第16話「嵐の前」
廃工場の天井は半分が崩れていた。
残った鉄骨の隙間から正午の光が差し込み、コンクリートの床に不規則な長方形を落としている。埃が光の柱の中を浮遊し、空気の流れを可視化していた。蓮は壁際の鉄柱に背中を預け、待っていた。
昨夜、伯父の家の物置に戻ってから、血に染まったシャツを水で絞った。水道の蛇口は物置の外、廊下の突き当たりにある。深夜二時、家人が寝静まった隙に廊下を歩き、左手だけで蛇口をひねった。冷水に浸したシャツの左袖は、赤黒から薄い褐色に変わったが、繊維に沈んだ染みは取れなかった。結局、予備の白シャツ——伯母が捨て忘れた従兄弟のお下がり——に袖を通した。サイズが一回り大きく、肩の縫い目が腕に落ちている。スラックスは同じものだった。左膝の染みを水で擦ったが、血と湿気が混じった痕跡は布地の織り目に残ったまま乾いていた。
今朝から喉の奥に貼り付いている鉄の膜が、一段厚くなった気がした。気がした、としか言えない。基準になる感覚そのものが日ごとに歪んでいる。舌の裏側を上顎に押し当てると、粘膜が引き攣れるような抵抗があった。二日前に吐いた血の量を、正確に思い出せない。あの夜、制服の左袖が肘まで濡れたことは覚えている。だが「肘まで」が正確な記憶なのか、それとも記憶を再構成するたびに範囲が広がっているのか——右目の視界の端に溜まった滲みのせいで、自分の認知すら信用できなくなっている。
足音が聞こえた。
規則的で、迷いのない歩幅。コンクリートの破片を踏む音が一つ混じった。蓮は視線だけを工場の入口——錆びたシャッターが半分上がったままの開口部——に向けた。
御影燐太郎が、光の柱を横切って現れた。
前回の路地裏とは違い、制服ではなく私服だった。黒のジャケットに襟のないシャツ。眼鏡のレンズが天井からの光を拾い、一瞬だけ白く光った。燐太郎は蓮の位置を一瞥で確認すると、五歩の距離を保って立ち止まった。壁には寄らない。出口への視線を確保できる角度に、無意識に身体を置いている。
退魔師の習性だ、と蓮は思った。背後と退路を同時に管理する立ち方。正統な訓練を受けた人間の骨格に刻まれた所作。
「場所の選定は悪くない」
燐太郎が最初に口を開いた。視線は蓮ではなく、崩れた天井と周囲の壁面を順に走査している。
「この一帯は霊脈の支流が地表近くを通っていない。退魔局の定点観測網の盲点になる。監視結界の気配もない——少なくとも、俺が感知できる範囲では」
蓮は答えなかった。燐太郎の言葉を否定も肯定もしない沈黙は、この場所を選んだ理由がまさにそれであることを裏付けていた。
燐太郎がジャケットの内ポケットから、小さな記録媒体を取り出した。前回の路地裏で見せたものと同じ、親指の爪ほどのフラッシュメモリだった。
「あの後、二日かけて収束点の周辺情報を洗った」
燐太郎の声には、前回にあった慎重な距離感が薄れていた。声量を落としているのは周囲への警戒であって、蓮に対する警戒ではない——その差が、声の質に表れている。
「収束点の座標そのものは特定済みだ。だが施設の名称、管理者、建設時期——全て退魔局のデータベースから削除されている。削除ではなく、正確には上書きだ。空のダミーレコードで埋められている。紙の台帳には建設許可の番号だけが残っていた。番号の書式から、少なくとも五十年以上前の施設だと分かる」
蓮の左手の人差し指が、ポケットの中で僅かに動いた。五十年。退魔局の現体制が固まる以前。土御門宗家が局の実権を完全に掌握したのがいつか、蓮は正確には知らない。だが五十年前の建設物が現在の幹部権限で隠蔽されているということは、現体制が「継承した」のではなく「意図的に引き継いだ」ことを意味する。
「建設許可の番号を国土交通省の外部データベースで照合しようとした」
燐太郎が続けた。
「該当なし。番号自体が退魔局の内部書式で、外部には存在しない。つまり一般行政の許認可を経ずに建てられた施設だ。退魔局の公的権限の範囲内で処理されたか、あるいは——」
燐太郎は言葉を切った。「あるいは」の先を、蓮が補完するのを待つような間だった。
「……権限の外」
蓮の声は掠れていた。喉の奥で空気が粘膜を擦る音が、子音に混じる。五語。それ以上は喉が許さなかった。
燐太郎の眼鏡の奥の目が、蓮の喉元を一瞬見た。前回の路地裏で吐血を目撃している。今の声の状態と、二日前の出血の量を、おそらく内部で接続している。だが何も言わなかった。
「権限の外、か」
燐太郎は蓮の言葉を反復した。反復することで、その意味を自分の思考回路に載せ直す——退魔師としての正統な教育を受けた人間特有の、丁寧な情報処理だった。
「退魔局の公的権限の外で建てられた施設に、退魔局の全霊脈吸引ラインが収束している。これは局の組織としての意思決定ではない。特定の個人、あるいは特定の血統の——私的な事業だ」
蓮は鉄柱に預けた背中の重心を僅かに変えた。左足の踵が床を擦る音がした。立ち姿を維持するために、体重の配分を調整する必要があった。右腕の重さが、ポケットの中で身体の軸を微妙に引いている。
「そこまでは推論だ。だが——」
燐太郎がフラッシュメモリを手の中で転がした。
「もう一つ。収束点の座標を中心に半径三キロの範囲で、過去三十年間の妖怪出現記録を引いた。結果は異常だった。半径三キロ圏内の妖怪出現件数が、東京平均の六分の一以下。霊脈が吸引されて集中しているなら、その中心付近は霊脈の密度が極端に高い。高密度の霊脈は安定する。安定した霊脈からは妖怪が発生しない」
蓮の左手の親指が、ポケットの布地を押した。
——合っている。
その分析は、蓮が自分の感覚で捉えていた北北東方向の偏向と矛盾しない。吸引された霊脈が一点に集中し、その中心は過剰に安定している。裏を返せば、吸い上げられた周辺の霊脈は乱れ、枯れ、妖怪が湧く。六日間の連戦で蓮が処理した下位妖怪の群れは、この構造の末端症状に過ぎない。
「お前は知っていたか」
燐太郎の問いは短かった。蓮が北北東方向の偏向を把握していたことは、前回の路地裏で確認済みだ。この問いは、収束点周辺の妖怪出現密度の低さまで蓮が感知していたかどうかを訊いている。
「……感覚で」
二語。蓮は数値データを持っていない。だが霊脈との拒絶反応を通じて、吸引の方向と強度を身体で感じ取っていた。数字に置き換えられない、回路の軋みとして。
燐太郎は短く頷いた。
「俺はデータで裏を取る。お前は身体で感じる。方法は違うが、辿り着いた場所は同じだ」
燐太郎がフラッシュメモリを再びジャケットの内ポケットに戻した。
「朝霧。一つ確認しておく」
声のトーンが変わった。情報共有のモードから、問いかけのモードへ。燐太郎の姿勢はそのままだが、視線の焦点が蓮の目に定まった。
「お前は、あの収束点に行くつもりか」
蓮は燐太郎の目を見返した。右目の視界の端の滲みが、燐太郎の輪郭を僅かに歪めている。
「……まだ」
一語。まだ、には二重の意味があった。まだ行けない。まだ行くとは決めていない。どちらも嘘ではなかった。
燐太郎は数秒の沈黙の後、視線を外した。
「分かった。俺も、もう少し外堀を埋める」
燐太郎が踵を返した。来た時と同じ、出口への最短経路を歩く。シャッターの開口部に差しかかった時、足が止まった。振り返らなかった。
「お前の身体のことは訊かない。だが一つだけ言う」
燐太郎の背中が、天井からの光を遮って影を落とした。
「俺たちの調査が完了する前に、お前が倒れたら意味がない。データは生きている人間にしか渡せない」
蓮は何も答えなかった。
燐太郎の足音が遠ざかり、シャッターの外の日差しに背中が溶けた。蓮は鉄柱に背を預けたまま、しばらく動かなかった。天井の穴から差し込む光が、太陽の移動に従って角度を変えていく。足元のコンクリートに落ちていた光の長方形が、蓮の靴先から数センチ離れた位置にまで滑っていた。
喉の奥で、鉄の味が唾液に混じって広がった。
蓮は壁から背中を離した。左手で鞄の肩紐を掴み、左肩に掛けた。紐の表面には前々日の血の残滓が乾いて薄い膜になっていたが、指の感触では判別できなかった。親指と人差し指の間に紐が食い込む重さだけが、確かだった。
廃工場を出た。
*
学校に着いたのは、放課後だった。
電車とバスを乗り継ぎ、最寄りのバス停から校門まで歩く間に、空は午後の光を傾け始めていた。廃工場から直線距離では大した距離ではないが、左足を引きずる間隔が短くなり、乗り換えの階段で二度、手すりに体重を預ける必要があった。移動の負荷が、筋肉ではなく関節に蓄積している感覚があった。
正門から昇降口まで、コンクリートの通路を歩く。校舎の影が通路の半分を覆い、日差しは残りの半分に斜めの帯を落としていた。校庭の方角から、部活動のかけ声と金属バットがボールを弾く音が断続的に聞こえる。
昇降口で靴を履き替える。右手はポケットに入れたまま、左手だけで上履きを床に置き、右足、左足の順で踏み入れた。踵を踏まないよう、左手の指で上履きの縁を押さえる動作が要る。この手順を毎朝繰り返している。
廊下は放課後の気の抜けた空気に包まれていた。帰宅する生徒の足音がまばらに廊下を行き交い、教室の一つからは椅子を引きずる清掃の音が漏れている。蓮は自分の教室には向かわなかった。階段を上り、三階の渡り廊下を抜け、屋上へ続く踊り場で足を止めた。屋上への扉は施錠されている。蓮はその手前の踊り場——窓のない、蛍光灯だけが天井で点滅している狭い空間——に鞄を下ろし、壁に背を預けた。
この踊り場は、蓮が昼休みに使う場所だった。放課後のこの時間帯も、人通りはほとんどない。窓がないため外部からの視線が遮断される。蛍光灯の光は青白く、壁のモルタルの表面を均一に照らしている。
目を閉じた。
意識の底で、二日前の路地裏が再生された。燐太郎の足音。街灯の明滅。アスファルトに落ちた自分の血。そして、それよりも前——六日間の連戦の中で、毎晩、物置の布団に横たわるたびに頭の片隅をよぎった思考。
——あの理論。
前世の七十年で、最後の最後に触れた禁域。他者の力を受け入れる条件。エルマと共に研究し、エルマと共に到達できなかった場所。
蓮は思考を遮断した。
意識の遮断には慣れている。七十年の戦場で、不要な思考を切り捨てる技術は研磨され続けた。だが最近、遮断した思考が切り口から滲み戻ってくる頻度が上がっている。回路の劣化が、思考の制御にも影響しているのか。それとも、身体が限界に近づくほど、切り捨てた選択肢が存在感を増しているだけなのか。
判別できない。判別する基準そのものが歪んでいる。
蛍光灯が一度、明滅した。
階下の廊下から聞こえていた足音が減っていった。清掃が終わり、生徒の大半が帰宅か部活に散ったのだろう。校舎の中に残る気配が薄くなり、踊り場の蛍光灯の微かな唸りが耳に届くようになった。
足音が階段を上がってきた。
一人分。軽い。靴底が階段の角を叩く音の間隔から、急いでいることが分かった。踊り場に入る直前で、足音が止まった。
蓮は目を開けた。
蛍光灯の青白い光の中に、神楽坂ひよりが立っていた。
制服のブレザーの襟元が僅かに乱れている。走ってきたのだろう。呼吸が浅く速い——だが、それは走った分だけでは説明できない深さで胸を上下させていた。プラチナブロンドの短い髪が、蛍光灯の光を受けて白く浮いている。琥珀色の瞳が蓮を捉えていた。
「——探した」
ひよりの声は低かった。怒りを圧縮した時に出る、息を詰めたような声だった。
蓮は壁に背を預けたまま、ひよりを見上げた。踊り場は狭い。ひよりが立っている位置から蓮までは三歩もない。蛍光灯の光がひよりの顔に直接当たり、頬の輪郭を鋭く浮かび上がらせていた。
「今日も授業、出てなかった。昨日も。ずっと」
ひよりの言葉は、質問ではなかった。事実の確認だった。蓮が学校を頻繁に離れていること、その理由を蓮が誰にも説明していないこと——それを知っている上で、問い詰めるためにここに来ている。
蓮は立ち上がった。背中を壁から起こし、左手で鞄を拾い、肩に掛ける。動作の一つ一つが、必要以上にゆっくりだった。急いで立ち上がると左腕の前腕に伝わる深部振動が激しくなることを、この数日で学んでいた。
「ここじゃない」
三語。蓮は踊り場の先——階段を下りた先の廊下——に目を向けた。放課後とはいえ、踊り場は声が吹き抜けに反響する。部活帰りの生徒が通らないとも限らない。
ひよりは一瞬、目を細めた。蓮の言葉を拒否するかどうか、迷っている表情だった。だが数秒後、唇を引き結んで頷いた。
*
空き教室は三階の東端にあった。
普段は使われていない。机と椅子が教室の後方に積み上げられ、前方にはホワイトボードだけが壁に据えられている。窓は東向きで、この時間帯、直接の日差しは入らない。北側の窓から午後の間接光が差し込み、教室全体が曇り空のような均一な明るさに包まれていた。天井の蛍光灯は消えたままで、蓮はスイッチに触れなかった。
蓮は教壇の横——ホワイトボードと壁の隅——に立った。ひよりは教室の中央、積み上げられた机と蓮の間の、何もない空間に立っていた。二人の距離は四メートルほど。
校庭から部活動の声がかすかに届いている。それ以外に音はなかった。窓の外から、風が木の葉を揺らす音だけが微かに混じった。
「燐太郎と会っていた」
ひよりが言った。断定だった。根拠は分からなかったが、声に迷いがなかった。
蓮は否定しなかった。
「あの人と、何を話していたかは訊かない」
ひよりの声は、踊り場の時よりも静かになっていた。怒りが消えたのではない。圧縮の密度がさらに上がり、声の表面から熱が抜けている。
「訊きたいのは一つだけ」
ひよりが一歩、前に出た。上履きが埃の積もった床を擦る音がした。北側の窓からの間接光が、ひよりの横顔を照らした。
「あなたは——私を、何だと思っている」
蓮はひよりの目を見た。琥珀色。蛍光灯が消えた教室の中で、窓からの自然光だけがその色を映している。
「もう九日になる」
ひよりの声が続いた。
「あの日——鏡女郎の夜から。九日間、毎日。屋上で、一人で、自分の力を制御する訓練をしてきた」
蓮は何も言わなかった。知っている。ひよりが屋上で訓練をしていることは、霊脈の微弱な揺らぎを通じて感知していた。感知していて、近づかなかった。
「最初は何も分からなかった。透過って何なのか、どう使えばいいのか、誰にも教わったことがない。測定値ゼロ、霊力なし——それが私のずっとの評価だった」
ひよりの左手が、無意識に右手首を握った。赤みが残る手首。蓮の目はその動作を捉えたが、表情を変えなかった。
「でも、あの夜に分かったことがある。私の力は——ゼロじゃない。測れないだけ。測る道具が、私の力を想定していないだけ。だから」
ひよりの声が一瞬、震えた。震えを押さえ込むように、次の言葉を速く吐いた。
「九日間、毎日、自分の手で確かめた。金網の接合点に触れた時に、何かが——構造が見えるような感覚が、一瞬だけあった。一瞬で消える。精度もない。でも確かにあった」
蓮は聴いていた。ひよりの言葉の一つ一つが、蓮の分析回路に入力されている。金網の接合点。構造の読み取り。芽生え段階——屋上であの日蓮が観測した「透過能力の質的変化の兆し」と一致する。ひよりは独力で、あの能力の本質に近づこうとしている。
——だが、足りない。
蓮の内部でその結論は即座に出ていた。九日間の独学で到達できる精度では、これから来る局面に耐えられない。土御門の封印術式。収束点の調査。霊脈操作の全貌の解明——そのどれにも、現段階のひよりの能力では対応できない。蓮がひよりを戦力に数えない理由は、感情ではなく計算だった。
「朝霧蓮」
ひよりが蓮のフルネームを呼んだ。声の温度がさらに下がった。
「あなたは聴いている。聴いて、分析して、結論を出している。私の話を聞いている間も、頭の中では——『まだ足りない』って、そう判定しているんでしょう」
蓮の表情は変わらなかった。だがひよりの指摘は正確だった。蓮は否定しなかった。否定することは嘘になる。
「それが、あなたのやり方だって分かってる。全部自分で測って、自分で決めて、自分で動く。燐太郎みたいに——あなたと同じ水準で分析できる人間とだけ、情報を共有する。そうでしょう」
蓮の左手の指が、体側で僅かに動いた。
「私はその水準にいない。だから共有されない。だから相談もされない。だから——九日間、何が起きているかも教えてもらえない。あなたが毎日どこへ行って、何と戦って、どれだけ血を吐いているか——」
ひよりの声が途切れた。
教室の空気が、一瞬、凍った。
北側の窓から差し込む間接光が、ひよりの目元を照らしていた。目尻に光が溜まっている。涙ではない。まだ涙にはなっていない。だが、涙の一歩手前の湿度が、琥珀色の虹彩の表面を覆っていた。
「あなたのシャツ」
ひよりの視線が蓮の上半身に移った。蓮は反射的に身体の向きを変えようとしたが、教壇の横の壁が背後にあり、逃げる角度がなかった。
「サイズが合ってない。前のシャツは——捨てたの? 洗っても落ちなかったから?」
蓮は答えなかった。答えないことが答えになっていることを、二人とも理解していた。
「毎日、見てた」
ひよりの声が、掠れた。蓮の声の掠れとは質が違う。喉の物理的な損傷ではなく、感情が声帯を締め上げている。
「あなたが左足を引きずる間隔が長くなっていること。右手をポケットから一度も出さなくなったこと。声が日に日に出なくなっていること。昼休みに何も食べていないこと。鞄の紐に——」
「——やめろ」
蓮の声は掠れていた。二語。喉の奥で血の味が跳ねた。
ひよりは止まらなかった。
「やめない」
一歩、前に出た。距離が三メートルを切った。
「やめてほしいなら、理由を言って。『危ないから巻き込めない』? それなら——その台詞を吐く資格があるのは、自分の身体を壊してまで一人で戦っている人間じゃない。自分を壊さない方法を探す気がある人間だけが言っていい言葉でしょう」
蓮の呼吸が一拍止まった。
ひよりの言葉は、論理的に正しかった。蓮が身体の限界を認識しながら一人で戦い続けていること。その行為自体が、「巻き込めない」という判断の自己矛盾を証明していること。蓮の分析回路はそれを認識していた。認識した上で、蓮の判断は変わらなかった。
——巻き込めない。
それは計算ではなかった。エルマの記憶が、思考の底に張り付いている。判断を信じた。任せた。死なせた。あの経験が、蓮の意思決定の基盤に刻まれた傷だった。傷の上に論理を塗り重ねても、傷が消えるわけではない。
「お前には関係ない」
ひよりの全身が、一瞬、硬直した。
そして——琥珀色の瞳の奥に、蓮が見たことのない色が灯った。
赤。深い赤。瞳の虹彩の外縁から、鮮やかな真紅が滲み出すように広がっていく。蛍光灯の光ではない。窓からの間接光でもない。瞳そのものが発光しているような、内側からの輝き。
蓮の分析回路が、反射的にその現象を記録した。霊力の可視化現象。出力型ではない。透過型の——
「関係ない」
ひよりが蓮の言葉を復唱した。声は静かだった。静かすぎた。
「関係ない、か」
ひよりの手が、自分の右手首から離れた。両腕が体側に落ちた。力が抜けたのではない。力の入れ方が変わった。拳を握るのをやめた手は、指先まで真っ直ぐ伸びている。
「あなたは——結局、そうなんだ」
ひよりの声に、怒りの形が変わった瞬間が聞こえた。熱い怒りから、冷たい何かへ。
「私がゼロだから。測定器で測れないから。名門の基準に引っかからないから。——だから、『関係ない』。そうでしょう」
「違う」
蓮の声が出た。一語。否定。だが「違う」の後に続く言葉が、喉の中で止まった。何が違うのか。何が正しいのか。「お前の力が足りないから」——それは事実だが、ひよりが聞きたい答えではない。「お前を守りたいから」——それは蓮の感情だが、蓮自身がその感情を認識することを拒んでいる。「前に弟子を死なせたから」——それは真実だが、蓮はまだ、その傷を他人に差し出す準備ができていない。
蓮の沈黙が、ひよりの推測を確認した——少なくとも、ひよりにはそう見えた。
「私の実家の人間と、同じだ」
ひよりの声は、教室の空気を切った。
「あの人たちも——私を見なかった。測定値がゼロだから。名門の血に値しないから。私が何を思って、何を頑張って、何を耐えてきたか——一度も見なかった。数字と血統だけで人を測って、基準に合わないものは——『関係ない』って、捨てた」
蓮の身体が動かなかった。
壁際に立ったまま、ひよりの言葉を浴びていた。分析回路が走っていた。ひよりの言葉の論理構造を、反射的に分解している。蓮がひよりを戦力から外す理由は血統ではなく能力の到達度だ。ひよりの実家が彼女を切り捨てた理由は測定値と家格だ。両者は構造が違う——
——だが、結果は同じだ。
蓮の分析回路が、その結論を吐き出した瞬間、思考が白く点滅した。
エルマの顔が浮かんだ。
顔ではなかった。七十年の歳月がとうに輪郭を奪っている。浮かんだのは——重さだった。動かなくなった身体を持ち上げた時の、腕にかかった重量。それだけが、色褪せずに残っている。
蓮の左手が、無意識に左の太腿を掴んだ。爪がスラックスの布地を通して肌に食い込んだ。痛覚が、フラッシュバックを遮断した。
ひよりは待たなかった。
「……もう、いい」
声は枯れていた。真紅に燃えていた瞳から、色が引いていった。赤が琥珀に戻り、琥珀が濡れた。涙が一筋、左頬を伝って顎に落ちた。
ひよりが背を向けた。
教室の出口に向かって歩き出す足取りは、来た時より遅かった。上履きが床の埃を引きずる音だけが、静まった教室に残った。
蓮の喉が動いた。声を出そうとした。呼び止めようとした。だが喉の奥で血の膜が引き攣れ、声帯が震える前に空気が止まった。
——追え。
蓮の思考がそう命じた。
——追ってどうする。
次の思考がそれを打ち消した。
追いかけて、何を言う。「お前の力が必要だ」——嘘だ。現時点では嘘になる。「お前を信じている」——もっと嘘だ。蓮は誰も信じていない。信じることができない。信じた結果が、砂埃の中のエルマの身体だった。
だが追わなければ——ひよりは一人になる。今の精神状態で、一人になる。蓮の分析回路はそのリスクを計算していた。だが計算と行動の間に、エルマの記憶が壁のように立ちはだかっていた。
ここで追えば、ひよりを自分の判断の中に組み込むことになる。自分が「必要だ」と判断して、自分の盤面の中にひよりを配置する。それはかつてエルマにしたことと同じ構造だ。自分の判断で他者を動かし、自分の判断の帰結を他者に背負わせる——
足が動かなかった。
ひよりの背中が教室の出口を抜け、廊下に消えた。
蓮は壁に背中をぶつけた。衝撃で右腕がポケットの中で揺れ、肩関節に鈍い痛みが走った。
教室には北側の窓からの間接光だけが残っていた。光の色が変わり始めている。午後の白い光に、僅かに黄味が混じっていた。積み上げられた机と椅子の影が、床の埃の上に幾何学的な模様を落としている。ひよりが歩いた跡が、埃の上に薄い筋として残っていた。
*
校門に向かって走った時、ひよりの視界は滲んでいた。
涙の膜が景色を歪め、廊下の蛍光灯が水面のように揺れていた。階段を下りる足が二段目を踏み損ねかけ、手すりを左手で掴んで体勢を立て直した。手すりの金属が冷たかった。
昇降口で靴を履き替える指が震えていた。上履きを下駄箱に投げ入れ、外靴の踵を踏んだまま走り出した。正門までの通路に出た瞬間、傾いた西日が目を射った。校庭では部活動の生徒たちが片付けを始めていた。練習終了を告げる笛の音が、どこかのグラウンドから短く響いた。
——同じだ。
自分が蓮に投げつけた言葉が、頭の中で反響していた。実家の人間と同じだ。あの言葉は正しかったのか。正しかったと思いたかった。蓮が自分を見ていないことは事実だった。九日間の訓練を、一度も見に来なかった。一度も訊かなかった。一人で血を吐きながら、一人で燐太郎と密会しながら——自分には何も言わなかった。
だが、蓮の沈黙の奥に何があったのか、ひよりには分からなかった。
「違う」と蓮は言った。一語だけ。あの掠れた声は——否定しようとしていた。何かを。ひよりが投げた言葉を、ではなく、蓮自身の中の何かを。
分からない。考える余裕がない。涙が止まらない。鼻の奥が詰まって呼吸が浅くなっている。九日分の怒りと悔しさと——それ以外の、名前をつけられない感情が、胸の中で溶け合って重い塊になっている。
正門が見えた。
ひよりは走る速度を落とした。外靴の踵がまだ踏まれたままだった。門扉は開いている。西日が門柱の上から差し込み、門の手前に長い影を落としている。
その影の中に、人影が二つ、立っていた。
ひよりの足が止まった。
黒い和装。男が一人、女が一人。男は四十代後半、痩せた体躯に紋付の羽織を着ていた。女は三十代、同じく黒地の着物に細帯を締めている。二人とも、ひよりを真っ直ぐに見ていた。
西日が男の顔の右半分だけを照らした。目元に刻まれた皺と、薄い唇の形が——ひよりの記憶の底から、幼少期の映像を引きずり出した。
あの家の人間だ。
本家の。
身体が強張った。
意識よりも先に、身体が反応していた。背筋が硬くなり、肩が内側に丸まり、視線が自動的に下がった。幼少期から繰り返し刷り込まれた姿勢——大人の前で小さくなること、声を出さないこと、目を合わせないこと——が、神経系の奥底から反射として立ち上がった。
違う。
ひよりの意識がそれを拒絶した。自分はもう、あの家の言いなりになる子供ではない。九日間、自分の力を——
「神楽坂の直系、ひより」
男の声が、夕方の空気を切った。事務的な声だった。冷たくも温かくもない。書類を読み上げるような平坦さ。
「本家当主より、帰宅の命が出ている。同行されたい」
帰宅。
その言葉が、ひよりの思考を凍らせた。遠縁の——自分が預けられている家への帰宅ではない。「帰宅」は本家の言葉だった。追放した先を「仮の居場所」とし、本家を「本来の場所」とする——ひよりの籍が今も本家に残っていることを前提にした、所有権の行使としての「帰宅」。
追放されたのに。
出来損ないだと言われたのに。
名前を呼ぶことすらやめた家が——今になって。
「……籍は」
ひよりの声は掠れていた。蓮の掠れとは違う。恐怖と怒りが声帯を同時に引いている。
「私の籍は、まだ本家に——」
「そうだ」
女が答えた。男よりも低い声だった。
「お前の籍は、一度も移されていない。遠縁への預け入れは、神楽坂当主の裁量による一時的な措置だ。籍は本家にある。お前は本家の人間だ。当主がそう決めた以上、お前の意思は——」
女は言い切らなかった。言い切る必要がなかった。「お前の意思は関係ない」——その結末は、ひよりが十数年かけて身体に刻まれた言葉だった。
逃げなければ。
ひよりの思考はそう叫んでいた。だが身体が動かなかった。透過能力——呼吸を整え、構造に意識を合わせて——使えるなら、この場を抜けられるかもしれない。だが今の自分の呼吸は荒く、涙で視界は歪み、心拍は暴れている。九日間の訓練で掴みかけた「一瞬の精度」は、この精神状態では起動しない。冷静さが前提の力を、冷静を失った状態で使うことはできない。
黒塗りの車が、門の外の路上に停まっていた。後部座席のドアが開いている。
男が一歩、前に出た。ひよりの左腕に手が伸びた。
ひよりは手を振り払おうとした。だが幼少期から叩き込まれた服従の反射が、振り払う動作を途中で止めた。腕が上がりかけて、止まった。男の手がひよりの肘の上を掴んだ。指の力は強くなかった。強くする必要がないと知っている掴み方だった。
ひよりの視線が、校舎の方向に向いた。
廊下の窓。三階。東端。——あの空き教室は、ここからは見えない。校舎の壁面が西日を受けて橙色に光っていた。
蓮は来ない。
ひよりはそれを理解していた。あの言葉を投げつけて背を向けたのは自分だ。蓮を「実家と同じだ」と断じて走り去ったのは自分だ。蓮がここに来る理由はない。来る義理もない。
足が動いた。男に肘を掴まれたまま、車の方向へ歩き始めた。外靴の踵がアスファルトを擦った。女が車のドアを支えている。
ひよりは車に乗り込む直前、一度だけ振り返った。
校門の向こう。西日に染まった通路。校舎の影。
誰もいなかった。
ドアが閉まった。車内は暗く、革製のシートが冷たかった。窓のガラスが黒く塗られていて、外の景色は見えなかった。
*
蓮のスマートフォンが鳴ったのは、空き教室を出てから数分後だった。
廊下を歩いていた。階段を下り、二階の渡り廊下に差しかかった地点で、スラックスの左ポケットの中で短い振動が一度。通話ではなく、通知だった。
蓮は左手でスマートフォンを取り出した。画面の明かりが、夕方の薄暗い廊下の壁を青白く照らした。
退魔局の公式通知アプリ。蓮が特例協力者として登録された際にインストールを求められたものだった。普段は任務の割り当てか、活動エリアの変更通知が来る。
今回の通知は違っていた。
件名は一行だった。
『定例総会への出頭命令——第三十五回東都退魔局定例総会(明日午前十時、退魔局本部大講堂)への出席を命ずる。欠席は規約違反として処理する。なお、出頭までの間、活動エリア外への移動は監視結界により制限される。——東都退魔局上層部』
蓮は画面を見つめた。
文面は事務的だった。だがその事務性の裏に、蓮の分析回路は構造を読んでいた。
出頭命令。定例総会。明日。——時間の圧縮。蓮に準備の余地を与えない設計。
監視結界による移動制限。——物理的な封じ込め。収束点の調査を阻止する意図。
そして——「上層部」。名前のない発信者。だが東都退魔局の上層部とは、事実上、一人の人間を指している。
蓮はスマートフォンを左ポケットに戻した。
廊下を早足で歩いた。階段を下り、昇降口を抜け、校門へ向かった。外靴に履き替える動作が、いつもより雑になった。左手だけで靴を掴み、足をねじ込む。踵を踏んだまま走り出そうとして——
足が止まった。
校門の手前。通路の上。西日が校舎の影を長く引き伸ばし、明暗の境界線が通路を斜めに切っていた。
蓮の感覚が、周囲の空気の変質を捉えていた。
霊的な気配。薄い。だが均一に、校舎の外周を包むように張られている。蓮の感知精度は拒絶反応の蓄積で劣化しているが、この種の術式——空間全体を覆う結界型の干渉——は、劣化した感覚でも検知できるほど大きな構造を持っている。
監視結界。
通知に書かれていた通りだ。すでに発動している。蓮の行動範囲を監視し、制限する。校門を出た先まで伸びているのか、それとも学校の敷地が境界なのかは、今の感覚精度では判別できない。
蓮は校門の前で立ち止まったまま、通路の先を見た。
門柱の影。西日に照らされたアスファルト。
——そこに、かすかな痕跡があった。
蓮の劣化した視覚は、対象の細部を識別する能力を失い始めている。だが、アスファルトの表面に残された「何か」——タイヤの跡のような、直線的な圧痕——を、ぼやけた視界の端で認識した。痕跡は門の外、路上に向かって伸びていた。
車。
蓮の分析回路が、断片的な情報を組み合わせた。ひよりが走り去った方向——校門。この時間に校門前に車が停まっていた痕跡。そして、ひよりが以前に語った断片——名門の実家から出来損ないとして追い出されたこと。蓮はその背景の全貌を知らない。だが、ひよりの実家がどういう種類の人間であるかは、ひより自身の言葉と、今この教室で投げつけられた怒りの中に描かれていた。
——連れ戻しに来た人間がいる。
推測だった。タイヤの痕跡と、ひよりの走り去った方向と、あの家の性質から導いた仮説に過ぎない。だがその仮説が、蓮の腹の底で確信に近い重さを持っていた。
追え、と思考が命じた。
今度は、教室の時とは別の理由で足が止まった。
——「同じだ」。
ひよりが蓮に投げた言葉が、意識の表面に浮上した。実家の人間と同じだ。数字と基準で人を測って、基準に合わないものは切り捨てる。
ここで力づくに動けば、何が起きる。
蓮の分析回路が、冷徹に演算を走らせた。監視結界の範囲が校門の外まで伸びているなら、蓮の移動は即座に退魔局に捕捉される。ひよりを連れ去った相手の行き先を蓮は知らない。車の痕跡から追跡できるのは方向だけで、目的地は特定できない。ここで蓮が結界を強行突破すれば、焦りと行動経路を相手側に——土御門に——明け渡すことになる。
そして、もう一つ。
蓮がひよりを追えば、それは蓮の判断でひよりを自分の盤面に組み込むことを意味する。「助ける」という行為が、「蓮の判断の中にひよりを配置する」という構造と表裏一体であること——蓮はそれを理解していた。
エルマと同じ構造。
蓮はその構造を選べなかった。
右腕がポケットの中で揺れていた。西日が校舎の壁を橙色に染め、蓮の影が通路の上に長く伸びていた。影の先端が校門に触れかけて、届かなかった。
蓮は校門に背を向けた。
通路を歩き、昇降口の手前で足を止めた。左手をスラックスのポケットに入れ、スマートフォンを取り出した。通知画面がまだ表示されていた。
『定例総会への出頭命令——』
蓮は画面を消した。
校舎の影が通路を呑み込み、日没が迫っていた。空の西端が茜色に燃え、その上に薄い紫が重なっている。昇降口の天井で蛍光灯が点灯し、蓮の足元を白く照らした。
喉の奥で、鉄の味が這い上がってきた。飲み込んだ。舌の裏の膜が引き攣れる感触とともに、体温より冷たい液体が食道を滑り落ちた。
蓮はその場に立ったまま、しばらく動かなかった。
昇降口の向こうに見える校庭は、夕闇に沈み始めていた。風が木の葉を揺らす音だけが、遠くで聞こえていた。




