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第26話「逆転」

 結界の構造は、美しかった。


 蓮は四メートル先の金色の壁面を凝視しながら、その事実を認めた。瞳孔の奥で青白い螺旋が回転し、結界を構成する術式の網目を一本ずつ解きほぐしていく。


 球状。半径五メートル。網目の一つ一つが六角形の連結で、蜂の巣のように噛み合っている。個々の六角形は単純な霊力の壁だが、それが数百——いや、数千枚重なることで、衝撃を面で受け流す構造になっていた。力で砕こうとすれば、砕いた箇所の周囲が瞬時に応力を分散する。


 一点突破が通じない。


 壇上の向こうで、金色の霧の中に厳山の輪郭が揺れていた。九本の尾が扇状に広がり、結界の外側で緩やかに蠢いている。七本が空気を薙ぎ、残る二本が床面に突き刺さったまま——結界の維持装置として機能していた。


 左前方、五メートル付近の座席列の隙間から、燐太郎の気配が動いた。左手一本で符を操作し、火系統の小規模な術式を結界の側面に叩きつけている。着弾の瞬間、金色の網目が白く光り、衝撃を吸収して消えた。壇上の上方から反撃が来る。尾の一本が鞭のようにしなり、燐太郎のいた座席列を薙ぎ払った。木片と布が弾け飛ぶ。燐太郎は既にその場を離脱していたが、裂傷のある右肩から血の線が座席の背もたれに一筋残されていた。


 左側面では若手退魔師二名が結界術の盾を展開し、尾の攻撃を凌いでいる。後方に回り込んでいた一名は——蓮が右目の滲みの向こうに視線を送ると、壁際で低い姿勢を保ちながら移動を続けている影が見えた。動きの輪郭から判断すれば、まだ戦闘可能な状態に見えた。


 だが、時間がない。


 蓮は結界の構造を読みながら、同時に別の事実を計算していた。厳山の再生速度は上昇傾向にある。二秒から一・七秒。エネルギー供給ラインが安定すれば、さらに加速する。結界を維持している二本の尾は、同時に壇上直下の制御回路を守る防壁でもある。そして結界そのものが、あの制御回路への唯一のアクセスを遮断していた。


 出力で砕けない。


 蓮の青白い螺旋が、結界の網目の「内側」を透視しようとした。だが構造が密すぎた。六角形の連結が光を屈折させ、内部の情報を歪ませている。制御回路の正確な深度も、接続点の形状も、結界の外側からでは確認できない。


 ——透過型でなければ、あの内側には触れられない。


 思考がそこに行き着いた瞬間、蓮の意識は六メートル後方へ向いた。


 ひよりのいる場所。座席列の陰。


 蓮はその思考を即座に切り捨てた。ひよりの体力は限界を超えている。秘密神殿から大講堂まで、蓮の背中に負ぶさったまま運ばれてきた時点で、もう残っていなかった。あの状態から透過能力を発動させることは——。


 尾が来た。


 蓮は左に跳んだ。金色の尾が蓮のいた空間を切り裂き、床石を砕いた。破片が蓮の白シャツを叩く。右腕がポケットの中で揺れ、麻痺した指先が布地の内側で無感覚に擦れた。着地の衝撃が膝を突き抜け、痙攣する左手の指先で魔法陣の断片を走らせた。親指と人差し指だけの、二点で描く最小構成の防御陣。青白い光の膜が蓮の正面に展開し、続く尾の薙ぎ払いを受け止めた。衝撃が腕を通じて肩に走り、歯の奥が軋んだ。


 防御陣が砕ける。蓮は後方に三歩下がり、壇上との距離が十二メートルに開いた。


 ——駄目だ。このまま消耗戦を続ければ、先に潰れるのはこちらだ。


 結界は透過型でなければ抜けない。そして透過型の使い手は一人しかいない。


 蓮は切り捨てた思考を、もう一度拾い上げた。


 ひよりに頼むしかない。


 だが、あの状態のひよりに何ができる。自力歩行すら不可能だった。能力を発動するには冷静な呼吸と精密な集中が必要で、体力と精神が乱れていれば使えない——本家に連行された時と同じだ。今のひよりは、あの時よりも遥かに消耗している。


 蓮の思考が回転する。否定と肯定の間を、計算が行き来する。


 不可能だ。不可能なはずだ。


 ——だが。


 蓮は霊脈の可視化能力を展開した。瞳の奥の螺旋が加速し、講堂の空間に霊脈の流れが青白い光の線として浮かび上がる。壇上直下の霊脈本流は金色に染まり、九尾のエネルギー供給によって異常な輝度を放っていた。その流れが講堂全体に枝分かれし、床を、壁を、天井を侵食している。


 そして——蓮の視線がひよりの方角に向けられた時、一つの事実が視覚情報として入ってきた。


 ひよりのいる座席列の周辺。そこにも霊脈の枝が走っている。秘密神殿で霊脈装置の直近にいたひよりの身体は、あの透過体質によって、霊脈からの微量なエネルギーを受動的に吸収し続けていたはずだ。以前にも——霊脈の近くにいるひよりの体質は、無意識に周囲のエネルギーを取り込んでいた。


 今この講堂は、九尾の暴走によって霊脈エネルギーが溢れている。


 ひよりが——致命的な枯渇状態から、わずかでも回復している可能性は、ゼロではなかった。


 蓮はその可能性を計算した。戦闘力の回復ではない。連続使用は論外だ。だが——結界の内側に、一度だけ手を届かせる。それだけの力が残っていれば。


 可能性は低い。だが他に手段がない。


 蓮が振り返ろうとした瞬間だった。


   *


 声が聞こえた。


 三メートル後方。座席列の陰から、掠れた、しかし明確な意志を持った声が。


「蓮——」


 蓮の足が止まった。


 ひよりだった。


 座席列の陰から、片膝と片腕で身体を支えて、上半身を起こしていた。裸足の足裏が冷たい床石に触れている。擦過傷のある手首が震え、指先が座席の脚を掴んでいた。膝の下に、密約書が敷かれるように挟まっている——倒れた時から、身体で庇い続けていたのだろう。


 だが、その琥珀色の瞳は——真っ直ぐに蓮を見ていた。


「結界——私なら、通せる」


 蓮の喉が痙攣した。声を出そうとして、粘膜が引き攣る感覚が走った。三語が限界だった。


「……身体が」


 ひよりは首を横に振った。その動作だけで腕が震え、座席の脚を掴む指が白くなった。


「全部は、無理。わかってる」


 呼吸を整えるように、ひよりは一度瞼を閉じた。


「でも——一回だけなら」


 蓮はひよりを見ていた。三メートルの距離。金色の霧が二人の間を漂い、ひよりの顔の輪郭を滲ませている。だが声の振動と、身体を支える腕の角度と、真っ直ぐに向けられた視線の方向だけは——確かに捉えていた。


 蓮の思考が止まった。


 計算ではなく、判断でもなく——ひよりの声が、蓮の論理の外側から届いていた。


 蓮はひよりの可能性を計算していた。だがひより自身は、計算の結果を待たずに立ち上がっていた。蓮の判断を仰ぐためではなく、自分の判断で。自分の身体の限界を、蓮よりも正確に把握した上で。


 ——俺の分析の外側にいる。


 エルマは違った。エルマは蓮の盤面の中で、蓮の死角を補う存在だった。蓮の判断の延長線上に立ち、蓮の論理の精度を高める補助者だった。だからこそ、エルマの判断を信じることは「蓮自身の判断を信じること」と区別がつかなかった。そして区別がつかないまま、蓮はエルマを死なせた。


 ひよりは違う。


 ひよりは蓮の論理とは別の論理で、蓮の計算とは別の計算で、立ち上がっている。蓮がまだ「不可能かもしれない」と迷っていた可能性を、ひより自身が「一回だけなら」と見切って提示している。それは蓮の判断の延長ではない。蓮の盤面の外から差し込まれた、別の手だった。


 信じるとは、こういうことだった。


 蓮の右腕は動かない。左手は痙攣している。喉は裂けかけている。だが両足は動く。


 蓮はひよりに向かって走り出した。


 背後で尾が薙ぎ払われる気配がした。蓮は振り返らなかった。燐太郎が蓮の背中を守るように符を投擲したのが、左耳に届いた風切り音でわかった。火系統の破裂音が尾の軌道を逸らし、破片が蓮の背中を叩いた。


 三メートルが、二メートルになり、一メートルになった。


 ひよりは座席の陰で蓮を待っていた。立ち上がることはできていない。片膝をつき、左手で座席の脚を掴んだまま、右手だけを——蓮に向かって伸ばしていた。


 その手が震えていた。消耗で、ではなかった。覚悟の震えだった。


 蓮の左手がひよりの右手に届いた。


 あの時——鏡女郎との戦いで、蓮がひよりの手首を掴んだ。強引に。ひよりの同意なく。触媒として利用するために。


 今——ひよりの指が、蓮の左手を握り返した。


 蓮からではなく、ひよりから。


 その瞬間、接触面を起点にして共鳴が始まった。


 ひよりの透過霊力が、蓮の魔力回路に流れ込む。それは秘密神殿で禁術を発動した時と同じ感覚だった——だが、今度はひよりの側からの接続だった。ひよりが自分の意志で回路を開き、蓮の魔力に透過の性質を重ねている。蓮はその流入を受け入れた。制御しようとせず、遮断しようとせず、ひよりの判断に委ねたまま。


 共鳴が加速する。


 蓮の左手の指先——痙攣する人差し指と親指の間で、青白い光が色を変え始めた。螺旋の中に、金色の糸が混じる。ひよりの透過霊力が魔法の位相そのものを書き換え、結界と同じ周波数を持つ干渉波を生成していた。


 蓮は壇上を振り返った。四メートル先——いや、蓮がひよりの元に戻った今、壇上との距離は約十五メートルに開いている。だが結界の構造は既に読み終えていた。透過性質を帯びた魔法なら、あの網目の隙間を通過できる。外壁を砕くのではなく、すり抜ける。


 ひよりの手が、蓮の左手の中で力を失い始めた。


「——行って」


 その一語だけが、ひよりの喉から絞り出された。


 共鳴の橋渡しが完遂された。ひよりの右手が蓮の指から滑り落ち、ひよりの身体が膝から崩れた。座席の脚を掴んでいた左手も離れ、床石の上に横たわった。呼吸はある。意識もある。だが、動くための力は——一滴も残っていなかった。


 「かろうじて動ける」体力の全てを、この数秒の接続に注ぎ込んだのだ。


 蓮はひよりを座席の陰に横たえた。右腕は使えない。左手一本で、ひよりの頭が床石に直接当たらないよう、倒れた座席のクッション部分に寄せた。密約書がひよりの膝元から床石に滑り落ちていたが、ひよりの身体の陰に収まっている。今はそれでいい。


「……すぐ、終わらせる」


 喉の粘膜が裂ける感覚。声にならない声。だがひよりの琥珀色の瞳が、一度だけ瞬いた。聞こえていた。


 蓮は立ち上がり、壇上に向き直った。


   *


 左手の指先で、二重の螺旋が回転していた。


 青白と金色。異世界の魔力と、この世界の透過霊力。位相の異なる二つの力が、一本の螺旋の中で絡み合っている。


 そして——蓮は、気づいた。


 身体が軽い。


 正確に言えば、身体のどこにも「軋み」がなかった。転生後、初めてこの世界で魔法を使った時から、蓮の身体を蝕み続けてきた違和感——霊脈との位相の齟齬が引き起こす拒絶反応。吐血。内臓の侵食。使うたびに寿命を削るような、異物が血管の中を逆流する感覚。


 それが——ない。


 完全に、消えている。


 ひよりの透過霊力が触媒として魔力回路に噛み合ったことで、異世界の魔力と現代の霊脈の間にあった位相の壁が、溶けていた。根の形が合わなかった植物に、異なる土壌を橋渡しする菌糸が接続したかのように——蓮の魔法は初めて、この世界の大地と拒絶なく繋がっていた。


 七十年。


 前世の戦場で覚えた全ての術式を、この身体で解放できる。代償なく。制限なく。


 蓮の瞳の奥で、青白い螺旋が一段階加速した。


 壇上まで約十五メートル。座席列が障害物として散乱しているが、直線距離は確保できる。結界壁面まで約十メートル。


 蓮は走った。


 床石を蹴る。靴底が砕けた石材を踏み、金色の霧を切り裂く。左手だけで姿勢を補正しながら、蓮は壇上に向かって加速した。


 尾が来る。


 上方から三本が同時に振り下ろされた。蓮は減速せずに左手を振った。親指と人差し指の二点で、最小構成の偏向陣を三枚連続で展開。かつてなら身体が悲鳴を上げた連続詠唱が、今は呼吸するように回路を通過した。三枚の偏向陣が尾の軌道を逸らし、金色の先端が蓮の頭上と左右を通過して床石を砕いた。衝撃波で髪が乱れ、白シャツの裾が千切れたが、蓮は止まらなかった。


 左側面から、若手退魔師二名の結界術が壁のように展開され、蓮の左側を守った。結界に尾が激突する。二名の退魔師が歯を食いしばって術式を維持している姿が、蓮の左視界の端に映った。


 左前方から燐太郎が飛び出した。左手一本で符を三枚同時に投擲し、厳山の正面に火系統の爆発を叩き込む。直撃ではない。陽動だ。尾の注意を蓮から逸らすために、燐太郎は自分の身体を囮にしていた。


 蓮は声を出さなかった。喉が許さなかった。だが燐太郎は蓮の意図を理解していた。蓮が結界に向かって走り、燐太郎がその進路上の脅威を排除する——声も指示もなく、戦場の呼吸だけで噛み合う連携だった。


 十五メートルが十メートルになった。結界壁面まで五メートル。


 蓮の左手の二重螺旋が、回転速度を上げた。青白と金色の光が指先から前腕まで螺旋を描き、蓮の周囲の空気に干渉波を放射し始めた。金色の霧が蓮の身体の周囲だけ晴れ、床石の亀裂から噴き出す金色の光が、蓮の足元で青白い光と衝突して火花を散らした。


 結界壁面まで三メートル。


 蓮は左手を前方に突き出した。親指と人差し指の間から、透過性質を帯びた魔法が放たれた。


 金色の網目に触れた。


 砕けなかった。すり抜けた。


 六角形の連結構造の隙間を、透過波が水のように浸透していく。結界の内側と外側を隔てていた障壁が、蓮の魔法に対してだけ「存在しないもの」として振る舞った。蓮の干渉波が結界の維持構造そのものに到達し、内側から網目の接合部を切断していく。


 金色の結界が、ガラスに亀裂が走るように、全面に罅を入れた。


 そして——砕けた。


 半径五メートルの球状結界が、数千枚の金色の破片となって空中に散った。光の雨が講堂全体に降り注ぎ、床石の亀裂を照らし、天井の闇を一瞬だけ金色に染めた。


 壇上が露出した。


 結界を維持していた二本の尾が、支えるべき構造を失って床面から引き抜かれた。九本全ての尾が自由になり、壇上の上空で旋回する。だが維持に割いていた二本が攻撃態勢に戻るまでの間——わずか数秒の空白が生まれていた。


 蓮は止まらなかった。


 壇上の縁まで二メートル。蓮の靴底が壇上の石段に触れた。


 左手の二重螺旋が、蓮の全身を包むように膨張した。青白と金色の光が蓮のシルエットを飲み込み、白シャツの血染みも、麻痺した右腕も、痙攣する指先も——全てが螺旋の輝きの中に消えた。


 壇上の直下。蓮の足元から、霊脈の可視化能力が制御回路の正確な位置を映し出していた。床面から三メートル下。霊脈本流との接続点が、金色の光の柱として壇上の中央を貫いている。


 蓮は制御回路を見据えた。


 厳山が——いや、九尾の残魂と厳山の残滓が混在した存在が——壇上の中央に立っていた。蓮との距離は三メートル。金色の紋様に覆われた顔の中で、かつて温厚な笑みを浮かべていた糸目が見開かれていた。その中に、恐怖と呼べるものが初めて浮かんでいた。


 再生が——遅い。


 結界の崩壊と同時に、蓮の干渉波が制御回路の表層を既に侵食し始めていた。エネルギーの供給ラインに、透過性質を帯びたノイズが流れ込んでいる。完全な遮断ではない。だが供給効率が落ちている。


 蓮の推測は——おそらく、正しい。制御回路を断てば、再生は止まるはずだ。


 九本の尾が蓮に向かって殺到した。


 蓮は壇上の中央に踏み込んだ。


 燐太郎が壇上の左側面から飛び上がった。左手の符が二枚——風系統の結界を蓮の左側面に展開し、左方から来る尾を二本逸らした。燐太郎の靴が壇上の縁に着地し、右肩の裂傷から飛沫が散った。


 後方回り込み中だった若手退魔師一名が、壇上の背面から結界術を放った。尾の一本が背後に逸れ、壇上後方の壁面に突き刺さった。


 左側面の若手退魔師二名が、重ねた結界術でさらに二本の尾を壇上の外側に弾き返した。二枚の盾が同時に砕け、二名が衝撃で後方に滑ったが、体勢は保っていた。


 残る四本の尾が蓮を包囲するように迫る。


 蓮は四本すべてを迎撃しなかった。親指と人差し指で描いた偏向陣が二枚。正面と上方の二本を逸らす。右方と右下から来る二本は——蓮の死角を突いていた。右目の滲みが、右方からの尾の正確な軌道を掴めない。


 だが蓮は回避しなかった。


 二本の尾が蓮の右腕と右脇腹を掠めた。麻痺した右腕の袖が裂け、白シャツの右側が切り開かれた。痛覚は右腕にはない。脇腹に浅い裂傷が走り、温かいものが腰を伝った。


 蓮はそれを許容した。


 二本の尾が蓮の身体を通過する瞬間——蓮は厳山の懐に入っていた。


 三メートルが、一メートルになった。


 蓮の左手が、振り下ろされた。


 床面に向かって。親指と人差し指。痙攣が止まっていた。二重の螺旋が指先に収束し、青白と金色の光が一点に凝縮される。


 制御回路は真下にある。霊脈の可視化が映し出した位置——厳山が立つ足元の直下、床面から三メートル。


 蓮は厳山を見た。


 金色の紋様。見開かれた糸目。かつて退魔師界の頂点から全てを見下ろしていた男の顔が、一メートルの距離で蓮の視界を埋めていた。その口が開きかけている。言葉を発しようとしているのか、九尾の咆哮を上げようとしているのか——どちらとも判別できなかった。


 蓮は言葉を選ばなかった。選ぶ余裕がなかった。喉が許す音は、もうほとんど残っていなかった。


 だが、一つだけ、確かなことがあった。


 この力は、血統のために振るっているのではない。格式のために放つのでもない。


 背後に倒れているひよりのために。左側面で血を流しながら符を握り続けている燐太郎のために。恐怖の中で結界を維持し続けている若手退魔師たちのために。そしてこの場にいる全ての人間が、血筋ではなく自分の意志で立てる場所を作るために。


 蓮の左手から、二重螺旋の魔法が壇上の床面に叩き込まれた。


 青白と金色の光が、床石を垂直に貫通した。


 制御回路を直撃した。


 霊脈本流との接続点が、透過性質を帯びた魔法によって切断された。地中三メートルに埋まるエネルギー供給ラインが、内側から焼き切られるように断裂していく。金色の光の柱が明滅し、脈動が途切れ——消えた。


 壇上の床面から噴出していた金色の光が、急速に減衰した。


 そして——断たれた制御回路の崩壊点から、行き場を失ったエネルギーが逆流した。蓮の二重螺旋に引き裂かれた供給ラインが、床面を突き破って垂直に噴き上がる。壇上の中央を貫く光の柱が、制御回路の直上に立つ厳山の胸を——下方から射抜いた。


 制御回路と、厳山の肉体を、一つの垂直線上で。


 青白と金色の二重螺旋が厳山の胸部を通過した。一・七秒で再生していた肉体が——再生しなかった。供給が断たれた。再生のためのエネルギーが、もう流れてこない。


 厳山の身体が、壇上の中央で硬直した。


 九本の尾の動きが止まった。結界崩壊後、全てが攻撃に転じていた九本が、糸を切られた操り人形のように一斉に垂れ下がった。金色の光が尾の表面から急速に褪せていく。


 講堂が静まった。


 異界化の侵食が止まっていた。壁の亀裂の拡大が停止し、床石から噴き出していた金色の光が弱まり、浮遊していた石材が重力に引き戻されて床に落ちた。鈍い衝突音が連続して響き、それが途切れた後には——金色の霧の中に立つ二つの人影だけが残った。


 蓮と厳山。


 一メートルの距離。


 厳山の糸目が——今度は細く、薄く、開いていた。金色の紋様に覆われた顔の中で、その目だけが人間の色を保っている。驚愕でも怒りでもなかった。蓮はその表情を、「理解」と読んだ。


 自分が負けたという事実を、厳山の中に残った知性が——認識していた。


 蓮の周囲に立ち込めていた金色の霧が晴れ始め、講堂の全景が見渡せるようになった。


 壁際に張りついていた退魔師たちの姿が、蓮の視界に入った。恐怖で動けなかった者たち。逃げ遅れた者たち。そして——蓮と厳山の戦いを、最初から最後まで見ていた者たち。


 彼らの目が、壇上を見ていた。


 血統で選ばれた退魔師界の頂点が、金色の化け物に変わり果て——無血統の少年の魔法に貫かれて、立ち尽くしている。


 「血統こそが正義」。


 この講堂で、何十年もの間、定例総会のたびに確認されてきた常識。土御門宗家の当主が座る壇上から発される言葉として、疑いようのない真実として、全ての退魔師の判断基準の土台に据えられてきた信念。


 それが——壇上の上で、崩れていた。


 血統を持たない少年が、血統の頂点を貫いた。その光景を、全退魔師が目撃した。


 静寂の中に、金属が軋むような音が響いた。


 厳山の胸からだった。


 二重螺旋が貫いた傷口から——金色ではない、どす黒い光が滲み出していた。蓮の魔法が制御回路を断ったことで、供給を失った九尾の力が行き場を失い、厳山の肉体の中で暴走を始めている。


 九本の尾が、一斉に痙攣した。


 金色の光が尾の表面から剥がれ落ち、その下から——黒と紫の入り混じった、怨念としか呼べない色が露出した。千年を生きた獣の残魂が、宿主の制御を完全に離れ、最後のエネルギーで暴走しようとしている。


 厳山の口が開いた。声ではなかった。金属を引き裂くような、人間の声帯では生成できない周波数の咆哮が、講堂を震わせた。天井の残存していた照明が全て破裂し、ガラスの破片が雨のように降り注いだ。


 厳山の身体が、内側から膨張し始めた。


 金色の紋様が黒く変色し、皮膚の表面にひび割れが走る。九本の尾が根元から崩れ、どす黒い怨念の渦に変わっていく。それは厳山の肉体を中心に螺旋を描き、上方に立ち昇り、講堂の天井を覆うほどの巨大な渦となって——厳山を飲み込もうとしていた。


 蓮は一メートルの距離から、その光景を見ていた。


 供給を断たれた九尾の残魂が、最後の足掻きとして宿主を食い破ろうとしている。残魂の中に残っていた千年の怨念と飢餓が、厳山の肉体という最後のエネルギー源に牙を剥いている。


 厳山の目が——人間の色を保っていた目が——蓮を見ていた。


 怨念の渦の中で、金色の紋様が黒く染まっていく顔の中で、その目だけが——かすかに、何かを伝えようとしていた。


 蓮の足は、壇上に立ったままだった。

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