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第21話「狐狩り」

 封印された回路の、そのさらに底を、何かが掠めた。


 足が止まった。


 蓮は路地の壁にもたれ、呼吸を整えた。東の空はとうに白んでいる。住宅街の隙間から差し込む朝の光が、血で固まった白シャツの襟元を照らしていた。天神橋の南詰まで、残り三百メートルほど。燐太郎が指定した合流時刻はとうに過ぎている。通信手段はない。遅れた理由を伝える方法もない。


 ——今の、は。


 封印の膜は分厚い。厳山があの定例総会で見せた政治力と同じ精度で編まれた、情報的ロック。蓮の魔力回路は完全に塞がれている。外から叩いても、内側から押しても、びくともしない。


 だが、その膜の内側——回路の最深部に沈んでいる蓮固有の波形を、何かが、外から撫でた。


 触れた、のではない。透過した。膜の表面を素通りし、回路の構造を一切変えないまま、奥にある波形だけに接触する。そんな干渉は、この世界の霊術の体系には存在しない。出力型の干渉では原理的に不可能だ。


 蓮の脳裏に、一つの波形の記憶が浮かんだ。


 鏡女郎の結界内で、強制的に触媒として利用した——あの透過の残響。


 方角が、分かった。


 言葉ではない。座標でもない。封印の膜を透かして届いた振動が、身体の内側に方位磁針のような引力を残している。北北西。天神橋とは逆方向。住宅街の奥。


 合理的に考えれば、無視すべきだ。燐太郎との合流が最優先。情報の照合、戦力の確保、秘密神殿への到達——全てが天神橋を起点に設計されている。ここで動線を変えれば、燐太郎との連絡が途絶える。


 蓮の左手が、ポケットの中で拳を握った。人差し指と親指だけが反応し、中指は圧覚だけを返し、薬指は何も感じなかった。肘から先に走る痙攣が、思考のリズムを乱す。


 ——あの信号が本物なら。


 ひよりが、外に出ている。


 本家の地下牢に囚われていたはずの神楽坂ひよりが、自力で脱出し、蓮に向けて信号を送った。それが意味することは一つしかない。あの女は何かを掴んでいる。密約書か、証拠か——蓮が持っていない情報を、持っている。


 天神橋に向かう足が、止まった理由はそれだけだった。感傷ではない。情報の優先順位が変わっただけだ。


 ——まず、南詰まで行く。痕跡を残す。


 蓮は壁から背を離し、残りの三百メートルを歩いた。足裏の打撲が一歩ごとにアスファルトの硬さを押し返してくる。右腕はポケットの中で揺れている。


 天神橋の南詰。橋の欄干の手前、歩道と車道の境にあるガードパイプの支柱。燐太郎が合流地点として指定した目印だ。蓮は支柱の根元に目を落とした。歩道の縁石の継ぎ目に、砂利が溜まっている。


 左手の人差し指で、三つの小石を拾い上げた。中指では掴めない。親指と人差し指の二本だけで、石を一つずつ配置する。


 支柱の根元、歩道側。三つの石を北北西の方角に向けて矢印状に並べた。


 燐太郎がこの合流地点に来れば、最初に確認するのはこの支柱の周辺だ。合流相手がいない。だが足元に矢印がある——「ここには行かない。この方角に移動した」という最低限の意味は伝わる。粗末な暗号だが、あの男の観察力なら読み落とすことはない。


 蓮は橋に背を向け、北北西へ歩き始めた。


 歩くたびに、封印された回路の奥で、残響がかすかに脈打っていた。


   *


 見つけたのは、住宅街の外れだった。


 朝の六時を回った頃。通勤の車がまばらに走り始めた片側一車線の道路の歩道を、白い髪の少女が歩いていた。


 裸足だった。


 足裏がアスファルトに触れるたびに、微かな赤い跡が点々と続いている。砂利で切った傷口が、まだ塞がっていない。プラチナブロンドのボブカットが朝日に透けて、輪郭だけが逆光の中に浮かび上がっている。右肩がわずかに下がっている——打撲だろう。左手は懐を押さえるように胸元に当てられ、その手のひらの付け根の皮膚が剥けて赤黒く滲んでいた。


 蓮は二十メートル手前で足を止めた。


 この距離では表情の細部は読めない。朝日が正面から差しているため、少女の顔は影になっている。だが、歩き方で分かった。膝が硬い。両膝の擦過傷が曲げるたびに引きつっているのだ。それでも歩幅は一定で、身体の軸は揺れていない。意志の力だけで足を前に出している歩き方だった。


 蓮は声を出さなかった。出せない、という方が正確だった。喉の粘膜は昨夜の戦闘で限界を超えている。無理に声を絞れば、粘膜がさらに裂ける。


 代わりに、足元の小石を靴の爪先で蹴った。


 石がアスファルトの上を低く跳ね、乾いた音を連ねながらひよりの足元の手前で転がり止まった。


 ひよりの足が止まった。


 振り向いた瞬間、蓮は逆光の中に琥珀色の瞳を見た。——正確には、見たと思った。この距離と光量では瞳の色までは識別できない。だが、あの視線の角度と、首の動かし方は間違えない。


 神楽坂ひより。


 ひよりは蓮を認識した瞬間、足を踏み出しかけて——止まった。三歩分の距離を詰めようとした身体を、自分で引き留めた。懐を押さえる左手に力が入り、胸元の密約書を確かめるように指先が動いている。


 蓮もまた、歩み寄らなかった。


 二人は二十メートル近い距離を置いたまま、五秒ほど互いを見ていた。朝の空気が二人の間を流れ、どこかの家の換気扇が低く回る音だけが聞こえていた。


 蓮が先に動いた。左手で自分の背後を指した。この通りの二ブロック先に、蓮が天神橋へ向かう途中で確認していた空き地がある。その奥に、鉄板で窓を塞がれた廃工場の建物が見えていた。あそこなら、しばらくは目につかない。


 ひよりは何も言わずに頷いた。


 蓮が先に歩き始め、ひよりが十メートルの間隔を保ったまま後に続いた。蓮は歩きながら、ひよりの足音を聞いていた。裸足がアスファルトを踏む湿った音。一定の間隔。速くも遅くもならない。あの女は限界に近いはずだが、蓮に歩調を合わせろとは言わなかった。


   *


 廃工場は、かつて金属加工に使われていたらしい。


 蓮は裏口に回った。金属製の業務用扉——取っ手は腐食して根元から折れ、錠前も錆で固着したまま半壊している。蓮は左肩を扉に当て、体重をかけて押し込んだ。錆びた蝶番が鈍く軋み、扉が内側に五十センチほど開いた。身体を横にして隙間を通り抜ける。


 内部は埃っぽかった。天井は高く、工場特有の鉄骨トラス構造が薄暗い中に見える。窓は全て鉄板で塞がれているが、天井近くの換気口から朝の光が細い筋になって差し込んでいた。コンクリートの床には、古い機械の据え付け跡と油染みが残っている。壁際に錆びた作業台が二つ、奥の隅に崩れかけた木製パレットが積まれていた。出入口はこの裏口の扉と、正面のシャッター(完全に下りている)の二箇所。


 蓮は左肩で扉を押さえたまま、ひよりが入るのを待った。


 ひよりは開いた扉の隙間に身体を通す際、右肩が扉の縁に触れそうになって咄嗟に身を縮めた。打撲した右肩を庇う動作。左手で扉の反対側の縁に手をかけようとして、剥けた手のひらが金属に触れた瞬間、小さく息を吸った。それでも声は上げなかった。


 二人が中に入った後、蓮は左肩で扉を引き戻した。錆びた蝶番の摩擦で扉は元の位置に留まる。外から見れば、閉まったままの廃墟の裏口でしかない。


 ひよりは壁際の作業台の前まで歩き、台の縁に手をついてゆっくりと座り込んだ。コンクリートの床に直接座る形になる。蓮はその対面、三メートルほど離れた位置で壁に背を預けた。立ったままだった。座れば、この身体では立ち上がるのに時間がかかる。


 天井の換気口から差し込む光の筋が、二人の間の床を斜めに横切っていた。


 ひよりが先に口を開いた。


「……生きてたの」


 声は掠れていた。二日間の拘禁と脱出の疲労が、声帯から水分を奪っている。だが、言葉の芯は硬かった。


 蓮は顎を僅かに引いた。肯定。


 ひよりは懐から折り畳まれた紙を取り出した。左手で胸元を探り、右手は使わなかった——右肩の打撲を庇っているのだ。紙は和紙に近い材質で、折り目が深く、端が僅かに湿っている。ひよりの体温と汗を吸ったのだろう。


「覚書。土御門と——うちの本家の」


 ひよりの声が、一瞬だけ低くなった。「うちの」という言い方に、憎悪と嘲りと、それでも切り離せない出自への執着が、全部混ざっていた。


 蓮は壁から背を離し、三歩でひよりの前まで移動した。腰を落とし、左膝をコンクリートについた。


 ひよりが覚書を広げた。蓮の目の前に、和紙の上の墨書きと、その周囲に走る細い霊力の紋様が見えた。


 施設コード。管轄区域の記号。そして、二家の当主の署名。


 蓮の視線が一点で止まった。


 管轄区域——覚書の余白に、施設の所在を示す地区記号と番地が記されている。蓮はこの地区を知っている。昨夜の戦闘の前、燐太郎との短い通信の中で聞いたデータ。全霊脈吸引ラインの収束点——記録が抹消されていた、あの地点と同じ区域だ。


 蓮は床を見た。左手の人差し指を伸ばし、コンクリートの埃の上に数字を書いた。燐太郎が突き止めた収束点の座標。その横に、覚書に記された施設の所在地を並べて書く。指先が埃を掻いて、灰色の線がコンクリートの上に浮かんだ。


 座標と所在地が指し示す地点——同一。


 蓮は顔を上げた。ひよりの目を見た。


「——神殿」


 一語だけ発した。秘密神殿。厳山の計画の核心。全ての霊脈を束ねる結節点。その場所が、今、確定した。


 ひよりは蓮の目を見返した。蓮が床に書いた二列の数字と、覚書の所在地表記を交互に見て、意味を理解するのに二秒もかからなかった。


「あの男が、全部ここに集めてたってこと」


 ひよりの声には問いの形がなかった。確認ですらない。事実の宣言。


 蓮は顎を引いた。


 裏口の扉が、外側から軽く叩かれた。


 蓮の身体が即座に反応した。左膝で床を蹴り、ひよりの前に立つ。左手の人差し指と親指が拳の形に近づく——中指以下は握れないが、掌底と前腕は武器になる。右腕は垂れ下がったまま、身体の右側を塞ぐ盾にすらならない。


 扉が二回、間を置いて叩かれた。


 蓮は力を抜いた。


 二回。間隔三秒。燐太郎が昨夜の通信で取り決めた合図だった。


 蓮は左肩で扉を押し開けた。外の朝日が差し込み、逆光の中に、隙のない姿勢で立つ青年のシルエットが浮かんだ。


 御影燐太郎。


 神楽坂分家の天才退魔師は、工場の中に滑り込むと、即座に内部を一瞥した。天井の構造、出入口の数、床の材質、壁際の作業台、奥のパレット——三秒で空間を把握する目の動き。その視線がひよりの姿を捉えた瞬間、僅かに眉が動いた。裸足。擦過傷。衰弱。状況は一目で読み取れたはずだ。


 だが、燐太郎は同情の言葉を発しなかった。


「南詰の支柱に石が三つ。北北西。矢印の方角に探知を飛ばした。六ブロック先でお前の封印回路の残滓を拾えた」


 蓮に向けて、事実だけを述べた。探知術——霊力の流れを感知する非戦闘用の補助技能。封印された回路であっても、回路そのものは蓮の体内に存在する。完全に消えたわけではない。燐太郎ほどの精度があれば、微弱な残滓を追跡できるのだろう。蓮は顎を引いた。伝わった、という意味だ。


 燐太郎の視線がコンクリートの床に落ちた。蓮が書いた二列の数字。そして、ひよりの手元に広げられた覚書。


 燐太郎は腰のポーチから小型の外部記録媒体を取り出した。黒い筐体に、神楽坂分家の家紋が裏返しに刻まれている。媒体の表面に指先で触れると、薄い光の板が空中に展開した。霊力で構成された簡易表示——退魔師の情報端末だ。


 データが並んだ。霊脈の流れを示す地図。収束点の座標。そして、「施設記録抹消」と赤字で記された空白の区画。


 燐太郎は表示と覚書を並べ、蓮が床に書いた座標と照合した。


「……完全一致だ」


 燐太郎の声が低くなった。


「以前突き止めた収束点の座標と、この覚書に記された施設の所在地。同じ地点だ。記録だけが消されていた。土御門が霊脈の全吸引ラインをこの一点に束ねている」


 燐太郎は表示を閉じ、記録媒体をポーチに戻した。


「秘密神殿。ここが厳山の計画の核だ」


 三つの情報源——蓮の記憶、ひよりの密約書、燐太郎のデータ。出所が異なる三つの証拠が、一つの座標を指している。偶然の一致ではあり得ない。


 ひよりは覚書を折り畳み、再び懐にしまった。


「で。行くの」


 蓮を見ていた。蓮ではなく、蓮の右腕を——ポケットから僅かに覗く、力の入らない指先を。


 蓮は答えなかった。喉を温存していた。代わりに、床の埃に左手の人差し指で「結界」と書いた。


 燐太郎が引き取った。


「結界がある。神殿の周囲に、少なくとも三重——おそらくそれ以上の多重結界が敷かれているはずだ。吸引ラインの収束点を隠すための偽装工作だけで、これだけの記録抹消をやっている。物理的な防御はその比じゃない」


 蓮は顎を引いた。燐太郎の読みは正確だ。


 換気口から差し込む光の角度が変わっていた。時間が経っている。朝の光が白くなり始めている。七時を過ぎた頃だろう。


 その時、蓮の耳が拾った。


 廃工場の外——正面シャッター側の道路から、聞き慣れない音。空気の軋み。霊力が空間を圧迫する時の、あの低い振動。


 蓮の左手が即座に上がった。燐太郎とひよりに向けて、掌を見せる。停止の合図。


 燐太郎は既に気づいていた。右手が腰の符嚢に伸びている。


「……三体。いや、もっといる」


 燐太郎が囁いた。


「下位が五——六。それと、上位が一体。これは人だ。退魔師の霊力痕がある」


 蓮は壁に寄り、鉄板で塞がれた窓の隙間から外を覗いた。視野の右端は滲んでいるが、左目で確認できた。


 道路の向こう側。朝の光の中に、黒い影が複数揺れている。低く這うもの、空中を漂うもの——形が定まりきらない靄のような存在。下位妖怪。鬼火に近い分類か。自律的な知能は低く、何者かに誘導されている動き方だった。


 その後方に、一人。


 黒い装束の人影。顔は見えないが、体格と姿勢から成人男性。腰に符嚢と短い霊具を帯びている。歩き方に無駄がない。末端の監視要員ではない。実戦に慣れた動き。


 ——上位の刺客。


 蓮の思考が加速した。


 厳山が方針を切り替えた。「泳がせて接触者を炙り出す」という観察段階が終わった。密約書の流出、あるいは秘密神殿への通信断絶——何かが厳山の計算を狂わせた。その結果が、この実戦要員の投入だ。証拠の回収と、関係者の排除。


 蓮は燐太郎を見た。


 燐太郎は頷いた。言葉は要らなかった。蓮の視線が言っている——「上位はお前が取れ」。


 蓮は左手の人差し指で自分の胸を叩き、次に窓の外を指した。下位は自分が引き受ける、という意味だ。


 ひよりが立ち上がろうとした。蓮は振り向かずに左手を横に振った。制止。ひよりの今の身体で戦闘は不可能だ。霊力は枯渇し、走ることすらできない。覚書を守れ。それが今のひよりの仕事だ。


 ひよりは立ちかけた膝を戻し、覚書を懐に押し込んだ。唇を噛んでいた——それは蓮の背中から推測できることではなかったが、壁際の作業台の脚に映った影の輪郭が、僅かに震えていた。


 蓮は左肩で裏口の扉を押し開け、外に出た。


   *


 朝の空気が肌を叩いた。


 蓮は廃工場の壁に沿って正面側に回り込んだ。コンクリートの壁面に左肩を這わせ、角を覗く。足元は乾いたアスファルト。靴底の感触が、地面の傾斜と材質を伝えてくる。


 下位妖怪が六体。道路を横切り、廃工場に向かって散開しつつある。鬼火よりやや大きい——拳大の黒い霧の塊が、地面すれすれを漂っている。目も口もない。ただ霊力の残滓が凝固しただけの、最も単純な妖怪。個々の戦闘力は低いが、群れで対象を囲い込み、霊力を浸食する。


 上位の刺客は道路の反対側、電柱の影に立っていた。蓮との距離は約四十メートル。刺客は下位妖怪を先行させ、自分は後方に控えている。索敵と殲滅を分離する運用——組織的な訓練を受けた証拠だ。


 蓮は角を離れ、道路に出た。


 下位妖怪の一体が蓮に気づいた。黒い霧が収縮し、弾丸のように飛びかかる。


 蓮の左足が地面を踏んだ。


 七十年の戦場が、封印の下で眠っている。魔法は使えない。回路は塞がれている。だが、身体に刻まれた戦闘の記憶——間合いの計測、軌道の予測、最小の動きで最大の効果を得る力学——は、魔力とは無関係に機能する。


 飛来する霧を、左足の踏み込みで生んだ体重移動だけで躱した。霧は蓮の左頬を三センチの距離で通過し、背後のアスファルトに激突して黒い飛沫を散らした。


 蓮は踏み込みの勢いのまま前に出た。二体目の霧が正面から来る。左手の掌底を叩き込んだ——正確には、人差し指と親指で握り込んだ拳の付け根。中指以下は添えるだけで力が入らない。不完全な拳が、霧の核を打ち抜いた。


 衝撃が左腕を駆け上がった。肘の内側で痙攣が走り、一瞬、前腕全体が震えた。歯を噛み、震えを止める。止まらない。左の顎関節に振動が伝わり、奥歯がかちりと鳴った。


 二体目が霧散した。核を潰されれば、下位妖怪は再凝集できない。


 三体目と四体目が左右から同時に来た。


 蓮は身体を沈めた。膝を折り、上半身を前に倒す。二つの霧が頭上で交差して衝突し、互いの霊力が干渉して一瞬硬直した。その隙に蓮は左足を軸に回転し、右足の踵で三体目の核を蹴り上げた。硬い手応え。核が砕け、黒い飛沫が靴底を汚した。


 四体目は硬直から復帰し、蓮の右脇腹に向かって突進した。右腕が使えない側——そこを狙ったわけではない。下位妖怪にそこまでの知能はない。だが、結果として蓮の死角に入っていた。


 蓮は右足を引き、身体を半回転させた。左腕の前腕を盾にして四体目を受ける。霧が前腕に接触した瞬間、冷たい浸食感が皮膚を這った。霊力の侵食——肉体に直接干渉する攻撃。だが、蓮の身体には魔力回路がある。封印されていても、回路自体が異世界の防御機構として機能し、低位の霊力浸食程度なら表皮で減衰する。


 前腕で霧を押し返し、直後に左手の掌底で核を叩いた。四体目が弾けた。


 五体目。六体目。


 残り二体は蓮の前方十メートルの地点で旋回していた。仲間が四体続けて壊されたことで、本能的に距離を取っている。蓮は足を止めず前に出た。五体目が逃げるように高度を上げた——地面から二メートルほど。蓮の左手が届く高さではない。


 蓮の視線が足元に落ちた。アスファルトの割れ目から半分顔を出している拳半分ほどの石。左足の爪先を石の下に差し入れ、足首のスナップで甲ごと振り上げた。甲の面が石を下から掬い、脚全体の振りがそのまま石に乗る。腕と違い、脚は震えていない。


 石が弧を描いて五体目の核に直撃した。霧が弾け、砕けた核の欠片が黒い粒になって散った。石はそのまま放物線の頂点を過ぎ、背後のブロック塀に落ちて乾いた音を立てた。


 六体目が蓮の背後に回り込もうとした。蓮は振り向かなかった。代わりに、二歩後退して壁際に背をつけた。背後を塞ぐ。六体目は正面から来るしかなくなり、蓮の左足の蹴りが核を踏み潰した。


 六体、全滅。


 蓮の呼吸が荒くなっていた。額に汗が浮き、白シャツの血染みの上から新しい汗が滲んでいる。左腕の痙攣が手首から肘まで断続的に走っている。右腕はポケットの中で微動だにしない。足裏に蓄積した打撲の痛みが、アスファルトの硬さを増幅させていた。


 蓮の視線が、道路の向こう側に移った。


 上位の刺客が動いていた。


 電柱の影から踏み出し、腰の符嚢に手をかけている。下位妖怪が全滅したことで、自ら前に出る判断を下した。口元が動いている——何かを呟いている。印を切る予備動作。


 蓮は読んでいた。右手の指の開き方、左足の重心の置き方、呼吸の間隔。霊術の型。風系統の攻撃術——初動から発動まで約二秒。


 だが、蓮が動く前に、刺客の背後の空気が裂けた。


 光の刃が、刺客の足元のアスファルトを断ち割った。


 刺客が飛び退いた。着地と同時に振り向く。その視線の先に、御影燐太郎が立っていた。


 裏口から出て、屋根伝いに回り込んだのだろう。廃工場の屋上の縁に立つ燐太郎のシルエットが、朝日を背に浮かんでいた。右手に展開した光の符が三枚、左手の印が結ばれた状態で——予備動作を完了した臨戦態勢。


 刺客の足元が、再び砕けた。二撃目。燐太郎が屋上から放った結界術の変形——攻撃と制圧を兼ねた、正統派の霊術の応用。型の精度が桁違いだった。無駄な動きが一切ない。指先から放たれる光の軌道は、まるで定規で引いたように直線で、着弾点の誤差はセンチ単位。


 刺客は三撃目を躱しきれなかった。


 光の符が刺客の右腕を打ち、符嚢の紐を断った。霊具が地面に落ちる。刺客が左手で印を組もうとした瞬間、燐太郎が屋上から飛び降りた。


 着地と同時に、燐太郎は刺客の正面に立っていた。距離三メートル。圧倒的な速度だった。刺客の印が完成する前に、燐太郎の右手の符が刺客の胸元で展開し、結界の圧力で後方に吹き飛ばした。


 刺客がアスファルトの上を三メートル滑り、電柱にぶつかって止まった。起き上がろうとして、起き上がれなかった。胸の結界圧で肋骨にひびが入っている——立ち上がる動作で痛みが走り、膝をついた。


 燐太郎は一歩も追わなかった。


 刺客を見下ろす位置で立ち止まり、声を発した。


「名乗る」


 朝の住宅街に、燐太郎の声が響いた。よく通る声だった。正統派の退魔師としての訓練が、声の届く範囲と音量を完璧に制御している。


「御影燐太郎。神楽坂分家所属の退魔師だ」


 刺客が顔を上げた。その顔に、驚愕が走ったのが分かった。御影の名——神楽坂分家の天才。土御門の側近でもおかしくない血統の持ち主が、なぜここにいる。


「土御門厳山は霊脈のデータを改竄し、全吸引ラインの収束点を秘匿している。退魔師の血と誓いに懸けて——俺はこの不正を糾す」


 燐太郎の声に震えはなかった。家紋を裏返した夜から、この瞬間までの全てが一本の線で繋がっていた。裏で動く段階は終わった。ここから先は、公然と。


「帰って伝えろ。御影燐太郎は、土御門に叛いた」


 刺客は何も答えなかった。肋骨を押さえたまま、燐太郎の顔を凝視していた。信じられないという表情ではなかった。信じたくない、という表情だった。


 刺客は這うようにして道路の向こう側に退き、角を曲がって視界から消えた。追撃はしない。生かして帰す——それが宣戦布告だ。


 燐太郎が蓮の方を向いた。


 蓮は壁に背をつけたまま、左腕の痙攣を止めようとしていた。震える左腕を腹に押し当て、体重を預けた壁と自分の胴体で腕を挟んだ。痙攣は収まらなかったが、腕の振幅が小さくなった。


 燐太郎は蓮の状態を一瞥し、何も言わなかった。代わりに廃工場の裏口に戻り、扉を押し開けた。


「中に戻れ。まだ増援が来る」


   *


 その全てを、高瀬は見ていた。


 廃工場から北東に一ブロック。路地裏の電柱の影に背中を預け、高瀬は両手を握り締めたまま動けずにいた。


 ここに来たのは任務だ。蓮の動向を追え。封印の場で末端監視要員に指名されて以来、形式上は命令に従い続けている。朝の定時報告のタイミングで、蓮が天神橋方面から北北西に転進したことを確認し、追尾した。それだけだ。それだけの、はずだった。


 だが、追尾の途中で、見てしまった。


 住宅街の通りで、蓮が足を止めた。白い髪の少女が前方を歩いていた。裸足。身体の左右に傷。プラチナブロンドの短い髪——退魔師界であの髪の色は一人しかいない。神楽坂ひより。名門・神楽坂本家の直系。本家の管理下にあるはずの人間が、なぜ路上にいる。なぜ裸足で、傷だらけで、朝の住宅街をひとりで歩いている。


 二人は言葉をほとんど交わさず、廃工場に消えた。


 報告すべき事態だった。神楽坂本家の直系が所在不明になっていること。それが朝霧蓮と接触していること。末端監視要員の任務として、これは最優先の報告対象だ。


 高瀬は通信機に手を伸ばしかけた。


 ——やめた。


 なぜやめたのか、自分でも分からなかった。


 報告は送っていない。


 監視チームへの合流を拒否した夜から、高瀬の通信機は沈黙している。受信はしている。本部からの定時確認信号が、一時間おきに通信機を振動させている。だが、高瀬は一度も応答していない。


 命令に従っている。ただし、報告はしていない。


 その矛盾を、高瀬自身が整理できていなかった。


 電柱の影から、百メートル先の光景を見ていた。路地の出口からまっすぐ見通せる位置——廃工場の前の道路で起きた戦闘の全てが、この距離なら目に入る。


 朝霧蓮は、魔法を使わなかった。


 下位妖怪を六体。拳と蹴りだけで——しかも片方の腕が一度も動いていない。終始、左手一本と両脚だけで六体を壊した。百メートルの距離では、指先や表情までは分からない。だが、どちらの腕を使い、どちらの脚で蹴ったか、それは見える。あの男の右腕は、戦闘の間ずっとぶら下がったままだった。血統ゼロ。魔法は封印済み。退魔師の霊術すら持たない。なのに、片腕で妖怪を壊している。


 高瀬の手が震えていた。


 それは恐怖ではなかった。もっと深い場所にある何かが、指先から漏れ出ていた。


 高瀬は末端家系の出身だ。霊力量が低い。名門に比べれば器が小さく、どれだけ修練しても上限が近い。だからこそ血統主義にしがみついた。「血統が全てだ」という思想は、裏を返せば「血統が劣る自分にも、血統という枠組みの中にいる限り居場所がある」という自己保存の論理だった。蓮のような無血統の強者は、その論理を根底から脅かす。だから憎んだ。排除しようとした。


 だが今、見ている。


 封印され、片腕を失い、血も権威も持たない男が、素手で戦っている。六体の妖怪を倒した後も、あの男は立っていた。膝をつかなかった。何度殴り、何度蹴っても、前に出ることをやめなかった。


 あれは、血統の力ではない。


 あれは——なんだ。


 高瀬の中で、何かが軋んだ。あの封印の場で感じた違和感。あの時はまだ形がなかった。厳山が蓮の魔力を封じた時、講堂に満ちた空気の中に、高瀬は微かな不協和音を聞いた。正義のはずだった。体制を守るための正当な処分のはずだった。なのに、封印された蓮が床に崩れ落ちた瞬間、高瀬の胸の奥で何かが引っかかった。


 今、それが形になった。


 あの封印は、正しくなかったのではないか。


 あの男を排除しなければならなかったのは、あの男が危険だったからではなく、あの男が強すぎたからではないか。血統のない者が強いことが、体制にとって都合が悪かったから——


 高瀬の膝が、電柱の前で折れた。


 座り込んだ。路地裏のアスファルトに膝をつき、両手で顔を覆った。指の隙間から、朝の光が漏れている。通信機が腰のポーチの中で振動している。定時確認信号。応答しなければ、やがて実動部隊が高瀬の最終確認位置に向かうだろう。


 だが、高瀬は動かなかった。


 ——俺は。何のために、ここにいる。


 路地の奥で、朝の風がコンクリート塀の間を抜けていった。


   *


 廃工場の中に戻った蓮は、壁に背を預けて呼吸を整えていた。


 左腕の痙攣は戦闘後も収まっていない。肘から手首にかけて、不規則な間隔で筋肉が攣る。人差し指と親指は動くが、反応が遅くなっている。疲労が指先の感覚を鈍らせていた。右腕はポケットの中で変わらず沈黙している。


 ひよりは壁際の元の位置に座ったままだった。覚書を懐に押さえている。蓮が戦っている間、彼女は動かなかった。動けなかったのだ。その事実を、ひよりの表情が——正確には、表情ではなく顎の角度が——物語っていた。唇を引き結び、視線を床に落としている。悔しいのだろう、と蓮は思った。自分が戦えないことが。


 燐太郎が裏口から入り、扉を押し戻した。


「増援はまだ来ない。だが、時間の問題だ」


 燐太郎は蓮の正面に立ち、腕を組んだ。


「神殿の座標は確定した。だが、直接向かっても無意味だ。あの場所の周囲には多重結界が張られている。最低でも三重。おそらく五重以上——土御門宗家の正統結界術の最上位構成だ。俺でも正面から破るには相当の時間がかかる」


 蓮は床の埃に指で書いた。「何時間」。


 燐太郎は少し考えてから答えた。


「構造分析だけで半日。実際に解除にかかるのはその後だ。急いでも十二時間は覚悟しろ」


 蓮の人差し指が床をこすった。苛立ちが指先に出ていた。十二時間。その間に厳山は次の手を打つ。増援はさらに上位の退魔師になるだろう。密約書の流出を確認すれば、証拠隠滅に動く。秘密神殿の多重結界を強化するかもしれない。


 時間が、ない。


 燐太郎が蓮の顔を見た。


「焦るな。結界の構造を理解しないまま突っ込んでも、弾かれるだけだ。——お前が魔法を使えるなら話は別だが」


 その一言が、空気を一瞬で変えた。


 蓮は何も言わなかった。何も書かなかった。ただ、床に落としていた視線を上げ、燐太郎の目を見た。


 燐太郎は蓮の視線を受け止めた。二秒。三秒。そして、静かに息を吐いた。


「……分かっている。だから、俺がやる。お前たちは体を休めろ。半日で結界の構造を洗い出す。その間に、次の計画を練れ」


 蓮の顎が、ゆっくりと下がった。


 肯定。


 それは蓮にとって、容易な動作ではなかった。他者の判断に従うこと。他者の時間感覚を受け入れること。自分の焦りを——大賢者の経験が「今すぐ動け」と叫ぶ衝動を——他者の合理に預けること。


 だが、蓮は頷いた。


 燐太郎の判断は正しい。結界の構造分析なしに突入すれば、全滅する。蓮の魔法は封印されている。ひよりの霊力は枯渇している。使える手は燐太郎の霊術だけだ。ならば、燐太郎の時間に従うしかない。


 蓮は壁にもたれ、目を閉じた。


 瞼の裏に、封印された回路の奥の波形が微かに揺れていた。ひよりの共鳴の残響。あの信号は確かに届いた。だが、蓮はそのことをひよりに伝えなかった。伝える声がないから——というだけではなかった。


 伝えることの意味を、まだ整理できていなかった。


 届いた。だから来た。——それは事実だ。


 だが、その事実が何を意味するのか。合理的判断だと自分に言い聞かせたが、天神橋への最短ルートを捨てて北北西に向かった瞬間、蓮の脚を動かしていたのは計算ではなかった。


 あれは——何だった。


 蓮は目を閉じたまま、その問いを棚上げした。


 今は、眠れ。半日後に、結界がある。その先に、厳山がいる。


 天井の換気口から差し込む光が、蓮の血染みのシャツの上を横切っていた。


 埃の中で、微かな呼吸音が三つ、重なっていた。

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