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第1話「終わりの大賢者、始まりの凡人」

 瓦礫が降っていた。


 崩れた天井の裂け目から、場違いなほど白い陽光が差し込んでいる。広い。途方もなく広い空間だった。石と木と、もっと古い何かで組まれた壁面が左右に聳え、その大半はすでに原形を留めていない。砕けた柱。めくれ上がった床板。宙を漂う埃が光の柱の中で金色にきらめいて、それだけが美しい。


 その空間の中心に、少年が立っていた。


 背筋を一本の刃のように伸ばし、右手を前方に翳している。指先から手首にかけて、青白い光の線が幾何学的な紋様を描きながら空中に展開されていく。光は意思を持つように枝分かれし、旋回し、やがて彼の周囲に二重、三重の円環を構成した。


 対峙する先には、金色の奔流があった。


 おびただしい数の光の尾が、一つの人影から放射状に広がっている。尾の一本一本が生き物のようにうねり、空間を薙ぎ、触れたものを片端から粉砕していく。金色の光が壁を、柱を、床を抉るたびに、大気そのものが軋むような低い振動が空間を満たした。


 少年は動かない。


 展開した光の紋様——青白い螺旋と、その隙間を縫うように走る金色の糸——が彼の前方で壁を形成し、金色の奔流を受け止めている。光と光がぶつかる境界面で、空気が焼ける音がした。


 たった一人で、前に立っていた。


 その背中は広くない。百七十センチをわずかに超えた程度の、少年の背中だ。だが折れない。金色の暴風に晒されながら、一歩も退かず、ただ前方を見据えている。


 ——ここで、映像が揺れた。


 少年の背後から、複数の足音が近づいてくる。一つ、二つ、三つ。瓦礫を踏み越え、粉塵を切り裂いて、人影たちが少年の隣に並んだ。誰も言葉を発しない。ただ横に立った。それだけで、少年の背中を覆っていた孤独の色が——ほんのわずかに、薄くなった。


 光が膨張する。視界の全てが白と金に塗り潰されて、


 ——途切れた。


 瓦礫と、かすかな残光だけが、空間を埋め尽くしていた。


   *


 天井の染みを数えるのは、三百十二日目の朝課だった。


 薄い煎餅布団から見上げる天井には合計十七個の染みがある。右上の大きいやつは大陸に見える。その下の細長いのは剣に見えなくもない。そんなことを考え始めたら末期だと自分でもわかっていたが、末期だという自覚があるうちはまだ末期じゃない。たぶん。


 物置部屋、というのは比喩じゃない。


 二畳半。窓は高い位置に一つ。使わなくなった扇風機と、型落ちの空気清浄機と、段ボール箱が六つ。その隙間に敷かれた煎餅布団が、朝霧(れん)のこの家における全領土だった。


 壁越しに聞こえるテレビの音。食器がぶつかる音。伯父の咳払い。伯母が息子に「お弁当忘れないでね」と言う声。この家の朝は毎日同じ音で始まり、その音の中に、俺の名前は一度も混ざらない。


 別に恨んでいるわけじゃない。


 親戚の子を引き取る。体裁としてはそうなっている。世間体のために渋々引き受けた居候に、使っていない物置部屋と屋根だけは貸す。それ以上のことは求めないし、求められてもいない。合理的な距離だ。むしろ清々しいとすら思う。


 ——思おうとしている。


 布団を畳み、制服に袖を通した。鏡はない。あっても見ないだろう。不揃いな前髪を指で適当に散らし、部屋を出る。


 廊下を歩く足音を殺すのは無意識の癖だ。背中を丸め、気配を絞り込みながら壁際を進む。前の世界では足音一つが生死を分けた。今の世界では、誰にも気づかれずに通過するための技術として機能している。用途が変わっただけで、身体が覚えた所作は消えない。


 リビングの前を通過する。テーブルには三人分の朝食が並んでいる。伯父、伯母、従兄弟。トーストにスクランブルエッグ。オレンジジュースのグラスが三つ。


 四つ目はない。


 伯母が一瞬だけ視線を上げ、すぐに戻した。テレビの天気予報に視線を固定する動作があまりにも自然で、つまり相当に訓練されている。気まずさを感じさせない程度に存在を無視する技術。ある意味で、見事だと思う。


「……行ってきます」


 空気に向かって呟いた出発の挨拶に、返事はなかった。期待もしていない。玄関で靴を履き、ドアを開ける。四月の朝の空気がぬるい。


 この世界に生まれ落ちて、十七年になる。


 朝霧蓮。十七歳。都立高校二年。履歴書に書ける情報はそれだけだ。それ以前の——いや、それ以前の七十年を、履歴書に書く欄はこの世界のどこにもない。


 通学路を歩きながら、蓮は無意識に周囲を走査していた。視線を低く保ち、猫背気味の姿勢で人混みに紛れる。その裏で、視界の端は通行人の歩幅と速度を測り、すれ違う人間の手の位置と体重移動を読み取り、死角になる路地の奥を一瞬で確認している。やめろ、と自分に言う。ここは戦場じゃない。殺しに来る人間はいない。七十年の癖は、しかし十七年の平和では上書きできない。


 ——あの空の色は、似ていた。


 何にか。前の世界の東部戦線、最後の年の空だ。冬が終わる直前の、妙に澄んだ青。あの朝、作戦を立てたのは俺だった。全軍の配置を決め、魔法陣の起点を六カ所に設定し、敵の増援ルートを三つ潰す完璧な包囲網を組んだ。


 完璧だった。一つの変数を除いて。


 ——師匠、左翼は私に任せてください。


 声が蘇る。真っ直ぐな瞳。俺の分析では左翼の突破確率は六割。低い。だが彼女は言った。「私には見えています」と。俺が踏み切れなかった判断を、あいつは迷わなかった。


 信じた。


 初めて、自分以外の人間の判断に、賭けた。


 ——結果だけが残っている。


 蓮は歩調を緩めずに、まばたきを一つした。思考を切る。回想に浸る余裕が前世にはなかった。今世にもない。理由が違うだけだ。前は死ぬから。今は、思い出すと足が止まるから。


 足を止めたら、あの物置部屋に引き返すことになる。引き返して、布団を被って、天井の染みを数え続けることになる。それは大賢者のやることじゃない。


 ——じゃあ、何をやるんだ。


 答えは出ない。出ないまま、校門をくぐった。


   *


 教室は、物置部屋を二十倍に拡張して人口密度を上げた空間だった。


 違いは、ここでは「存在しない」ふりをするのに若干の技術が要ることだ。物置部屋では初めからいない前提で世界が回る。教室では、席がある以上は「いるけど見えない」を維持しなければならない。


 蓮は窓際の後方、壁に最も近い席に座った。鞄を机の横に掛け、頬杖をつく。窓の外は校庭。体育の授業をしている別のクラスが見える。それをぼんやりと眺めるふりをしながら、実際には何も見ていない。


 クラスメイトの会話が遠い波のように聞こえる。週末の予定。新しくできたカフェ。誰かが誰かを好きらしいという報告。それらの情報は蓮の耳を素通りしていく。興味がないのではなく——いや、興味がない。正確には、介入する理由がない。


 介入すれば関わりが生まれる。関わりが生まれれば判断を迫られる。判断を迫られれば——


 思考を切った。また同じ轍だ。


 昼休み。蓮は購買で買ったパンを一つ、屋上に続く階段の踊り場で食べた。ここは人が来ない。屋上のドアには鍵がかかっている。つまり「屋上に行けない階段の踊り場」に用がある人間はいない。だからいい。完璧な無人地帯。パンは焼きそばパン。味は可もなく不可もなく。前世ではパンという概念すら存在しなかった世界もあったのだから、焼きそばパンの存在は文明の勝利と言えなくもない。


 午後の授業。数学。教師が二次関数の応用問題を板書している。蓮はノートを取らなかった。この程度の数式は、魔法陣の座標計算に比べれば落書きだ。六次元の位相空間で三百二十の変数を同時に制御する魔法体系を七十年運用してきた人間に、放物線の頂点座標を求めさせるのは、剣聖にバターナイフの使い方を教えるようなものだ。


 ——傲慢だな、と思う。


 でも事実だ。事実と傲慢は両立する。前の世界で学んだ数少ない教訓の一つ。


 五時間目が終わり、六時間目が終わった。放課後のチャイムが鳴る。教室がざわめき、椅子が引かれる音が連鎖する。蓮は最後に立ち上がった。急ぐ理由がない。帰る場所が物置部屋では、足が速くなる道理がない。


 廊下を歩く。昇降口に向かう途中、視界の端に白が引っかかった。


 純白のボブカット。


 逆光の中に立っている横顔は、一瞬だけ蓮の歩調を乱した。乱した理由は簡単で、あの色は目を引くからだ。それ以上の理由はない。教室の隅——蓮の対角線上にある席に座っていた女子生徒。名前は知っている。出席番号が近い。確か——神楽坂(かぐらざか)。名前は覚えていない。話したことがない。


 彼女は昇降口で靴を履き替え、校門とは反対方向に歩いていった。


 蓮はそれを見送りもせず、校門を出た。


   *


 帰路を逸れたのは気まぐれだった。


 いつもの通学路をまっすぐ行けば二十分で伯父の家に着く。伯父の家に着けば物置部屋が待っている。物置部屋が待っているとわかっていて、二十分を短縮する理由がない。だから少し遠回りをした。一本裏の通りに入り、住宅街を抜け、線路沿いの道に出る。


 風景が変わる。手入れされた住宅街から、更地とフェンスが増え始める。再開発を待っている区画。雑草が伸び放題の空き地。その奥に、四階建ての廃ビルが見えた。窓ガラスの半分がない。外壁のタイルが剥がれて地面に散らばっている。フェンスには「立入禁止」の看板が括りつけてあるが、金網は一箇所、人が通れる幅に折り曲げられていた。


 普通なら素通りする。


 蓮の足が止まったのは、空気の質が変わったからだ。


 嗅覚ではない。視覚でもない。もっと原始的な感覚——前世で研ぎ澄ませた、世界の「位相」を読み取る感覚だ。空気中の魔力密度が微かに歪んでいる。自然界のノイズとは違う、意思を持った何かの気配。


 この世界にも、いるのか。


 知識としては知っていた。この世界には、前世とは異なる体系で「人ならざるもの」が存在する。転生して十七年、直接遭遇したことはなかったが、気配を感じたことは何度かあった。そのたびに蓮は距離を取った。関わる理由がない。


 今回も同じだ。関わる理由がない。フェンスの前を素通りすれば——


 声が聞こえた。


 ビルの内部から。声というより、空気を裂く硬い音。何かが壁にぶつかる音。そして直後に、短い悲鳴。


 人間の声だ。


 蓮の足が止まった。止まった理由を分析する前に、身体がフェンスの隙間に向かっていた。こういうときに身体が先に動くのは、七十年の戦場が染みついた反射であって、判断ではない。判断であってはいけない。


 ——関わるな。


 自分に命じる。声はもう聞こえない。気のせいかもしれない。猫が暴れているだけかもしれない。この世界の「人ならざるもの」がどういう存在で、どういうルールで動くのか、蓮は知らない。知らないものに介入するのは愚策だ。嫌というほど学んだはずだ。


 二度目の悲鳴が、思考を断ち切った。


 今度は明確だった。人間の、若い女の声。苦痛か恐怖か、あるいはその両方が混ざった叫び。ビルの一階奥から。


 蓮はフェンスをくぐり、ビルの入口に立った。


 中は暗い。外壁の破れた窓から差し込む夕陽が、コンクリートの床に長い矩形を描いている。埃と錆の臭い。天井の配管が剥き出しになり、電気は当然通っていない。通路は一本道で、奥に向かってわずかに下っている。


 空気の歪みが強くなっていた。


 蓮は足音を殺して進んだ。呼吸を整え、気配を最小限に絞り込む。前世の技術。この体でもまだ使える。通路の奥、突き当たりを左に折れた先に、かつてオフィスだったらしい広い空間が開けていた。


 蓮は、見た。


 青白い炎が、七つ。


 拳大の光の塊が不規則に浮遊している。鬼火——この世界の言葉で言えばそうなる。前世の分類に当てはめれば下位の精霊種に近い。自律的な意思は薄く、本能で動く。単体では脅威にならない。だが群れると話が変わる。


 七つの鬼火が、一人の人間を囲んでいた。


 純白のボブカット。


 制服は蓮と同じ学校のもの。壁際に追い詰められた姿勢で、右腕で顔を庇っている。制服のブレザーの肩口が焦げていた。左の膝が床についている。壁に叩きつけられたのか、背後のコンクリートに擦過痕と細かな粉塵がこびりついていた。


 神楽坂——名前を思い出す余裕はなかった。


 鬼火の一つが彼女に向かって軌道を変えた。加速。青白い火球が制服の少女の頭部に向かって飛ぶ。彼女はそれを見ている。見えている。腕を上げ、顔を背けながらも——目は閉じていない。恐怖で硬直しているのではなく、来るとわかっているものを、歯を食いしばって受ける体勢だった。


 その横顔を見た瞬間——


 蓮の視界が、切り替わった。


 廃ビルの壁が消える。コンクリートの床が消える。視界を埋めたのは、荒野だった。灰色の空の下、崩れた石壁に背をつけた女が一人。剣はすでに折れ、左腕はだらりと下がっている。それでも目を閉じなかった。正面から迫る殺意に対して、彼女は最後まで——


 ——師匠。


 声が聞こえた。あの声が。十年近く隣にいた人間の声が、鼓膜の内側で反響する。


 ——左翼は、私に。


 信じた。


 結果だけが残った。


 崩れた石壁の前で動かなくなった身体。俺が駆けつけたとき、彼女の目はまだ開いていた。何かを言おうとしていた。口が動いた。声は出なかった。右手が俺に向かって伸びかけて——途中で止まった。


 蓮の身体が動いていた。


 思考は追いついていない。判断はしていない。七十年分の反射が、一つの映像——「目を閉じずに死に向かう人間」——を検知した瞬間に、ブレーカーを落とした。理性と合理性が一時的にシャットダウンし、純粋な動体性能だけが残る。


 二歩で距離を詰め、三歩目で少女の前に滑り込んだ。右手を前方に翳す。指先に走る感覚。馴染み深く、同時に危険な感覚。魔力の回路が手首の内側で起動しかけ——


 止めた。


 ここで使えば何が起きるか、理論上はわかっている。この世界の法則と合わない力を行使する代償を、転生した直後に一度だけ試して確認済みだ。あれは、二度とやりたくない。


 代わりに蓮は身体を捻り、飛来する鬼火を右腕の外側で弾いた。制服の袖が焦げる。皮膚が灼ける痛みが走ったが、前世に比べれば蚊に刺された程度だ。鬼火の一つが弾かれて壁にぶつかり、青白い火花を散らして消えた。残り六つ。


 少女が蓮を見上げた。琥珀色の瞳が、驚愕で大きく見開かれている。


「……だれ」


 かすれた声。蓮は振り向かなかった。目の前の六つの鬼火から視線を外すわけにはいかない。


「黙ってろ」


 冷たく言ったつもりだった。実際には、声が固かった。前世から引き継いだ、戦場の声。平時に出す声ではない。


 六つの鬼火が滞空したまま、蓮を観察するように回転している。下位の精霊種の行動パターンは単純だ。最も近い生体に反応し、群がり、霊的エネルギーを吸い尽くす。蓮が割り込んだ以上、ターゲットが少女から蓮に切り替わるのは時間の問題——


 異変が起きたのは、その思考の最中だった。


 鬼火たちの動きが変わった。「切り替わる」のではなく——「狂った」。


 六つの火球が一斉に蓮に殺到した。回転しながら、螺旋を描きながら、軌道計算を放棄したかのような不規則な動きで。少女のことは完全に無視している。まるで蓮の存在が、この空間にあること自体が許されないとでもいうように。


 速い。下位種の鬼火にしては、あり得ない加速だった。


 蓮は左腕で少女を背後に庇い、右腕で最も近い鬼火を払った。が、二つ目が左肩をかすめ、三つ目が右脇腹に接触した。制服が焼ける。煙が上がる。皮膚の下を何かが舐めるような、不快な熱さ。


 四つ目を回避。五つ目を弾く。六つ目が——蓮の右手首に絡みついた。


 鬼火が、離れない。


 叩いても弾いても、また戻ってくる。しかも速度が上がっている。蓮が動くたびに、鬼火たちの軌道がより密になり、より攻撃的になっていく。最初に消した一つすら——壁に散った火花が再び凝集して、七つ目の光点として復活していた。


 周囲の音が、一段遠くなった。


 おかしい。


 これは下位種の行動じゃない。こいつらは俺を「攻撃している」のではなく——「喰いに来ている」。


 蓮の体から滲み出る魔力の気配。この世界の法則とは位相の異なる、異質な力の残響。転生時に持ち込んでしまった前世の回路が常に微量の魔力を漏洩させていることは知っていた。普段は無視できるレベルの漏出だ。だがこの鬼火たちには——それが、堪らない餌の臭いとして届いている。


 蓮は初めて、この体になって——


 冷たい汗を、流した。


 背後で、少女が身を起こす気配がした。蓮は振り向かない。振り向いている余裕がない。七つの光点が軌道を絞り、蓮を中心とした螺旋の檻を形成し始めている。


 指先が痺れる。回路が反応している。使えば終わる。この程度の下位種、魔法の一工程で消し飛ばせる。


 代償を払えるか。


 払えるかではない。払っていいのかだ。この体で、この世界で、あの力を振るう意味が——


 鬼火の一つが蓮の首筋に触れ、肌が弾けるように灼けた。


 視界の隅で、白い髪の少女が立ち上がっていた。膝から血を流しながら、壁に手をついて。その琥珀色の瞳が、蓮の背中を見ていた。


 ——目を閉じていない。


 この少女もまた、目を閉じない人間だった。

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