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第24話「殴り込み」

 通路は長かった。


 石壁に反射する足音が二人分——正確には一人半分だけ、暗闇に落ちていく。蓮の左肩にひよりの全体重がかかっている。華奢だと思っていた身体が、支え続けるには十分に重い。蓮の左腕の前腕部でひよりの脇を固定し、ひよりの右腕を蓮の首の後ろに回す形で、二人は地上への傾斜を一段ずつ登っていた。


 ひよりの裸足が石段を踏むたびに小さく滑る。擦過傷の残る足裏が冷たい石に張りつき、剥がれる。その微細な振動が、蓮の体幹に伝わってくる。


 蓮の右腕はポケットの中で垂れたまま揺れている。麻痺は変わらない。左手の人差し指と親指が、ひよりの上着の布地に食い込むように痙攣を繰り返していた。中指は圧覚しか返さない。薬指は何も返さない。その二本が添えてあるだけの飾りのように、布の上で静止している。


 五十三段。


 蓮は段数を数えていた。降りた時の記憶と照合している。あと二十段で最初の踊り場、その先に横穴が三つ、最後の直線階段を上れば地上だ。


 ひよりの呼吸が浅い。三段ごとに一度、膝が折れかける。そのたびに蓮の左前腕が体幹ごとひよりを押し上げる。


「……大丈夫」


 ひよりが言った。声というよりも、喉の奥で鳴った空気だった。


 蓮は答えなかった。喉が許さない。代わりに、一段の歩幅をわずかに狭くした。ひよりの歩幅に合わせたのではない。これ以上膝が折れる回数が増えれば、蓮の左前腕の痙攣が保持力の閾値を割る。計算の結果だ。


 七十三段目で踊り場に出た。横穴の暗がりから、かすかに外気の匂いが流れ込んでくる。土と、夜明け前の湿気。地上が近い。


 蓮の瞳孔の奥で、青白い螺旋が静かに回転し続けていた。


 魔法が在る。


 八十七年——前世の七十年と、この世界の十七年。その全ての時間を通じて初めて、蓮の内側に満ちている力に拒絶がなかった。使えば吐血する、という前提が消えている。回路を開いても身体が壊れない。その事実が、蓮の思考の速度を静かに加速させていた。


 最後の直線階段。十四段。蓮は一段ずつ、ひよりの体重を左半身で受けながら登った。


 光が見えた。


 階段の上端から差し込む、灰色がかった早朝の空気。石壁の切れ目に、雑草と泥にまみれた地面が見える。蓮は最後の一段をひよりごと押し上げ、地上に出た。


 冷たい空気が肺に入った。


 周囲は——廃工場の敷地だった。錆びたフェンスの向こうに雑木林が見える。空は薄曇り。東の空がわずかに白んでいる。夜明け直後。秘密神殿に潜入したのが深夜だったから、地下での戦闘と封印解除に数時間を費やした計算になる。


 蓮の足元の地面に、金色の光が淡く走った。


 霊脈の投影。禁術の副次効果が、意識せずとも蓮の視界の底に重なっている。地中数メートルを流れるエネルギーの経路が、透明な光の線として地表に映し出される。線は北北東へ偏向していた。変わらない。この下を流れる全てが、一つの方角へ引き寄せられている。


「——蓮」


 声が飛んだ。


 廃工場の建屋の影から、三つの人影が駆け寄ってくる。先頭の一人は、隙のない足運びで距離を詰めてきた。


 御影燐太郎(りんたろう)


 符嚢を腰に提げ、霊具を両手に構えた臨戦態勢のまま、燐太郎は蓮とひよりの前で足を止めた。その背後に、燐太郎の陽動部隊の退魔師が二名。全員が消耗している。衣服に土埃と裂傷。燐太郎の左頬に薄い切り傷が走っていた。乾いた血が線になっている。


 燐太郎の視線が、蓮の瞳に止まった。


 青白い螺旋。


 燐太郎の表情が一瞬だけ固まり——すぐに、何かを呑み込むように顎を引いた。


「封印を破ったか」


 蓮は頷いた。声は使わない。


 燐太郎の目がひよりに移った。蓮の左肩に全体重を預けている華奢な身体。裸足。擦過傷。焦点の合いにくい琥珀色の瞳。意識はあるが、立っているのは蓮の左腕だけが理由だった。


「神楽坂」


 ひよりが小さく頷いた。それだけで精一杯だった。


 燐太郎は二秒で状況を把握した。蓮の右腕が動いていないこと。左手の指が異常な痙攣を起こしていること。ひよりが自力で立てないこと。そして、蓮の瞳の奥に宿る光が、以前とは質の異なるものであること。


「状況を伝える」


 燐太郎の声は簡潔だった。感情を排した報告の声。蓮が最も聞き取りやすい形式だと知っている。


「今朝、厳山が臨時招集をかけた。全退魔師に対してだ。大講堂に一時間以内の集合を命じている。名目は——」


 一拍。


「霊脈枯渇の危機に対する『緊急統制令』の発布」


 蓮の眼が細くなった。


「俺の分析はこうだ」燐太郎は続けた。「神殿に配置した精鋭部隊の定時連絡が途絶えた。厳山はそれで神殿の異変を察知したはずだ。お前の封印が破られた可能性を読んで、お前たちが態勢を整える前に退魔師界の統制を既成事実化しようとしている。前回の定例総会での封印決議を足がかりにした、独裁の完成だ」


 蓮は燐太郎を見た。


 燐太郎は蓮の視線を受けて、静かに付け加えた。


「招集は今朝だ。おそらくもう始まっている。厳山が壇上で演説を終える前に入らなければ、統制令は全会一致で通る。あの男の前で反対票を投じられる退魔師は、この場にいる人間以外にはいない」


 蓮の視線が、東の空を向いた。


 退魔局の方角。ここから——蓮は地形を脳内で照合した。秘密神殿の位置は東京郊外。大講堂までの直線距離は概算で十数キロ。徒歩では間に合わない。


「足はある」


 燐太郎が言った。蓮の思考を読んだように。


 建屋の裏手に、黒塗りの車両が停まっていた。陽動部隊が使用した車だ。燐太郎の部下の一人が運転席のドアを開けている。


 蓮はひよりを見た。ひよりの琥珀色の瞳が、薄く開いたまま蓮を見返していた。


「……行くんでしょ」


 ひよりの声は掠れていた。だが、その三語には迷いがなかった。


 蓮は何も言わず、車に向かって歩き出した。ひよりの体重を左半身で受けたまま。一歩ごとに、ひよりの裸足が冷たいアスファルトを踏む音が鳴った。


 車の後部座席に、蓮はまずひよりを座らせた。左前腕でひよりの背中を支え、シートに下ろす。ひよりの頭がヘッドレストに預けられた。目を閉じた。閉じた瞬間に意識が落ちかけ、すぐにまた薄く開いた。


 蓮はその隣に乗り込んだ。


 燐太郎が助手席に座り、部下が運転席に入った。もう一人の部下は別の車両で後続するのか、建屋の方へ走っていく。


 エンジンが掛かった。


 車が動き出す。廃工場のゲートを抜け、舗装された一般道に出た。早朝の道路はまだ交通量が少ない。車窓の外を、住宅街の屋根が流れていく。日常の風景。退魔師の戦争など知らない世界の朝。


 蓮は後部座席で、天井を見ていた。


 思考が回っている。


 投影。


 前夜、禁術の副次効果として発見した霊脈の可視化。足元の地中を流れるエネルギーの経路が、光の線として空間に映し出される。蓮はあの瞬間、「流れの全体偏りを映す増幅再現は可能」と判断した。原理の全容は掴めていない。だが、必要なのは精密な学術解析ではない。


 蓮が大講堂でやるべきことは一つだけだ。


 土御門の神社群へ霊脈が不自然に集中している事実を、あの場にいる全退魔師の目に焼きつける。


 「見せる」こと。それだけだ。


 霊脈の流れに干渉するのではない。操作するのでもない。可視化の範囲を広げ、増幅し、講堂の空間全体に投影する。地下数十メートルを流れるエネルギーの偏向パターンを、全員が同時に目撃する状況を作る。


 蓮は目を閉じた。


 回路を内側でなぞる。禁術「異体系の融合」が安定稼働している状態で、副次効果の投影範囲をどこまで広げられるか。前夜に見えたのは足元の数メートル四方だった。あれを講堂全体——数十メートル四方に拡大する。解像度は落ちる。細かい数値は出せない。だが、「流れがどの方角に偏っているか」を示す粗い地図としてなら、十分に機能する。


 蓮は目を開けた。


「燐太郎」


 声を出した。喉の奥で粘膜が裂ける感触。鉄の味。二語が限界だった。


 燐太郎が振り返った。


「データは」


 燐太郎は即座に理解した。腰の内ポケットから、小さな外部記録媒体を取り出して見せた。


「ある。霊脈の偏向を示す観測データだ。改ざん前のものも含めて、数値として証拠になる。ただし——」


 燐太郎の声がわずかに硬くなった。


「数値だけでは弱い。厳山は『解釈の違い』で押し通す。前回の総会でそうしたように。あの男が最も恐れるのは、『解釈の余地がない事実』を全員が同時に見ることだ」


 蓮は燐太郎を見た。


 見た。それだけで十分だった。


 燐太郎は、蓮の瞳の奥の青白い螺旋を見返して——小さく頷いた。


「お前が何をするつもりか、聞かない。だが、やれるなら今日しかない」


 車が首都高に入った。早朝の高速道路を、法定速度を超えた速度で東京の中心部へ向かっている。


 後部座席で、ひよりの頭が蓮の左肩に傾いた。意識が揺れている。だが、ひよりの左手が——密約書の入った封筒を、自分の膝の上でしっかりと押さえていた。力の入らない手で、それだけは離さなかった。


 蓮はそれを横目で見た。


 二十分後には、大講堂に着く。


   *


 退魔局の建物が見えた。


 車が敷地の外周で停まる。蓮は後部座席から、建物の上層部に張られた結界の光を視認した。通常の結界ではない。臨時招集に合わせて増強された防御結界だ。講堂全体を包む半球状の霊力の膜が、蓮の投影された視界の中で青白い格子として浮かんでいる。


 蓮は車を降りた。左前腕でひよりの脇を支え、引き出す。ひよりは封筒を自分の胸元に押し当てたまま、シートから身体を起こした。裸足がアスファルトに触れた。体重が蓮の左半身にかかる。ひよりは目を開けていたが、焦点は合っていない。左腕で封筒を胸に抱え込む姿勢だけが、意志の残滓のように固定されていた。


 燐太郎が車の反対側から降りた。


「正面入口は封鎖されている。結界の構成は——」


「要らない」


 蓮が言った。二語。喉が焼ける。だが、それで足りた。


 燐太郎が言葉を止めた。


 蓮はひよりを支えたまま、建物の正面に向かって歩き出した。燐太郎が半歩遅れてついてくる。


 結界が近い。蓮の投影視界に、格子の構造が鮮明に映っている。霊術による結界。型と属性に基づいた、この世界の術式。予備動作があり、構成にパターンがあり、維持に術者の霊力を消費する。


 蓮が知っている結界とは——根本的に原理が違う。


 蓮は歩きながら、左手の人差し指と親指を持ち上げた。痙攣が走る。だが、もう指で魔法陣を描く必要はなかった。禁術の発動以降、回路は蓮の意志に直接応答する。


 指先に青白い光が灯った。


 蓮はその光を、結界に向けて——押した。


 音がした。


 ガラスを内側から叩き割るような、硬質で透明な破壊音。結界の格子が、蓮の正面から放射状に亀裂を走らせ、砕けた。霊力の破片が空気中に散って消える。数秒。それだけで、大講堂の正面を覆っていた結界の一区画が消滅した。


 拒絶反応はなかった。


 吐血も、侵食の痛みも、身体の軋みもない。魔力を使った。結界を破壊した。それだけの事実が、蓮の内側で静かに確定した。八十七年で初めての感覚だった。力を使うことが、身体を壊すことと等号で結ばれていない。


 燐太郎が横で息を呑んだのが気配で分かった。


 だが蓮は立ち止まらなかった。結界の裂け目を通り抜け、建物の正面扉に向かう。ひよりの体重を左半身で受けたまま。


 扉の前で、蓮はもう一度——左手の指先に光を灯した。


 扉が吹き飛んだ。


 蝶番が捻じ切れ、重い木製の両開き扉が講堂の内側に倒れ込む。埃と破片が舞い上がり、朝の光が暗い講堂の内部に一筋の柱となって差し込んだ。


 その光の中に、蓮が立っていた。


 ひよりを左肩で支え、右腕をポケットに垂らし、血染みの白シャツのまま。瞳の奥に青白い螺旋を回転させたまま。


   *


 大講堂の内部は、静止していた。


 数百人の退魔師が席を埋めている。壇上には土御門厳山(げんざん)が立っていた。五十代後半から六十代の恰幅の良い体格。ロマンスグレーのオールバック。和洋折衷の上質な服。常に浮かべている温厚な笑みが——扉の破壊音で、薄い仮面のように固まっていた。


 蓮は講堂の後方入口に立っている。壇上の厳山までの距離は約三十メートル。客席の通路が壇上に向かって真っ直ぐ伸びている。数百の顔が、一斉に後方を振り返っていた。


 時間が引き伸ばされた。


 蓮は、この空間を知っていた。前回の定例総会。この場所で、厳山の政治力に封殺された。同調圧力と権威で、蓮の言葉は一語も客席に届かなかった。正論を言っても、正しいことを証明しても、厳山が「秩序の維持」を唱えれば全員が頷いた。あの日、蓮が学んだのは——言葉では、この男に勝てないということだった。


 だから今日、蓮は言葉で勝つつもりはない。


 厳山が口を開いた。


「——朝霧蓮」


 温厚な声。だが、目は笑っていなかった。糸のように細められた目の奥に、氷点下の計算が走っている。


「封印を解いたか。どうやったかは問わない。だが、この場は全退魔師の正式な——」


 蓮は歩き出した。


 厳山の言葉を遮ったのではない。聞いていなかった。蓮の意識は、すでに足元に向いていた。


 大講堂の床。その下、地中深くを流れる霊脈。東京の中枢に位置するこの建物の直下には、霊脈の本流が通っている。投影の視界に、巨大なエネルギーの流れが光の線として映っている。太く、密度が高く——そして、明確に偏向している。


 蓮は通路の中央を歩いた。ひよりを左肩で支えたまま、ゆっくりと。数百人の退魔師が左右から蓮を見ている。視線の圧力が物理的な壁のようだったが、蓮の歩みは変わらない。


 壇上から十五メートルの位置で、蓮は足を止めた。


 厳山がまだ何かを言っていた。「秩序」「手続き」「危機」——蓮の耳にはその断片だけが届いている。


 燐太郎が蓮の二歩後ろに立った。その手に外部記録媒体が握られている。


 蓮は、目を閉じた。


 回路を開く。


 禁術「異体系の融合」が安定稼働している状態で、副次効果——霊脈の可視化。前夜に発見した投影の範囲を、意志で広げる。足元の数メートルから、十メートル、二十メートル。魔力が回路を通じて空間に染み出し、地中のエネルギーの経路を光として空間に引き上げていく。


 解像度は粗い。個々の支流の細かな分岐は見えない。だが、本流の太さと方向、集中の偏り——それだけで十分だった。


 蓮は、目を開けた。


 大講堂の空間が——変わった。


 床全体に、金色の光の線が走った。地中深くを流れる霊脈の経路が、講堂の空間に立体的に投影されている。光の線は床から湧き上がり、空中に浮かぶ糸のように講堂全体を貫いていた。太い線、細い線、枝分かれする流れ。それらが形作る地図が、数百人の退魔師の頭上に広がった。


 そして——全員が見た。


 光の線の大半が、一つの方角へ引き寄せられていた。


 北北東。


 霊脈の本流が、支流が、細い枝分かれの一本一本までもが、不自然なほど明確に一つの方角へ偏向している。そこには——蓮が見なくても、この場の全員が知っている——土御門宗家の神社群があった。


 東京中の霊脈が、一つの家の敷地に吸い込まれている。


 その事実が、光の地図として、数百人の目の前に晒された。


 講堂が静まり返った。


 解釈の余地はなかった。数値ではない。グラフでもない。言葉でもない。この場にいる全員が退魔師であり、霊脈の流れを感覚として理解できる人間だった。目の前に浮かぶ光の線が何を意味するか——それを「解釈の違い」で片付けられる者は、この数百人の中に一人もいなかった。


 厳山の顔が、蓮の位置からでも分かるほどに変わった。温厚な仮面が剥がれ、その下にあった冷酷な計算も消え——残ったのは、初めて制御を失った人間の顔だった。


「これは——」


 厳山が何かを言いかけた。


 その瞬間、蓮の隣で——ひよりが動いた。


 蓮の左肩から身体を起こした。焦点の合わない琥珀色の瞳に、最後の力を絞るような光が宿った。ひよりは左腕に抱えていた封筒を蓮の胸に押し当て、蓮の体で固定した。そのまま左手の指先だけを動かして封筒の口を開き、中から一枚の書類を引き抜いた。


 密約書。


 土御門と神楽坂本家の間で交わされた覚書。ひよりが実家の軟禁を脱出する際に持ち出した、厳山の陰謀の物証。


 ひよりはその書類を、震える手で頭上に掲げた。立っているのは蓮の左腕だけが理由だったが——掲げた左手だけは、ひよりの意志で持ち上がっていた。


「密約書」


 ひよりの声は掠れていた。だが、静まり返った大講堂の中では、その声は壇上まで届いた。


「土御門と……神楽坂本家の」


 それ以上は出なかった。声が途切れた。ひよりの腕が下がりかけ、蓮の左前腕がひよりの身体を支え直した。


 だが、十分だった。


 燐太郎が一歩前に出た。


「全退魔師に告げる」


 燐太郎の声は、この場で最も通る声だった。正統な天才退魔師。名門の血。厳山が最も信頼していた次世代の一人。その男が、家紋を裏返した姿で壇上を見据えている。


「土御門厳山は、霊脈の観測データを改ざんし、東京の霊脈を土御門の神社群に独占的に集中させていた。今、諸君の目の前に映っている光が、その証拠だ。そしてこの密約書は、土御門が神楽坂本家と交わした秘密の覚書であり——」


 燐太郎は外部記録媒体を高く掲げた。


「——俺が独自に入手した改ざん前の霊脈観測データと、全てが一致する」


 数百人の退魔師の間から、声にならないざわめきが広がった。椅子が軋む音。誰かが立ち上がった音。隣同士で何かを囁き合う音。その全てが、一つの巨大な波紋のように講堂を満たしていく。


 蓮は壇上を見ていた。


 厳山の顔を。


   *


 厳山は動かなかった。


 十秒。二十秒。壇上で直立したまま、数百人の視線と、頭上に広がる霊脈の光の地図を受けていた。


 蓮は、厳山の目を見ていた。十五メートルの距離。蓮の右目の端の滲みが視界を曖昧にしていたが、左目で捉えた厳山の表情は——蓮の予測のどれとも一致しなかった。


 弁明を始めると思っていた。あるいは、退魔師たちに「冷静な判断」を呼びかけると。厳山という男は、政治的な危機に対して政治的な手段で応じる人間だった。前回の定例総会がそうだった。正論を「秩序の維持」で包み込み、同調圧力で封殺する。その技術に関しては、蓮は厳山に勝てないことを知っていた。


 だが、厳山は弁明しなかった。


 厳山の目が——変わった。


 温厚さでも、冷酷さでもない。もっと原始的な何か。追い詰められた人間が、最後の手段に手をかけた時の目。蓮は前世の戦場で、その目を何度も見ていた。合理的な判断が消え、「これしかない」という一点に全てが収束した人間の目だ。


 厳山が、壇上の床に片手をついた。


 その手から、蓮には見覚えのない術式が走った。霊術ではない。霊術の型を使ってはいるが、その下に——もっと深い層の、この建物の構造そのものに組み込まれた制御回路を呼び起こす動作だった。


 蓮の投影視界が、赤く明滅した。


 足元の霊脈の光の線が——動いた。


 偏向が強まっている。北北東への引力が、リアルタイムで増大していく。厳山が講堂の結界と地下の制御術式を掌握し、土御門管理下の供給ラインをさらに神社群へ寄せている。上書き固定。厳山は逃げ場を失った弁明の代わりに、「この偏りは危機対応のための正当な措置だった」と既成事実を積み上げるつもりだ。会場ごと自分の支配下に置く——厳山らしい、反射的な統制行動。


 だが。


 蓮の思考が、一瞬で冷えた。


 秘密神殿の中枢は、前夜にすでに破壊した。厳山の管理網の末端は欠落している。調整の余地がない状態で、上書き固定を強行すれば——


 蓮の投影視界の中で、地中深くの光の線が痙攣した。


 霊脈本流が——跳ねた。


 制御がきかない。厳山が供給を絞り上げようとした瞬間、流れの中の何かが——反応した。蓮の投影では捉えきれない深さで、巨大なエネルギーの塊が動いた。流れに逆らうのではなく、流れそのものに噛みつくような動き。


 厳山の手が、床から跳ね上がった。


 自分で跳ね上げたのではない。弾かれた。厳山の顔に——蓮がこの男の顔で初めて見る表情が浮かんだ。


 恐怖。


 純粋な、理解の外にある恐怖。


 厳山の首筋に、金色の光が走った。


 蓮は知らなかった。厳山の首筋に金色の紋様があったことを。それはこれまで、衣服の下に隠れていた——あるいは、肉眼では見えないほど薄かったのかもしれない。だが今、その紋様が明確に浮かび上がり、顎の線を超え、左頬に向かって這い上がっていた。


 厳山が自分の首筋を掴んだ。


「——やめ、ろ」


 厳山の声が震えていた。誰に向けた言葉なのか——蓮には分からなかった。この場の誰かに向けたのではない。厳山は自分の身体の中の何かに向かって、命令していた。


 金色の紋様が、右手の甲に、胸元に、額に広がっていく。衣服の上からでも見える光の脈動。体内を流れる何かが、厳山の皮膚の下で暴れている。


 講堂の空気が変わった。


 温度が下がったのではない。質が変わった。人間の集まる空間の空気が、それとは別の何かに侵食され始めている。蓮の投影視界の中で、地中の霊脈の光が激しく揺れた。本流が——ここに向かって集中している。講堂の直下に。厳山の足元に。


 厳山の背後の空間が、歪んだ。


 蓮の瞳が——反射的に見開かれた。


 金色だった。


 厳山の背後から、光の帯が噴き出していた。それは——尾だった。金色の、巨大な妖狐の尾。一本、二本、三本——。蓮の目が数を追った。四、五、六。まだ増える。七、八——九。九本の尾が、全て金色に発光し、講堂の天井に向かって扇状に広がっている。尾の一本一本が実体を持ち、空気を叩いて揺れるたびに、講堂の壁が軋んだ。


 蓮は知らなかった。


 厳山が——これを抱えていたことを。


 蓮の大賢者としての知識が、目の前の現象を必死に分類しようとしていた。妖狐。九尾。千年を生きた上位妖怪の——残魂。完全な知性を持たない、飢えた獣のような存在。霊脈の流れに寄生し、宿主の意識の隙間に食い込む。宿主が霊脈本流に触れた瞬間に、本能が先に立ち——


 蓮は理解した。


 厳山は知らなかったのだ。


 自分の中にこれが居ることを。長年、退魔師界の統制のために霊脈を操作し続けてきた。その判断の一つ一つが、本当に厳山だけの判断だったのか——それとも、体内に巣食う残魂に微細に誘導されていたのか。蓮には分からない。だが、最後の最後で統制を押し切ろうとした瞬間に、その寄生者が宿主の命令系を乗り越えた。


 厳山が膝をついた。


 温厚な笑みも、冷酷な計算も、追い詰められた意志も——全てが消えていた。壇上に膝をついた厳山の顔にあったのは、自分の身体の中で蠢く何かに対する、純粋な困惑だけだった。


「なん、だ——これは——」


 厳山の声は、もう厳山だけの声ではなかった。その底に、もっと古い、もっと深い振動が混ざり始めていた。


 金色の尾が一斉に広がった。


 講堂の天井に亀裂が走った。壁が歪んだ。床の石材が浮き上がり、空気中に霊力の粒子が目に見える密度で充満し始めた。蓮の投影視界が飽和して途切れた——地中の霊脈が暴走し、可視化の限界を超えたエネルギーが講堂の直下に殺到している。


 退魔師たちが悲鳴を上げて席を立った。椅子が倒れる音。結界を張ろうとする者、出口に向かって走る者。数百人の人間が一斉にパニックに陥った空間の中で——


 蓮は動かなかった。


 蓮の左半身にひよりの全体重がかかっていた。ひよりの琥珀色の瞳が、壇上を見ていた。焦点の合わない目で——それでも、壇上の厳山を、金色の尾を、講堂を呑み込もうとする異変を、見ていた。


 蓮の黒曜石の瞳が、壇上の厳山を捉えていた。


 金色の紋様に覆われた顔。背後から扇状に広がる九本の妖狐の尾。膝をついたまま、自分の身体の制御を失った男。退魔師界の頂点に立ち、血統と秩序の名の下に全てを支配しようとした男が——自分でも理解できない何かに、内側から呑まれていく。


 講堂の空間が変質し始めていた。壁と天井の間に、人間界のものではない光の紋様が走る。石材の継ぎ目から金色の霧が噴き出し、空気が重くなる。異界の侵蝕。厳山を中心に、講堂全体が——別の何かに塗り替えられていく。


 蓮の瞳孔の奥で、青白い螺旋が回転していた。


 利用されていたのは、厳山自身だった。


 霊脈の独占も、血統主義も、緊急統制令も——厳山の意志だったのか、残魂の誘導だったのか。その境界はもう誰にも分からない。だが、歪んだ信念の上に九尾の残魂が食い込んでいたことだけは、蓮の前世の知識が告げていた。宿主の強い執着が、寄生者の最良の養分になる。


 蓮は左手を持ち上げた。残った二本の指が震えていた。


 魔法が在る。拒絶がない。


 目の前に、この世界で最も危険な存在が顕現しつつある。


 蓮は——八十七年の全てを持って——壇上を見据えた。

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