第30話「終わりと始まり」
蓮はスマートフォンを左手の親指と人差し指で摘み上げ、画面を点けた。
指が震えている。痙攣だ。感情ではない。親指の腹が画面を滑り、ひよりの名前を呼び出すまでに三回、タップが外れた。
呼び出し音が二回鳴った。
「——蓮?」
ひよりの声は、まだ起きていた人間の声だった。眠りかけていた気配はない。蓮は窓の外の暗い空を見たまま、三文字だけ吐いた。
「来い」
「——わかった」
それだけで通話が切れた。
蓮はスマートフォンをズボンの左ポケットに入れた。親指と人差し指で縁を掴み、布地の中に滑り込ませる。中指から下は動かない。いつものことだ。
椅子から立ち上がり、机の上の鍵を取った。左手の親指と人差し指で金属の冷たさを挟む。部屋を見回す必要はなかった。持ち出すものは何もない。段ボール一つと、飲みかけのペットボトルと、おにぎりの残り。それが朝霧蓮の全財産で、そのどれも今は必要ない。
307号室のドアを左手で開け、廊下に出た。
寮の廊下は蛍光灯が一本おきに点いていて、蓮の影が長く伸びては途切れ、また伸びた。三階の端から階段まで、十二歩。コンクリートの階段を下りる足音が、無人の建物に反響した。右腕は固定具の中で揺れもしない。左腕だけが手すりに触れ、指二本分の感覚で冷たい金属を確かめながら、二階、一階と降りた。
一階の鉄製のドアを押し開けると、夜気が頬を叩いた。五月の夜。日が落ちると空気はまだ冷える。風が首筋に触れるたびに、肌が微かに粟立った。
寮の前庭から本部棟までは百メートルほどの緩い坂道で、途中に街灯が三本立っている。右端の視界が滲んでいるせいで、街灯の光が右側だけ二重に見えた。左目だけで距離を測る癖が、もう身体に染みついている。
坂を上りきる手前で、左手の建物——寮のB棟だろう——の入口から小さな影が出てきた。
ひよりだった。
薄手のパーカーにジーンズ。髪は寝癖もなく整っている。やはり、眠ってはいなかったのだ。蓮の五歩手前で足を止め、琥珀色の目が蓮を見上げた。
何も訊かなかった。
蓮も何も言わなかった。顎で本部棟の方向を示し、歩き出した。ひよりが半歩遅れて隣に並ぶ。二人の足音だけが坂道に響いた。
本部棟のエントランスは煌々と明かりがついていた。普段の夜間は守衛一人の静かな場所だが、今はスーツ姿の退魔師が三人、通信機器を手に早足で廊下を行き来している。蓮とひよりの姿を認めた守衛が、一瞬だけ目を見開き、それから黙って通した。
エレベーターではなく、階段を使った。地下へ降りるためだ。本部棟の地下二階に特別拘置所がある。蓮は前世で、あらゆる種類の牢獄を見てきた。石造りの土牢、魔法で封じた結晶の檻、地底深くに掘られた独房。この世界の拘置所がどんな構造をしているかは知らないが、結界で封じられた地下牢だという情報は、燐太郎の通話の声色から読み取れる程度には推測できた。
階段を一階分降りるごとに、空気の質が変わった。地上階の事務的な乾いた空気から、地下一階の倉庫めいた埃っぽさへ。さらに一階分降りると、空気が重くなった。湿度ではない。壁や床に染みついた、結界術の残滓だ。霊力を長期間練り込まれたコンクリートが帯びる、独特の圧。蓮の異世界の魔力回路は霊術とは別系統だが、その圧の存在だけは肌で感じ取れる。
地下二階の廊下は、蛍光灯が全灯していた。通常時は最低限の照明しか点けないはずだ。今は調査のために明るくしてある。白い光がコンクリートの壁を照らし、影を殺していた。
廊下の突き当たりに、燐太郎が立っていた。
壁に背を預け、左手で包帯の巻かれた右肩を押さえている。負傷した右腕は力なく体側に垂れたまま、指先すら動いていなかった。蓮とひよりの足音に顔を上げた燐太郎の表情は、電話の声から想像したとおりだった。眉間に深い縦皺。口元が引き結ばれている。
「来たか」
燐太郎の声は低く、抑制されていた。視線がひよりに移り、わずかに頷いた。それからすぐに蓮に戻る。
「中を見ろ。——触るな」
蓮は頷いた。
廊下の突き当たりにある重い鉄扉は、すでに開かれていた。厚さ十センチはあるだろう鋼鉄の扉。その表面に、結界術の紋様が——あったのだろう。今は紋様の輪郭だけが焼け焦げたように残っている。線が途切れ、歪み、崩壊している。内側から膨張する圧力で弾け飛んだガラスのように、紋様の破片が放射状に散っていた。
蓮は扉の手前で足を止めた。
鉄扉の向こうは、三メートル四方ほどの独房だった。天井は低い。蓮の身長でも、手を伸ばせば——伸ばせる手があれば——触れられる高さ。蛍光灯が一本、天井の中央に嵌め込まれている。光は白く、影がない。
床はコンクリート。壁もコンクリート。寝台は金属製の簡素なもので、薄い布団が乱れたまま残されている。便器と小さな洗面台が奥の右隅にある。窓はない。
そして——壁があった。
蓮の足が止まったのは、壁を見たからだ。
四方の壁すべてに、金色の紋様が刻まれていた。
コンクリートの灰色の表面に、爪で——いや、爪よりもっと鋭く、もっと細いもので——彫り込まれた線。その線の一本一本が淡い金色の残光を帯びて、蛍光灯の白い光の下でも自前の輝きを主張していた。
蓮はその紋様を知っていた。
あの日、厳山の首筋に蓮がかろうじて視認した金色の意匠。そして大講堂で、暴走した厳山の全身を覆い尽くした、あの渦巻く金の模様。同じだ。流れるような曲線、九本の尾を思わせる放射状の線、中央に据えられた瞳のような円形——同じ意匠が、牢の壁一面を埋め尽くしている。
首筋の数センチが、壁四面に拡大されていた。
蓮は一歩も中に入らず、扉の枠に左手を添えて独房の中を見渡した。床にも紋様の端が這い出している。天井には届いていない。紋様は壁の上端で途切れており、彫り込みの深さは下に行くほど深い。
寝台の上の布団が不自然に盛り上がっている箇所があった。蓮は目を細めた。右端の視界が滲んで細部が潰れる。左目だけに意識を集中する。
白い毛だった。
布団の皺の間に、数本の白い毛が残っている。長さは五、六センチ。人間の毛髪ではない。もっと細く、もっと硬質な光沢がある。動物の——獣の毛だ。
「……狐か」
声に出したのは、確認のためだった。掠れた呟きが、独房の低い天井に吸い込まれた。
背後でひよりの息が止まった。音としては聞こえない。ただ、隣に立つ人間の呼吸のリズムが一瞬途切れた、その気配だけが蓮の左耳に届いた。
「おそらくな」
燐太郎が蓮の斜め後ろから応えた。壁から背を離し、二歩だけ近づいてくる。
「監視班が突入したのは今日の一七〇〇。定時巡回で結界の異常を感知して、予備結界を展開してから扉を開けた。——中はもう、こうだった」
燐太郎の視線が壁の紋様を辿った。
「結界は外からの破壊痕じゃない。内側から……食い破られている。術式の残滓を調べた結界班の見立てでは、数日かけて少しずつ侵食されていたらしい。最後の一押しで、一気に崩壊した」
蓮は壁の紋様を見ていた。金色の線が蛍光灯の光を受けて、微かに脈動しているように見える。——いや、見えるだけだ。実際には動いていない。コンクリートに彫り込まれた溝が光を反射しているだけ。
だが、その「見える」という感覚自体が、蓮の経験則に引っかかった。蓮は無数の呪術的痕跡を見てきた。死んだ術式は光らない。光って見えるということは、残留するエネルギーがまだ壁に染みているということだ。
「触るなと言ったのは」
蓮が振り返らずに言った。短い。喉が許す長さ。
「ああ。結界班が念のため立入禁止にした。紋様に残留エネルギーがある」
蓮は小さく頷いた。燐太郎の判断は正しい。素手で触れれば何が起きるか、予測がつかない。
ひよりが蓮の左側に立っていた。蓮より頭一つ低い視点から、独房の中を覗き込んでいる。琥珀色の瞳が壁の紋様を映し、その表面を——読もうとしている目の動きがあった。
「見えるか」
蓮がひよりに訊いた。
ひよりは数秒、黙っていた。瞳が壁の紋様の上を滑り、止まり、また滑る。それから、首を横に振った。
「……構造が、ない」
声が小さかった。蓮には聞こえた。至近距離だ。
「結界には構造がある。術式には論理がある。私が透過できるのは、構造や論理があるものだけ。——これには、それがない。ただ、刻まれているだけ」
ひよりの言葉は、蓮に一つの情報を与えた。この紋様は術式ではない。少なくとも、ひよりの透過能力が解析できるような論理的構造を持った術式ではない。もっと原始的な——獣の爪痕に近い何かだ。
蓮は独房の入口に立ったまま、壁を見続けた。
四面の壁。金色の紋様。白い狐の毛。崩壊した結界。不在の囚人。
パズルのピースは揃っている。蓮の頭の中で、冷徹な分析が走った。大賢者の思考の回路が、感情を差し挟む余地もなく結論を弾き出す。
九尾の残魂。大講堂の決戦で厳山の肉体から分離し、金色の狐火として空に散った欠片。あれが——あれの一部か、あるいは全部が——ここに辿り着いた。拘置所の結界を、数日かけて内側から侵食した。「内側から」ということは、最初から厳山の体内に何かが残っていた可能性がある。あの時分離したように見えた残魂が、実際には完全には離れていなかった。あるいは、散逸した欠片が外部から拘置所に侵入し、結界の内側で厳山と再接続した。どちらの仮説も成立する。
どちらであっても、結論は同じだ。
厳山は——厳山だったものは、九尾の残魂と共にこの牢を出た。
「蓮」
燐太郎の声が、蓮の思考を切った。
「一つ、報告がある」
蓮は振り返った。燐太郎の顔は蛍光灯の下で白く見えた。頬の肉が削げている。監査役の激務と、決戦の傷の回復が重なっている。
「拘置所の地下に、霊脈の支流が走っている。設計図上は結界の補助電源として利用される想定だったが——支流のエネルギーが、明らかに減っている。結界班の測定で、通常値の四割まで落ちていた」
蓮は瞬きをした。
吸われている。
霊脈のエネルギーが、何かに吸い上げられている。結界を侵食し、厳山を回収し、壁に紋様を刻んだ「何か」が、その過程で霊脈の支流からエネルギーを吸収していた。
「……四割」
蓮の掠れた声が、数字を繰り返した。
「ああ。通常時を百として、四十だ。六十を一気に持っていかれたか、数日かけて吸い出されたかは、まだわからない」
蓮は独房の壁に目を戻した。金色の紋様。狐の——九尾の意匠。
頭の中で、一つの仮説が形を取り始めていた。
九尾の残魂は、ただ厳山を「回収」しただけではない。霊脈のエネルギーを吸い上げ、壁に紋様を刻み、結界を内側から崩壊させた。これは脱獄ではない。儀式に近い。残魂が、より強固な器として厳山を再構成するための——
蓮はその仮説を、口にしなかった。
まだ確定していない。蓮の分析は、前世の知識と今ある痕跡から導いた推論に過ぎない。この世界の九尾が前世の魔獣と同じ論理で動く保証はどこにもない。
「残滓を、もう少し詳しく見たい」
蓮は短く言った。
燐太郎が眉をひそめた。意味を察したのだろう。
「融合を使うのか。——ここで」
「触れはしない」
それだけ言って、蓮は左手を独房に向けて掲げた。
魔力回路を起動した。回路は身体の中に刻まれた論理であり、意志が鍵だ。
蓮の瞳孔の奥に、光が灯った。
青白い光の螺旋。そしてその螺旋に絡みつくように、金色の光がもう一筋。二重の螺旋が蓮の黒曜石の瞳の中で回転を始めた。異体系の融合——ひよりの透過霊力を触媒として統合された、二つの世界の力。
世界の見え方が変わった。
蓮の視界に、光の線が浮かび上がった。霊脈の可視化。地下の配管のように走る霊脈の支流が、淡い青白い光の線として空間に投影される。拘置所の地下を北東から南西に横切る一本の支流。その光は——確かに弱い。通常の霊脈が持つ力強い脈動ではなく、細く、途切れがちな光だった。
そして、独房の壁の紋様が——変わった。
蛍光灯の下では金色の線に過ぎなかったものが、融合の力を通して見ると、別の相を持っていた。紋様の線の一本一本から、薄い金色の靄が立ち昇っている。それは壁に染みついた残留エネルギーの視覚化だ。靄は天井近くまで立ち上り、そこで霧散している。
まだ「生きて」いる。紋様に残されたエネルギーは、刻まれてから数日が経っているはずなのに、まだ完全には消えていない。それは九尾の残魂が持つエネルギーの質が、通常の霊術や妖怪の残滓とは桁違いに粘度が高いことを意味する。
蓮は霊脈の支流と紋様の関係を目で追った。支流の光は独房の直下を通過している。紋様の金色の靄は——かすかに、支流の方向に向かって傾いている。吸い上げの方向ではない。逆だ。靄が支流に向かって沈降している。
つまり、紋様のエネルギーは霊脈に「戻ろう」としている。
蓮の思考が、一つの結論を弾いた。
この紋様は「目的を果たした後の抜け殻」だ。九尾の残魂が結界を侵食する過程で壁に刻んだ爪痕であり、目的——厳山の回収——が完了した今、残留エネルギーは徐々に霊脈に再吸収されている。時間が経てば、紋様は色を失い、ただの傷跡になる。
証拠が消える。
蓮がそう判断した、その瞬間だった。
視界の奥で、何かが動いた。
独房の壁ではない。蓮の——内側だ。
融合の力を発動している状態で、蓮の意識の深層に、異質な波紋が広がった。それは霊脈の情報でも、紋様の残滓でもなかった。もっと深い場所——前世の記憶が格納されている、蓮自身の魔力回路の最深部から、微かな振動が伝わってきた。
七十年分の記憶。戦場。魔法。死。そのすべてが積層された回路の底に、蓮が一度も触れたことのない領域がある。見ないようにしていたわけではない。そこに何かがあること自体を、蓮は今この瞬間まで知らなかった。
金色の——気配。
壁の紋様と、同じ色をした何かが、蓮の記憶の地層の下に、眠っている。
冷たい汗が背中を伝った。冷徹な分析者としての蓮の思考が、一拍だけ停止した。
——俺の転生は。
思考が言語化される前に、蓮は融合を切った。
瞳から光が消えた。青白と金色の螺旋が巻き戻るように沈み、黒曜石の虹彩だけが残った。蓮は左手を下ろした。指が震えている。痙攣とは違う震え方だった。
「蓮」
ひよりの声が、すぐ隣から聞こえた。蓮の顔を見上げている。琥珀色の瞳に、蛍光灯の光が反射している。
「何が見えた?」
蓮は数秒、黙っていた。見えたものを、言語にする作業が必要だった。物理的な発見と、内面的な——あれを何と呼べばいい。
「紋様の残滓は消えかけている」
蓮は物理的な情報だけを、短い文で伝えた。喉が軋む。
「霊脈の支流から、エネルギーを吸って出た。……計画的だ」
それだけ言って、蓮は口を閉じた。意識の深層で感じた金色の気配については、何も言わなかった。まだ、言えることがない。確かめようもない。ただ——前世の記憶の底に、九尾と同じ色をした何かが在る。その事実だけが、蓮の思考の片隅に楔のように刺さっていた。
「計画的」
燐太郎が、蓮の言葉を反芻した。
「つまり、あの残魂は——知性があるのか? 大講堂での暴走は、飢えた獣のようだったはずだ」
蓮は考えた。二秒で結論を出した。
「獣でも罠は掘る」
限界に近い簡潔さだった。だが燐太郎は理解したようだった。知性と計画性は同義ではない。熊が冬眠前に脂肪を蓄えるのは計画的だが、知性に基づく行動ではない。九尾の残魂が数日かけて結界を侵食し、霊脈からエネルギーを吸い上げたのは、本能に基づく計画性なのかもしれない。あるいは——もっと高度な意思が働いているのかもしれない。
今は、どちらとも断定できない。
「もう一つ」
蓮は掠れた声を絞った。
「厳山の肉体は、もう厳山の判断では動いていない。——そう見るのが妥当だ」
燐太郎の顔から、最後の色が抜けた。蛍光灯の白い光の下で、彼の肌は紙のように見えた。
「……つまり、器か」
「おそらく」
沈黙が落ちた。蛍光灯の低い唸りだけが、コンクリートの廊下に反響していた。
ひよりが、蓮の袖——左の袖を、指先で引いた。
蓮が視線を落とす。ひよりの琥珀色の瞳が、独房の中ではなく蓮の顔を見ていた。何も言わなかった。ただ、その目は「全部は話していないだろう」と言っていた。
蓮は視線を外した。
「戻る」
一言だけ残して、蓮は階段に向かって歩き出した。
*
屋上に出たのは、蓮の判断だった。
地下から地上へ、地上から屋上へ。本部棟の非常階段を四階分上がった。コンクリートの踊り場を一つ越えるごとに、地下の圧迫感が薄れ、空気が冷たく軽くなった。最後の鉄扉を左手で押し開けると、五月の夜風が蓮の前髪を攫った。
屋上はコンクリートの平面で、空調の室外機が二台並んでいる。フェンスはない。低い縁石が屋上の端を囲んでいるだけだ。足元にはひび割れたコンクリート。頭上には、雲の薄い夜空。
星は見えない。東京の光害が空を白っぽく染めている。だが雲の向こうに月があるらしく、空全体がぼんやりと明るかった。
蓮は屋上の縁に向かって歩き、縁石の手前で足を止めた。
東京の夜景が広がっていた。ビルの窓明かり、街路灯の列、遠くの高速道路を流れるヘッドライトの光。退魔局の本部棟は都心から外れた丘陵地にあるため、街の光は眼下ではなく、水平線のように遠くに並んでいる。その光の海の上に、暗い空が蓋をしていた。
ひよりが蓮の左隣に立った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。夜風が蓮のアッシュグレーの前髪を揺らし、ひよりのプラチナブロンドのボブカットの毛先を遊ばせた。
蓮は東の空を見ていた。
光の海の果て——建物の稜線が暗い空に溶ける境界線のあたりで、何かが光った。
蓮の左目が、それを捉えた。
金色だった。
橙でもなく、黄色でもない。壁に刻まれた紋様と同じ、あの金色。夜空の暗闇の中に、ほんの一瞬——ライターの火ほどの大きさの光が灯り、揺れ、消えた。
蓮は見間違いを疑わなかった。右の視界は滲んでいる。だが左目で捉えたあの光は、網膜に焼きついた残像として、まだ視界の端に残っていた。
狐火。
金色の、狐火。
あの決戦の夜に空に散った残魂の欠片と同じ光が、東京の空の果てで一瞬だけ瞬いた。
独房の痕跡が示した結論を、あの光が裏づけていた。厳山を器として回収し、霊脈のエネルギーを吸い上げた残魂は、まだ動いている。この街のどこかで、完全な復活に向けて。
蓮の仕事は、終わっていない。
左手が動いた。
左手が、辛うじて応えた。動くのは二本だけで、残りは沈黙したままだった。不完全な拳。数日前の夜に、蓮が握り直さなかった、あの拳と同じ形。
だが今度は——蓮はその不完全な拳を、下ろさなかった。
左手の指の隙間に、淡い光が灯った。青白い光。螺旋を描こうとして、描ききれずに散る、かすかな魔力の残照。発動ではない。意志の——表明だ。
隣で、ひよりが息を吸った。
蓮は横を見なかった。だが、左の視界の端で——ひよりの右手が持ち上がるのが見えた。華奢な指が夜空に向かって伸び、その指先に、金色の光がちらついた。透過霊力の光。蓮の青白い光に呼応するように、微かに、だが確かに。
ひよりの能力が完全に回復しているのかどうかは、わからない。おそらく、ひより自身にもわからないだろう。それでも——光は灯った。
「次は」
ひよりの声が、夜風の中で聞こえた。
「——最初から、一緒に行くって言ったでしょ」
昨日と同じ言葉だった。だが声の硬さが違う。昨日は宣言だった。今は、確認だ。もう決まっていることを、もう一度口にしただけの、静かな確認。
蓮は東の空を見ていた。金色の狐火が消えた場所。光はもう見えない。だが、あの方角に——何かがいる。蓮の分析ではなく、蓮の回路の底が、そう告げていた。
「……ああ」
短かった。掠れて、夜風にほとんど攫われた。
だがひよりには届いた。蓮にはそれがわかった。隣の小さな影が、ほんのわずかに——本当にわずかに——蓮の側に寄ったからだ。
二人は並んで、東京の夜を見下ろしていた。
蓮の壊れかけた左手には青白い光が宿り、ひよりの細い指には金色の光が点っている。二つの光は互いに干渉し合い、夜風の中で静かに揺れていた。
背後の鉄扉の向こうで、本部棟の廊下を歩く足音がいくつも聞こえる。退魔師たちが動き始めている。厳山の消失を受けて、夜間の緊急態勢が敷かれたのだろう。通信機器の電子音、低い声の指示、階段を駆け下りる靴音。
蓮はその音を背中で聞きながら、動かなかった。
不完全な拳を、まだ握ったままだった。
完全である必要はない。——その言葉を、蓮はもう一度、心の中で反芻した。
だが今度は、その不完全さの意味が、昨日とは少し違っていた。昨日はそれで「いい」と思った。今は——不完全なままで「やる」と思っている。不完全な手で、不完全な喉で、不完全な視界で。それでも、やる。
蓮の黒曜石の瞳に、まだ光の螺旋は灯っていない。灯す時は、まだ来ていない。
だが蓮は知っていた。
その時は——遠くない。
東の空の向こうで、金色の何かが動いている。
蓮は不完全な拳を下ろさないまま、夜明けまでには長い夜を、ひよりと並んで見据えていた。
*
第一章、了。




