第4話「規格外の初陣」
地上に出た瞬間、空気が変わった。
雑居ビルの非常階段を蹴り上がり、裏路地に飛び出す。夕方の繁華街は帰宅ラッシュの喧噪に包まれているはずだった。だが——北の方角から、風に乗って異質な気配が流れてくる。甘い腐臭に似た、だが腐敗とは違う。霊脈が局所的に凝集した時に特有の、空間が歪む匂い。
大型だ。しかも暴れている。
「——っ、待ってったら!」
背後の非常口からひよりが転がり出てきた。膝のガーゼが階段の衝撃でずれかけている。息が上がっているが、目は据わっていた。
「場所、わかるの」
「北北東。杉並の住宅街。ここからだと距離がある」
言いながら、ひよりの視線が裏路地の奥に向いた。雑居ビルの搬入口脇に、無地の白いワンボックスカーが一台停まっている。
「局の緊急車両。鍵は常時差しっぱなし」
言い終わる前にひよりは走り出していた。運転席のドアを引き開け、身を滑り込ませる。俺が助手席に乗り込むと同時にエンジンが唸った。
「……免許は」
「局員は全員取らされる。文句は後にして」
ワンボックスが裏路地から大通りに突っ込んだ。ひよりのハンドルさばきは荒いが迷いがない。交差点を右に折れ、片側二車線の幹線道路に合流する。夕方のラッシュで前方が詰まっていた。ひよりが舌打ちして路肩に車体を寄せ、車列の隙間を縫い始める。
右腕が膝の上で死んでいる。シートベルトは左手だけでは咄嗟に引けなかった。構わない。死因がシートベルト未着用になる予定はない。
走行中の振動が右腕に伝わるたびに、肩から先で鈍い痺れが脈打つ。痛覚すら鈍っている。神経が回路損傷で断線しかけているのだろう。回復には最低あと半日。だがそんな猶予は、応答途絶した部隊にはない。
フロントガラス越しに流れる街並みを見ながら、左手の指を膝の上でわずかに動かした。脳内で魔法陣の設計を進める。回路を組み、パラメータを指の動きで微調整していく。本来なら右手で補助回路を同時に走らせる工程だ。片手では精度が半分以下に落ちる。落ちた分は、拒絶反応として俺の体に返ってくる。
「……あと二つ先を左。その先が住宅街」
ひよりの指示は簡潔だった。余計な注釈をつけない。最小限の言葉だけを選んでいる。退魔師としての訓練か、それとも地の気質か。どちらでもいい。使える。
信号を無視して左折。住宅街の路地に入って三十秒で、道路が塞がった。
電柱が根元から折れて路上に倒れている。折れ口は切断ではなく、圧砕。巨大な力で叩き潰されたように、コンクリートの破片が放射状に散っていた。その倒壊した電柱の向こう——二百メートルほど先に、空気の密度が跳ね上がる境界線が見えた。
結界だ。認識阻害の膜が、住宅街の一角を丸ごと覆っている。一般人はこの先に進もうとしても「なんとなく別の道を選ぶ」ようになる類の術式。精度は悪くない——だが術者の集中が乱れているのか、膜の表面が不規則に揺れている。内側で何かが暴れている振動が、結界そのものに伝播している。
ひよりがブレーキを踏んだ。
体が前に投げ出された。左手でダッシュボードを突いて堪える。右腕が慣性で膝から滑り落ち、シートの前端にぶつかった。肩から先に鈍い衝撃が走る——痺れた腕でも質量はある。歯の奥が軋んだ。
車が倒壊電柱の二メートル手前で止まった。
「ここから先は車じゃ——」
「わかってる」
ドアを蹴り開けて飛び出した。倒れた電柱を跨ぎ、瓦礫の散乱した道路を走る。二百メートル。この距離なら問題ない。
ひよりが半歩遅れてついてくる。足を引きずってはいない。打撲と膝の傷で長距離走は無理だろうが、二百メートルを走り切る程度なら支障はないと判断した——彼女自身が、ではない。俺が、だ。他人の限界を他人の申告に委ねない。戦場で刻まれた習性だった。
結界の膜に触れる。俺は何の抵抗もなく通過した。魔力回路の位相が霊術と異なるため、霊術ベースの結界は俺の存在を正しく認識できない。透過したのではなく、結界の認識対象から外れている。ひよりも遅れずに通り抜けた——こちらは局員として結界の通行権限を持っているだけだろう。
結界の内側に入った途端、景色が変わった。
先ほど車を止めた電柱の倒壊は始まりに過ぎなかった。この内側では、さらに二本の電柱が根元からへし折れて道路を横断し、電線が蛇のように路面に垂れている。ブロック塀は三軒分にわたって倒壊し、瓦礫が歩道を埋めている。アスファルトには深さ十センチほどの亀裂が走り、その割れ目から薄い霧のようなものが立ちのぼっていた。霊脈の余剰エネルギーが地表に滲み出ている。
この規模の破壊を起こした妖怪が、まだ前方にいる。
「——逃げろッ!」
声が飛んできた。
交差点の中央。夕日に染まった空を背景に、そいつは立っていた。
牛鬼。
体高は三メートルを超える。牛の頭部——だが骨格は歪んでおり、左右の角の長さが異なる。右角は折れて、断面から黒い瘴気が煙のように立ちのぼっている。胴体は人型に近いが、四肢は節足動物のそれだ。六本の脚が鏡面のような黒い外殻に覆われ、交差点のアスファルトを踏みしめるたびに地面がひび割れる。
その足元に、人が転がっていた。
五人。退魔師の戦闘装束を着た若い男女が、交差点の路面に散らばっている。一人は電柱の残骸に背中を預けて座り込み、右腕を庇っている。二人は倒れたまま動かない——死んではいない。胸が微かに上下している。残りの二人が牛鬼の前に立ち、震える手で印を結んでいた。
「——火炎招来!」
前衛の男が叫び、両手から橙色の霊力が放射された。火系統の攻撃術。型の精度は悪くない、むしろ若手にしては練度が高い。炎の束が牛鬼の胸部に直撃し——外殻の表面で弾けて散った。焦げ跡すら残っていない。
「嘘だろ……直撃なのに……!」
「下がって! 私が結界で——」
もう一人の女が両手を広げ、防御結界を展開しようとした。半透明の膜が牛鬼との間に立ち上がる。だが牛鬼の前脚が振り下ろされた瞬間、結界は亀裂を走らせながら二秒だけ耐え——砕けた。結界が吸収しきれなかった残りの衝撃波が女の体を後方に弾き飛ばし、路肩に停まっていた軽自動車の側面に叩きつけた。ドアパネルが凹み、女はアスファルトに崩れ落ちた。
「白石!」
火系統の男が振り返った。その隙を、牛鬼は逃さなかった。六本の脚のうち二本が同時にアスファルトを叩き砕き、衝撃波が路面を走った。男の足元が爆ぜ、体が浮き上がる。背中からブロック塀の瓦礫の山に突っ込み、崩れたコンクリート片の下に半ば埋まって動かなくなった。
残ったのは、電柱の残骸に寄りかかっている一人だけだった。右腕を折っているのか、左手で通信用の霊具を必死に操作している。
「……こちら第三部隊、応答願います……増援を……誰か……」
声が震えていた。
牛鬼がゆっくりと首を巡らせ、その最後の一人を視界に入れた。六本の脚が地面を掻いて前進を始める。一歩ごとにアスファルトが砕け、距離が詰まっていく。
その退魔師と牛鬼の間に、俺は立った。
「——な、」
電柱に寄りかかった退魔師が目を見開いた。制服姿の高校生が、戦闘区域の只中に立っている。そう見えたのだろう。
「逃げろ! お前、一般人だろ! ここは——」
「黙れ」
掠れた声で言った。振り返らない。視線は牛鬼に固定している。
三メートル超の体高。六本の節足。黒い外殻。右角の欠損部から漏れる瘴気。動きのパターン——前脚二本による薙ぎ払いが主攻撃、残り四本で体重を支持。旋回速度は体格の割に速い。だが直進の加速に比べて横方向への重心移動が遅い。節足の関節構造上、急な横移動は二拍の予備動作が要る。
外殻の硬度。火炎の直撃を弾いた。霊術の出力不足ではない、さっきの火炎招来は若手としては十分な威力だった。外殻そのものが霊術の干渉を拒絶している。つまり、外殻の表層に薄い霊脈エネルギーの膜が形成されており、同系統の霊力を相殺している。
霊力で霊力を打ち消す。自然界の装甲としては合理的だ。
ならば、霊術系統ではない攻撃は通る。
だがそれは手段の話だ。問題は命中箇所。三メートル超の体を丸ごと消し飛ばすだけの出力を、左手一本の魔法陣から絞り出すのは現実的ではない。片手展開では魔法陣の安定性が半分以下に落ちる。出力を上げれば拒絶反応が加速する。
一点突破しかない。
霊核。妖怪の存在を維持している中心核。これを破壊すれば、外殻の硬度も体格も関係なく、存在そのものが瓦解する。
問題は、霊核の位置だ。
牛鬼が咆哮した。口腔の奥から噴き出した瘴気が風圧となって叩きつけられ、俺の前髪が後方に吹き流された。皮膚がぴりぴりと痛む。霊的な圧力が物理的な衝撃に変換されている。
——いい。もう一度吠えろ。
咆哮のたびに、瘴気の濃度に偏りが出る。口腔から放出される瘴気の密度が均一ではない——胸部の左寄り、人間でいえば心臓の位置よりやや下。そこを起点に瘴気が放射状に広がっている。
霊核は胸部左下。外殻の内側、推定深度十五センチから二十センチ。
狙いは定まった。
左手を持ち上げる。
指先に意識を集中した瞬間、空気中に光の線が走った。青白い光——魔力回路の展開。指の動きに追従して、空間に幾何学的な紋様が描かれていく。円、三角、六芒の骨格。その内側に関数列が走る。
本来なら右手で補助回路を同時展開し、左右の回路を噛み合わせることで精度と安定性を確保する。それができない以上、補助回路の機能を主回路に統合するしかない。
回路が複雑化する。線が増える。交差する。左手の指が、楽器を弾くように空中を駆けた。
痛い。
骨の内側から焼かれるような痛みが左腕を這い上がってくる。魔力回路が霊脈と接触し、位相のずれが摩擦熱のように回路を削っている。右腕が使えない分、左腕に負荷が集中している。
視界の端が滲んだ。
——持て。あと三秒。
牛鬼が前脚を振り上げた。俺を叩き潰すために。体重移動、予備動作の一拍目。前脚が最高到達点に達する前に——
魔法陣が完成した。
直径二メートルの光の円環が、俺の左手の前方に垂直に展開された。内部の紋様が回転を始める。光が凝縮し、円環の中心に一点の輝きが収束していく。
「——撃ち抜け」
光が走った。
音はなかった。衝撃波もなかった。ただ、青白い光の柱が魔法陣の中心から射出され、牛鬼の胸部左下を——正確に、外殻を貫通した。
一瞬の静寂。
牛鬼の動きが止まった。振り上げた前脚が空中で固まり、六本の節足が同時に痙攣した。胸部の貫通孔から、黒い瘴気ではなく白い光が溢れ出す。内側から。
霊核が砕けている。
亀裂が走った。外殻の表面を蜘蛛の巣状の光の筋が這い回り、胸部から四肢へ、四肢から頭部へ、頭部から角へ——牛鬼の全身が内側からの光に蝕まれていく。
崩壊は、静かだった。
外殻が塵になった。塵が光に呑まれた。光が薄れた。三メートル超の巨体があった場所に、何も残っていなかった。アスファルトの亀裂と、散乱した瓦礫と、夕日に染まった空だけが残った。
魔法陣が消えた。
左腕が落ちた。
膝から力が抜けかけたのを、歯を食いしばって堪えた。視界の端が赤い。血が昇っているのか、夕日の色なのか判別がつかない。
——吐くな。ここで吐いたら終わりだ。
昨夜の影蜘蛛の時より拒絶反応が重い。当然だ。左手一本の不完全な魔法陣で高位魔法を撃った。回路の精度低下がそのまま拒絶反応の増幅に直結する。両腕の感覚が曖昧になりつつある。
背筋を伸ばした。
振り返らない。倒れない。膝を折らない。七十年間そうしてきた。戦場では最後まで立っていた者だけが次の判断を下せる。
後ろで、声がした。
「……は?」
電柱の残骸に寄りかかっていた退魔師が、口を半開きにして俺を見ていた。
「…………何、今の」
もう一人。軽自動車の脇に倒れていた女が、車のドアパネルに手をついて上体を起こしていた。左の肩口を庇うように背中を丸め、額には汗が浮いている。彼女もまた、牛鬼がいた場所——何もない空間を見つめ、それから俺を見た。
「霊術じゃ、ない……?」
「あの光……魔法陣? あんな術式、見たことない……」
瓦礫の下から火系統の男がコンクリート片を押しのけ、這うように身を起こした。顔面の右半分が擦り傷で赤黒く滲み、左の肋骨を庇うように腕を当てている。呼吸のたびに顔が歪んだが、目だけは鮮明に俺を捉えている。
恐怖だった。
助かった安堵ではなく、見てはいけないものを見た時の、本能的な畏怖。怪物を倒した人間に対して、怪物と同じ目を向けている。
知っている。この目を。前世で何度も向けられた。味方に、民間人に、時には弟子にすら。
——別に、構わない。
「怪我人の手当を優先しろ」
それだけ言って、交差点の縁に立っているブロック塀の残骸に背中を預けた。立っているのが限界だった。だが座り込む姿は見せない。
「お前、誰——」
「通りすがりだ」
火系統の男の問いを切った。面倒な会話をする体力がない。文字通り。
「通りすがりって……結界の中にどうやって……」
「私が連れてきた」
ひよりの声だった。
いつの間にか、交差点の端に立っていた。二百メートルの距離でも膝の傷にはこたえたはずだが、呼吸を意志の力で押さえ込んでいる。膝のガーゼが完全にずれて、赤黒い滲みが露出していた。
「神楽坂の——」
「仮登録中の外部協力者よ。緊急案件だから手続きは後」
ひよりの声には、感情の色がなかった。事務的に、最低限の情報だけを伝えている。だが俺の位置からは見える。彼女の右手が、スカートの布を握りしめていること。
何に対しての感情か。俺の無茶に対してか、牛鬼の消滅に対してか、それとも——俺が吐血を堪えていることに気づいているのか。
「……すげえ」
声が聞こえた。小さな、震えた声。電柱に寄りかかっていた退魔師だった。折れた右腕を左手で抱えたまま、瓦礫だらけの交差点を——牛鬼が跡形もなく消えた空間を見つめている。
「おれたち五人がかりで傷一つつけられなかった牛鬼を……一撃で……」
「……化け物じゃないか」
それは火系統の男がぽつりと漏らした言葉だった。賞賛ではなかった。本音が口をついて出た、という種類の呟き。
正しい反応だ。七十年前も、七十年後の今も、人間の反応は変わらない。圧倒的な力に対する最初の反応は感謝ではなく恐怖。それでいい。感謝など求めていない。
喉の奥の鉄の味が濃くなった。唾液を飲み込んで誤魔化す。飲み込むたびに、食道が焼けるように痛む。
「……あんた、大丈夫なの」
ひよりが、近づいてきていた。他の退魔師たちには聞こえない距離。声を低くしている。
「問題ない」
「嘘。右腕が動かないだけじゃなくて、左腕も震えてる。また吐くでしょ」
否定しなかった。否定する意味がない。彼女は昨夜の吐血を見ている。
「……あの人たちが救護に回ったら離れる。それまで持てばいい」
「持てばいいって……」
ひよりが何か言いかけて、止めた。代わりに、黙って俺の隣に立った。ブロック塀の残骸を挟んで、半歩の距離。支えるでもなく、離れるでもない位置。
——何のつもりだ。
聞かなかった。聞く余裕がなかった。
視界の左端で、若手退魔師たちが動き始めていた。火系統の男が仲間の容態を確認し、軽自動車の脇にいた女が壁に手をつきながら立ち上がって通信機を拾い、局への報告を開始している。折れた右腕の退魔師が残りの二人——まだ倒れている二人のもとへ這うように移動し、脈を取っている。
訓練された動き。混乱からの回復が早い。若いが、場数は踏んでいるのだろう。少なくとも、仲間の安否確認を最優先にする判断はできている。
俺は壁に背中を預けたまま、意識を切り替えた。
牛鬼は倒した。若手の救護も始まった。だがまだ処理すべき情報がある。
牛鬼の発生源。
杉並区北部。退魔局の地下で感じた霊脈の偏り——北北東への不自然な一方向的偏向。この牛鬼の出現地点は、その延長線上にある。偶然か。あるいは——
思考が鈍る。拒絶反応が脳の血流にまで影響し始めている。分析は後だ。今は——
今は、立っていろ。
夕日が交差点を橙色に染めていた。牛鬼の痕跡は一片も残っていない。ただ、道路の亀裂と散乱した瓦礫だけが、ここで何かが起きたことを証明していた。
ひよりが隣で何も言わずに立っている。
そのことが、少しだけ、鬱陶しかった。
*
同時刻。
戦闘現場から北東に四百メートル。
八階建てのテナントビルの屋上で、一人の人影が身を低くしていた。夕日に照らされた屋上の貯水タンクの影に身を隠し、手のひらに収まる大きさの霊具を操作している。
霊具の表面に刻まれた紋様が淡く光り、内部の結晶体に情報が刻まれていく。
対象の魔力波動パターン。発動から消滅までの時間。術式展開の速度。出力の推定値。そして——術式の構造。霊術とは根本的に異なる、見たことのない論理体系。
すべてが記録された。
人影は霊具を懐にしまい、携帯端末を取り出した。短い文面を打ち込む。
——対象、市街地にて実戦を確認。戦闘記録の取得に成功。本日中に詳細データを送付します。
送信。
返信は一分と経たずに届いた。一文だけ。
——ご苦労。引き続き監視を。
人影は端末をしまい、音もなく屋上のフェンスを越えた。非常階段へ向かう足取りには、退魔師特有の重心の低さがあった。
夕焼けの空の下、交差点では若手退魔師たちが救護活動を続けている。その中に立つ制服姿の少年の存在が、静かに、確実に、上へと報告された。




