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第2話「覚醒」

 ——計算しろ。


 七つの光点。右手首に一つが絡みつき、残り六つが螺旋を描いて俺を囲んでいる。温度は上がり続けている。首筋の灼けた皮膚が引きつるたびに、視界の端で青い火がちらつく。


 鬼火は下位種だ。知能はない。だが今のこいつらは餌に群がる獣と同じ状態で、獣には獣なりの執念がある。一体を消しても残滓から再凝集した。個別に潰す戦術は成立しない。


 なら、一度で全部消す。


 回路が脈打っている。指先から肘まで、血管の代わりに這い回る異物の感触。前世から持ち越した魔力回路——七十年かけて鍛え上げた、俺の唯一の武器。


 ただし、ここは異世界じゃない。


 この体で回路を開くたびに、世界そのものが拒絶してくる。前回——と呼べるほどの経験すらまだない。転生してから一度も、本気で回路を開いたことはなかった。微量の漏洩すら止められないのに、意図的に開放すれば何が起きるか。


 推測はできる。推測で足りる。碌なことにはならない。


 右手首の鬼火が、炎の芯を肌に食い込ませてきた。


 制服の袖が燃え落ちる。焦げた繊維の臭いが鼻を刺し、その下——むき出しになった前腕の皮膚が、赤黒く泡立つように灼けていく。


 痛みを処理する。前世で覚えた呼吸法。痛覚信号を遮断するのではなく、優先度を下げる。感じてはいる。ただ、判断を歪ませない位置に置く。


 螺旋が絞まる。六つの光点が軌道を縮め、俺の頭上三十センチまで降りてきた。熱で空気が歪み、天井の鉄骨が蜃気楼のように揺れている。


 ——構造化された術式は使わない。魔法陣を展開すれば確実に殺せるが、その分だけ回路が世界と「接続」する。接続時間が長いほど拒絶反応は重くなる。


 だから、やることは単純だ。


 回路に溜まった魔力を、ありったけ、一瞬で、外に叩き出す。


 構造はない。制御もない。経験で鋳造された魔力を、生のまま圧縮して爆発させる。それだけだ。前世の俺なら鼻で笑うほど原始的な——だが、下位種の鬼火七体を吹き飛ばすには、これで十分すぎる。


 右手首の鬼火が、俺の魔力回路を直接齧り始めた。


 ——その瞬間、回路が激昂した。


 俺の意思とは別に、異物を噛んだ回路そのものが反射的に膨張する。丁度いい。制御する必要すらない。この衝動をそのまま、外に向けて撃ち放つだけでいい。


 息を止めた。


 腹の底から這い上がる熱を全身に巡らせ、指先に、首筋に、灼けた皮膚の裂け目の一つ一つに魔力を押し込んで——


 吐き出した。


 音はなかった。


 閃光が、あった。


 青白い光が俺の体表から球状に炸裂し、廃ビルのフロア全体を一瞬だけ白に塗り潰した。鬼火の螺旋が砕けるのが見えた。七つの光点が同時に弾け、青い火花が天井に散り、壁に散り、床に散り——そして、凝集する間もなく消えた。


 残ったのは、焦げた空気の臭いだけだった。


 静寂。


 膝が笑っている。右腕が肘から先の感覚を失いかけていて、胃の底から酸っぱいものがせり上がってくる。回路が軋んでいる——世界との位相のズレが、内臓を裏返すような不快感として跳ね返ってきている。


 だが、耐えられる範囲だ。構造化した術式ではなく生の放出だったからか、拒絶反応は想定の半分以下に収まっている。


 ……吐き気を飲み込んだ。


 振り返る。


 白い髪の少女が、壁に背をつけたまま、こちらを見ていた。


 琥珀色の瞳が大きく見開かれている。当然だ。目の前でクラスメイトが青白い光を全身から放って化け物を消し飛ばしたのだから、普通の反応としてはむしろ正常に近い。


 少女の口が動いた。声は出なかった。唇の動きだけで、たぶん、「何」とか「どうして」とか、そういう類の言葉を探していた。


 俺は彼女に背を向けた。


「怪我は自分で処理しろ。救急車を呼ぶなら好きにしろ。ただし、今のことは誰に言っても信じてもらえない」


「——待って」


 声が追いかけてきた。思ったより強い声だった。膝から血を流して壁に寄りかかっている人間が出す声ではなかった。


「待ってって言ってるの」


「聞こえている。待つ理由がない」


 瓦礫を跨いで出口に向かう。右腕がまだ痺れている。袖の焦げ跡を左手で押さえた。傷口が空気に触れると地味に痛む。


「あんた、あの光——あれ、霊術じゃない。退魔師の術じゃない。あれは何」


 足が止まった。


 止まったのは、その単語のせいだった。退魔師。霊術。この女は、それを知っている。


 振り返らなかった。振り返る代わりに、言葉だけを後ろに投げた。


「……退魔師」


「知ってるでしょ。知らないわけない。あれだけのことをやっておいて」


 知っている。名前だけは。転生してから十七年、この世界の「裏側」にそういう連中がいることは把握していた。妖怪を狩る専門家。霊力という、俺の魔力とは根本的に体系の異なる力を使う人間たち。


 関わるつもりはなかった。


 関わる理由がなかった。


「あの鬼火——ここ最近、この辺りに出没してた。私が追ってたの。でもあんたが来た途端、あいつら全部あんたに」


「知ってる」


 遮った。


「俺の体から漏れてる力が原因だ。こいつらを引き寄せたのは俺だ。お前が巻き込まれたなら悪かった。だが、それで話は終わりだ」


 少女が——神楽坂が、壁から手を離した。一歩、踏み出す音がした。膝の傷を庇いながら、それでも立って、歩いてくる気配があった。


「終わりじゃない」


「終わりだ」


「あんたの体から力が漏れてるなら、また来るよ。鬼火だけじゃない。もっと——」


「それは俺の問題だ」


 振り返った。意識してではなく、反射に近かった。少女の琥珀色の目と視線がぶつかり、一瞬だけ、彼女の表情が固まった。俺の目に何が映っているのか——きっと碌なものではなかったのだろう。七十年分の戦場を知っている目は、十七歳の顔には似合わない。


「お前の事情は聞いていない。俺の事情も関係ない。ここで起きたことは忘れろ」


 言い切って、今度こそ背を向けた。


 出口に向かう。瓦礫だらけのコンクリート床を踏む音が、妙に大きく響いた。右腕の感覚が少しずつ戻ってきている。痺れが引く代わりに鈍い痛みが這い上がってくるのは、むしろ正常な回復の兆候だ。


 廃ビルの出口で、夕暮れの残滓が目を刺した。


 空が赤い。西の雲が橙から紫に溶ける色彩のなかに、電線のシルエットが等間隔に並んでいる。どこにでもある住宅街の風景。化け物が出るような場所ではまるでない。


 背後の廃ビルからは、もう何の気配もしなかった。


 歩き出した。通学路から二本逸れた裏道を、右腕を庇いながら歩く。制服の焦げた袖を引っ張って傷口を隠す。右手首の灼傷が布に擦れるたびに、体が勝手に歯を食いしばる。


 ——退魔師。


 あの女は、退魔師という言葉を当然のように使った。一般人がそう出てくる単語ではない。SNSのオカルト界隈を覗けば零れ話程度は拾えるかもしれないが、あの口ぶりは「聞きかじった」側の人間ではなかった。


 だから何だ。


 それは俺の問題ではない。彼女が何者であろうと、俺の生活に関わる理由はない。


 唐突に、声が割り込んだ。


 足が止まる。住宅街の角、自販機の青い光が歩道を照らしている。その光の中に立ったまま、俺は自分の脳の奥で再生される音声を聞いていた。


 エルマの声だ。最後に聞いた言葉ではない。もっと前の——まだ二人とも生きていた頃の、何気ない一言。何を言ったのかは思い出せない。ただ声の質感だけが残っている。低くて、真っ直ぐで、俺の背中に向かって投げられた声。


 自販機のモーター音が、妙に大きく聞こえた。


 目を閉じた。三秒。


 開けた。


 歩き出す。


 あの少女が何者であろうと。俺の目の前で目を閉じなかった人間が、どんな覚悟で立っていたとしても。


 関係ない。


 ——関係ない、はずだ。


   *


 伯父の家に着いたのは、完全に日が落ちた後だった。


 玄関の明かりは点いている。ただし、それは俺のために点けてあるわけではない。伯父が帰宅するときの習慣で、伯母が門灯をつけっぱなしにしているだけだ。


 靴を脱ぐ。廊下の奥からテレビの音が漏れていた。リビングで伯父一家が夕食を終えた後のくつろぎの時間。俺の分の食事は——期待するだけ無駄だと十七年で学んでいる。


 台所を覗く。


 流しに三人分の食器。テーブルの上に何もない。冷蔵庫を開ければ残り物くらいはあるかもしれないが、「勝手に食べた」と言われるのは面倒だ。面倒というのは感情の話ではなく、工数の話だ。伯母の不機嫌は二日続く。二日分の無駄なストレスを回避するために、俺はコンビニおにぎりの二個分を今夜の食事にする。


 廊下を歩く。リビングの前を通るとき、テレビの音が一瞬だけ止まった。伯母がリモコンでミュートにしたのか、あるいは偶然CMに切り替わっただけか。判別する必要はない。どちらであれ、俺がリビングに顔を出す理由はない。


 階段を上がり、二階の突き当たり。物置部屋。


 元々は伯父が趣味の釣具を保管していた部屋で、俺が引き取られた際に釣具が納戸に移され、代わりに薄い敷布団と古い学習机が放り込まれた。窓は一つ。エアコンはない。天井の蛍光灯は片方が切れたまま放置されていて、部屋の左半分が常に薄暗い。


 鞄を床に置き、制服を脱いだ。右腕の灼傷を確認する。手首から前腕にかけて、三箇所。皮膚が赤黒く膨れている。水疱にはなっていない。鬼火の灼傷は通常の熱傷とは質が違う——霊的な熱は表層を灼くが深部には達しにくい。三日もすれば痕も残らず消える。


 首筋と脇腹、左肩も同様。いずれも軽度。


 問題は、右腕の痺れだ。これは灼傷ではなく、回路の反動。生の魔力を制御なしで放出した代償が、末端神経の一時的な過負荷として残っている。こちらは——半日もあれば回復する。


 濡らしたタオルで傷口を拭き、替えのシャツを引っ被って布団に潜り込んだ。天井の蛍光灯が、切れかけの方だけ微かに明滅している。蛾が一匹、光の周りを回っていた。


 目を閉じる。


 ——目を閉じない少女の顔が、瞼の裏に残っていた。


 振り払う。


 あの程度の鬼火に手こずっていたということは、あの女は戦闘要員としては素人に近い。退魔師という言葉を知っていても、本人がまともに戦える人間かどうかは別の話だ。仮に退魔師の関係者だとして、俺に出来ることは何もない。何もしない。


 眠りに落ちるまでの十数分を、俺は天井の蛍光灯の明滅を数えて過ごした。


   *


 目が覚めたのは、音ではなかった。


 空気だった。


 部屋の空気の質が変わっていた。温度ではない。湿度でもない。もっと根源的な——空気そのものに何かが混じっている。前世の戦場で嗅ぎ慣れた、あの臭い。生き物でも、死体でもない。それらの境界に立つものの気配。


 意識が覚醒するのに二秒かかった。


 布団を跳ね除け、窓に駆け寄った。


 月が出ていた。住宅街の屋根の連なりが青白い光に照らされ、電柱の影が道路に黒い線を引いている。時計は——壁の安物のデジタルが、午前一時四十三分を示していた。


 何も見えない。


 だが、回路が震えている。


 皮膚の下で、魔力回路が警報のように脈動している。夕方の鬼火のときとは比較にならない。あのときの回路の反応が風鈴の揺れだとすれば、今のこれは非常ベルだ。


 窓の外——見えない。


 だが、「下」にいる。


 家の真下。地面の中か、あるいは基礎の隙間か。何かが、この家の直下に潜り込んでいる。


 俺は階段を降りた。足音を殺す必要はなかった。伯父一家は二階の反対側に三部屋並んで寝ている。俺の部屋とは廊下を挟んで十メートル以上離れている。


 一階。廊下。台所。リビング。


 リビングの掃き出し窓に近づいた瞬間——窓ガラスに、影が映った。


 影、というのは正確ではない。ガラスの向こう側に、闇そのものが蠢いていた。庭の芝生の上を、墨を流したように何かが這いずっている。月光を吸い込んで、周囲だけが不自然に暗い。


 八本の脚が見えた。


 ——蜘蛛。


 知っている。文献で読んだことがある。いや、それ以前に回路が教えてくれている。あれは鬼火のような精霊種ではない。実体を持つ妖怪——影蜘蛛。下位から中位の境界に位置する種で、物理的な攻撃力を持つ。


 鬼火の比ではない。


 影蜘蛛が、庭先で止まった。八つの眼が、家の壁を睨んでいる。いや——壁の向こうの俺を、見ている。俺から漏れ出す魔力の臭いを辿って、ここまで来た。鬼火と同じ理由。俺の回路が撒き散らす異世界の残滓は、この世界の化け物にとって抗いがたい餌なのだ。


 問題は、そこじゃない。


 二階で、床が軋む音がした。


 伯父だ。トイレに起きたのかもしれない。廊下を歩く足音。寝ぼけた重い足取りが、階段の方に近づいてくる。


 同時に、影蜘蛛が動いた。


 音もなく庭を横切り、家の外壁に取りついた。八本の脚が壁面に吸い付き、垂直に、二階に向かって這い上がり始める。


 時間が止まった感覚があった。


 正確には、思考が加速した。七十年分の戦場の経験が、この瞬間だけ俺の脳を兵器に変える。


 選択肢は二つ。


 一つ。このまま見ていろ。影蜘蛛の標的は俺だ。二階に来るなら迎え撃てばいい。伯父は途中で異変に気づいて部屋に戻るかもしれない。最悪、遭遇しても影蜘蛛は俺の魔力に引かれているのだから伯父を無視する可能性が高い。可能性。


 可能性だ。確実ではない。


 二つ。外に出ろ。影蜘蛛を家から引き離せ。俺の体が餌なら、俺が移動すれば奴もついてくる。伯父一家を巻き込むリスクを、構造的にゼロにできる。


 ただし、外で戦うということは——


 魔法を使うということだ。


 回路の展開。術式の構造化。生の放出ではなく、魔法陣を組み上げて、正確に、効率的に叩く。あの程度の影蜘蛛に必要な火力は大したものではないが、「構造化された魔法」を使うということは、回路がこの世界の力の流れと正面から接続するということであり——


 拒絶反応。


 夕方の比ではない代償が来る。


 二階で、階段を降りる足音が聞こえた。伯父だ。一段、一段。


 影蜘蛛が二階の窓の高さに達した。


 記憶が割り込んだ。エルマではなく——エルマが死んだ後の、自分の手だった。何もできなかった手。間に合わなかった手。駆けつけた時には全てが終わっていて、ただ冷たくなっていく身体を持ち上げることしかできなかった、あの手。


 だが今、目の前にあるのは、そういう話ではない。


 信じるとか、任せるとかいう高尚な問題ではない。


 単純に、見殺しにできるかどうかだ。


 伯父の足音が一階に降りてきた。暗い廊下を、リビングの方に向かっている。水でも飲むつもりなのだろう。


 同時に、影蜘蛛が壁面で方向を変えた。二階ではなく——一階のリビングの窓に向かって、降下を始めた。


 背後の廊下から伯父が近づいてくる。目の前のガラスの向こうでは、影蜘蛛が降りてくる。二つの動きが、この窓の前で交差しようとしている。


 ——結論は、計算するまでもなかった。


 リビングの掃き出し窓を開け放ち、俺は庭に飛び出した。


 四月でも深夜の空気は冷える。芝生の露が素足の裏に冷たい。月明かりの下、俺は家から十メートルほど離れた位置で立ち止まり——回路を、意識的に開いた。


 漏洩ではなく、開放。


 抑えていた蓋を外し、魔力の気配を全方位に放散する。「ここにいる」と叫ぶのと同じことだ。


 影蜘蛛が反応した。


 壁面に張り付いていた八本の脚が一斉に剥がれ、黒い塊が月光の中を跳躍した。窓から離れ、庭を横切り、一直線に——俺に向かってくる。


 速い。鬼火とは機動の質が違う。八本の脚が地面を蹴るたびに、芝生が黒く焦げる。着地点から闇が滲み出すように広がり、影蜘蛛が通った軌跡が一瞬だけ夜よりも暗い帯になって残る。


 体長は二メートルに近い。正面から見れば、脚を広げた幅はその倍以上ある。腹部に並ぶ複眼が月光を反射して、濁った赤銅色に光っている。口元の牙のようなものが、粘液を引きながら開閉していた。


 あと十メートル。


 回路が唸っている。


 ——やるなら、一撃だ。


 この世界で初めて、魔法陣を展開する。前世でなら一日に百回は組み上げた基礎構造。だがこの体で、この世界で、その構造を空間に定着させるのは——未知だ。


 理論は分かっている。実行したことがないだけだ。


 経験が、迷いを圧し潰した。


 右手を前に出した。


 灼傷の痛みが走り、指先が震える。それを無視して、意識を指先に集中する。回路が腕を走り、手首を通過し、五指の先端から——空間に滲み出した。


 青白い光が、指先から溢れた。


 それは線だった。空気そのものに刻まれる光の線。直線、円弧、分岐、収束——幾何学的な紋様が、俺の右手の前方一メートルの空間に、設計図を広げるように展開されていく。


 魔法陣。


 前世の異世界で大賢者と呼ばれた男が、七十年かけて精緻に鍛え上げた論理回路の結晶。空間そのものを演算装置に変え、力の流れを支配する——身体に刻んだ「型」で戦うこの世界の霊術とは、根本が違う。


 影蜘蛛が跳んだ。五メートルの距離を一跳びで詰め、牙を剥いて俺の頭部に襲いかかる。


 魔法陣が完成した。


 直径二メートルの円形構造。七重の同心円に六十四の節点。節点を繋ぐ光の線が、一瞬だけ——蒼く、脈動した。


 瞳の奥で、光が回った。


 青白い螺旋が、俺の瞳孔の中で渦を巻いているのが自分でも分かった。視界が変わる。世界の構造が透けて見える。力の流れが、大気中の粒子の振動が、影蜘蛛の体を構成する闇の密度が——全て、数値として読み取れる。


 大賢者の眼。


 この目で無数の戦場を読み解いてきた。


 影蜘蛛の複眼が、至近距離で俺を捉えた。牙が首に届くまで、〇・三秒。


 右手を振った。


 魔法陣が回転し、収束し——一条の光になって射出された。


 音が消えた。


 影蜘蛛の体が、頭部から尾部まで一直線に貫かれた。青白い光の槍が妖怪の腹部を突き抜け、背後の夜空に向かって一瞬だけ伸び——消えた。


 影蜘蛛の体が、塵になった。


 比喩ではない。闇で構成された妖体が、魔力の光に焼かれて文字通り微粒子に分解された。黒い粒子が風に巻かれて散り、月光の中で一瞬だけ煤のように舞い——夜気に溶けて消えた。


 跡形もない。


 庭の芝生の上に、影蜘蛛が這った焦げ跡だけが残っている。


 静寂が戻った。虫の声すら聞こえない。住宅街の全てが、今の一瞬を息を止めて見ていたかのような沈黙。


 ——来た。


 右手に、激痛が走った。


 指先からではない。回路そのもの——前腕の内部、血管と神経の間に這い回る魔力の経路が、焼けた鉄線のように軋んでいる。手首から肘まで、筋肉の繊維の一本一本が引き裂かれるような痛みが這い上がってくる。


 膝が折れそうになった。左手で右腕を押さえ、歯を食いしばる。


 拒絶反応。


 分かっていた。この世界の力の流れと、俺の回路の位相は合わない。魔法陣を構造化して展開した瞬間、回路はこの世界と「接続」する。異なる位相同士が接触した反動が、術者の体に返ってくる。


 夕方の生の放出とは比較にならない。構造化された術式は、回路と世界の接触面積が桁違いに大きい。


 右手の感覚が消えた。指が動かない。握ろうとしても、指が自分のものである感覚がない。肘から先が、まるで他人の腕のようだ。


 口腔に、錆びた苦みが満ちた。


 吐き気がせり上がり——堪えきれず、膝をついた。左手で口を押さえた掌に、赤い液体が滲んだ。


 血だ。


 吐血。


 内臓が傷ついたわけではない。回路の拒絶反応が毛細血管を破裂させているのだ。鼻腔の奥、喉の粘膜——微細な血管が圧力に耐えきれず弾けている。


 芝生の上に膝をつき、左手で口元を拭いながら、俺は呼吸を整えた。吸って、吐く。前世で覚えた痛覚の処理法。痛みの優先度を下げる。感じている。だが、判断を歪ませない。


 立ち上がった。


 右腕は使えない。回路の損傷が回復するまで、最低でも一日はかかる。指先の感覚が戻るのは、それよりさらに後だ。


 家の方を振り返った。


 リビングの掃き出し窓が開いたまま、カーテンが夜風に揺れている。その奥は闇に沈んでいて何も見えないが——暗がりの中に、人の輪郭があった。ぼんやりとした影。体格で分かる。伯父だ。


 窓の前で立ち尽くしている。先ほど水を飲みに降りてきたはずの伯父が、庭で起きたことの全てを——あるいはその一部を——見ていた。


 俺は芝生を踏んで掃き出し窓に向かって歩き出した。左手の掌が粘ついている。吐血で汚れた血が、夜気に冷えて薄く固まりかけていた。


 窓に近づくにつれ、月光が室内に差し込む角度が変わり、伯父の姿が少しずつ闇から浮かび上がった。


 パジャマ姿の中年の男が、廊下との境目のあたりで壁に手をついて立っていた。もう片方の手にはコップが握られていたが、傾いて水が床にこぼれていることに本人は気づいていないようだった。


 窓のすぐ前まで来たとき——目が合った。


 伯父の口が半開きのまま固まっている。瞳は大きく見開かれていたが、俺の顔を直視した瞬間に、まるで灼けた鉄に触れたかのように視線が弾かれた。


 恐怖だった。明確な、混じりけのない恐怖。十七年間空気のように扱ってきた居候の少年が、庭で青白い光を放ち、化け物を消し飛ばすのを見た人間の、正常な反応。


 伯父は何も言わなかった。コップから水をこぼしたまま、後ずさるように廊下を戻り、階段を上がっていった。一段も軋ませまいとするように、異常なほど慎重な足取りで。


 二階で、寝室のドアが静かに閉まる音がした。


 ——合理的な反応だ。


 それだけを思った。


 見知らぬ力を持った人間が自分の家にいる。恐怖するのは当然だ。排斥するのも当然だ。それは正しい。生存本能として正しい。


 明日の朝から、この家の空気が変わる。空気のように扱われていたのが、腫れ物のように扱われるようになる。食卓に俺の分の食器が並ばないのは同じだが、理由が「無関心」から「恐怖」に変わる。


 それだけのことだ。


 居場所が一つ減る。元々なかった居場所が、さらに確実になくなる。算数として正しい。ゼロからマイナスへの遷移。


 左手の掌がまだ粘ついている。まずそれを処理する。シャツの裾で左手を拭った。血の赤が灰色の布地に暗い染みを作る。洗濯は自分でやる。誰にも見られない。完全には落ちないが、触れたものに痕跡を移さない程度にはなった。


 サッシの縁に腰を下ろした。足はまだ庭側に垂らしたまま。足裏に貼りついた芝の切れ端と湿った土を、左手で一つずつ払い落とす。右手は使えない。左手だけで、踵の窪み、指の間、土踏まずの縁を探って汚れを掻き出した。完全には落ちない。だが、フローリングに目立つ跡を残さない程度にはなった。


 左手の掌に、払い落とした土が新たに付着している。もう一度、シャツの裾で拭った。同じ箇所が土の黒でさらに汚れる。構わない。


 足を室内側に引き入れ、フローリングに降りた。素足の裏に冷たい床の感触が直接伝わる。


 台所に向かった。リビングから数歩の距離。流しの蛇口を左手の手首で押し上げてひねり、水を出す。掌を流水に晒した。指の間、爪の縁、手首の皺。汚れが水に溶けて排水口に流れていく。手が清潔になってから、蛇口のレバーに付いた手首の跡も流水で洗い流した。痕跡を残さない。この家で俺が「普通の居候」として処理される側でいるための、最低限の衛生管理だ。


 蛇口を止め、シャツの裾で手を拭いた。


 掃き出し窓に戻り、左手で窓を閉め、鍵をかけた。


 廊下を歩く。階段を上がる。物置部屋のドアを開ける。


 薄暗い部屋の中、窓際に——人影があった。


 反射的に構えかけて、やめた。回路が反応していない。敵意もない。


 月光が窓から差し込み、白い髪を青く照らしていた。


 神楽坂が、物置部屋の窓の外——二階の庇に座っていた。


 窓は閉まっている。彼女は外にいる。ガラス越しに、琥珀色の瞳がこちらを見ていた。左膝には応急処置のガーゼが貼られている。制服のブレザーの右肩は焦げたまま。


 どこから登ったのかは知らない。雨樋か、隣家の塀か。この女は、廃ビルから俺の後をつけてきたのだ。


 窓を開けた。夜気が流れ込む。


「……何しに来た」


 声が掠れていた。吐血の後遺症で喉の粘膜が荒れている。


 神楽坂は庇の上に座ったまま、膝を抱えていた。その姿勢のまま、俺の右腕を見た。力なく垂れ下がった、動かない右腕を。


「血」


 一言だけ言った。


「口の端。拭けてない」


 左手で口元に触れた。指先に、乾きかけた血が付いた。手は洗ったが、顔までは気が回っていなかった。


「……見てたのか」


「全部」


 感情の読めない声だった。責めるでも、怯えるでもない。事実を述べるだけの平坦な声。


「あんたが庭に出たところから、あの——蜘蛛を消したところまで。全部見てた」


 沈黙が落ちた。


 月光の下で、少女の白い髪が風に揺れていた。鬼火の戦いの前から——この女は走り、殴られ、灼かれ、膝から血を流している。それでもここまで来た。二階の庇まで登って、窓の外で座っていた。


 疲弊しているはずだ。体力の限界に近いはずだ。それでもこの女は、ここにいる。


「……帰れ」


「帰らない」


 即答だった。


「あんた、あの光を使ったら血を吐いた。腕も動いてない。今、戦えないでしょ」


「お前には関係ない」


「関係ある」


 神楽坂が立ち上がった。庇の上で、ふらつきながらも両足で立った。窓枠を掴み、身を乗り出して、俺の顔を覗き込んだ。


 至近距離で、琥珀色の目が俺を射抜いた。


「あの鬼火は、あんたの体から漏れてる力に引き寄せられた。あの蜘蛛もそう。あんたがいる限り、もっと来る。もっと強いのが来る」


 知っている。


 知っているから、何だ。


「で、あんたはあの光を使うたびに壊れる。今見た通り。次はもっとひどくなるかもしれない。その次はもっと。違う?」


 否定できなかった。理論的に正しい推測だからだ。


「帰れ、と言った」


「あんたは一人で全部やろうとしてる。でもそれ、もう破綻してる。今夜で証明された。自分の力で自分の体を壊してる人間が、一人で全部やれるわけない」


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 回路の痛みではなかった。もっと古い、もっと深い場所の——七十年前に封じた傷が、この女の言葉で表面を引っ掻かれた音だった。


 ——一人で全部やれるわけない。


 知っている。


 知っていて、それでも一人でやると決めた。他人を信じた結果を、知っているからだ。


「お前が何者で、なぜ退魔師のことを知っていて、なぜ俺の後をつけてきたのか。聞く気はない」


 少女の指先が、スカートの裾をきつく握った。


「俺のことも聞くな。今夜見たことは忘れろ。次に会っても知らない顔をしろ。——それが、お前にとって一番安全な選択だ」


 少女の唇が、一瞬だけ震えた。


 怒りだと思った。あるいは悔しさか。表情を読もうとして、途中でやめた。他人の感情を読む行為そのものが、関わりの第一歩になる。


「……覚えてる」


 神楽坂が、小さく言った。


「あんた、あの廃ビルで、私を助けに来たとき——一瞬だけ、顔が変わった。すごく——古い顔になった」


 息が詰まった。


「あれは、"自分のことだけ考えてる人間"の顔じゃなかった」


 月が雲に隠れた。庇の上の少女の輪郭が暗闇に溶け、白い髪だけが微かに浮かんでいた。


「帰る。今日は」


 神楽坂が庇の端に移動し、雨樋に手をかけた。降りようとして——振り返った。


「でも、忘れない」


 それだけ言って、少女は闇の中に消えた。


 雨樋を伝い降りる微かな音。塀を越える気配。足音が遠ざかり、やがて住宅街の静寂に飲まれた。


 俺は窓の前に立ったまま動けなかった。


 右腕が垂れ下がっている。口の中に鉄の味が残っている。回路が鈍く痛んでいる。


 窓を閉めた。左手だけで。


 布団に戻り、天井を見上げた。


 蛍光灯の切れかけの方が、まだ明滅していた。蛾はいなくなっていた。


 ——古い顔。


 そう見えたのか。あの瞬間。エルマの死を思い出して、反射的に動いたあの瞬間の俺の顔は、十七歳の少年ではなく——七十年の戦場を知る老人の顔をしていたのか。


 この女は、それを見た。見て、覚えていて、言語化した。


 厄介だ。


 この女は——厄介だ。


 目を閉じた。


 眠りは来なかった。

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