舐めてたんだね
夜の居酒屋は、仕事終わりの匂いがする。
油と煙草と、少しだけ焦げた醤油の匂い。
俺はジョッキを握ったまま、向かいに座る彼女を見ている。
あの頃、彼女はよく言っていた。
「家の中だけで終わる人生なんて嫌だ」と。
誰かの帰りを待って、誰かのために皿を洗って、それで一日が終わるなんて耐えられないと。
俺は、ふうん、としか言わなかった。
正直、どっちでもよかった。
俺は外で働き、家に金を入れ、帰れば飯がある。
それで回っていた。
別に誰かを閉じ込めているつもりもなかった。
ただ、そういう形だっただけだ。
彼女は外に出た。
資格を取り、面接を受け、やっとの思いで職を得た。
誇らしげだった。
世界が開けたみたいな顔をしていた。
でも数年経って、口にする言葉が変わった。
残業がきつい。上司が配慮してくれない。体力的に厳しい。
もっと理解が必要だ。もっと柔軟であるべきだ。
俺は、喉の奥に溜まった言葉を飲み込めなくなる。
あれだけ外に出たいと言っていたのは誰だったのか。
閉じ込められていると言っていたのは誰だったのか。
外は楽園じゃない。
俺は最初から知っていた。
理不尽も、重圧も、成果でしか測られない世界も。
だからこそ、家の中の役割を軽いとは思っていなかった。
お前は、外の世界を敵だと思っていた。
でも本当は、ただ知らなかっただけじゃないのか。
見えない場所で何十年も続いてきた負担を。
数字に追われる感覚を。
失敗すれば居場所がなくなる恐怖を。
想像できなかっただけじゃないのか。
世界は、それなりに回っていた。
完璧じゃない。
でも、破綻もしていなかった。
そこへ理想を持ち込んで、構造を揺らして、今度は「きつい」と言う。
俺には、それがどうしても理解できない。
楽だったとは言わない。
家にいることだって大変だろう。
でも、少なくとも命を削る競争には立たなくて済んだ。
それを拒んで、同じ土俵に立ちたいと言ったのは自分だろう。
俺は彼女を責めたいわけじゃない。
ただ、釈然としないだけだ。
選んだなら、腹を括るしかない世界もある。
甘さも厳しさも、最初からセットだ。
彼女は黙っている。
ジョッキの泡がゆっくり消えていく。
俺たちの間にも、消えかけた何かがある気がする。
俺はため息をつく。
結局、誰も楽はしていないのかもしれない。
ただ、知らなかった重さを、今さら持たされただけだ。
それでも俺は思ってしまう。
見えなかった仕事を、最初から同じ重さだと想像できていたら、
こんな拗れ方は、しなかったんじゃないかと。




