第28話「夜明け」
数週間が経っていた。
退魔局の新しい本部——と言っても、以前から使われていた会議棟の一室を急ごしらえで整えただけの部屋だった。長机が四角く並べられ、パイプ椅子が等間隔に置かれている。蛍光灯の白い光が、窓のない部屋を均一に照らしていた。
蓮は部屋の隅のパイプ椅子に座っていた。右腕は白い三角巾で胸の前に固定されている。左手は膝の上に置き、親指と人差し指で左膝を軽く叩いていた。退屈、というよりは、所在のなさだった。
部屋には二十人ほどの退魔師が集まっていた。
長机の上座——上座という概念自体がこの部屋には似合わなかったが——に座った年配の退魔師が、書類を読み上げている。土御門宗家による霊脈管理体制の解体。合議制への移行。各地区の霊脈監視の分散化。言葉は慎重に選ばれていたが、その一つひとつが、数十年続いた独裁の骨格を一本ずつ引き抜いていく作業だった。
蓮はその内容を半分だけ聞いていた。残りの半分では、部屋にいる退魔師たちの顔を観察していた。
安堵している者。不安を隠せない者。変化を歓迎する表情と、変化そのものに怯える表情が、同じ部屋の中で同居していた。独裁の柱を引き抜けば、天井が落ちてくるかもしれない——その恐怖は、厳山の支配に苦しんだ者ですら共有している。人間は、自分を縛る鎖が外れた瞬間に、鎖がなければ立てなかったことに気づく。
その中で、斜め前方の席に座っている白い髪が目に入った。
神楽坂ひよりは、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。数週間前の決戦で全身の力を使い果たした少女は、まだ頬の肉が戻りきっていない。顎の輪郭が以前より鋭い。だが、その琥珀色の瞳は正面を向いて、読み上げられる言葉の一つひとつを受け止めていた。
年配の退魔師が、次の議題に移った。
「——続いて、人事に関する特例事項について」
蓮の名前が呼ばれた。
「朝霧蓮。血統登録外の出自でありながら、東都管轄における複数の大規模妖怪対処に中心的役割を果たし、かつ、先の——」
言葉を一瞬探すような間があった。「先の事態」という曖昧な表現が選ばれた。あの決戦を何と呼ぶか、まだ誰も決められていない。
「——先の事態の収束に決定的な貢献をしたことを鑑み、退魔局規定第十七条の特例適用により、血統要件を免除のうえ正式退魔師として登録する」
部屋の空気が、わずかに揺れた。
退魔師の歴史において、血統を持たない者が正式登録される前例はなかった。規定第十七条の特例条項は、そもそも想定されていた用途が違う。だが、前例がないことと、不可能であることは違う。規定の条文は、読み方を変えれば、この結論を許容する余地を残していた。
蓮は立ち上がらなかった。パイプ椅子に座ったまま、左手の人差し指で軽く机の縁を叩いた。承認の意を示す、彼なりの所作だった。
横の席から、視線を感じた。ひよりがこちらを見ている。その表情は——蓮の位置からは角度的に正面は見えなかったが、横顔の口元がわずかに上がっていた。笑っている、というほどではない。だが、唇の端にある微かな弧は、安堵とも誇りともつかない何かを含んでいるように見えた。
蓮は視線を正面に戻した。
次に読み上げられたのは、ひよりの名前だった。
「神楽坂ひより。透過型霊力の保持者として、能力再評価を実施。従来の測定基準における『測定不能』の判定を取り消し、『未分類・要継続調査』として記録を改める」
「未知の可能性」という言葉は使われなかった。公式文書は、もっと慎重な言い回しを選ぶ。だが「測定不能」——つまり「欠陥」のレッテルが、公の場で剥がされたことの意味は、この部屋にいる全員が理解していた。
ひよりの背筋が、一段と伸びた。蓮にはそれが見えた。彼女は何も言わなかった。立ち上がりもしなかった。ただ、座ったまま深く一度だけ頭を下げた。その動作に震えはなかった。
議事が進む。
御影燐太郎の名が呼ばれた。
「御影燐太郎。新体制における監査役への就任を推薦する。霊脈管理の透明性確保および、組織内不正の独立監視を職務とする」
燐太郎は蓮の三つ隣の席にいた。右肩から二の腕にかけて、服の上からでもわかる包帯の膨らみがある。だがパイプ椅子から立ち上がる動作には、怪我を感じさせない滑らかさがあった。正統の型を体現する退魔師は、立ち上がる動作一つにも無駄がない。
「謹んで、お受けします」
短く、明瞭な声だった。燐太郎はそれだけ言って着席した。
会議が閉じられるまでに、さらに三十分ほどかかった。分散管理の具体的な区割り、各地区への連絡体制、暫定的な指揮系統の確認。蓮にとっては半分以上が耳を通り過ぎていく内容だった。退魔師の組織運営に、戦場で培った知識は役に立たない。
椅子が引かれ、人が立ち上がり始めた。
蓮も立ち上がった。左手で椅子の背を押して身体を起こす。右腕が三角巾の中で揺れた。もう痛みはない。痛みがないことが、むしろ不吉だった。
退室する人の流れに混じって、燐太郎が近づいてきた。
蓮の正面に立った。蓮より数センチ高い目線が、まっすぐに蓮を見下ろしている。
「朝霧」
「……なんだ」
蓮の声は掠れていた。数週間の治療を経ても、喉の粘膜が完全には修復されていない。短い言葉なら出せる。だが以前のように、冷徹な分析を淡々と語り続けることは、もうできなかった。
「監査役というのは、要するに見張り番だ」
燐太郎は腕を組もうとして——右肩の包帯に触れて、途中でやめた。左手だけを腰に当てる、やや不格好な姿勢になった。
「二度と、一人の人間が全てを握る体制には戻さない。そのために俺がいる」
蓮は黙って聞いていた。
「だが——」
燐太郎の目が、わずかに細くなった。笑っているのか、睨んでいるのか、その境界線上にある表情だった。
「監査と鍛錬は別だ。次にお前と立ち合う時は、俺が勝つ」
蓮は、ほんの一拍だけ間を置いた。
掠れた息が、短い音になった。
「……好きにしろ」
燐太郎の口元が、明確に上がった。負けず嫌いの顔だった。勝てないとわかっている相手に勝つと宣言する——その行為の愚かさを自覚した上で、なお言い切る顔。蓮は、それが嫌いではなかった。
燐太郎は踵を返して、先に部屋を出た。
ひよりが蓮の隣まで歩いてきた。
「……燐太郎、変わったね」
その声は蓮に向けられていたが、視線は燐太郎の背中を追っていた。
蓮は何も答えなかった。変わったのは燐太郎だけではない。この部屋にいた全員が、数週間前とは別の顔をしている。あの決戦の前と後で、退魔師界の地図が塗り替わった。地図が変われば、その上に立つ人間の足元も変わる。
「行くぞ」
蓮は掠れた二語だけを残して、会議室のドアに向かって歩き出した。ひよりが半歩遅れてついてくる足音が、リノリウムの床に響いた。
*
廊下は、会議室の蛍光灯よりも薄暗かった。
窓が等間隔に並んでいるが、午後の陽光は建物の反対側に回り込んでおり、廊下には間接的な明るさしか届いていない。壁は白い塗装が施されているが、ところどころ黄ばみが浮いている。築年数の長い行政施設特有の、清潔だが古い空気だった。
蓮は一人で歩いていた。ひよりは会議室の前で別の退魔師に呼び止められ、蓮は先に出た。
靴底がリノリウムを踏む音が、廊下の奥まで反響する。
角を一つ曲がったところで、足音が止まった。
蓮のものではない。
五メートルほど先に、一人の退魔師が立っていた。
高瀬だった。
廊下の中ほどで、こちらに背を向けた状態で立っている。蓮の足音に気づいたのか、肩が小さく動いた。振り返る動作が、ぎこちなかった。
高瀬の顔が見えた。
数週間前に見た顔と、輪郭は変わらない。だが目の下に影が落ちていた。眠れていないのか、それとも別の何かが削り取っているのか——蓮には判断がつかなかった。
二人の間に、五メートルの廊下があった。
高瀬の唇が動いた。何かを言おうとして、音にならなかった。喉元で言葉を一度飲み込む動作が見えた。
蓮は歩みを止めなかった。
靴底の音が、一歩ずつ距離を縮めていく。四メートル。三メートル。蓮は高瀬の横を通り過ぎようとした。
「——朝霧」
声が、蓮の背後から飛んできた。
蓮は足を止めた。振り返らなかった。半身だけを廊下の壁側に向けて、高瀬の方向に左耳を傾けた。
沈黙が、数秒続いた。
その数秒の間に、高瀬の呼吸が二回聞こえた。吸って、吐いて。吸って、吐いて。それは言葉を探しているのではなく、言葉を押し出すための圧力を溜めている呼吸だった。
「俺は——」
高瀬の声は低かった。会議室で聞いた年配の退魔師の声よりも低く、燐太郎の声よりも細い。
「お前に、ずっと——」
言葉が途切れた。
蓮は待った。
廊下の窓から差し込む間接光が、二人の間の床をうっすらと照らしている。遠くで、別の部屋のドアが開閉する音がした。
「血統がなければ何もない」
高瀬の声が、ようやく文の形を成した。
「俺は——そういう人間だった。末端の家系で、霊力量も低くて、修練しても天井が見えてる。それでも、血統さえあれば——血統のない人間よりは上に立てる。そう思ってた」
蓮は壁に背を預けた。左手をポケットから出し、腕を身体の横に垂らした。
「お前が来た時——」
高瀬の声が、一段低くなった。
「血統もない人間が、俺たちより強いのが——許せなかった。許せなかったんじゃない。怖かった。お前がいたら、血統しか拠り所のない俺の居場所がなくなる。だから排除しようとした」
その言葉の震えを、蓮は背中で聞いていた。振り返れば高瀬の顔が見える距離だったが、蓮は振り返らなかった。この言葉は、聞かれるために吐き出されているのではない。吐き出すこと自体が目的の言葉だった。
「妖怪誘引器を使った時も——あの封印の場で目を逸らせなかった時も——お前の戦いを見せられ続けた時も——全部、わかってた。俺がやってることは、間違ってるって」
高瀬の靴底が、リノリウムの上でわずかに鳴った。重心が前に移動する音だった。
「わかっていて——止められなかった。血統に縋ることをやめたら、俺には何も残らないと思ってたから」
沈黙。
蓮は天井を見た。蛍光灯の光が、白い天井を均一に照らしている。染みも亀裂もない。あの決戦の講堂の天井とは違う。ここには、光を差し込ませるための亀裂はなかった。
「——すまなかった」
高瀬の声が、廊下の空気を震わせた。
蓮は振り返った。
高瀬は頭を下げていた。深く。背中が九十度近くまで折れている。両腕は体の横にまっすぐ垂らされ、拳が握り締められていた。
蓮はその頭頂部を見下ろした。
数週間前まで、蓮はこの男のことをほとんど考えたことがなかった。敵として認識するには力が足りず、味方として計算に入れるには信用が足りない。存在の優先順位が低かった。それは冷酷さではなく、戦場で身についた資源配分の感覚だった。限られた意識のリソースを、最も脅威度の高い対象に集中させる。高瀬は、その閾値を超えなかった。
だが——
この男は、自分の足で立とうとしている。
血統という杖を捨てて、何も残らない足元で、それでも立とうとしている。その行為を、蓮は知っていた。何かを失った後に立ち上がる——その動作の重さを、七十年の記憶が覚えていた。
蓮は左手で、三角巾の紐を一度直した。特に意味のない動作だった。言葉を選ぶための、間だった。
「……顔を上げろ」
掠れた声が、廊下に落ちた。
高瀬の身体が、ゆっくりと起き上がった。目が赤かった。泣いてはいない。だが、泣く直前の顔に似ていた。
蓮は高瀬の目を見た。
「お前が何に縋ってたかなんて、俺には関係ない」
短い言葉を一つずつ、喉の痛みと相談しながら押し出した。
「……自分の足で立つなら」
一拍。
「次からは味方だ」
高瀬の唇が、わずかに開いた。言葉が出てこなかった。代わりに、もう一度頭を下げた。今度は深くではなく、短く。了解の意を含んだ動作だった。
蓮は高瀬の横を通り過ぎた。
三歩ほど歩いて、足音が後ろで動かないことに気づいた。高瀬はまだ同じ場所に立っている。蓮は振り返らなかった。
廊下の角を曲がると、高瀬の気配が途切れた。
*
別棟への渡り廊下を抜けた先で、声をかけられた。
「あ——朝霧さん」
若い声だった。蓮が足を止めると、廊下の壁際に三人の退魔師が立っていた。いずれも蓮と同年代か、少し上に見える顔ぶれだった。見覚えがある。決戦の大講堂で、壁際で戦い、最後まで持ち場を離れなかった若手たちだ。
先頭に立っている男が、蓮より頭一つ分ほど背が高かった。その後ろに控えている二人のうち一人は、左腕を包帯で巻いている。決戦の傷がまだ完治していないらしい。
「お時間いただけますか」
先頭の男が一歩前に出た。声に媚びはなかった。だが、数週間前の決戦の時に蓮が聞いた彼らの声——「逃げろ」と叫んでいた声——とは、明らかに質が違っていた。
蓮は壁に寄りかかった。左手をポケットに戻し、親指だけ外に出す。先を促す姿勢だった。
「合同訓練を——」
男が言いかけて、一度口を閉じた。言葉を選び直している。蓮はその間を待った。
「俺たちの訓練に、参加していただけないかと」
蓮の眉が、わずかに動いた。
参加してほしい、ではなかった。教えてほしい、でもなかった。「参加していただけないか」。対等の立場で、共に訓練する相手として。
後ろに控えていた二人のうち、包帯を巻いていない方が口を開いた。
「あの日——講堂で見た動きを、もう一度近くで見たいんです。あんな連携を、俺たちも組めるようになりたい」
蓮は三人の顔を順に見た。
かつて、蓮は彼らを「駒」として見ていた。戦場における消耗品。配置し、活用し、必要に応じて切り捨てる対象。大賢者の七十年は、その冷徹さの上に成り立っていた。
今も、その冷徹さは消えていない。だが——駒を駒として見ることと、駒の顔を見ないことは、違う。
蓮は壁から背を離した。
「……いつだ」
掠れた一語に、三人の表情が同時に変わった。驚きではなく——受諾を予期していなかった、という顔だった。承諾されることを期待せずに頼んだ。その姿勢が、蓮には好ましかった。
「来週から——週二回、朝の訓練場を確保してあります」
「勝手に確保してたのか」
「……断られたら自分たちだけでやるつもりでした」
蓮は鼻から短く息を吐いた。笑いではなかった。だが、それに近い何かだった。
「好きにしろ」
二度目の「好きにしろ」だった。燐太郎に向けた時と同じ言葉で、しかし含んでいるものが微妙に違った。燐太郎への「好きにしろ」は対等な者への返答だった。若手たちへの「好きにしろ」は——教える側に立つことへの、ぶっきらぼうな承諾だった。
かつて蓮は、弟子を取った。六十年の孤高の後に、一人だけ。その弟子の判断を信じた結果、失った。それ以来、誰かに教えることを拒絶してきた。教えることは信じることに繋がり、信じることは失うことに繋がる——その等式が、蓮の胸の奥で長い間凍りついていた。
今、その氷が溶けたわけではない。
だが、氷の表面に、罅が入った。
*
三人と別れた後、蓮は廊下の突き当たりまで歩いた。
そこに、窓があった。
西向きの大きな窓だった。廊下の終端に設置された嵌め殺しのガラスが、沈みゆく太陽の光を正面から受けていた。橙色の光がガラスを貫いて廊下の奥まで差し込み、蓮の足元から背後の壁までを暖かい色に染めている。
蓮は窓の前に立った。
左手をガラスに触れさせた。人差し指と親指だけが、西日に温められたガラスの熱を正確に感じ取った。薬指には何も伝わらない。中指には、ガラスが存在するという圧力だけがぼんやりと届いた。
窓の外に、建物が一棟見えた。
局の敷地の端に建つ、三階建ての古い集合住宅。夕日を背に受けて、その輪郭が黒く浮かび上がっている。壁の色も、ベランダの手すりの形も、逆光の中では判別できなかった。ただ、建物の稜線の向こうに広がる空だけが、濃い橙色に燃えていた。退魔局の寮だった。蓮が来週から入居する予定の建物。
伯父の家の物置部屋を出て、最初の自分の場所。
布団が一枚だけ敷かれた、湿気た六畳間。窓の外を見ることもなく、天井の染みを数えていた部屋。あの場所に、もう帰ることはない。帰る必要がない。
蓮は窓の外を見つめた。
寮の暗い影と、その背後で燃える空。雲はほとんどなかった。澄んだ春の空気が、太陽の輪郭を鮮明にしている。西日は遮るもののない角度で蓮の顔を照らしていた。目を細めなければ正面を見ていられないほどの、率直な光だった。
穏やかな光景だった。
蓮はガラスから指を離した。左手を体の横に下ろし、窓枠に軽く寄りかかった。右腕は三角巾の中で動かない。
視界の右端に、いつもの滲みがあった。回復しているのかいないのか、わからない。医者は「経過を見る」としか言わなかった。
風は感じなかった。嵌め殺しの窓だから、当然だった。ただ、ガラスの向こうで木の枝が揺れているのが見えた。風が吹いている。蓮のいる廊下には届かない風が。
蓮の目が、空から寮の輪郭に戻った。
あの建物の中に、自分の部屋がある。鍵のかかる、自分だけの部屋。物置ではない場所。
それが何を意味するのか、蓮はまだ正確には理解していなかった。七十年の前世と、十七年の今世を合わせても——「自分の居場所」という概念は、蓮の辞書に正確な定義を持っていなかった。戦場には拠点があったが、居場所はなかった。伯父の家には部屋があったが、居場所はなかった。
今、窓の向こうに暗く浮かぶあの建物が——居場所になるのかどうか。
わからなかった。
ただ、西日が廊下の床を暖かい色に塗り替えていくのを足元に感じていると——わからないことが、不快ではなかった。
蓮は窓の前に立ち続けた。
背後の廊下から、遠くで誰かの足音が聞こえた。会議を終えた退魔師たちが、それぞれの場所に帰っていく音だった。蓮はその足音に振り返らなかった。
太陽が、ゆっくりと沈んでいた。
寮のシルエットが空の橙に溶け込み始め、建物の稜線が滲んでいく。窓から差し込む光の角度が下がり、蓮の足元にあった暖色の帯が、少しずつ壁を這い上がっていった。蓮の顔が、夕日の正面に晒されている。いつもの無表情とは少しだけ違う陰影が、西日によって頬の片側に刻まれていた。
何かを考えているようにも、何も考えていないようにも見える表情だった。
掠れた息が、ひとつだけ漏れた。音にならない呼気が、西日の中に溶けて消えた。
蓮は、そこに立っていた。




