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第12話「仕組まれた戦場」

 端末が鳴った。


 ポケットの中で、退魔局支給の通信端末が甲高い電子音を上げている。蓮は左手をジャケットに差し込み、画面を引き出した。指が痙攣して、ロック解除に二度失敗する。三度目でようやく画面が開いた。


 赤い文字列が流れていた。


 広域妖怪出現アラート。発生地点のリストが画面を埋め尽くしている。第七観測点。第十二観測点。第十九観測点。——午前中のパトロールで、蓮が地下の霊脈吸引を確認した地点の番号が三つとも含まれていた。それだけではない。リストは下へ下へとスクロールしても終わらない。東京東部の担当エリア全域に、出現報告が散らばっている。


 一箇所の異常発生なら珍しくない。二箇所、三箇所の同時発生も、霊脈が荒れた時期には起こる。だが——全域。


 蓮は立ち止まった。夕方の商店街は帰宅途中の人間で混み合っている。誰もこの電子音を気にしていない。退魔局の端末は一般の通信機器と周波数が異なる。この雑踏の中で、世界が裂けかけていることを知っているのは、蓮と——。


「……来たわね」


 三歩後ろで、神楽坂ひよりが同じ端末を見ていた。琥珀色の瞳が画面の赤い光を映して、冷たく光っている。彼女の声は平坦だった。怒りでも恐怖でもなく、予測していた事態がただ現実になっただけだという、乾いた確認。


 蓮は端末の画面をもう一度見た。発生地点の座標を頭の中で地図に落とす。最も密度が高いのは、ここから北東に約二キロ——繁華街の外縁部。アラートの発生時刻は全地点でほぼ同時刻。自然発生の妖怪が、これほど正確に同期することはない。


 何かが、意図的に霊脈を乱している。


「車を回す」


 蓮は端末の通信機能で退魔局の配車窓口を呼び出した。掠れた声が、必要な言葉だけを押し出す。担当エリア。全域アラート。最寄りの公用車。現在地。——十語に満たない通話で、必要な情報を全て渡した。


 三分後、黒い公用車が商店街の角に滑り込んできた。運転席には局の支援要員——名前は知らない、三十代半ばの男。蓮が後部座席のドアを開けると、ひよりが無言で反対側のドアに手をかけた。


 蓮は何も言わなかった。


 拒む理由がない。準正規登録に伴い、ひよりは蓮の活動に随伴する形で現場への同行が認められている。彼女の能力が使えるかどうかは別として、人手が足りない状況で頭数を減らす選択は合理的ではない。


 二人が乗り込むと、車は即座に発進した。


 後部座席の空間は狭い。蓮は右側、ひよりは左側。間に座席一人分の隙間がある。蓮の右腕はポケットに収まったまま動かない。左手は膝の上に置いているが、指先が不規則に震えている。蓮はその震えを視界の端で確認し、意識の外に追いやった。


 車窓の向こうで、夕暮れの街が流れていく。信号が赤に変わり、車が止まった。


 沈黙。


 エンジンの低い振動だけが車内を満たしている。フロントガラスの向こうで、横断歩道を渡る人々が見える。買い物袋を提げた女性。スマートフォンを見ながら歩く学生。ベビーカーを押す若い父親。誰も、この街の地下で霊脈が捻じれていることを知らない。


「——ねえ」


 ひよりの声だった。車窓の外を見たまま、横顔だけが蓮の視界に入っている。プラチナブロンドのボブカットの下で、首筋の筋がわずかに強張っていた。


「一つ、聞いていい」


 蓮は答えなかった。答えないことが、聞くことの許可になると知っていた。七十年の歳月は、沈黙の使い方を嫌というほど教えてくれる。


「あんたは——人を道具にしたことを、悪いと思ってる?」


 問いの形をしているが、回答を求めていない。蓮にはそれがわかった。これは質問ではなく、宣戦布告の前口上だ。


「鏡女郎の夜のこと」


 蓮は短く言った。鏡女郎戦で、ひよりの霊力を強制的に触媒として使った件。掠れた声が車内の空気をわずかに揺らした。


「そう」


 ひよりは車窓から視線を外さなかった。街灯が一つ、二つと後ろへ流れていく。その光が彼女の横顔に明暗の縞を刻んでいた。


「悪いとは思っていない」


 蓮は言った。事実だった。あの判断は合理的だった。ひよりの透過霊力を触媒にしなければ、鏡女郎は倒せなかった。倒せなければ、死者が出た。判断の正しさは結果が証明している。


「——知ってた」


 ひよりの唇が、ほとんど動かずにその言葉を吐き出した。声の温度が、一段下がった。


「あんたはそう言うと思ってた。だから聞いたんじゃない」


 信号が青に変わり、車が動き出す。加速のGが、二人の身体をわずかに座席に押しつけた。


「聞きたかったのは——」


 ひよりが、初めて蓮の方を向いた。琥珀の瞳が、夕陽の残光を受けて、鈍い金色に見えた。怒りがある。だがそれだけではない。怒りの底に、もっと古くて硬い何かが沈んでいるのが、その眼差しの奥に透けていた。


「——あんたが私を道具にしたのと、同じことをされた人間が、どうなるか知ってるかって話」


 蓮は黙った。


 ひよりの声が、変わった。平坦だった声に、微細な振動が混じり始めていた。震えではない。もっと制御された何か——長い時間をかけて圧縮された感情が、言葉の一つ一つに重量を与えている。


「私は名門の直系として生まれた。神楽坂本家。聞いたことくらいあるでしょう。退魔師の名門中の名門。——で、測定結果がゼロだった」


 車内の空気が、密度を増した。蓮はその変化を音の聞こえ方で知覚した。エンジン音が遠くなり、ひよりの声だけが輪郭を持って残っている。


「ゼロ。文字通りの。測定器の針が、一ミリも動かなかった」


 蓮は何も言わなかった。何も言う必要がなかった。ひよりは蓮に語りかけているのではない。自分の過去を、自分の口で、自分のために発声している。それがたまたま蓮の耳に届く場所で行われているだけだ。


「名門の血を汚す欠陥。——最初にそう言ったのが誰だったか、もう覚えてない。父か、母か、叔父か叔母か。たぶん全員が言った。順番が違っただけ」


 車が右に曲がった。遠心力でひよりの身体がわずかに蓮の方に傾いたが、すぐに自分で姿勢を戻した。彼女は他人の空間を侵すことを、本能の水準で忌避している。侵されることの意味を、身体が知っているからだ——蓮はそう分析した。


「食事は使用人の後。部屋は離れの物置。行事には出席禁止。——虐待って言葉は、後から覚えた。当時はそういう名前がつくものだと知らなかったから。ただ、ああ、私はここにいちゃいけないんだ、とだけ思ってた」


 ひよりの声に、わずかな嘲りが混じった。自分自身に向けた、乾いた刃。


「でもね。一番きつかったのは殴られることじゃない。無視されることでもない」


 一拍の間。


「——決められること」


 その三語が、車内の空間を切断した。


「お前は弱い。お前は無価値。お前はここにいる資格がない。——全部、他人が決めた。私の口から聞いたわけでもないのに、私が何者かを、勝手に、決めた」


 蓮の左手の痙攣が、一瞬だけ止まった。


 それは身体的な反応ではなく、認知の一時停止だった。ひよりの言葉が、蓮の内部で何かに触れた。蓮はその「何か」を特定しようとして——やめた。今はその作業に充てるリソースがない。


「だからあんたが私の霊力を勝手に使った時、怒ったのは——利用されたからじゃない」


 ひよりが、蓮を真っ直ぐに見た。


「また、誰かに決められたからよ。お前はこう使えばいい。お前にはこの役割がふさわしい。——それを、また」


 車が減速した。前方に赤信号が見える。ブレーキの振動が座席を通して伝わってきた。


 蓮は、窓の外を見た。


 ビルの谷間に、夕陽の最後の一条が差し込んでいる。オレンジ色の光がアスファルトの上に細い線を引いていた。あと十分もすれば、それも消える。


 エルマの顔が、一瞬だけ脳裏をよぎった。


 ——師匠、それは師匠の盲点です。


 あの声。あの口調。あの、遠慮のない目。蓮の判断に真正面から異を唱えることができた、唯一の人間。


 蓮はその記憶を、呼吸一つで意識の底に沈めた。


「——そうか」


 ひよりは何かを待っているような顔をしていた。謝罪ではない。同情でもない。おそらく、理解の証。だが蓮はそれを提供しなかった。理解したかどうかは、蓮の判断であって、ひよりに差し出すものではない。七十年間、蓮はそうやって生きてきた。


「……やっぱりあんたは」


 ひよりが何かを言いかけて、止めた。


 その瞬間、運転手が声を上げた。


「見えました——前方です」


 フロントガラスの向こうに、繁華街の入り口が見えた。人の流れが通常と逆になっている。店から出てきた人間たちが、何かから逃げるように大通り側へ走っている。コンビニのドアが開きっぱなしで、中の蛍光灯が歩道に白い光を投げかけていた。


 そして——蓮の感覚が、それを捉えた。


 霊脈の乱れ。


 大地の底から、ねじれた力の波動が這い上がってくる。今朝のパトロールで感じた「吸引」とは質が違う。あれは一定方向への持続的な引力だった。今、蓮の感覚を叩いているのは——乱流。方向を持たない、あらゆる方角への無秩序な拡散。


 蓮は左手を膝から持ち上げた。震える指先で微量の回路を起動し、乱れの密度を測ろうとする。


 ——精度が足りない。


 センチ単位の分解能では、この乱流の内部構造が読めない。方向と強度のおおよその傾向しかわからない。わかるのは、この乱れが自然発生のパターンと根本的に異なるということだけだった。自然発生の霊脈の乱れは、地形や季節に応じて一定の「癖」を持つ。今の乱流にはその癖がない。人工的に作り出された攪拌だった。


 左手の痙攣が一段激しくなった。回路を閉じる。喉の奥に、錆びた鉄を舐めたような味が広がった。


「止めろ。ここでいい」


 車が路肩に寄せられた。蓮は左手でドアを開け、外に出た。夕暮れの空気が頬を打つ。アスファルトの残暑と、どこかの飲食店から流れてくる油の匂い。その下に——鼻腔ではなく、感覚の深い層で——腐った水が澱んだような、霊脈の淀みの気配が混じっていた。


 ひよりが反対側のドアから降りてきた。彼女も感じているはずだった。透過の体質は、蓮の分析回路とは全く異なる経路で霊脈の状態を感知する。蓮にはその経路の詳細がわからない。わかっているのは、ひよりがこの種の変動に対して、蓮よりも鋭敏な受容性を持っている可能性があるということだけだ。


「こっち」


 蓮は繁華街の方角に歩き出した。右腕がポケットの中で揺れている。歩くたびに、機能しない右手の指先がジャケットの布地に触れる微かな感触——圧覚だけが残っている。


 繁華街に入ると、異変はすぐに視認できた。


 路地の奥で、何かが蠢いていた。


 ネオンの光が届かない暗がりの中に、不定形の影が蹲っている。一体ではない。三体——いや、四体。中型の妖怪が、重なり合うようにして路地を塞いでいた。形状はそれぞれ異なる。蛇のような胴体を持つもの。鳥の骨格に似た翼を広げているもの。地面に張りついた、目だけが無数にある扁平な塊。


 蓮は足を止めた。


 この密度はありえない。中型妖怪がこれほど狭い範囲に同時発生するには、相当な規模の霊脈の乱れが必要だ。しかもこの一角だけではない。端末に入り続けるアラートは、同様の発生がエリア全域で起きていることを示している。


 左手の回路を、もう一度だけ起動した。精度はセンチ単位。だが、それでも十分に読み取れるものがあった。


 乱れの「震源」。


 この乱流には、中心がある。北東方向、おおよそ三百メートル先。そこから放射状に霊脈の攪拌が広がっている。自然の地形による乱れではない。一点に集中した人為的な干渉が、周囲の霊脈を強制的にかき乱している。


 ——誘引。


 蓮の思考が、その一語に到達した。何者かが、意図的に妖怪を呼び寄せている。


 回路を閉じた。左手の薬指が、一瞬だけ完全に感覚を失った。二秒後に圧覚が戻ったが、その二秒間の空白は、身体の限界が近づいていることを算術的に証明していた。


「こっちよ」


 ひよりの声が、蓮の右後方から聞こえた。振り返ると、彼女は蓮とは異なる方向——路地の枝道——を指差していた。


「乱れの芯がそっちにある。あんたの方角と少しずれてるけど、こっちのほうが濃い」


 蓮は一瞬だけ計算した。ひよりの感知経路は蓮の分析回路より精密な位相の差異を拾う可能性がある。蓮のセンチ単位の分解能では「おおよそ北東」としか特定できなかったものを、ひよりは別の解像度で捉えているのかもしれない。


 合理的な選択は、情報量の多い方に従うことだ。


 蓮はひよりの指差す方角へ歩き出した。ひよりが一瞬、虚を突かれたような顔をしたのが視界の端に映った。蓮が彼女の判断に——部分的にせよ——従うことを、予想していなかったのだろう。


 枝道は狭かった。二人が並んで歩ける幅はない。蓮が先に入り、ひよりが後ろに続いた。両側のビルの壁がすぐ近くまで迫っている。蓮は隊列を意識した——この幅では先頭の自分が視界と行動の自由度を独占し、後方のひよりは状況把握が遅れる。


「右が壁、左に非常階段」


 蓮は掠れた声で、最低限の空間情報をひよりに渡した。


 枝道を三十メートルほど進むと、道が少し広くなった。飲食店の裏口が並ぶ空間に出る。生ゴミの匂いと、換気扇の暖かい排気。地面は湿ったアスファルト——どこかの排水管が漏れているのか、水たまりが点在していた。


 蓮の靴底が水を踏んだ。


 そして——見つけた。


 路地の奥。非常灯の薄い橙色の光が、一人の人影を浮かび上がらせていた。


 高瀬。


 退魔師の若手。末端家系の、血統に固執する男。蓮が五話で初めて対峙し、それ以来ことあるごとに敵意を向けてきた相手。


 高瀬は路地の行き止まりに立っていた。壁を背にして、両手で何かを抱えている。非常灯の光では細部が見えない——蓮は二十メートルほどの距離で足を止め、目を細めた。


 高瀬の両手に収まっているのは、拳よりやや大きな不定形の塊だった。骨のような乳白色の表面に、赤黒い血管模様が網の目のように走っている。その模様が——脈動していた。心臓のリズムに似た、ゆっくりとした収縮と拡張。明滅する赤黒い光が、高瀬の指の隙間から漏れている。


 霊具。


 蓮は即座に構造を推測した。あの脈動は霊脈との共振だ。霊具そのものが霊脈に干渉し、局所的に乱れを増幅している。——妖怪誘引器。霊脈を人為的にかき乱し、妖怪を引き寄せる装置。


 蓮が分析に使ったのは目と経験だけだった。回路は起動しなかった。起動する余裕がなかった。左手の薬指の感覚が鈍りかけている今、不要な回路起動は文字通り指の一本を賭けることになる。


「……誰だ」


 高瀬の声が、路地に反響した。声が震えている。恐怖ではない——興奮だった。何かを成し遂げつつあるという、歪んだ高揚。


「朝霧」


 蓮は名乗った。一語。


 高瀬の表情が、非常灯の光の中で変わった。目が見開かれ、口元が歪んだ。恐怖と敵意と、そして——歓喜に似た何かが、彼の顔に同時に浮かんだ。


「来たか——ちょうどいい」


 高瀬は霊具を掲げた。赤黒い脈動が一段強くなり、路地全体に低い振動が伝わった。蓮の足元の水たまりが、微細な同心円を描いて震えている。


「お前のせいだ。お前みたいなのが——血統もない、家もない、何もないくせに——」


 高瀬の言葉は感情に押されて断片的だった。論理が先行しない。怒りが先にあり、言葉がそれを追いかけている。


「この霊具で妖怪を集めた。お前の担当エリアに、山ほど。お前が失敗するところを——お前が『倒せない』ところを、見てやろうと思った」


 蓮は黙って聞いていた。


 高瀬の意図は理解できた。単純な妨害。蓮に失態を作らせ、「無血統の余所者は使えない」と証明しようとした。末端家系の劣等感が生んだ、短絡的な行動。


 だが——蓮の思考は、高瀬の意図の「外側」を分析していた。


 この霊具の精度は、高瀬個人の能力を遥かに超えている。末端家系の若手退魔師が独力で入手・製造できる代物ではない。蓮が午前中のパトロールで感知した三箇所の神社の霊脈吸引と、この霊具の共振パターンには構造的な類似性がある。同じ技術体系——同じ設計思想の産物。


 高瀬に渡した者がいる。


 そして、その人物は高瀬の行動を計算に入れている。高瀬が蓮を妨害しようとすれば、蓮は必ず妖怪を殲滅する。殲滅するためには、蓮は能力を行使する。——そこが目的だ。蓮の「全力戦闘」のデータ。牛鬼戦で一部取得され、厳山との直接対峙で波動パターンを記録された、あのデータの続き。


 蓮は高瀬の背後にいる存在を——名前はまだ確定できない、だが推測の精度は高い——冷たく計算した。高瀬は駒だ。蓮に全力を出させるための、使い捨ての起動装置。


「その霊具」


「誰から受け取った」


 高瀬の目が泳いだ。一瞬だけ。だがその一瞬は、蓮にとって十分な情報だった。高瀬は出所を知っている。知っていて、その意味を理解していない。


「関係ない!」


 高瀬が叫んだ。声が裏返っている。彼の指が霊具を握り締めると、赤黒い脈動がさらに激しくなった。路地全体が低く唸るような振動を発している。


「お前は——お前みたいなやつは——血統がなければ何の価値もないんだ! 霊力は血が決める! 家が決める! 無血統の化け物が、正規の退魔師と同じ場所に立てるわけがない!」


 蓮の後方で、ひよりの呼吸が変わった。


 音としては微かだった。吸気の深さが浅くなり、間隔が短くなった。蓮の聴覚はその変化を正確に拾い上げた。ひよりの身体が強張っている。怒りだ。高瀬の言葉——「血統がなければ何の価値もない」——が、彼女の内側の何かを直撃していた。


 さきほど車の中で語った過去。測定値ゼロの烙印。他人に価値を決められることへの拒絶。


「……あんた」


 ひよりの声が、路地の空気を薄く切った。低い声だった。静かで、平坦で、だからこそ刃物の鋭さを持っていた。


「それ、本気で言ってるの」


 高瀬がひよりの存在に気づいたのは、その時が初めてだったようだった。蓮の背後に隠れるように立っている小柄な少女に、彼の目が向いた。


「神楽坂——? お前、なんでこんなところに——」


「質問に答えて」


 ひよりは高瀬の言葉を断ち切った。一歩も動いていない。蓮の後方、枝道の幅いっぱいに立ち、非常灯の光が作る長い影の中に半身を置いている。


「血統がなければ価値がない。——それ、誰に言われたの。あんた自身で考えたことなの。それとも、誰かに『そう思え』って決められたの」


 高瀬は答えなかった。答えられなかったのだと、蓮は判断した。ひよりの問いは、高瀬の信念の根を掘り返すものだった。血統主義にしがみつく末端家系の若手。その「しがみつき」が自発的なのか、それとも構造的に強いられたものなのか——ひよりはその問いを、自分自身の過去を投影して突きつけている。


 だが、蓮の注意はすでに高瀬の手の中の霊具に向いていた。


 脈動が——変わった。


 さきほどまでの規則的なリズム——心臓の鼓動に似た収縮と拡張——が、不規則になっている。収縮の間隔が短くなり、拡張の振幅が大きくなっている。赤黒い光の明滅が加速し、骨のような表面に走る血管模様が、まるで内部の圧力に耐えかねるように膨張していた。


「高瀬。その霊具を離せ」


 蓮の声は掠れていたが、命令の輪郭は明確だった。


「は? 何を——」


「オーバーヒートしている。制御限界を超えた」


 蓮の分析は、回路を使わなくても成立するものだった。霊具の脈動パターンの変化は、目視と経験則だけで読み取れる。規則的な共振が不規則な振動に変わるのは、共振対象(この場合は霊脈)との位相が合わなくなり、フィードバックループが暴走しているサインだ。七十年の戦場で、蓮は無数の魔法陣が同じパターンで崩壊するのを見てきた。


 あの霊具は、もうすぐ砕ける。


「離——」


 蓮が繰り返しかけた瞬間、高瀬の顔が歪んだ。恐怖ではなく——痛み。霊具を握っている両手の甲に、赤黒い血管模様が浮き上がり始めていた。霊具の脈動が、高瀬の身体に侵食している。


「熱っ——! なん、だこれ——!」


 高瀬が霊具を投げ捨てようとした。だが指が離れない。赤黒い模様が手首まで這い上がり、高瀬の手と霊具を癒着させている。


「離れ——離れろぉ!」


 高瀬の悲鳴が路地に反響した。


 蓮は動いた。


 左手を前に出す。指先が震えている。魔法陣の展開精度は通常の三割以下。消滅式の同時展開数は二が限界。


 十分ではない。だが、選択肢は他にない。


 蓮が高瀬に向かって三歩踏み出した瞬間——


 砕けた。


 霊具が、内側から爆ぜた。


 赤黒い破片が放射状に飛散し、高瀬の手から解放されると同時に、凝縮されていた霊脈の乱れが一気に周囲へ解き放たれた。路地全体が揺れた。地面のアスファルトに亀裂が走り、排水管から濁った水が噴き出した。蓮は左腕で顔を庇い、飛来する破片を防いだ。小さな骨片のような欠片が、ジャケットの袖に当たって弾けた。


 高瀬は壁に叩きつけられていた。意識はあるが、腰が抜けている。両手から赤黒い模様は消えたが、両掌が焼け爛れたように赤く腫れ上がっていた。


 蓮は高瀬の状態を一瞬で確認し——切り替えた。


 高瀬の怪我は致命的ではない。今、優先すべきは別にある。


 霊具が砕けたことで、それまで「誘引」によって一定の秩序を保っていた霊脈の乱れが完全に制御を失った。乱流が爆発的に拡大している。蓮の感覚が、それを回路なしで、生の知覚だけで捉えていた。大地の底から押し上げてくる無秩序なエネルギーの波。それが周囲に溜まっていた中型妖怪たちの——さきほど路地の奥で見た、蛇のような胴のもの、鳥の骨格のもの、目だけの扁平な塊——行動を一斉に変えた。


 「誘引」が消えた。


 妖怪たちを一箇所に集めていた磁力が消失し、残ったのは制御を失った飢えた獣の群れだけだった。


 路地の向こうで、獣の咆哮が重なった。一体、二体、三体——数えるのを止めた。意味がない。重要なのは数ではなく方向だ。蓮は音の反響から、妖怪が繁華街の方角——まだ避難の完了していない区画——に向かって動き始めていることを判断した。


 逃げ遅れた一般人がいる。


 高瀬が、壁に背をつけたまま、動けなくなっていた。焼けた両手を身体の前に出して、その赤黒い手のひらを呆然と見つめている。彼の視線が蓮と交差した瞬間、高瀬の目に浮かんだものは——敵意でも怒りでもなく、理解の崩壊だった。自分が何をしたのか。自分が何に使われたのか。その輪郭が、今ようやく見え始めている。


 蓮はその視線を二秒だけ受け止めた。それ以上は使わなかった。


「動くな。ここにいろ」


 高瀬に向けた言葉は四語。掠れた声が、非常灯の薄明かりの中に消えていった。


 蓮は路地の出口に向き直った。繁華街の方角から、妖怪の咆哮と——もっと悪いことに——人間の悲鳴が聞こえ始めていた。


 ひよりが、蓮の横に並んだ。


 彼女の呼吸は荒くなっていたが、目は据わっていた。琥珀の瞳が、路地の暗がりの中で、ほとんど別の色に見えた。恐怖はある。だがその恐怖を、もっと硬い何かが押さえ込んでいる。


「行くんでしょう」


 問いではなかった。


 蓮は左手を見下ろした。痙攣する五本の指。薬指の感覚が、さきほどより確実に鈍くなっている。回路の展開精度は〇・三秒遅延。消滅式の同時展開数は二。


 右腕はポケットの中で、ただの重量物として垂れ下がっている。


 前方から、牙と爪と怨嗟の気配が押し寄せてくる。暴走した妖怪の群れが、制御を失った獣の本能で、最も近い生命反応——逃げ遅れた人間たち——に向かって雪崩れ込もうとしていた。


 蓮は左手を上げた。


 震える指先が、夕闇の空気に、青白い一条の光を描き始めた。

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