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第3話「退魔師の世界」

 結局、一睡もできなかった。


 蛍光灯の切れかけが力尽きたのは午前四時過ぎだった。明滅を繰り返していた蛍光管が一度だけ強く光り、それきり沈黙した。物置部屋が暗くなるのと同時に、窓の外がゆっくりと白み始めた。


 右腕は相変わらず動かない。肩から先が他人の身体のようにぶら下がっている。左手で右手首を持ち上げてみた。指は微かに温かいが、握れという信号がどこにも届かない。回路が断線しているのではなく、回路が自分自身を遮断している。過負荷に対する保護機能——あの世界にいた頃なら半日で復旧した。この世界の霊脈との位相差が回復速度そのものを鈍らせている。


 丸一日。最低でも丸一日。


 布団を左手だけで畳み、着替えた。昨夜のシャツは血と土の染みが暗く残っている。洗濯は帰ってからだ。制服のワイシャツに袖を通し、右腕だけは重力に任せて袖に落とした。ボタンは左手の指だけで留める。七十年の戦場で片腕を失った時期が二度ある。この程度の不自由は身体が覚えていた。


 洗面所で顔を洗った。鏡に映った口の端に、乾いた血の線が一本残っていた。水で擦り、消えたことを確認してから蛇口を閉める。


 階段を降りると、台所に明かりがついていた。


 伯母がトーストを焼いている。従兄弟が牛乳を注いでいる。食卓には三人分の皿。いつもの朝だ。俺が台所に入ると——伯母の手が止まった。


 一秒。


 すぐにトーストをひっくり返す動作に戻ったが、その一秒の凍結に全てが詰まっていた。従兄弟は視線を牛乳のコップに落としたまま上げない。


 伯父の姿はなかった。


 リビングの床には、昨夜こぼした水の染みがうっすら残っている。拭いてはいるが完全ではない。六時に出社する伯父が、いつもより早く家を出た。水の始末を伯母に任せて。


 合理的だ。


 俺は冷蔵庫から麦茶のパックを取り、コップに注いだ。左手だけで。右手はズボンのポケットに入れている。食卓には近づかず、流しの前に立ったまま麦茶を飲んだ。


 誰も何も言わない。


 テレビがついていた。天気予報のアナウンサーが「本日の最高気温は二十八度」と告げている。窓の外、庭の芝生に黒い焦げ跡が二メートルほどの円形に残っていた。従兄弟の視線がそちらへ動きかけ、すぐに戻った。


 俺はコップを洗い、流しに伏せ、靴を履いて玄関を出た。


「——いってきます」


 答えはなかった。いつも通りだ。昨日までは「無関心」だったものが、今日からは「恐怖」に変わっただけで。


 返事がないという結果は同じだった。


   *


 学校では右腕をポケットに入れたまま過ごした。


 ノートは左手で取った。利き手ではないが、魔法陣の設計図を何千枚と描いてきた左手だ。文字くらいは書ける。体育は見学届を出した。理由の欄に「右腕の打撲」と書いた。養護教諭は一瞥しただけで判を押した。


 首筋の灼傷はワイシャツの襟で隠れた。右手首のそれは袖口から僅かに覗いたが、誰も気づかない。気づいたとしても聞かない。それがこのクラスでの俺の立ち位置だった。


 六時間目が終わり、帰りのホームルームが終わった。


 廊下に出ると、壁に背を預けて待っている人影があった。


 白い髪。左膝にガーゼ。右肩のブレザーに焦げた跡。


 神楽坂ひよりが、琥珀色の目でこちらを見ていた。


「放課後、付き合って」


「断る」


 即答した。足を止めずに通り過ぎようとする。ひよりが横に並んだ。歩幅が違うのに、妙に的確にこちらの速度に合わせてくる。


「昨日の夜、あんたの身体から漏れてる力——あれ、止まってないでしょ」


 足が止まった。


 止まったことに気づいて、すぐに歩き出す。だが遅い。この女は一秒の沈黙を見逃さない。


「漏れてる。わかる。今もうっすら匂ってる。獣とか、そういうのが好む匂い。このまま放っておいたら昨日の蜘蛛みたいなのがまた来る。次はもっとデカいのが」


「知っている」


「知ってるなら対策しなよ。退魔局に行けば抑制の手段がある」


「退魔局」


 その単語を口にした時、ひよりの目が一瞬だけ揺れた。自分の所属を明かしたことへの逡巡ではない。俺をそこへ連れて行くことの意味を、彼女自身が量っている目だった。


「あんたの力が何なのか、私にはわからない。でも漏洩を放置してたら、あんたの周りにいる人間が巻き込まれる。昨日みたいに」


 伯父の顔が浮かんだ。水をこぼした床。一秒の凍結。


「……場所は」


「ついてきて」


 ひよりは先に歩き出した。俺の返事を待たずに。確信していたのだ、この回答を。あるいは——この回答以外を許さない言葉を選んでいた。


 校門を出て、駅の方角とは反対に歩く。住宅街を抜け、商店街を横切り、雑居ビルの林立するエリアに入った。


 歩きながら、ひよりの足運びを観察していた。左膝のガーゼは昨夜のままだ。歩行には支障がないが、階段の段差で一瞬だけ体重の載せ方が変わる。背中の打撲は右肩甲骨の下あたり——ブレザーの皺の寄り方が左右非対称だった。


「何見てんの」


「怪我の具合を確認しただけだ」


「自分の右腕の心配でもしたら?」


 ポケットに入れたままの右手を、ひよりは一度も見ていない。見ていないのに知っている。昨夜、庇の上から全て観察していたからだ。


 厄介な女だ。


   *


 その雑居ビルは、新宿から二駅ほど離れた繁華街の裏手にあった。


 六階建て。外壁のタイルが部分的に剥がれ、一階にはシャッターの降りたテナント跡がある。看板は出ていない。隣のコインランドリーとの隙間に雑草が生えている。東京にはこの手のビルが無数にあり、誰も二度見しない。


 ひよりが非常階段の脇にある通用口に向かった。ステンレスのドア。鍵穴の横に、名刺大の白い札が貼ってある。


 ——結界。


 微弱だが、ドアの周囲に薄い膜のような力場がかかっていた。一般人の足を自然に遠ざける認識阻害。精度は低いが実用的だ。「なんとなく近づきたくない」という感覚を植え付けるだけの、最小限の干渉。力任せではなく、人間心理の隙を突く設計。嫌いじゃない。


 ひよりが胸元から薄いカードを出し、ドアの横にある読み取り機にかざした。電子音。ロックが解除される。


「地下二階。エレベーターはないから階段で」


 ドアを開けると、打ちっぱなしのコンクリートの階段が下へ続いていた。蛍光灯の白い光が壁を照らしている。空気が変わった。地上の排気ガスと雑踏の匂いが遮断され、乾いた、しかし微かに古い紙の匂いがする空気に入れ替わる。


 そして——霊脈の密度が上がった。


 地上では拡散していた力の流れが、地下に降りるにつれて収束していく。自然な集中ではない。ビルの構造そのものが、霊脈の流路として設計されている。あるいは、霊脈の集中する地点にビルを建てた。


 この密度なら、退魔師の霊力回復は地上の三倍以上。拠点として理にかなっている。


 だが——


 流れの方向に、微かな偏りがあった。


 北北東。ごく僅かだが、この地点を通過する霊脈が特定の方角に引き寄せられている。自然の地脈にこの種の一方向的な偏向は起きない。潮流や風向きのように複雑に蛇行するのが霊脈本来の挙動だ。


 何かが、引いている。


「……どうかした?」


 ひよりが階段の途中で振り返った。俺が立ち止まっていたことに気づいたらしい。


「いや。——降りる」


 今は後回しだ。情報が足りない。この世界の霊脈の全体像を把握するまでは、この違和感に名前をつけるべきではない。


 階段を降りきると、防火扉があった。ひよりが引き開ける。


 その向こうに広がっていたのは——雑居ビルの地下とは思えない空間だった。


 天井高は四メートルほど。コンクリートの壁と柱が等間隔に並ぶ広いフロアに、パーテーションで区切られた複数の区画が見えた。右手に受付カウンター。正面に通路が奥へ伸び、左手には掲示板と待合スペースの長椅子。蛍光灯ではなく、天井に埋め込まれた白色の照明が空間全体を均一に照らしている。


 役所の窓口に似ている。あるいは、警察署の内部。機能性が優先された空間。ただし壁の要所に、先ほどの通用口と同じ白い札が貼ってあった。結界の補強用だ。


 人がいた。


 受付カウンターの内側に二人。通路の奥から歩いてくる男が一人。待合スペースの長椅子に座っている女が一人。全員が、ひよりと俺を見た。


 見た——というより、ひよりを見た。


 通路から歩いてきた男が、一瞬だけ口の端を歪めた。受付の女性の一人が、もう一人に何か耳打ちした。長椅子の女は視線を外し、手元の端末に目を落とした。


 無視ではない。「見た上で、価値がないと判断した」という態度だった。


 ひよりの歩調は変わらなかった。背筋は真っ直ぐなまま、受付カウンターに向かう。


「神楽坂ひよりです。外部協力希望者の案内で来ました。受付をお願いします」


 受付の女性——三十代半ば、髪をきつく結い上げた、事務的な顔つきの女性——がひよりを見下ろした。カウンターの高さが座っている受付側の方が高く設計されている。物理的に「見下ろす」構造になっていた。


「……神楽坂」


 その姓を呼ぶ時の、含みのある間。


「本家の?」


「登録上はそうです」


「あなたが案内? 正規の退魔師が同伴するのが通常の手続きですけど」


「規定では、登録済みの局員であれば同伴資格があります。私は登録済みです」


 ひよりの声は平坦だった。感情を排した、事実だけを並べる話し方。受付の女性は何か言いかけ、隣の同僚と目を合わせ、小さく息を吐いた。


「……書類を出します。そちらの長椅子で待ってください」


 待合スペースに移動する。長椅子に座っていた女——二十代後半、黒い作務衣のような服装——が立ち上がり、距離を取るように通路の奥へ歩いていった。すれ違いざま、ひよりに一言。


「がんばってるね、零力(れいりょく)ちゃん」


 声は小さかったが、聞こえない距離ではなかった。聞こえることを意図した音量だった。


 ひよりの足が、一瞬だけ止まった。


 次の瞬間には何事もなかったように歩き出し、長椅子に腰を下ろした。俺はその隣に座った。パイプ椅子の冷たさが制服越しに伝わる。


「今の」


「聞こえたなら説明いらないでしょ」


 ひよりの声は平坦なままだった。視線は正面の壁に向いている。


「退魔師の世界は実力主義。実力は霊力量で測る。霊力量は血統に依存する。私の霊力測定値はゼロ。つまり私はこの世界で一番下。説明終わり」


「ゼロではない」


 ひよりが横を向いた。


「あんたの力は測定器が捉えられないだけだ。出力型の計測系に透過型の霊力を通しても、値が出ないのは当然だ。網の目より小さい魚はすり抜ける。魚がいないわけじゃない」


「……それ、どうしてわかるの」


「昨日見た」


 廃ビルでの最初の遭遇。あの時、鬼火の残滓が彼女の周囲で異常な挙動を示していた。通常、霊力を持つ者の近くでは残滓は弾かれるか吸収される。だがひよりの周囲では、残滓がそのまま「通過」していた。干渉せず、されず、あたかも彼女がそこにいないかのように。


 あれは「力がない」のではない。「力の位相が違う」のだ。


 ひよりは数秒間、俺の顔を見つめていた。琥珀色の瞳に、複雑な光が混ざっていた。


「……何年も、何十回も測定されて。毎回ゼロで。そのたびに『やっぱり出来損ない』って言われて。それを今、会って二日目のあんたが『ゼロじゃない』って」


「事実を言っただけだ。慰めじゃない」


「わかってる」


 ひよりが前を向き直した。手が膝の上で拳を作っていた。関節が白くなるほど強く握っている。


「わかってるから——余計に腹が立つ」


 怒り。


 諦めではない。自嘲でもない。この女が腹の底で燃やしているのは、純度の高い怒りだった。


 「出来損ない」と呼ばれるたびに心が折れるのではなく、折れかけた心を怒りで焼き固めている。何年も、何十回も。その炉は消えていない。消えていないどころか、静かに温度を上げ続けている。


 だが——。


「それだけの燃料で、いつまで走るつもりだ」


 口に出してから、余計なことを言ったと気づいた。


 ひよりが振り向いた。琥珀の目が鋭く細まった。


「走ってるよ。あんたと違って」


「俺と違って?」


「あんた、強いでしょ。たぶん、ここにいる誰より。あの蜘蛛を一撃で消したのを見た。あの魔法陣の構造——退魔師の霊術とは全く違う体系。次元が違う、って思った」


 正確な観察だった。


「でもあんたは、その力を一人で抱え込んでる。身体が壊れてるのに助けを求めない。他人を巻き込みたくないんじゃなくて——他人を信用できないんでしょ」


 胸の奥で、古い傷が軋んだ。


 エルマの顔が一瞬だけ過ぎった。


「大した分析だ」


「皮肉?」


「事実を言っただけだ」


 ひよりが鼻を鳴らした。怒りとは別の、呆れたような音だった。


「お互い様じゃん。あんたは"事実"で壁を作る。私は"怒り"で壁を作る。似た者同士だよ、あんたと私は」


「似ていない」


「似てるよ。どっちも——一人で全部やろうとしてる」


 反論が浮かばなかった。


 正確に言えば、反論は十二通りほど浮かんだ。だがそのどれもが、この女の目を見ながら口にするには嘘の含有率が高すぎた。


 俺は黙った。ひよりも黙った。


 受付のカウンターの向こうで、書類を揃える紙の音がしていた。


   *


 手続きは事務的に進んだ。


 受付から名前を呼ばれ、カウンターの前に立った。外部協力希望者の仮登録。正規の退魔師ではないが、霊的事象への対処能力を持つ者が局の管理下で活動するための枠組みらしい。書類は三枚。氏名、住所、連絡先、霊力に関する自己申告欄。


 左手でペンを持ち、カウンターの上で書類を埋めていく。右手はポケットに入れたままだ。ひよりが長椅子からちらりとこちらの手元を見て、すぐに視線を外した。気を遣ったのではなく、指摘しても無駄だと判断した目だった。


 自己申告欄には「魔力」と書いた。三枚を揃えてカウンター越しに差し出す。受け取った受付の女性が自己申告欄に目を落とし、眉を顰めた。だが何も言わず、書類をめくり始めた。


「霊力測定は後日になります。空きが出たら連絡します」


「了解した」


 カウンターを離れ、ひよりの隣に腰を下ろした。受付の奥で書類をめくる音が続いている。


 それを遮るように、通路の奥から声がした。


 若い男の声。二人分。


「おい、見たか? 零力がまた来てんぞ」


「マジで? 今度は何の用だ」


 声の主は通路の奥のパーテーション区画の中にいた。姿は見えないが、声は素通りだった。意図的な音量。聞かせるための声。


「しかも外の人間連れてきてる。何だあれ、一般人?」


「一般人に局を見せるとかアウトだろ。あの零力、規則も知らないのかよ」


 ひよりの拳が、膝の上で白くなった。


「規定の範囲内です」


 ひよりが言った。声は平坦だったが、呼吸のリズムがわずかに速い。


「仮登録の案内は登録済み局員の同伴で可能と規則にあります。私は登録済みです」


 パーテーションの奥から笑い声が漏れた。


「登録済み——って、あの測定値ゼロの登録だろ? あれって形だけじゃん。お情けだって聞いたぜ。神楽坂の名前だけで——」


「——もういい」


 俺は立ち上がった。


 立ち上がった瞬間、空気が変わったことを全員が感じた。受付の女性二人。通路の奥。長椅子に座っていたひより。


 何もしていない。魔力を放出したわけでもない。殺気を向けたわけでもない。ただ立ち上がっただけだ。


 だが——戦場は、身体の使い方を変える。視線の重さ、重心の据え方、呼吸の深さ。戦闘を知らない人間はそれを「圧」と感じる。言語化できない危険信号として。


 パーテーションの奥が静かになった。


「書類は以上か」


 受付の女性に向けて、掠れた声で言った。声が出にくいことが、逆に低い圧として機能した。


「は——はい。以上です。後日、測定の日程を——」


「了解した。連絡を待つ」


 振り返り、ひよりを見下ろした。長椅子に座ったままの彼女は、俺を見上げていた。怒りと——別の何かが混ざった目で。


「行くぞ」


「……あんたが行くって言ったら行くの? 自分で決めるけど」


「なら決めろ。俺は出る」


 ひよりが立ち上がった。拳はまだ白かった。


 入ってきた防火扉に向かう。すれ違う退魔師が一人、俺を見て足を止めかけ、そのまま通り過ぎた。視線は感じたが、声をかけてくる者はいなかった。


 防火扉を抜け、階段の踊り場で、ひよりが口を開いた。


「別にかばってもらわなくてもよかった」


「かばっていない」


「じゃあ何」


「不毛な会話を聞かされる時間が無駄だった。それだけだ」


 ひよりが足を止めた。


 振り返ると、彼女は三段下で立ち止まっていた。見上げてくる形になる。それなのに——こちらが見下ろしているはずの角度から、琥珀色の瞳がまっすぐ射抜いてきた。高低差が意味を失うほどの、視線の圧だった。


「あんたさ」


「何だ」


「何でもかんでも"合理的な理由"つけるの、やめたら? さっきの、パーテーションの向こうの連中が黙ったの——あんたが怒ったからでしょ」


 怒った。


 その表現を、脳の中で転がした。


 怒っていたのか? 俺は。


 あの瞬間。零力と呼ばれ、規則を盾にして声を平坦に保ち、拳だけが白くなっていた女を見て。俺は——不快だった。合理的判断を妨げる感情的ノイズ、ではなく。


 不快だった。


「……歩け。立ち止まると膝に負担がかかる。ガーゼの下、まだ滲んでるだろう」


「話を逸らすな」


「逸らしていない。お前の膝の状態は客観的事実だ」


 ひよりが深く息を吐いた。呆れと——ほんの僅かな、熱の引いた笑いが混ざった呼気だった。


「ほんっと面倒くさい男」


 それでも階段を上り始めた。一段ごとに左膝を庇う動きが入る。


 俺はその半歩後ろを歩いた。


   *


 階段を半分ほど上った時だった。


 足の裏から、振動が来た。


 地面ではない。空気そのものが震えている。霊脈が——波打った。大地の奥から突き上げるような、不規則な脈動。


 ひよりも足を止めていた。彼女にも感じ取れたらしい。


 次の瞬間——


 頭上から、金属的な反響音が降ってきた。


 退魔局全体に響き渡る、けたたましい電子音。警報だった。壁に埋め込まれた小型のスピーカーから、赤い光が点滅しながら音声が流れる。


『——緊急警報、緊急警報。全隊員に通達。杉並区北部、第七区画にて大型妖怪出現を確認。現在、第三部隊が交戦中。被害拡大。繰り返す——大型妖怪、種別「牛鬼」。第三部隊、応答途絶。全遊撃可能隊員は即時出動を——』


 牛鬼。


 この世界に転生して十七年。日本の伝承に出てくる名前くらいは知っている。角を持つ牛の頭、蜘蛛の脚を備えた異形。水辺を好み、毒霧と怪力を武器とする——もっとも、伝承の記述がどこまで実態に即しているかは未知数だ。だが少なくとも、影蜘蛛のような下位の存在ではない。緊急警報を出す以上、格が違う。


 だが俺が先に読んだのは、その妖怪の性能ではなかった。


 「応答途絶」。


 部隊が応答しなくなっている。壊滅か通信障害か——いずれにしろ、現場の状況は急速に悪化している。


 背後の階段の下から、複数の足音が駆け上がってきた。退魔師たちだ。俺たちの脇を風のように追い抜き、地上へ向かっていく。装備を取りに、あるいは出動準備のために。空気が張り詰め、先ほどまでの弛緩した日常が嘘のように消し飛んでいた。


 ひよりが俺を見ていた。


 何か言おうとして——言わなかった。代わりに、俺の右腕を見た。ポケットに入れたままの、動かない右腕を。


 わかっている。


 右腕は使えない。魔法陣の展開には両手が要る——いや、左手だけでも展開自体は可能だ。精度が落ちるだけで。だが精度が落ちた魔法陣を使えば拒絶反応はさらに悪化する。昨夜の吐血の再現、あるいはそれ以上。


 合理的に判断すれば、動くべきではない。


 この身体の状態で戦場に出るのは、リスクが報酬を上回る。俺には義理もない。退魔師でもない。仮登録の書類を出しただけの、外部の人間だ。


 合理的に判断すれば——


『——繰り返す。第三部隊、応答途絶。市街地への被害拡大中。民間人の避難が間に合っていない——』


 足が動いた。


 階段を駆け上がる。ひよりが「待って」と声を上げたのが背中で聞こえた。


 ——またか。


 また、こうだ。


 頭では分かっている。合理的ではないと。この身体で出ていけば壊れると。前世で何度も同じ失敗をした。計算を無視して動き、結果として失うものを増やした。エルマの時も——


 だが足は止まらなかった。


 応答途絶という単語が、記憶に刺さっている。あの言葉の後に起きることを、知りすぎている。


 地下二階から地上に向かう階段を一段飛ばしで駆け上がりながら、左手だけで最小構成の魔法陣を脳内に組み立て始めた。

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