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第19話「戦う理由」

 街灯が点いた。


 蓮の前方、通りの向こう側で、白色のLEDが一本ずつ順に灯っていく。自治体の自動点灯。夕闇が夜に切り替わる合図だった。


 通行人の数が減っていた。十分前にはまばらながら人がいた歩道が、今は二十メートル先にサラリーマンの背中が一つ見えるだけだった。住宅街に近い裏通り。飲食店も商業施設もないこの通りは、帰宅のピークを過ぎれば人が途絶える。


 蓮はそれを理解していた。


 人がいる場所では追跡者は動けない。一般人の目がある環境では実力行使のリスクが跳ね上がる。退魔師の存在は公然の秘密——だが秘密であるがゆえに、衆目の前での霊術行使は組織にとって最悪の選択肢になる。


 だから人が減ることは、蓮にとって猶予の消失を意味していた。


 左手のポケットの中で、人差し指と親指が痙攣していた。二本の指先に爪が食い込む感覚だけが、意識の輪郭を保っている。薬指は何も返さない。中指は、握り込んでいるはずの掌の圧力を、ぼんやりとした重さとしてしか伝えなかった。


 背後の足音が三つ。


 距離は約十五メートル。靴底の硬さが均一——運動靴ではなく革底に近い。歩幅のリズムが微妙にずれている。三人が横並びではなく、前後に散開している配置。先頭の一人が他の二人より半歩速い。指揮系統がある。先頭が現場責任者だろう。


 蓮は歩調を変えなかった。変えれば、意識していることが足音のリズムに乗る。振り返らない理由は封印されたあの日から変わっていない。気づいていることを悟らせれば、判断が「泳がせる」から「確保する」に切り替わる。


 だが、その前提はすでに崩れかけていた。


 通りの先が丁字路になっている。左に曲がれば大通りに出る。右に曲がれば住宅街の奥へ入る。大通りなら人がいる。だが大通りに出るまでの三十メートルは、街灯が一本しかない狭い路地を通過しなければならない。


 蓮の足が丁字路に達した。


 左を見た。路地の入口。幅は二メートルに満たない。両側がコンクリートの壁面で、左側は雑居ビルの裏壁、右側はマンションの外壁だった。入口の真上に街灯が一本。その光が路地の手前数メートルだけを照らし、奥に向かって闇が急速に濃くなっている。三十メートル先には大通りの照明がぼんやりと漏れていた。地面はアスファルト。乾燥している。排水溝の蓋が二箇所、等間隔に並んでいた。


 右を見た。住宅街。街灯の間隔は広いが人の気配はなかった。


 どちらを選んでも、蓮の状態は変わらない。右腕は死んでいる。左手は二本の指しか動かない。魔法はない。走れば喉の奥が裂けてまた血が出る。


 蓮は左に曲がった。


 大通りに出るためではなかった。路地の幅が二メートル未満——三人が同時に並べない。追跡者が一列になる。一列になれば、法則が適用できる。


 数の優位は、横幅で決まる。


 路地に入った瞬間、背後の足音が変わった。革底の摩擦音が加速する。三つの足音のリズムが乱れ——先頭の一人が走り出した。


 蓮は走らなかった。


 走れば体力が尽きる。体力が尽きれば判断力が落ちる。判断力が落ちた瞬間に死ぬ。七十年前からそうだった。走って逃げ切れる距離を正確に計算できないなら、走らない方がいい。


 入口の街灯の光を背に受けながら、蓮は路地の奥へ十歩ほど歩いた。歩くごとに周囲の闇が増していく。街灯の光はもう足元にも届いていなかった。


 蓮は暗がりの中で立ち止まった。


 振り返った。


 路地の入口に三つの影が立っていた。入口の街灯が頭上から三人を照らし、蓮の側からは逆光になっている。顔の細部は見えない。だが、街灯を背負った身体の輪郭と、腕の位置は左目で読み取れた。右端の視界が滲んでいる——だが左目は正常だった。三人のシルエットを左目で捉える。


 先頭の男が、右腕を腰の高さまで上げていた。シルエットの中で腕の角度が変わったのが見えた。蓮が振り返ったことに、一瞬だけ動作が遅れた。


 二番目の男は先頭の背後、左側に半身ずれた位置。左手で掌大の何かを耳に押し当てたまま、右手を下ろしている。


 三番目は二番目のさらに後方。路地の入口の外にまだ半身が残っていた。


 蓮は三人の配置を一秒で読み取った。


 先頭が攻撃担当。二番目が通信と指揮。三番目が後方支援か記録。路地の幅では先頭しか攻撃できない。二番目以降は先頭を追い越すか、先頭が横にずれなければ射線が通らない。


 先頭の男のシルエットが変わった。右腕の角度が固定され、肩が微かに前傾する。そして呼吸——吸気の深さが変わった。闇の中でも呼吸音は消せない。


 蓮の身体は、その吸気を聴いた瞬間に横へ動いていた。


 霊術には必ず予備動作がある。


 印、呼吸、構え。この三つが揃った瞬間、発動までの猶予は約〇・七秒。蓮は千を超える攻撃術の予備動作を見てきた。身体の運動を媒介にする攻撃術の根本構造は、世界が違っても変わらない。人間の筋肉と関節には限界がある。その限界が生む「動作の癖」は、見続ければ地図のように読める。


 衝撃が蓮の右側を通過した。


 コンクリート壁に何かが衝突する音。壁面に放射状の亀裂が走り、粉塵が蓮の頬に散った。衝撃系——風か、あるいは圧縮した霊力の直接射出。入口の光の中から暗がりの中の的を撃っている。練度は低くない。だが暗所の標的に対する命中精度には限界がある。蓮が闇の中にいるという事実が、最初の一撃を外させた。


 だが問題はそこではなかった。


 撃った。


 正式命令は「確保」のはずだ。確保対象に衝撃術を叩き込む判断は、命令の範囲を逸脱している。これは現場の暴走だ。先頭の男が「逃がせば自分たちが処分される」と判断し、強度を引き上げた。


 蓮は壁に背をつけた。右腕はポケットの中——壁面に接触しても痛みを感じない。左手は身体の前に。路地の奥の闇が蓮を包んでいた。暗がりの中で壁に張りつく蓮の姿は、入口側からは輪郭すら判別しにくいはずだった。


 先頭の男が踏み出した。革底がアスファルトを蹴る音が一つ。路地の幅は二メートル未満。男の肩幅を考えると、左右に〇・五メートルずつの余裕しかない。


 蓮は動かなかった。


 男がさらに踏み込んだ。二歩、三歩、四歩。入口の街灯がまだ背後にある距離では、男の歩幅は通常に近かった。足音が近づくたびに、男の呼吸が蓮の耳に鮮明になっていく。


 五歩目から、足音のリズムが変わった。歩幅が縮まっている。街灯の光が届かない暗がりに踏み込んだのだ。蓮の位置を特定しようと、闇の中を探るように慎重に足を運んでいる。六歩目。七歩目。革底が地面を擦る短い摩擦音の間隔が狭くなっていく。


 入口の街灯から遠ざかるにつれ、男の輪郭は闇に紛れ、もはや視覚では身体の境界線すら曖昧だった。だが音は消えない。衣服が腕の動きに合わせて擦れる布鳴り。そして——指と指が擦れ合う、乾いた微かな音。骨と皮膚が摩擦する、あの特有の響き。


 印を結び直している。次の攻撃の準備だ。


 八歩目。九歩目。呼吸が変わった——吸気が深くなる。先ほどより威力を上げようとしている。十歩目。十一歩目。足音の間隔がさらに短くなっている。蓮の気配を捉えかけたのだろう。距離を詰める速度が上がった。十二歩目——革底の音が蓮の一歩手前で止まった。


 約一メートル。蓮の呼吸が男に聞こえ、男の呼吸が蓮に聞こえる距離。


 蓮は男の吸気を聴いていた。


 吸気の頂点。吐き出しに転じる瞬間が、発動の引き金になる。


 蓮はその瞬間を待った。


 吐き出しが始まった。空気が唇を割る音——その呼気の最初の震えを蓮の耳が拾った瞬間、蓮の身体は前に出ていた。


 一歩。


 壁から背を離し、低い姿勢で前方へ踏み込んだ。一メートルなら一歩で上体ごと術者の腕の内側に潜り込める。霊術の射線は、術者の手の延長線上に固定される。予備動作が完了した瞬間に射線は確定する。確定した射線の内側——術者の懐に入れば、攻撃は頭上を通過する。


 衝撃が蓮の髪を掠めた。後方の壁に二度目の着弾音。蓮の身体はすでに男の懐にあった。


 左手が動いた。


 人差し指と親指。二本しか動かない左手で、蓮がやれることは限られている。握れない。掴めない。拳が作れない。


 だが、掌底は打てる。


 蓮の左掌底が、男の鳩尾に入った。人差し指と親指の根元——掌の付け根に体重を乗せた打撃。拳ではなく掌。指ではなく手根骨。五本の指のうち二本しか動かなくても、掌底の衝撃は腕と体幹の連動で生まれる。


 男の呼吸が止まった。印を結んでいた右手が弛緩し、身体がくの字に折れる。前方に崩れかけた重心——蓮は左足で男の足首を前方から引っかけた。支えを失った身体が、折れた姿勢のまま前のめりに崩落した。膝がアスファルトを打ち、続いて両手と顔面側が地面に突っ伏す。鈍い衝突音が路地に反響した。


 一人。


 蓮の視界の左側で、二番目の男が動いた。先頭が倒れたことで射線が通った。耳に当てていた通信機をベルトに戻し、両手を空けて印を結ぼうとしている。路地の幅では、倒れた先頭の男を越えなければ蓮に近づけない。二番目の男は倒れた男を跨ごうとして——足が止まった。


 路地の幅が足りなかった。


 うつ伏せに倒れた男の身体が路地の幅の半分以上を占めている。跨ぐには大きく足を上げる必要があり、その瞬間は片足立ちになる。片足立ちの不安定な状態で印を結ぶことはできない。型の精度が落ちる。


 蓮はそれを見越していた。


 狭い通路では、倒した敵の身体そのものが障害物になる。数の優位を潰すのに、技術は要らない。地形と物理だけで十分だ。


 二番目の男が壁際を通ろうとした。右壁に肩を擦りつけるようにして、倒れた男の脇を抜ける。蓮は壁に背をつけたまま、男が体勢を崩す瞬間を待った。


 男の右足が排水溝の蓋の縁に引っかかった。ほんの一瞬、重心が右に傾く。


 蓮の左足が、男の軸足の膝裏に入った。


 前蹴りではなく、踵での打ち込み。脚の力は両手が使えなくても出せる。膝裏の腱に踵が当たった衝撃で、男の右脚が崩れた。壁に肩から衝突し、その反動で路地の中央に倒れる。


 二人。


 蓮の膝が震えていた。


 二人を倒すのに使った動作は、全て最小限のものだった。掌底が一発、足払いが一回、膝裏への踵打ちが一回。それだけの動作で、蓮の呼吸は乱れ、左手の痙攣が手首から肘に拡がっていた。深部振動が左肩から顎の関節まで伝わり、奥歯が微かに鳴っている。


 足首に振動が溜まっている。脛が重い。


 蓮は壁に背をつけたまま、三番目の男を見た。


 三番目は路地の入口に立ったままだった。倒れた二人の向こう側。入口の街灯が背後から男の輪郭を縁取っている。距離は約八メートル。


 男は、走った。


 蓮に向かってではなく、路地の外に向かって。街灯の光の中に一瞬だけ全身が照らされ、そのまま蓮の視界から消えた。革底の足音が遠ざかっていく。


 逃げた。


 蓮は追わなかった。追える身体ではなかった。左膝を少し曲げ、壁に体重を預けた。呼吸を整えようとして、喉の奥から鉄の味が込み上げた。血ではなく、粘膜が荒れた喉が気管支の空気に晒される刺激だった。咳を堪えた。咳をすれば喉が裂ける。裂ければ血が出る。血が出れば、さらに体力が削られる。


 路地の地面に二人の男が倒れていた。一人目はうつ伏せのまま腹を押さえ、顔を横に向けてアスファルトに頬をつけている。意識はある——蓮の方を見上げる目が暗がりの中でかすかに光っていた。二番目の男は壁に背をつけた姿勢で座り込み、右膝を押さえていた。


 蓮は二人から視線を外さないまま、壁沿いに二歩だけ横にずれた。


   *


 その頃。


 六畳の和室に、蛍光灯の白い光が落ちていた。


 高瀬は座布団の上に座っていた。包帯に巻かれた両手を膝の上に置いている。熱傷の治療中の掌は、包帯の下で鈍く疼いていた。指先に力を入れると、火傷の皮膚が引きつれるような痛みが走る。


 襖の向こうに、気配があった。


 来客ではない。来客なら玄関を使う。襖の向こう側の廊下に直接現れたということは、結界の内側を通れる者——退魔局の関係者だった。


 襖が開いた。


 男が立っていた。年齢は三十代半ば。黒い詰め襟の上着。退魔局の正規職員が着る服装だった。顔に見覚えはないが、服の右袖に刺繍された紋章には覚えがあった。土御門宗家の使い。


「高瀬。監視チームに欠員が出た。合流してくれ」


 男の声は事務的だった。命令でも依頼でもない。そういう手続きであるという口調。


 高瀬は男の顔を見た。


「なぜ、俺に」


「適任だからだ。対象の顔を知っている。現場での識別に支障がない」


 言葉の裏を読むまでもなかった。あの夜、土御門から受け取った霊具——妖怪誘引器。あれを使った結果、高瀬は土御門に「借り」を作った。借りは返済を求められるものではなく、永続的に行使されるものだ。断れば、借りの清算が別の形で来る。


 高瀬は知っていた。自分がここに座っているのは、末端の退魔師だからだ。末端には選択肢がない。名門の直系であれば断ることもできる。血統の序列は、拒否権の有無をそのまま決定する。高瀬の家は末端中の末端だ。霊力量は低く、修練しても上限が見えている。だからこそ血統主義にしがみついてきた。血統という秩序の中にいれば、少なくとも自分の立ち位置は保証される。


 借りを盾にされれば、答えは一つしかないはずだった。


 だが。


 高瀬の視界に、別の映像が重なった。


 地下の処刑室。術式陣の中央に立つ少年。白いシャツが赤黒く染まっていく。膝が震えているのが、高瀬の位置——西壁の端——からでも見えた。


 あの少年は膝をつかなかった。


 血を吐いた。二度目の逆流を試みて、封印が自己強化する激痛に晒されて、それでも立ち続けた。高瀬が何かを言おうとして口を開いた瞬間、少年の背筋が刃物のように伸びていて、高瀬は言葉を飲み込んだ。


 あの時、何を言おうとしたのか。高瀬自身にもわからなかった。「やめろ」だったのか。「なぜ抵抗しない」だったのか。それとも、もっと単純な——。


 包帯の下の掌が、疼いた。


 火傷の痛みではなかった。あの夜、霊具を受け取った時の掌の感触が蘇っていた。土御門から渡された小さな装置。受け取った瞬間に感じた、指先の微かな嫌悪感。あの時は気づかないふりをした。気づけば、自分が末端の捨て駒であることを認めなければならないから。


「高瀬」


 使いの男が、一歩だけ廊下から室内に踏み込んだ。


「返事を」


 高瀬は男を見た。


 処刑室で蓮から視線を逸らせなかった理由を、今ようやく理解した。血統主義の秩序の中で、高瀬は自分の立ち位置を保証してもらう代わりに、何を差し出してきたのか。答えは簡単だった。判断だ。自分の頭で考えることを放棄して、上から降りてくる命令に従うことで、高瀬は「末端でいい」と自分を納得させてきた。


 あの少年は、全てを奪われた後も、自分の足で立っていた。


「行かない」


 高瀬はそれだけを言い、使いに背を向けた。


 背後で、襖が閉まる音がした。使いの足音が廊下を遠ざかり、やがて消えた。


 高瀬は壁を見つめていた。動かなかった。包帯の巻かれた両手が、膝の上で微かに震えていた。


   *


 路地に戻る。


 蓮は壁から背を離し、二人目の男の横にしゃがみ込んだ。左膝をつく。男は壁に背をつけた姿勢で座り込んだまま、右膝を押さえている。蓮の手を払う余力はなさそうだった。


 左手を男のベルトに伸ばした。暗がりの中では、目で確かめる方法がなかった。指先でやるしかない。


 ベルト左側。人差し指の腹が四角い輪郭に当たった。掌に収まるサイズ。親指で表面を撫でると、浅い凹凸の連なりが指先に引っかかった——刻印か紋様。戦闘用の霊具なら、握り込むための曲面と、発動部位に当たる突起があるはずだ。この器具にはどちらもない。記録用だろうと判断した。ベルト右側には薄い板状の器具。厚さは指の第一関節ほど。表面は滑らかで、探知系の座標表示器に似た形状だった。


 さらに指を這わせると、三つ目の器具がベルトのクリップに留められていた。掌に収まる長方形。前面にスピーカーの小さな穴が並ぶ感触。側面にボタンが二つ。通信機——小型のトランシーバー本体だった。戦闘中に男が耳に当てていたものを、印を結ぶために外してベルトに戻したのだろう。


 戦闘用の霊具がない。


 蓮は一人目の男の方へ顔を向けた。入口の街灯から漏れるかすかな光の中で、うつ伏せに倒れた一人目の腰回りのシルエットが辛うじて判別できた。ベルトに固定された装備の大まかな配置——左右の膨らみの数と位置——は、二人目と同じに見えた。戦闘用の霊具を腰に下げていれば、形状と大きさが明らかに違う突起になる。それがない。


 あの衝撃術は、男自身の霊力で放ったものだった。正規装備ではなく、個人の判断で霊術を行使した。つまり——命令にはなかった行動だ。


 蓮はベルトのクリップから通信機の本体を外した。人差し指と親指で挟んで持ち上げると、本体の小さなスピーカーから微かに音が漏れていた。回線が開いたままだったらしい。


 壁に背をつけ直し、通信機を耳に近づけた。


 声が断片的に聞こえた。


「——四番、合流拒否。三名で——」


 四番。四人目が合流を拒否した。


 蓮はその一言を処理した。元は四人編成のチーム。四人目が抜けて三人で運用していた。四人目が誰かはこの時点では特定できない。だが、チームの一人が命令を拒否したという事実は、組織の内部に亀裂があることを意味する。


 通信はまだ続いていた。


「——三番から報告。対象は路地内。二名ダウン。至急——増援を——」


 三番。逃げた三番目がコールサインで報告を上げている。増援の要請だ。


 蓮は目を閉じた。


 時間がない。


 増援が来れば、次に現れるのは記録・追跡用の末端チームではない。制圧を前提とした実戦要員だ。蓮の現在地は特定されている。路地から移動しなければならないが、蓮の身体は限界に近かった。


 左手の痙攣が止まらない。深部振動が肘を越えて肩甲骨に達している。右腕はポケットの中で重量物としてぶら下がったままだ。呼吸のたびに喉の奥から鉄の味がする。


 通信は切れていた。三番目の報告が終わった後、回線が閉じたらしい。


 蓮には携帯電話がなかった。鞄は退魔局に預けたまま返却されていない。通信手段はゼロだった。この通信機が唯一の外部への連絡手段になる。


 だが、この通信機は退魔局の内部回線に接続されている。監視チームの周波数帯で通話すれば、内容は筒抜けになる。


 蓮の思考が加速した。


 燐太郎が「連絡が来た瞬間に即応できる経路」を残していたはずだ。封印の日の時点で、燐太郎は蓮から公式に距離を置いていたが、完全に接点を断ってはいなかった。裏の連絡経路——退魔局の内部回線とは別の周波数帯。燐太郎ならそれを用意しているだろう。


 問題は、その周波数帯を蓮が知っているかどうかだった。


 知っていた。


 退魔局に登録された際、蓮は局の通信インフラを分析していた。正規の通信帯域は三つ。そのうち二つは作戦用、一つは管理用。だが通信機のハードウェアが対応する帯域はそれより広い。正規帯域の外に、テスト用の未使用帯域が存在する。燐太郎のような内部調査を行う人間なら、その帯域を裏連絡用に使うことは合理的な選択肢だった。


 蓮は通信機の本体を左手の人差し指と親指で挟むように持った。先ほど触診で確認した側面のボタン。人差し指を本体の反対側の面に添え、親指でボタンを押し込んだ。人差し指が裏側から支えることで、本体は指の間で動かなかった。


 三回。周波数帯が正規帯域の外に移る感触を、ボタンの反発の微妙な変化から読み取った。


 通信機のスピーカー面を左耳に押し当てた。掌大の本体をそのまま耳に当てる形になる。指先が血で濡れている。本体の表面に赤黒い痕が転写された。


 無音が返った。接続先がない。


 耳から離し、同じ要領でもう一回。四回目のボタン操作。再びスピーカー面を耳に当てた。


 接続音が鳴った。


 蓮の呼吸が止まった。


 三秒。五秒。七秒。


 呼び出し音が路地に微かに響いていた。蓮は壁に背をつけ直し、左膝を立てた姿勢で待った。喉の奥に血の味が溜まっている。唾を飲み込んだ。鉄の味が食道に落ちていく感覚を、意識の端で処理した。


 十秒。


 通信が繋がった。


 受話側は何も言わなかった。発信元を確認しているのだろう。退魔局の通信機から、非正規帯域で呼び出しが来た。応答する前に発信元の意図を測る——合理的な判断だった。


 蓮は声を押し出した。


「朝霧だ」


 声は掠れを通り越して、擦過音に近かった。


 通信の向こう側で、一瞬の沈黙があった。


「——状況は」


 燐太郎の声だった。抑制された、無駄のない発声。感情が読めない平坦さ。だが即応した。呼び出しから十秒で応答した。待っていたのだ。あるいは、この連絡が来る可能性を計算していた。


 蓮は喉に力を入れた。唾液が粘膜を濡らし、数語分の発話が可能になる。それ以上は喉が持たない。


「封印された。監視を排除した。増援が来る」


 最後の「来る」は音になりきらず、呼気の振動が通信機を震わせただけだった。


 燐太郎は即座に応じた。


「場所を送れ。迎えは出せないが、合流点を指定する」


 蓮は退魔局正面玄関から路地までの経路を脳裏でたどった。追放後、裏手の通路を南西へ抜け、住宅街の外縁を回り込んでこの路地に入った。本部からの相対位置。空間把握が、意識の底で自動的に方角と距離を算出していた。


 伝えなければ合流できない。


「本部南西。住宅街の路地」


 「路地」の最後の音が途切れた。喉の奥で何かが裂けた感触があった。


 燐太郎は二秒だけ間を置いた。位置を照合しているのだろう。


「了解した。——天神橋の南詰。四十分後」


 天神橋。蓮の記憶にある地名だった。本部から南西に数百メートル、住宅街と商業区の境界にある小さな橋。夜間は人通りが少なく、退魔局の監視結界の末端付近にあたる。合流点としては合理的だった。


 蓮は位置情報を脳に刻んだ。ここから天神橋の南詰まで——大通りに出て南下すれば、距離にして五百メートル前後。今の身体で四十分あれば到達できるぎりぎりの計算だった。


 戦術上必要な情報は交換した。位置と合流点。あとは動くだけだった。


 だが、もう一つだけ確認しなければならないことがあった。


「なぜ動く」


 自分の声が、他人の声のように聞こえた。掠れ切って、音の輪郭がほとんどなかった。


 蓮がこの問いを発した理由は、合理性の確認だった。燐太郎が蓮のために動く道理はない。蓮が求めているのは恩でも義理でもなく、燐太郎自身の動機の確認だった。他者の動機が不明なまま協力関係を結ぶことは、蓮にとって制御不能な変数を抱え込むことを意味する。


 通信の向こうで、燐太郎の呼吸が微かに変わった。


「お前のためじゃない」


 燐太郎の声は、平坦さの中に硬質なものを帯びていた。


「俺は——正しいものを正しいと言うために動く。それだけだ」


 通信が切れた。


 蓮は通信機を左耳から離した。血に濡れた本体を、二番目の男の胸元に置いた。男は蓮の顔を見上げていたが、何も言わなかった。


 蓮は壁を支えにして立ち上がった。左膝に力を入れ、右脚で地面を押す。立ち上がる動作だけで、足首から脛にかけて溜まった振動が膝裏に跳ね返った。


 路地の奥——大通り側に向かって歩き出した。天神橋の南詰。四十分。


 七十年の戦場を経た大賢者が、他者に助けを求めた。


 それは屈辱だった。前世を含めて一度もなかったことだった。エルマがいた時でさえ、蓮はエルマの判断を「取り入れて」いたのであって、「委ねて」はいなかった。全ての決定権は蓮の手にあった。エルマは蓮の判断の延長線上に立つ補助者であり、蓮の判断を超える存在ではなかった。


 だが今、蓮の判断は「一人では勝てない」と結論していた。


 感情が結論を出したのではなかった。戦場の計算が結論を出した。魔力がない。右腕が動かない。左手は二本の指だけ。喉は壊れかけている。増援が来る。単独で逃げ切れる確率は、蓮の計算では一桁のパーセンテージだった。


 合理性が感情を上回った。


 それだけのことだった。


 蓮はそう自分に言い聞かせた。血の味が残る喉の奥で、その言葉が嘘のように響いたことに、蓮は気づかないふりをした。


   *


 通信を切った手が、数秒だけ空中で止まっていた。


 燐太郎は自室の机に向かって座っていた。机上のランプが手元を照らし、その光が壁に掛けられた額の表面を淡く反射している。額の中には、神楽坂分家の家紋が収められていた。


 通信機を机に置いた。


 朝霧蓮が他者に連絡を寄越した。


 燐太郎はその事実を、感情を排して処理しようとした。だが排しきれないものが、胸骨の裏側にわだかまっていた。


 初めて蓮と対峙した時、燐太郎は蓮の力を「邪道」と断じた。正統な霊術ではない。型がない。美しくない。血統に依拠しない力は、燐太郎が信じてきた秩序の外側にあるものだった。


 だがその後、秩序の土台そのものが腐っていることを知った。


 霊脈データの改ざん。土御門が意図的に霊脈の流れを操作し、そのデータを書き換えていた証拠。燐太郎が外部記録媒体に保存したそのデータは、今も机の引き出しの中にある。


 正統とは何だ。


 血統を振りかざして正しいものを踏み潰す体制の中で、「正統」という言葉にどれほどの意味が残っているのか。


 燐太郎は壁の額を見た。


 神楽坂分家の家紋。燐太郎が生まれた時からそこにあった。分家の天才と呼ばれた時も、霊術の型を極めるために修練を重ねた時も、この家紋が燐太郎の背後にあった。正統の証。血統の誇り。


 あの朝霧蓮が、助けを求めた。


 魔法を奪われ、身体を壊しながら、それでも戦い続けている人間が、燐太郎に連絡を寄越した。あの男が頭を下げたのではない。戦場の現実が、一人では勝てないと証明したのだ。


 ならば。


 燐太郎は立ち上がった。椅子が床を擦る音が、静かな部屋に響いた。


 壁の前に立った。額に手を伸ばし、家紋を壁から外した。裏返した。表面に描かれた紋章が壁に向き、無地の裏板だけが室内を向く。


「正統とは、正しいものを正しいと言える力のことだ」


 声に出した言葉は、誰に向けたものでもなかった。


 家紋を壁に戻した。裏向きのまま。


 燐太郎は机に戻り、引き出しから外部記録媒体を取り出した。霊脈データの改ざんの証拠。土御門の内部から、正統の名を使って行われた欺瞞の記録。


 蓮のために動くのではない。


 この証拠を持ち出す。正しいものが正しいと認められる場を作る。そのために、まず合流する。


 燐太郎はランプを消した。


   *


 同じ夜。


 神楽坂本家。地下。


 光のない空間に、鎖の音だけが微かに響いていた。冷たい石の壁と湿った空気。蛍光灯も窓もない、地上から完全に遮断された部屋だった。


 暗闇の中で、ひよりが目を開いた。


 琥珀色の瞳が、光のない空間をまっすぐに見据えていた。

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