱れている。怒りか、衝撃か、あるいはその両方。
やがて、燐太郎は右手を下ろした。
印を解く動作は、組む動作と同じだけ丁寧だった。指を一本ずつ開き、力を抜き、手を体側に戻す。その所作にも、型がある。この男にとっては、終わることもまた、美しくなければならない。
「引き分けとさせてください」
燐太郎の声は、再び平静に戻っていた。だが平静の質が変わっていた。先ほどまでの余裕のある静けさではない。力を込めて保っている静けさ。水面に石を投げ込まれた後の、まだ波紋が消えきっていない水面の静けさ。
蓮は、声の代わりに顎を引いた。短い頷き。
引き分け。正確には、どちらも決め手を出していない。蓮は攻撃魔法を放っていない。燐太郎も全力の術式を使っていない。互いが互いを測り、測った結果——どちらも、ここで決着をつける段階ではないと判断した。
だが蓮には、もう一つの理由があった。
左手の震えが、ポケットの中で強くなっている。三度の魔法陣の展開で限界に達していた。これ以上は指の制御が利かなくなる。
燐太郎はそれに気づいていない。気づいていないことを、蓮は確認した。
——まだ、この手の内は見せない。
*
結界区画の外に出ると、高瀬はいなかった。
いつの間にか消えていた。蓮が燐太郎の型を崩した瞬間から後のことは、蓮の記憶には残っていない。高瀬のことを意識の外に置いていた。
訓練場に戻ると、集まっていた退魔師たちが道を開けた。声をかけてくる者はいない。視線だけが、蓮の背中に貼りついている。
「朝霧さん」
燐太郎が、蓮の隣に並んだ。訓練場の照明が、二人の影を石畳に落としている。
「一つ、忠告をさせてください」
蓮は歩みを止めなかった。燐太郎も止めなかった。並んで歩きながら、声を落として。
「あなたの力は、すでに上に報告されています。土御門の——当主の耳に、直接」
蓮の歩幅が変わらなかったのは、予想していたからだった。牛鬼戦でデータを取られている。あのビル屋上の人影。携帯端末に打ち込まれた短い報告文。一分と経たずに届いた返信。
——引き続き監視を。
「当主の名前は」
掠れた声で、短く問うた。
「土御門厳山」
燐太郎は、その名を口にするとき、わずかに声のトーンを落とした。敬意ではない。警戒。重いものを持ち上げるときの、腰の据え方。
「退魔師社会において——いえ、この国の霊的秩序において、事実上の最高権力者です。血統と霊脈のすべてを掌握し、退魔局の方針を一手に握っている」
「それが俺に何の関係がある」
精一杯の長さだった。喉が軋み、最後の音が霞む。
「あなたの力は、厳山様の秩序にとって——異物です」
燐太郎は、自分の言葉を選びながら話していた。慎重に。一語ずつ。
「血統に属さない者が、血統を超える力を持っている。それは、厳山様が築いてきた体制の根幹を脅かします。牛鬼を倒した時点で、あなたは——好むと好まざるとに関わらず——名前のある敵になりました」
蓮は、その言葉を噛みしめた。
名前のある敵。
前世でも、そうだった。名もなき傭兵として戦場を渡り歩いていた頃は、誰も蓮を脅威とは見なさなかった。蓮が「大賢者」の名を得たとき——力に名前がついたとき、初めて、組織的な排除の対象になった。
名前は、標的になるということだ。
蓮は顎を引いた。忠告を受け取った、という最小限の動作。声を出す必要のない場面では、出さない。喉が、それを学習していた。
燐太郎は歩みを止めた。蓮は止めなかった。背後で、燐太郎の声が聞こえた。
「——あなたの力を邪道だと、僕は今も思っています」
蓮は振り返らなかった。
「ですが」
間があった。燐太郎が言葉を探している間ではない。言うべきかどうかを決める間だった。
「あなたの魔法陣は——醜くはなかった」
蓮の足が、半歩だけ遅くなった。
それは、この男なりの最大限の譲歩だった。正統の信奉者が、邪道に対して言える、ぎりぎりの言葉。嘘ではない。燐太郎の中で、何かが——ほんの僅かだが——ずれた。それを認めるだけの誠実さが、この男にはある。
蓮は振り返らないまま、訓練場を横切った。
*
ひよりは、結界区画の入口の壁に背を預けたまま待っていた。
蓮が近づくと、彼女は壁から背を離し、半歩横に退いた。道を開けるでもなく、ついてくるでもない、曖昧な距離。左膝のずれたガーゼが、歩き出す動作でさらに端が剥がれかけた。赤黒い滲みが、蛍光灯の白い光の下で妙に生々しく浮いていた。
「……怪我は」
「していない」
掠れが深すぎて、「い」の音がほとんど消えた。
「嘘」
蓮は足を止めなかった。ひよりが横に並んだ。並んだ、というより、蓮の歩幅に自分の歩幅を合わせるのを拒否して、半歩遅れたまま自分のペースで歩いている。
「左手、震えてます」
「見るな」
「見えます。ポケットの中で隠してるつもりかもしれませんけど、袖口が揺れてるので」
蓮は答えなかった。
この少女は、観察力だけは妙に鋭い。自分の膝のガーゼがずれて滲みが剥き出しになっていることには無頓着なくせに、他人の損傷には過敏だ。矛盾しているが、矛盾を指摘しても意味がないことは前世の経験で知っている。
「高瀬は——」
「あんな奴、どうでもいいです」
ひよりの声に、普段の慎重さがなかった。短い。突き放すような語調。
「出来損ないって呼ばれるのは、慣れてます」
「慣れていることと、どうでもいいことは違う」
声が割れた。「違う」の最後の音が、掠れて途切れた。蓮は口を閉じ、一度だけ浅く咳をした。喉の奥に溜まった鉄錆の味を飲み下す。
ひよりの足音が、一歩分止まった。すぐに再開した。
「……あなたに言われたくないです、それ」
蓮はそれ以上何も言わなかった。言えなかった、が正確だ。ひよりも黙った。二人の足音だけが、訓練場の石畳に反響していた。
蓮は訓練場の出口に向かって歩きながら、思考を整理していた。
御影燐太郎。神楽坂分家の天才。正統な霊術の体現者。あの男は、蓮の魔法を邪道と断じながらも、その構造を正確に観察していた。型を外部から崩されたことの意味を、感情ではなく論理で受け止めようとしていた。
そして、土御門厳山。
最高権力者。血統と霊脈のすべてを掌握する男。蓮はまだその顔を知らない。だが、名前を得た。名前を得たということは、輪郭が生まれたということだ。
敵の輪郭が。
蓮の左足が、石畳を踏んだ。
——その瞬間。
足裏に、振動が伝わった。
石畳を通じて、地下から。微弱な、だが確かな振動。規則的ではない。不規則でもない。生物の鼓動に似ている。心臓の拍動。だが心臓にしては遅すぎる。三秒に一回。五秒に一回。間隔が一定でない。
蓮は足を止めた。
ひよりが二歩先で振り返った。
「どうかしましたか」
蓮は答えなかった。左足の裏に意識を集中していた。
振動は続いている。弱い。だが確実に、地下深くから伝わってくる。蓮の魔力回路がそれを拾い上げている。
これは——霊脈だ。
退魔局地下で感じた、北北東への不自然な偏向。あのときは霊脈の流れの方向に意識を取られた。だが今、感じているのは方向ではない。
脈動だ。
霊脈が、鼓動している。
生き物のように。
何か巨大なものが、地下深くで息をしている。その呼吸の振動が、石畳を通じて、蓮の足裏に届いている。
蓮は目を閉じた。魔力回路で振動の周波数を測ろうとする。だが——回路の状態が悪い。拒絶反応の蓄積で、分析精度が落ちている。ノイズが多い。輪郭がぼやける。
分かったことは、一つだけ。
この脈動は、自然のものではない。
霊脈の通常の流れは、河川のそれに似ている。滑らかで、一定で、自己修復的だ。だがこの脈動は、何かに——絞られている。あるいは、吸い上げられている。自然な流れを歪める力が、どこかで霊脈に干渉している。
その干渉の規模は、蓮の想定を超えていた。
目を開けた。
ひよりが、三歩先で蓮を見ていた。琥珀色の瞳に、蓮の表情が映っている。蓮がどんな顔をしているか、自分では分からない。
「……何でもない」
蓮は歩き出した。
足裏の脈動は、まだ続いていた。三秒。沈黙。五秒。沈黙。二秒。
生き物の鼓動のように。
あるいは——何かが、目を覚まそうとしているように。




