第20話「脱出」
数えることをやめたのは、二日目の夜だった。
正確には、二日目かどうかも分からない。地下には光がなく、時間の手がかりは見張りが食事を差し入れる間隔だけだった。薄い粥と水。それが二度来たから、おそらく二日。おそらく。
鎖が手首に食い込んでいる。冷たい石の壁に背中を預け、膝を抱えた姿勢のまま、ひよりは暗闇を見つめていた。
最初の数時間は、何も考えられなかった。
蓮との最後のやり取りが、頭の中で何度も再生された。道具として扱われた怒り。投げつけた言葉。そして——本家の者たちが現れた時、呼吸を整える暇すらなく引きずられた記憶。屋上での訓練から積み上げてきた制御技術は、あの瞬間、指先から零れ落ちた砂のように消えた。
恐怖だった。
幼い頃と同じ匂い。同じ空気の重さ。廊下を歩く足音の響き方まで、身体が覚えていた。この家に戻された瞬間、ひよりの中にいた十七歳の退魔師は消え、代わりに六歳の子供が蹲った。
だから、最初の夜は何もできなかった。
変わったのは、二度目の粥が来た後だった。
見張りの手が引き戸を閉める音を聞きながら、ひよりは自分の指先が微かに動いていることに気づいた。無意識だった。暗闇の中で、指が空気に触れている。その空気の中にある——何かの輪郭をなぞるように。
訓練の残滓だ。
約十日間。蓮に突き放されてから、ひよりは毎晩、自分の能力と向き合い続けた。結界に触れる。構造を読む。呼吸を三拍で整え、意識を一点に絞り、対象の内側に潜り込む。最初は壁にぶつかるだけだった。何も見えず、何も感じ取れず、ただ自分の無力さだけが跳ね返ってきた。
それでも繰り返した。
理由は単純だった。あの男——朝霧蓮に「使えない」と切り捨てられたことが、腹の底で燃えていたからだ。悔しさ。それだけが、ひよりを毎晩の訓練に駆り立てた。
三日目あたりから、結界の表面が指先に「見えた」。目ではない。触覚でもない。呼吸を限界まで細くした時、意識の先端が結界の膜に触れ、その向こう側の——繊維のような構造が、ぼんやりと浮かび上がる感覚。
五日目には、繊維の一本一本が異なる太さと張力を持っていることが分かるようになった。強い繊維と弱い繊維。交差する点と、交差しない隙間。
七日目に、ひよりは初めて結界の「弱点」に触れた。
構造の矛盾。繊維が重なりすぎて互いの力を打ち消し合っている箇所。あるいは、設計時に見落とされた微細な隙間。そこに意識を通すと、結界は抵抗しなかった。ひよりの透過はそもそも「出力」ではない。押すのではなく、すり抜ける。だから結界は反応しない。探知にも引っかからない。
連行される前の時点で、ひよりの透過能力は——少なくとも構造の読み取りと、既知の結界に対する通り抜けに限って言えば——実戦に投入できる水準に達していた。
ただし。
それは、数秒かけて呼吸を整え、雑念を完全に排し、意識を一点に収束させて初めて成立する精密運用だった。感情が乱れれば、ピントは即座に散る。恐怖はその最悪の妨害者だった。
だから本家に連れ戻された直後、ひよりは透過を使えなかった。技術が失われたのではない。技術を起動する最初の一呼吸が、恐怖に潰されたのだ。
二日目の粥の後、無意識に指が動いた時。ひよりは気づいた。
——怖がっている場合じゃない。
言葉にしたわけではない。思考として整理したのでもない。ただ、指先が勝手に動いていた。十日間の訓練が身体に刻んだ反射が、恐怖の隙間から這い出してきた。それだけのことだった。
ひよりは目を閉じた。暗闇の中で目を閉じることに意味はない。だが、瞼を下ろすと余計な情報が遮断される感覚があった。石壁の圧迫感が、ほんの少しだけ遠のく。
呼吸を整える。一、二、三。吐く。一、二、三。吸う。
三拍の呼吸を五回繰り返した時、意識の先端が鎖に触れた。
——見える。
手首を縛る鎖は、ただの金属ではなかった。鉄の鎖の表面に、極めて細い霊力の糸が織り込まれている。結界の一種。物理的な拘束に加え、霊術的な封印を兼ねた設計。
本家らしい——と、ひよりは思った。過剰なまでの備え。名門の矜持が、たかが一人の「出来損ない」を閉じ込めるためにここまでの術式を重ねさせる。
ひよりは鎖の結界の構造を読んだ。
繊維が見える。太い幹のような霊力の流れが三本。そこから枝分かれした細い糸が金属の鎖そのものに絡みつき、物理的な強度を霊術で補強している。さらに外周を薄い膜が覆い、内側から外側への霊力の放出を抑え込む構造。
出力型の干渉を完全に封じる設計だった。力で引きちぎろうとすれば結界が反発し、霊力で溶かそうとすれば膜が吸収する。名門の退魔師であっても、この鎖を自力で外すことは難しい。
ただし。
ひよりの透過は出力ではない。
結界の膜は「力をぶつけてくるもの」を弾くために設計されている。ひよりの霊力は、そもそも「ぶつからない」。膜に到達した瞬間、干渉することなく——水が砂に染み込むように——通過する。
鎖の結界は、ひよりの透過を脅威として想定していなかった。
それは当然だった。神楽坂本家にとって、ひよりの霊力はゼロだ。測定器に映らない。出力型の基準で計測すれば、文字通り「何もない」。無能。欠陥。飾り気のない蔑みとともに、本家はひよりの能力を結界設計の脅威リストから除外していた。
守りが甘かったのではない。数えていなかったのだ。
ひよりは意識を鎖の構造に沈めた。
鎖の全体像が読める。一端は壁面に埋め込まれた鉄環に通されている。もう一端が手首を一周して輪を作り——その輪の接合部を、ずんぐりとした南京錠型の錠前が留めていた。錠前が外れれば接合点が解かれ、鎖の輪そのものが開く。
問題は、この錠前が二重に固められていることだった。
まず霊力の膜。結界の一部として錠前全体を覆い、外部からの干渉を跳ね返す。そしてその内側に、錠前の金属機構そのものを霊力で固定する術式。鍵穴に何を差し込もうが、爪が動かない。
ひよりは膜に意識を沈めた。透過で膜を通り抜ける。ここまでは鎖の結界と同じ要領だった。膜はひよりの存在を認識できない。素通りする。
膜の内側。錠前の金属機構に触れた。
爪が一つ。噛み合わせの構造は単純だった。だが、爪を固定している霊力の楔が硬い。これも出力型の干渉を前提にした固定術式だった。力で押し開けようとすれば反発する設計。
透過は力を使わない。
ひよりは爪を固定している霊力の楔に意識を当てた。楔の内部構造を読む。霊力の繊維が爪の周囲を巻いている。その巻き方には——結界の格子と同じく——微細な隙間がある。透過型の意識だけが通れる幅の隙間。
そこに、意識を通した。
楔の内側から、繊維の巻きつきを一本ずつ解くのではない。透過がすり抜けた箇所で、楔は「ひよりの意識に対してだけ」固定力を失った。爪を押さえていた霊力が、ひよりの指先に対してだけ——存在しない状態になった。
左手の親指と人差し指で錠前を挟み、爪を押し下げた。硬い金属の抵抗。霊力の固定が外れた爪は、ただの鉄だった。指に力を込めると、がちり、と小さな音を立てて爪が外れた。
錠前が開いた。
輪の接合点を留めていた金具が解かれ、手首に巻きついていた鎖がずるりと自重で滑り落ちた。石の床に鉄が当たる硬い音。暗闇の中で、その音だけが妙に大きく響いた。鎖が擦れた跡が手首に熱い線を引いたが、構わなかった。
もう片方の手首も同じ要領で錠前を外す。足首の鎖も。四つの錠前を開けるのに、それぞれ呼吸を整え直す時間が必要だった。一つ外すたびに集中が散り、壁に背を預けて目を閉じ、三拍の呼吸を繰り返した。
四つ目の錠前が落ちた時、ひよりの額には薄く汗が浮いていた。
身体を支える石壁に手を突いて、ひよりは立ち上がった。二日間座り続けた脚が軋んだ。膝が笑い、最初の一歩で壁に肩をぶつけた。
暗闇の中、ひよりはゆっくりと身体を伸ばした。手首の感覚が戻ってくる。指先に血が巡る微かな熱。
牢の扉は——鎖よりも単純な結界だった。外側から施錠された上に霊力の封印が掛けられているが、構造は鎖と同じ思想で設計されている。「出力型干渉を弾く膜」と「物理的な錠前」の二重構造。
透過で膜を無効化すれば、残るのは物理的な錠前だけだ。
ひよりは錠前に手を伸ばし——止まった。
呼吸が乱れている。
立ち上がっただけで心拍が上がり、集中が散っていた。二日間の拘禁は体力を確実に削っていた。透過は精密運用だ。身体が揺れれば、ピントも揺れる。
壁に背を預け、もう一度呼吸を整える。一、二、三。吐く。一、二、三。
五回。十回。
指先の震えが収まった頃、ひよりは再び錠前に触れた。
結界の膜をすり抜け、錠前の内部構造に意識を沈める。単純な構造。金属の爪が噛み合っている箇所が一つ。鎖の錠前と同じ手順。霊力の楔を透過し、爪の固定を無効化する。左手の指で爪を押し下げると、乾いた金属音とともに錠前が外れた。
引き戸を、音を立てないように横へ滑らせた。
地下牢の外は、薄暗い廊下だった。蛍光灯はなく、階段の上方から微かに漏れる光だけが床の石材を照らしている。空気が動いた。地下の淀んだ湿気とは違う、かすかに乾いた空気の流れ。
ひよりは廊下に一歩踏み出し、裸足の足裏が冷たい石に触れた瞬間に眉を寄せた。靴は連行時に取り上げられていた。足音を殺すには都合がいいが、石の冷たさが体温を奪っていく。
立ち止まり、透過の意識を廊下全体に広げた。壁の向こう——本家の上階。霊力の流れが、薄い膜のように建物全体を覆っている。監視用の結界。人の出入りを感知する網。
ひよりは網の構造を読んだ。
規則正しい格子状の監視結界。霊力を帯びた存在が格子を横切ると、その位置が本家の管理者に通知される設計。退魔師クラスの霊力なら確実に引っかかる。
だが、格子は「霊力の反応」で検知する。透過型の霊力は反応を返さない。測定器と同じだ。ゼロはゼロのまま、格子を素通りする。
本家の監視網は、ひよりを「人」として認識しない。
息を吐いた。唇が震えたのは、寒さのせいだと自分に言い聞かせた。
*
階段を上った先は、記憶にある廊下だった。
幼い頃、この廊下を何度も歩いた。板張りの床。等間隔に並ぶ障子。天井に走る梁の木目。匂いまで同じだった。乾いた木と、微かな線香の残り香。
ひよりは足を止めなかった。
記憶に浸っている余裕はなかった。地下から出た以上、物理的に人と鉢合わせる可能性がある。監視結界に感知されなくても、目で見られれば終わりだ。
透過の意識を維持しながら、壁の向こうの霊力分布を探った。人の気配は——少なくともこの廊下の周囲には——ない。未明の時間帯。本家の者たちは眠っている。見張りは地下牢の前にいたはずだが、ひよりが牢を出た時には不在だった。交代の合間か、あるいは「出来損ない」の監視に人員を割く価値がないと判断されたか。
どちらにせよ、時間は限られている。
ひよりは廊下を進みながら、壁越しの霊力分布に注意を向け続けた。本家の各部屋に、微量の霊力残滓が薄く積もっている。代々の退魔師が暮らしてきた空間特有の——古い霊力の堆積。どの部屋も似たような濃度だった。
一つを除いて。
廊下の突き当たり、左手の奥。そこだけが違った。
他の部屋の霊力残滓が薄い靄だとすれば、その一室は——煮詰めた液体のような濃密さだった。壁越しでも、意識が圧されるほどの密度。ただの生活の痕跡ではない。大量の霊力が、意図的に、長期間にわたって注ぎ込まれた空間。
あるいは、大量の霊力を「封じ込めた」空間。
ひよりの足が止まった。
訓練で磨いた構造読み取りの応用だった。結界の内部構造を透視できるなら、壁の向こうの霊力の分布も——解像度は落ちるが——読める。屋上で練習を始めた頃は自分の手の周囲がせいぜいだった。それが十日間で、壁一枚向こうの空間全体を薄くスキャンできるまでになっていた。
新しい技術を身につけたわけではない。同じ透過の精度と範囲を、反復によって広げただけだ。
ひよりは突き当たりの部屋の前に立った。引き戸。施錠はされているが、結界は——
読んだ。
本家の標準的な施錠結界。地下牢の鎖と同じ設計思想。出力型を弾く膜。物理的な錠前。透過で膜を無効化し、錠前の構造に意識を沈める。爪を外す。
引き戸を開けた。
書庫だった。
三方の壁を覆う棚に、巻物と文書が整然と並んでいる。墨の匂い。紙の匂い。そして——霊力の圧。扉を開けた瞬間に、濃密な残滓がひよりの肌を撫でた。
この部屋の文書には、霊力が染み込んでいる。
ひよりは棚に手を伸ばし、最も濃い残滓を放っている束を探した。目で見るのではなく、指先の透過で辿る。残滓の濃度は均一ではない。棚の奥、上段の右端。そこに——他の全てを凌駕する密度の、何かがあった。
爪先立ちで手を伸ばし、束を引き出した。和綴じの表紙。古い紙だが、中の墨は比較的新しい。
開いた。
最初の数行で、ひよりの指が止まった。
——覚書。
土御門宗家当主・厳山と、神楽坂本家当主との間で取り交わされた覚書。日付は三年前。ひよりが本家を追放された翌年。
内容を読み進めた。
一行ごとに、呼吸が浅くなった。
「特異体質保持者・神楽坂ひより」。その名前が、覚書の中に何度も現れた。「霊脈親和体質の確認」「出力型干渉の不在」「依代適性の高位判定」。ひよりの知らない言葉が並んでいたが、文脈から意味は読み取れた。
ひよりは「九尾の依代候補」としてリストアップされていた。
追放ではなかった。
いや、追放は追放だった。本家はひよりを「血を汚す欠陥」として切り捨てた。それは事実だ。だが、籍を残した。ひよりが遠縁の家に預けられた後も、法的にも術式的にも、ひよりは神楽坂本家の所有物だった。
そして、土御門が「依代候補」としてひよりの体質に目をつけた時——本家は手のひらを返した。
捨てた子供に利用価値が出た。
だから取り戻した。
覚書の末尾に、署名と——霊力の印が押されていた。二つの家紋。それぞれの当主の霊力が直接注ぎ込まれた封印。これが、この文書から異常な霊力残滓が放射されていた理由だった。単なる紙の契約ではない。術式的な拘束力を持つ契約。破れば霊力に反動が来る類の——呪いに近い代物。
ひよりは覚書を見つめた。
指先が白くなるほど紙を握っていることに、自分では気づいていなかった。
知っていた——と思った。
薄々、分かっていた。本家が自分を連れ戻した理由が、血の繋がりでも、罪悪感でも、ましてや愛情でもないことは。ひよりを「家族」として欲しがる人間は、この家には一人もいなかった。それは六歳の時から変わらない。
だが、文字にされると違った。
覚書の中のひよりは、人間ではなかった。「特異体質保持者」。「依代適性」。「供出条件」。備品の管理台帳のような言葉の中に、ひよりの十七年間が収められていた。泣いた夜も、爪を噛んだ朝も、自分で髪を切った日も——この家にとっては、備品の保管期間に過ぎなかった。
怒りは、段階を踏んで来るものだとひよりは思っていた。
違った。
それは地面が抜ける感覚に近かった。足元にあったはずの恐怖——本家に逆らえない、逃げれば追われる、居場所がなくなる——その全てが、一瞬で意味を失った。
恐怖の対象が「家族」だったから怖かったのだ。
だが、この文書を書いた人間たちは家族ではない。最初から、一度も、ひよりを人間として見ていなかった。家族でないなら——恐れる理由もない。
周囲の音が遠のいた。
棚に並ぶ巻物。壁に掛かった掛け軸。床の畳の目。書庫の全てが、異様にくっきりと見えた。暗い部屋のはずだった。廊下から漏れる僅かな光しかないはずだった。なのに、ひよりの目には——細部まで鮮明に映っていた。
怒りが、知覚を研ぎ澄ましている。
ひよりは覚書を畳み、懐に押し込んだ。
*
書庫を出る方法は、来た廊下を戻ることではなかった。
書庫の奥の壁——棚が並ぶ壁の上方に、小さな窓があった。天井近くに設けられた換気用の小窓。嵌め殺しだが、透視で構造を読むと、枠を固定しているのは霊力の接着と木製の楔だけだった。
結界は——やはり、透過を想定していない。
窓は高い位置にある。本家の屋敷は伝統的な和風建築で、基礎が石積みで高く、天井にも太い梁が渡されている。床から窓の下端まで、手を伸ばしても届かない距離だった。
ひよりは棚の段を足がかりにした。巻物の束を踏まないように棚板の端に裸足の指をかけ、腕で体重を引き上げる。二段、三段。衰弱した腕が軋んだが、棚は頑丈な欅材で、ひよりの体重では揺れもしなかった。最上段の棚に膝を乗せ、そこから窓枠に手をかけた。
霊力の接着を透過で無効化し、楔を指で押し出す。木が軋み、枠が緩んだ。ひよりは枠を外し、窓の開口部から外を覗いた。
外の空気が頬を撫でた。
冷たかった。夜明け前の空気。空の東端に、まだ光は見えない。本家の敷地は塀で囲まれており、窓から見下ろせるのは庭の石灯籠と、その奥の植え込みだった。
見下ろした瞬間、足がすくんだ。
高い。基礎の高い屋敷の、天井近くに設けられた窓だ。庭の地面ははるか下にあった。暗がりの中でも、石灯籠の大きさから距離は測れる。三メートル半はある。
だが、他に選択肢がなかった。正面玄関は論外。裏口は見張りがいる可能性がある。廊下を戻れば人と鉢合わせる時間が増える。この窓が最も人目につかないルートだった。
ひよりは窓枠に腰を乗せ、外側に身体を回して両手で枠を掴んだ。壁に張り付くように腕を伸ばし、限界まで落差を縮める。それでも、足先から庭の地面まで二メートル近い空間が残っていた。
手を離した。
落下。一瞬の浮遊感の後、裸足の足裏に庭の砂利が突き刺さった。膝が折れた。衝撃を吸収しきれず、右肩が地面について転がった。砂利が背中に食い込んだ。息が詰まる。
数秒、動けなかった。
立ち上がった。砂利を払う余裕はなかった。足裏が冷たい土を踏み、小石の角が皮膚を刺したが、ひよりは構わず庭を横切った。
本家の敷地を囲む塀。高さは二メートル半ほど。上部に霊力の監視線が走っている。
ひよりは塀の前で立ち止まり、監視線の構造を読んだ。
格子状の監視結界と同じ設計。霊力の反応で検知する。透過型は通る。だが、物理的に塀を越える必要がある。二メートル半の塀を、衰弱した身体で。
塀の表面に手を当てた。古い土壁。指をかけられる凹凸がある。ひよりは右手を上に伸ばし、壁の割れ目に指を押し込んだ。左足で壁を蹴り、体重を引き上げる。
腕が震えた。
二日間、ほとんど動いていない身体は、自分の体重を壁の半ばまで持ち上げるだけで限界を訴えた。指先に力を込め、もう一段。右足が壁の出っ張りを捉え、身体を押し上げた。
塀の上端に手が届いた。
監視線が、ひよりの手を素通りした。
ひよりは塀の上に腹這いになり、反対側を見下ろした。住宅街の路地。街灯がぽつりと一つ、オレンジ色の光を落としている。
塀の外側は内側よりも滑らかで、凹凸がほとんどなかった。身体を外側に回し、両手で塀の上端を掴んでぶら下がった。腕を伸ばして落差を縮める。足先からアスファルトまで、一メートルほど。庭への落下よりは短い。だが、着地面は庭の土ではなく硬いアスファルトだった。
窓から書棚を登り、庭に落ち、塀をよじ登った腕には、もう力が残っていなかった。
指が滑った。
落ちた。
膝から着いた。衝撃が脚を突き抜け、支えようとした両手がアスファルトを叩いた。左の手のひらの皮が剥け、熱い痛みが走った。堪えきれず、肘が折れて上半身が横に倒れた。左肘がアスファルトに擦れ、薄い布越しに皮膚が削れる感触があった。
横倒しのまま、数秒——息ができなかった。
膝が熱い。手のひらが熱い。肘が熱い。落差は庭に落ちた時よりも短かったはずなのに、痛みは比べものにならなかった。アスファルトの硬さは土とは違う。衝撃を吸いとってくれる地面ではなく、ぶつけた側だけが壊れる地面だった。しかも指が滑って制御を失った落下だった。庭では少なくとも自分で手を離した。ここでは身体が勝手に落ちた。
歯を食いしばった。
右手でアスファルトを押し、上半身を起こした。左手を見た。手のひらの付け根が赤く擦り剥けている。左肘も同様だった。両膝は——見なかった。見れば動けなくなる気がした。
片膝を立て、塀に手をついて身体を引き上げた。脚が震えた。立ち上がるまでに、庭での着地の倍以上の時間がかかった。
振り返った。
神楽坂本家の塀が、暗闇の中で黒い壁のように立っていた。幼い頃から何度も見上げた塀。内側からは、永遠に越えられないと思っていた壁。
ひよりは塀に背を向けた。
もう振り返らなかった。
*
歩いた。
裸足の足がアスファルトを踏む感触が、不思議なほど鮮明だった。小石を踏む度に足裏が痛んだが、その痛みすら現実の輪郭として確かだった。膝の擦過傷が、歩くたびに引き攣れる。左手のひらはまだ熱を持っていた。
住宅街を抜け、大通りに出た。信号が黄色に点滅している。車の通りはない。空の東端が、かすかに青白く色づき始めていた。
体力が落ちていた。
書庫で覚書を見つけた時の怒りが、歩くごとに身体の重さに変わっていく。透過能力の連続使用が、残りわずかな体力を削っていた。鎖の解除。扉の解錠。監視結界の回避。窓枠の分解。一つ一つは小さな消耗だが、衰弱した身体には確実に積み重なっていた。
電柱に手をついて息を整えた。擦り剥けた左手のひらが電柱の表面に触れ、鈍い痛みが走った。右手に替えた。
懐の覚書が、胸に触れている。術式の残滓が紙越しに伝わってくる。この文書は証拠だ。土御門と神楽坂の密約。ひよりを道具として取引した記録。
持ち出した。
だが——これを持って、どこへ行く。
ひよりには行く場所がなかった。本家には戻れない。遠縁の家には、もう居場所はない。退魔局は土御門の支配下にある。一般社会には、退魔師のことを理解できる人間はいない。
一人だった。
蓮の顔が浮かんだ。
あの無表情な、光のない黒い目。ひよりを道具として使い、謝りもしなかった男。ひよりの怒りを正面から受け止めもしなかった男。
でも。
あの男は、ひよりの能力を「無能」とは言わなかった。
蓮はひよりを利用した。それは事実だ。だが蓮は、ひよりの透過を——本家が「欠陥」と切り捨てたその力を——使えるものとして扱った。方法は最悪だった。説明もなく、同意もなく、強制的に。それでも。
あの男だけが、ひよりの力を見ていた。
ひよりは電柱から右手を離した。
胸の奥で、何かが微かに脈打っている。あの日、蓮が強制的に繋いだ回路の残滓。共鳴。蓮の魔力とひよりの霊力を繋ぐ、細い細い糸のようなもの。
封印されているはずだった。蓮の魔力回路が塞がれた以上、共鳴も途切れていると思っていた。だが——糸は消えていなかった。封じられた回路の奥に沈んだ、蓮固有の波形。微弱だが、確かにそこにある。
ひよりだから分かった。透過は、封印の膜を通り抜ける。膜の向こうにある波形に、ひよりの意識だけが触れられる。
残った力は、もうほとんどなかった。
SOSを送れるのは、一度きりだ。長距離の維持はできない。連続送信も不可能。最後の一押し。これが今のひよりに残された全てだった。
ひよりは目を閉じ、呼吸を整えた。
一、二、三。
意識を細く、鋭く、一点に絞る。胸の奥の糸に触れる。蓮の波形を指先でなぞるように——
——ここにいる。
言葉ではなかった。意味を乗せた震え。生きている。外に出た。ここにいる。それだけを、糸の向こうに押し出した。
一瞬の接触。
それだけで、ひよりの視界が白く飛んだ。
膝が折れた。アスファルトに手をついた。擦り剥けた左手のひらが地面に叩きつけられ、鋭い痛みが意識の端を焼いた。指先の感覚が遠い。全身から力が抜けていく。残っていた霊力の最後の一滴を、共鳴の一瞬に注ぎ込んでいた。
届いたかどうかは、分からない。
蓮が受け取れる状態にあるのかも、分からない。あの男が今どこで何をしているのかも——ひよりは何も知らない。
だが、送った。
それが今、ひよりにできる全てだった。
肘が震え、身体を支えきれずにアスファルトに倒れ込みそうになった。歯を食いしばり、右腕に力を入れ直す。立ち上がれ。まだ本家の近くだ。追手が来るまでに距離を稼がなければ——
ひよりは右手で地面を押し、ゆっくりと身体を起こした。
東の空が、薄い橙色に染まり始めていた。
街灯が、ひよりの影を長くアスファルトに伸ばした。白いプラチナブロンドの髪が、夜明けの光に透けている。
裸足で、砂利と擦り傷だらけの足で、覚書を懐に抱いて——ひよりは歩き出した。
行く場所は決まっていなかった。
だが、戻る場所はもうなかった。




