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第17話「土御門の罠」

 蛍光灯の白い光の下で、蓮は左手にスマートフォンを持ち直した。


 親指で画面を点けた。通知は出頭命令の一件だけだった。蓮はそれを無視し、通話履歴を開いた。神楽坂ひよりの番号を選択し、発信した。


 呼び出し音が三回鳴った。四回目の途中で途切れた。通話終了のトーンではない。回線そのものが遮断されたような、不自然な断絶だった。


 蓮はもう一度発信した。今度は一回目の呼び出し音すら鳴らなかった。画面に「接続できません」の表示が浮かんだ。


 三度目。同じ結果。


 蓮はスマートフォンを耳から離し、画面を見下ろした。電波状況は正常だった。校舎の昇降口は通常であれば圏外になる場所ではない。つまり回線の問題ではなく、相手側——あるいは経路上——で通信が遮断されている。


 左手の人差し指で、画面上のメッセージアプリを開いた。ひよりへのテキストを打った。親指と人差し指だけで文字を選ぶ作業は遅く、一文を打つのに通常の三倍近い時間がかかった。中指は画面に触れても反応を返さず、薬指は画面の上に置いても指先の温度すら感じなかった。


「連絡をくれ」


 送信。画面の下部に「送信済み」のチェックマークが一つだけ付いた。既読を示す二つ目のチェックは付かなかった。


 蓮は三十秒待った。一分待った。変化はなかった。


 画面を消し、スマートフォンをスラックスの左ポケットに戻した。


 昇降口の蛍光灯が微かに唸っていた。外はすでに暗く、ガラス戸の向こうに校庭のフェンスがぼんやりと見えるだけだった。蓮は昇降口を出て、校舎の脇の通路を歩いた。靴底がコンクリートを叩く音が、夜の静寂に硬く響いた。


 歩きながら、意識を周囲に広げた。


 監視結界は、校舎を中心に半径およそ二百メートルの範囲に展開されている——と蓮は推測した。推測、というのは、蓮自身の感覚精度がすでに信頼できないからだ。右目の視界の端が常に滲んでおり、霊脈の流れを読む精度も劣化している。結界の正確な境界線を特定するには、感覚器官の較正が必要だが、較正の基準そのものが歪んでいる以上、出力される数値に意味がない。


 わかることは限られていた。結界が存在すること。自分の移動を捕捉する機能を持つこと。そして、この結界を突破すれば、その事実が即座に退魔局の上層部——実質的に土御門——に伝達されること。


 蓮は校門の手前で足を止めた。門扉の鉄柵が、街灯の光を受けて鈍く光っていた。門の向こうには住宅街の道路が続いている。数時間前、この門の前に黒塗りの車が停まっていた。ひよりが乗せられた車だ。今はもう何の痕跡もない。道路は何事もなかったように暗い舗装面を晒していた。


 ここから出ることはできる。結界を破ること自体は、左手一本でも不可能ではないはずだった。監視結界の構造がどの程度の強度であれ、蓮が知る結界術の原理から逆算すれば、少なくとも検知を遅延させる方法はある。


 だが、それは最悪手だった。


 出頭命令が出ている。明日の午前十時。欠席は規約違反。結界を破って外に出れば、それは出頭拒否と同義であり、「朝霧蓮は危険因子として管理下から逃走した」という事実が土御門の手元に転がり込む。蓮が向かう先がひよりの実家であれば、「危険因子が神楽坂家の人間に接触しようとしている」という口実まで加わる。保護の名目で蓮を拘束し、同時に「保護対象」としてひよりの管理を正当化する——その二手先まで読めた。


 蓮は門扉から目を離した。


 もう一つ、蓮の足を止めているものがあった。


 数時間前、ひよりは蓮に背を向けた。「実家の人間と同じだ」と、そう言って。蓮がひよりの選択を奪い、蓮の盤面の上に配置しようとしていることへの拒絶だった。


 今、蓮がこの門を越えてひよりを追えば、それはひよりの拒絶を踏み越える行為になる。蓮の判断で、蓮の都合で、ひよりの居場所を決める——それはひよりが「同じだ」と断じた構造そのものだった。


 エルマの顔が、視界の裏側にちらついた。


 蓮はそれを振り払い、踵を返した。


   *


 伯父の家に戻ったのは午後八時を過ぎた頃だった。


 玄関の鍵は開いていた。蓮は音を立てないように靴を脱ぎ、廊下を進んだ。リビングからテレビの音声が漏れている。蓮がリビングの前を通過する瞬間、テレビの音量が僅かに上がった。蓮の足音を塗りつぶすように。


 物置部屋の引き戸を左手で引いた。中指が戸の溝に引っかかったが、圧覚しか返さない指先では力の加減がわからず、戸が勢いよく開いて枠にぶつかった。乾いた音が廊下に響いた。リビングのテレビの音量がさらに上がった。


 蓮は部屋に入り、引き戸を閉めた。


 物置部屋には窓が一つあった。小さく、高い位置にあり、外の街灯の光が天井に四角い影を作っていた。布団が畳の上に敷きっぱなしになっている。それ以外の家具はない。蓮の鞄が部屋の隅に置かれている。


 蓮は布団の上に腰を下ろした。右腕はポケットから出さず、左手でスマートフォンを再び取り出した。画面を点けた。ひよりからの返信はなかった。「送信済み」のチェックマークは一つのまま変わっていない。


 蓮は画面を消し、天井を見上げた。


 考えるべきことは明確だった。


 明日の総会。蓮に対する出頭命令の目的は、蓮を「管理下に置く」ための法的手続きの一環であるはずだった。土御門が蓮を放置しておく理由がない以上、総会の議題に蓮の処遇が含まれていることは確実だった。


 蓮が持っている情報を整理した。


 第一。土御門は蓮の魔力パターンを記録している。厳山との直接対峙時、先日の大規模戦闘の現場映像——いずれも土御門系上層部が接収済みだ。蓮の魔力が霊術と異なる体系であることは、データ上明白になっている。


 第二。蓮は「特例協力者」という枠で退魔局に登録されている。血統要件を満たさない外部枠。体制の「外」に置かれた不安定な立場だ。この立場を剥奪する権限は、退魔局の幹部層——実質的に土御門——が持っている。


 第三。霊脈の汚染と妖怪の異常発生。蓮の魔力が霊脈と位相が合わないことは事実であり、使用のたびに拒絶反応が起きることも事実だ。この事実を「霊脈汚染の原因」として読み替えることは、データの編集次第で可能だった。


 蓮は左手の人差し指で畳の目をなぞりながら、総会での土御門の手筋を読んだ。


 糾弾。偽造データによる立証。蓮を「霊脈を汚染する危険因子」として定義し、退魔師社会全体の同意を取りつける。その上で——何らかの処分を下す。追放か、拘束か、あるいは蓮の力そのものを封じる手段を持っているのか。


 封印術式。蓮はその可能性を考えた。土御門が蓮の魔力パターンを三段階にわたって収集していたことの意味。厳山との対峙時、大規模戦闘時、そしてそれ以降の微量漏洩のデータ。蓮の魔力回路に対する「情報的ロック型」の封印が完成している可能性は高かった。


 だが総会の場で即座に封印を執行できるかどうかは別問題だ。封印には物理的な接触距離が必要なはずだった。数百人の退魔師が見ている場で、蓮に接触する——それは暴力的な強制執行になる。土御門がそれを選ぶかどうかは、総会での空気次第だ。


 蓮は布団の上で横になった。右腕がポケットの中で腹の上に載った。左腕を額の上に置いた。天井の四角い光が、街灯の角度の変化で僅かにずれていた。


 喉の奥で鉄の味が厚みを増していた。飲み込むたびに、舌の裏の膜が粘膜に貼りついて剥がれる感触がある。蓮はその味を無視しようとしたが、無視できる段階はとうに過ぎていた。口腔の内側全体が、錆びた金属を舐め続けているような状態だった。


 蓮は目を閉じた。


 総会で土御門の主導権を削ぎ、蓮に対する処分の法的根拠を崩す。その直後に神楽坂本家へ向かい、ひよりの状況を確認する。それが最短経路だと蓮は判断していた。


 その判断は、ひよりが「連れ戻し」程度の処置——実家での一時的な監視付き拘束——を受けている前提に立っていた。名門の直系が遠縁に預けられていた事情を蓮は断片的にしか知らず、本家が籍を保持したまま所有権を行使できる構造も、蓮の情報の外にあった。


 蓮の分析は、手持ちの情報の範囲では論理的に正しかった。だが手持ちの情報が足りなかった。


 物置部屋の天井を見つめたまま、蓮はいつの間にか意識を落としていた。


   *


 翌朝。


 蓮は午前六時に目を開けた。身体を起こす動作で、左腕の前腕に深部振動が走った。骨の芯を細い針金で掻かれるような感触だった。右腕はポケットの中で完全に沈黙しており、意識を向けても指先からの信号が返ってこなかった。


 蓮は左手一本で布団から身を起こした。物置部屋の窓から朝の光が差し込んでいた。曇天だった。光に色がなく、部屋の中が灰色に見えた。


 スマートフォンを確認した。ひよりからの返信はなかった。既読のチェックも付いていなかった。


 蓮は廊下に出た。伯父一家はまだ寝ているのか、あるいは蓮が廊下にいる間は部屋から出ないようにしているのか、人の気配がなかった。蓮は洗面所で左手だけで顔を洗い、口を濯いだ。水を吐き出すと、洗面台の白い陶器の上に薄い赤が筋を引いた。蓮は水を流してそれを消し、洗面所を出た。


 制服に着替える動作は、右腕が使えないため手順が限られていた。予備の白シャツは従兄弟のお下がりで一回り大きく、左手だけでボタンを留めるのに時間がかかった。第三ボタンから上は指の感覚が鈍く、ボタンの位置を目で確認しながら留めた。スラックスは昨日と同じものだった。左膝の染みと太腿の赤黒い痕が、乾いて生地に固着していた。


 鞄を左肩に掛けた。肩紐の表面に、乾燥して膜状になった血の残滓が触れた。左手の人差し指でそれを確認したが、今さら拭き取る意味もなかった。


 午前八時過ぎに家を出た。


 退魔局本部までの経路を蓮は知っていた。電車で三駅、そこから徒歩十分。監視結界の範囲は正確には把握できないが、出頭命令に従って移動する以上、結界が蓮の移動を妨害する理由はない。結界は「蓮が逃げること」を監視しているのであって、「蓮が出頭すること」は想定された動線のはずだった。


 駅までの道を歩いた。曇天の空は均一な灰色で、光源の方向がわからなかった。右目の視界の端がいつも通り滲んでおり、その滲みが曇天の灰色と混ざって境界を失っていた。


 電車の中では立ったまま吊り革に触れなかった。左手は鞄の肩紐を握り、右手はポケットの中だった。車両の揺れに足の裏だけでバランスを取った。七十年の戦場で培った体幹がそれを可能にしていたが、降車時に足首が一瞬よろめいた。前腕の深部振動が足首まで伝播しているのか、それとも単純な疲労なのか、蓮には判別がつかなかった。


 駅を出て、住宅街の裏道を抜けた。退魔局本部は、一般人には「宗教法人の研修施設」として認識されている建物の中にあった。白い外壁に瓦屋根を載せた和洋折衷の構造で、敷地の外周を低い生垣が囲んでいた。正門には表札すらなく、通りがかりの人間が足を止める理由のない、匿名的な佇まいだった。


 蓮は正門をくぐった。敷地内の砂利道を歩く音が、外の住宅街の生活音と隔絶していた。建物の入口に向かう途中で、蓮は足を止めた。


 気配があった。


 建物の内部から漏れ出す霊力の密度が、通常の研修施設のそれではなかった。数十人分の霊力が一つの空間に凝集している。蓮の劣化した感覚でも、それだけは読み取れた。


 蓮は建物に入った。


   *


 大講堂は、建物の二階にあった。一階のエントランスから階段を上り、廊下を進んだ先にある両開きの木製扉が入口だった。扉は開け放たれており、中から蛍光灯の白い光と、低い話し声の層が漏れていた。


 蓮は扉の前で一度足を止めた。


 講堂の内部を視認した。天井が高い。おそらく二階分の吹き抜けになっている。蛍光灯が天井から等間隔に吊り下げられ、空間全体を均一に照らしていた。窓は壁の上部に細長い採光窓が並んでいるだけで、外の曇天の光はほとんど届いていなかった。


 壇上は講堂の奥——蓮から見て正面——に設けられていた。木製の演壇と、その背後に退魔局の紋章が掲げられている。壇上には椅子が五脚並べられ、そのうち中央の一脚だけが他より僅かに大きかった。


 観客席は折りたたみ式のパイプ椅子で構成されていた。およそ百脚。蓮から壇上までの距離はおよそ三十メートル。椅子の大半はすでに埋まっていた。蓮が視認できる範囲で、六十名から七十名ほどの退魔師が着席していた。年齢層は幅広い。和装の年配者、スーツ姿の中年、制服に近い装いの若手。しかし全員に共通しているのは、蓮が扉の前に立った瞬間、話し声の層が一拍途切れたことだった。


 視線が集まった。蓮はそれを無視して講堂に入った。


 入口付近の最後列に空席が三つあった。蓮はその右端——壁際——の椅子に向かった。鞄を足元に置き、パイプ椅子に腰を下ろした。背もたれが金属製で、シャツ越しに冷たさが背中に触れた。左手を膝の上に載せた。


 蓮は講堂内を見渡した。


 ひよりの姿はなかった。


 蓮の視線が会場を一周した。最前列に座る年配の退魔師たち。中列の中堅層。後方の若手。蓮が知る顔は少なかった。先日の現場で共に戦った若手の何人かが中列の端に座っているのが見えたが、距離があり、表情までは読めなかった。曇天の採光窓からの弱い光と蛍光灯の白い光が混ざり、講堂の空気は無機質だった。


 高瀬の姿を探した。後列の左側に、両手に包帯を巻いた青年が一人座っていた。高瀬だろうと蓮は判断した。距離は約五メートル。高瀬は蓮の方を見ていなかった。膝の上に載せた包帯の手を、じっと見つめていた。


 壇上に、まだ誰も立っていなかった。


 午前十時まで、あと数分。


 蓮は背もたれに背中を預けた。喉の奥の鉄の味が、椅子に座った振動で一段濃くなった。飲み込んだ。舌の裏の膜が口蓋に貼りつき、剥がれた。


   *


 午前十時ちょうどに、壇上に人影が現れた。


 土御門厳山(げんざん)


 和装の上に薄手のジャケットを羽織った、恰幅の良い初老の男だった。ロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけ、温厚な笑みを浮かべている。目は細く、糸のように閉じられており、笑みの形を取っているにもかかわらず、その奥に光が見えなかった。蓮から壇上までの距離はおよそ三十メートルで、蛍光灯の照明下であっても細部——首筋や襟元の状態——までは識別できなかった。


 厳山の後ろに、四人の年配者が続いて壇上の椅子に座った。退魔局の幹部層だろうと蓮は推測した。全員が和装で、全員が厳山の背中を見てから着席した。席順も、着席のタイミングも、厳山を基準にしている。この五人の中で意思決定権を持つのが一人だけであることは、その動作の従属性から明らかだった。


 厳山が演壇の前に立った。


「本日は、第三十五回東都退魔局定例総会に御参集いただき、誠にありがとうございます」


 声は柔らかく、講堂の隅まで届いた。マイクは使っていない。霊力による音声の増幅——探知・補助術の一種——だろうと蓮は判断した。声が壁に反射せず、直接耳に届く質感を持っていた。


「まず、議題に入る前に、皆様に共有すべき重要な報告がございます」


 厳山の声が一段低くなった。笑みは消えていなかったが、声のトーンが変わったことで、講堂内の空気が引き締まった。


「ここ数週間、東京管内における妖怪の異常発生と霊脈の不安定化が、かつてない規模で観測されております」


 壇上の背後に、蓮が見たことのない装置が起動した。薄い光の膜が壁面に広がり、そこにデータが投影された。霊脈の流れを示す地図。赤い点が散在する東京の略図。妖怪出現件数のグラフ。三十メートル先の投影データでは、細かい数値は判別できなかった。


「この異常の原因について、局の分析班が調査を進めてまいりました。その結果——」


 厳山が一拍、間を置いた。講堂の六十数名が、その間に息を詰めた。蓮は息を詰めなかった。来る、と思った。


「——原因は、特例協力者・朝霧蓮が使用する、霊術体系に属さない異質な力であると判明いたしました」


 講堂の空気が変わった。


 変わったのは音ではなかった。声を上げた者はいなかった。だが、六十数人の視線の向きが、壇上から蓮へ、一斉に移動した。蓮は最後列の壁際に座っていた。視線の束が前方から後方へ、壁際へと収束する動きを、蓮は空気の圧力の変化として感知した。


 厳山が続けた。


「資料をご覧ください」


 壁面の投影が切り替わった。先日の現場映像——蓮が大型妖怪を殲滅した際の記録が再生された。ただし、蓮が見たそれとは違っていた。映像は編集されていた。蓮の魔法陣が展開される瞬間がスロー再生され、その周囲の霊脈の流れが赤く染まる——「汚染」を示す色調に加工されている——映像が重ねられていた。


 蓮は映像の改竄を認識した。魔法陣の展開と霊脈の変色のタイミングが人為的に同期されている。実際の現場では、霊脈の乱れは妖怪の大量発生そのものが原因であり、蓮の魔法が霊脈を「汚染した」のではなく、既に乱れていた霊脈の中で蓮の魔力が拒絶反応を起こしていたに過ぎない。因果関係が逆転されている。


 だがそれを証明するためには、元の未編集映像が必要だった。その映像は土御門系上層部が接収済みだ。


「朝霧蓮の使用する力は、我々退魔師の霊術とは根本的に異なる体系に属しております。この力が霊脈に与える影響は——申し上げにくいことですが——汚染、と呼ぶべきものでした」


 厳山の声は穏やかなまま、一切の感情的な攻撃性を持たなかった。それがかえって、発言の権威を高めていた。激昂する告発者よりも、冷静に事実を報告する管理者の方が、聴衆の信頼を得る。蓮はその構造を理解していた。同じ手法を使う指揮官を何人も見てきた。


「具体的な数値を申し上げます。先日の大規模妖怪出現事案の発生前後で、現場周辺の霊脈汚染度は基準値の四倍以上に上昇しております。この上昇曲線と、朝霧蓮の力の使用タイミングは、統計的に有意な相関を示しております」


 投影されたグラフが切り替わった。数値の羅列。蓮には細かい数字が読めなかったが、グラフの形状は「蓮の魔力使用→霊脈汚染の急上昇」という因果関係を視覚的に訴えるよう設計されていた。


 蓮は膝の上の左手を見下ろした。今の蓮に、この場で魔法を使って何かを証明する力はなかった。


 そもそも、これは魔法で殴れる問題ではなかった。


「さらに」


 厳山の声が講堂を巡った。


「朝霧蓮の活躍により多くの妖怪が討伐されたことは事実であります。しかし、その過程で霊脈が汚染され、結果として新たな妖怪の発生を誘発していたとすれば——朝霧蓮の力の行使そのものが、悪循環の起点であった可能性を否定できません」


 会場から、低い声がいくつか漏れた。蓮には個々の声の内容までは聞き取れなかったが、厳山の主張に同意する方向のざわめきであることは、声のトーンから推測できた。


 蓮は口を開こうとした。


 喉が詰まった。鉄の味が這い上がり、声帯の手前で液体が膜を張った。蓮は唾液と混ざった血を飲み込み、もう一度口を開いた。


「——データの、改竄だ」


 声は掠れていた。講堂の広さに対して圧倒的に小さく、最後列から壇上までの三十メートルを届く音量ではなかった。蓮から三列前に座っていた中年の退魔師が、わずかに首を動かした程度だった。


 厳山が蓮の方を見た。糸のような目が、笑みの形のまま蓮を捉えた。


「朝霧くん。発言の機会は後ほど設けますので、まずは報告を最後までお聞きいただけますか」


 声は丁寧だった。だがその丁寧さが、蓮の発言を「手続き違反」として処理する機能を果たしていた。蓮が掠れた声で叫んでも、それは「議事の妨害」として記録される。厳山はそれを知っている。


 蓮は口を閉じた。


 厳山が視線を会場全体に戻した。


「続いて、先日の事案における現場証言について申し上げます。現場に居合わせた退魔師の方々から多数の証言書が提出されておりますが、その多くは事案発生直後の混乱の中で記録されたものであり、客観性の担保が困難であると分析班が判断いたしました。つきましては、これらの証言書は本総会の議題資料からは除外し、後日、改めて精査の上で取り扱うこととさせていただきます」


 中列の端で、一人の若い退魔師が立ち上がりかけた。蓮があの現場で共に戦った顔だった。口を開きかけた——


 その瞬間、若手の足元にかすかな光の線が走った。結界術。議長補佐——壇上の端に立つ細身の中年男——が、片手で小さく印を結んでいた。若手の靴底が床に固定され、立ち上がる動作が中断された。


「議題外の私語を禁ずる」


 議長補佐の声も霊力で増幅されていた。厳山と同じ手法だ。低いが講堂の隅まで届く声量で、若手の抗議を手続きとして封じた。若手は口を開いたまま、数秒間動けなかった。結界が解除された後も、彼は椅子に崩れるように座り直した。その隣に座っていた別の退魔師が口を開きかけたが、上席の——おそらく所属部隊の上官——手が肩に載り、力を込めて押し戻した。


 反論がなかったのではない。反論が表に出る前に潰されていた。


 蓮はそれを見ていた。右目の視界の端が滲んでいたが、中列で起きた出来事は距離が十五メートル程度であり、動作の大きさから読み取れた。


 厳山は若手のやり取りを見ていなかった。少なくとも、視線を向けなかった。壇上から会場全体を見渡す姿勢のまま、次の資料を投影させた。


「最後に、もう一点」


 投影された画面に、蓮の魔力パターンの記録が表示された。厳山との対峙時の記録、大規模戦闘時の記録、そしてそれ以降に観測された微量漏洩のデータ。三段階の記録が並べられ、その波形が霊術の標準パターンと比較されていた。


「朝霧蓮の力は、我々の霊術とは位相が根本的に異なっております。この位相差が霊脈に与える影響は、現時点では完全には解明されておりません。しかし、予防原則に基づき——」


 蓮は厳山の言葉の先を読んだ。


「——朝霧蓮の力の行使を、一時的に制限する措置が必要であると、局としては判断いたします」


 「一時的」。その言葉が嘘であることを蓮は知っていた。だが講堂にいる退魔師たちの大半にとって、「一時的」という留保は安心材料として機能する。「永久に封じる」と言えば反発を生むが、「一時的に制限する」と言えば合理的な予防措置に聞こえる。言葉の選び方一つで、同じ行為の印象が反転する。


 蓮は椅子の上で微動だにしなかった。左手の指が膝の上で僅かに動いたが、それは意思による動作ではなく、前腕の深部振動が指先に伝わっただけだった。


   *


「それでは、議題に移ります」


 厳山が演壇から一歩下がり、中央の椅子に腰を下ろした。議長補佐が演壇の前に立ち、手元の書類を読み上げた。


「議題第一号。特例協力者・朝霧蓮の力の一時制限措置に関する動議。提出者、土御門宗家。賛成多数により可決の場合、制限措置の執行は本総会の閉会後、速やかに実施されるものとする」


 蓮は立ち上がった。


 パイプ椅子が金属音を立てて後ろにずれた。講堂の静寂の中で、その音は銃声のように響いた。


「発言を求める」


 蓮の声は掠れていた。だが立ち上がったことで、声の到達範囲が座っていた時よりも僅かに広がった。最後列の壁際から、十列ほど前の退魔師たちが首を回した。


 議長補佐が蓮を見た。壇上の厳山も蓮を見た。笑みは消えていなかった。


「朝霧くん。議事規定に基づき、被動議者には弁明の機会が保障されております。どうぞ」


 厳山が穏やかに言った。その穏やかさが、蓮に与えられた時間が限られていることを意味していた。「弁明の機会」は「弁明を聞いた上で否決する」ための手続きだ。


 蓮は一歩前に出た。最後列の椅子の列の間を通り、通路に出た。六十数名の視線が蓮の動きを追った。蓮のヨレた白シャツ、スラックスの左膝の染み、ポケットに入れたまま動かない右腕——それらが視線の焦点になった。


 蓮は通路の中央で立ち止まった。壇上までの距離は座っていた時と変わらない。およそ三十メートル。蓮は壇上を見ず、会場の退魔師たちに向かって口を開いた。


「提示されたデータは、改竄されている」


 八語。掠れた声が通路に落ちた。蛍光灯の唸りがその上を覆った。蓮は続けた。


「因果が、逆だ」


 蓮は一度口を閉じた。血の味が込み上げ、声帯を塞ごうとした。蓮は唾を飲み込んで息の通り道を確保した。


「汚染の原因は——俺じゃない」


 声が掠れきって、最後はほとんど吐息だった。


 講堂は静かだった。蓮の発言が終わった後の沈黙は、蓮の言葉を検討する沈黙ではなかった。蓮の言葉が届かなかったことを示す沈黙だった。三十メートル先の壇上には届いていないだろう。十メートル先の中列にすら、正確に聞き取れた者がどれだけいるか。


 厳山が立ち上がった。


「朝霧くん、お気持ちはお察しいたします」


 厳山の声は、蓮の声の十倍の音量で、講堂の隅まで明瞭に届いた。霊力で増幅された声が、蓮の掠れた反論を物理的に上書きした。


「しかし、ご異論がおありでしたら、具体的な根拠をお示しいただく必要がございます。本総会の場において、感情的な否定だけでは議論になりません」


 蓮は歯を噛みしめた。


 根拠はあった。蓮の頭の中にはあった。霊脈の汚染が妖怪の異常発生の結果であり原因ではないこと。蓮の魔力が霊脈を「汚染」しているのではなく、位相の不適合による拒絶反応が蓮自身の身体を破壊しているに過ぎないこと。厳山が提示したデータの因果関係が統計的に逆転されていること。


 しかし、それを証明するためには、元の未編集データが必要だった。そのデータは土御門が接収している。


 そして何より——蓮の声が、物理的に届かなかった。


 掠れきった喉。十語未満の発話制限。霊力による音声増幅すら使えない蓮と、講堂全体を支配する声量を持つ厳山。この場は最初から、蓮が発言するためではなく、蓮を沈黙させるために設計されていた。


 蓮はそれを理解した。


 大賢者の分析力は、目の前の状況を正確に読み取っていた。だがその分析は、「この場での勝ち筋がない」という結論しか出力しなかった。


 蓮は厳山を見た。三十メートル先の糸目が、蓮を見返していた。笑みが浮かんでいた。


「他にご発言はございますか」


 厳山の声が、問いかけの形をした終止符として講堂に響いた。


 蓮は口を開かなかった。開いても届かない。開いても、この場の空気を動かす力が残っていなかった。


「——それでは、採決に移ります」


 議長補佐が演壇に戻った。


「議題第一号。特例協力者・朝霧蓮の力の一時制限措置について。賛成の方は挙手をお願いいたします」


 手が上がった。


 最初は壇上の四人——厳山を除く幹部層——が一斉に手を上げた。次に前列の年配者たちが続いた。中列のスーツ姿の中堅層が、前列を見てから手を上げた。後列の若手の中にも、上官の顔を窺ってから手を上げる者がいた。


 蓮は会場を見渡した。


 手を上げていない者もいた。中列の端で、あの現場にいた若手が背中を強張らせたまま腕を組んでいた。後列の高瀬は包帯の手を膝の上に置いたまま、壇上を睨むように見ていた。だがその数は——蓮の視界が許す範囲で数えて——片手で足りた。


 十秒後、議長補佐が声を上げた。


「賛成多数。議題第一号は可決されました」


 蓮は通路に立ったまま、その宣言を聞いた。


 喉の奥で鉄の味が一段濃くなった。飲み込むことすらできず、口腔の中に薄い赤の膜が広がった。蓮は唇を閉じたまま、左手を僅かに握った。人差し指と親指だけが応えた。中指は圧覚を返しただけだった。薬指は何も返さなかった。


 壇上で厳山が立ち上がった。


「それでは、決議に基づき——」


 その瞬間、蓮は講堂の空気の変化を感知した。


 壁だった。


 講堂の四方——北の壇上側、南の入口側、東西の壁面——から、結界の膜が展開された。蛍光灯の光がわずかに屈折し、壁面に沿って半透明の光の幕が走った。蓮の劣化した感覚でも読み取れるほどの密度。逃走を阻止するための結界ではなく、蓮を「この場に留める」ための結界だった。


 蓮は入口の方を振り返った。両開きの木製扉はいつの間にか閉じられており、その前に二人の退魔師が立っていた。土御門の紋章を衣服に縫い取った、三十代と四十代の男。腕を組み、蓮を見ていた。


 壇上の左右にも、二人ずつの退魔師が配置されていた。合計六人。全員が結界術の構えを維持しており、講堂全体を多層の結界で覆っている。蓮一人を封じるためだけの、過剰な戦力配置。


 蓮は壇上の厳山を見上げた。


 厳山の笑みが深くなった。


「朝霧くん。あなたの力の一時制限は、退魔師社会の安全のために——あなた自身の安全のためにも——必要な措置であると、この総会は判断いたしました」


 蓮は答えなかった。答える声が残っていなかったし、答える意味もなかった。


 蓮の足元で、結界の光が微かに脈打った。


 大賢者の魔法。この世界のいかなる退魔師よりも純粋な破壊力を持つ、蓮の唯一の武器。


 だが今、蓮を囲んでいるのは妖怪ではなかった。六十人を超える人間の同意と、制度と、権限と、正当性の衣を纏った政治的包囲だった。ここで魔法を使えば、蓮は「危険因子が暴走した」という事実を自ら証明することになる。


 魔法で殴れない敵。


 蓮は七十年の戦場で一度も遭遇したことのない種類の敗北を、白い蛍光灯の下で味わっていた。


 右腕がポケットの中で揺れていた。左手が膝の横で握り込もうとしたが、薬指は信号を返さず、中指は途中で止まり、拳は閉じきれなかった。半ば開いたままの手が、蓮の全てを要約していた。


 講堂の蛍光灯が均一に光り続けていた。曇天の採光窓からの光はさらに弱くなり、講堂の中は蛍光灯の白だけで満たされていた。色のない空間で、蓮は一人だった。


 壇上の厳山が何かを議長補佐に指示した。議長補佐が頷き、壇上の端に立つ精鋭部隊の一人に合図を送った。


 蓮は動かなかった。


 動けなかった、のではなかった。動く意味がなかった。この場で暴れれば厳山の筋書き通りになる。この場で従えば厳山の筋書き通りになる。どちらを選んでも結果は同じだった。蓮の判断を、蓮の力を、蓮の存在そのものを、この場から排除する——その決定は、蓮が講堂に足を踏み入れた時点ですでに完了していた。いや、出頭命令がスマートフォンに届いた時点で。あるいはそれよりもずっと前、蓮が「特例協力者」として体制の枠に組み込まれた時点で。


 蓮はそのことを、今になって理解した。大賢者の分析力をもってしても、人間の社会が持つ、この種の圧力の精度を読み切れなかった。異世界の七十年には、議場で合法的に一人の人間を潰す手続きは存在しなかったからだ。


 蓮は壇上を見上げた。厳山の糸のような目が、蓮を見下ろしていた。


 喉の奥で、鉄の味が這い上がった。蓮は飲み込もうとしたが、喉が受け付けなかった。口腔の内側に赤い膜が貼りつき、呼吸のたびに鉄の匂いが鼻腔を満たした。舌の裏の膜が、最も厚い感触で口蓋に貼りついた。


 蓮は立っていた。講堂の通路の真ん中で、ヨレた白シャツの裾が僅かに揺れ、ポケットの中の右腕が死んだ振り子のように動かず、閉じきれない左手が開きも握りもしないまま、蛍光灯の白い光の中に影を落としていた。

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