池の中
俺は、絶望の最中にいた。
つい先ほど、俺は三年付き合っていた彼女に振られた。というのも、彼女と浮気相手の密会の写真を証拠として突きつけたところ、うだつが上がらない俺が悪いと手酷く罵られて別れることになったのだ。
加えて、最近は仕事も上手くいっていない。失敗ばかりを繰り返して、取引先に叱られることも間々あった。
偶々通りかかった給湯室から漏れ聞こえる話から、部下にも馬鹿にされていることを知った。俺が聞いていないと思って言いたい放題の会話は、怒りよりも悲しみの方が強く感じた。
実家は離れた田舎にあり、両親とは偶に通話をするくらいだ。近くの友人は皆忙しく、中々飲みにも行けない。
愚痴を零す相手がいなくて、せめて吐き出すくらいはしたいとSNSに垂れ流してみたが、反応は皆無で虚しさだけが残った。
日々のストレスは蓄積される一方で、そろそろ心が折れそうになっていた。人生が嫌になるというのはこういうことかと、身を以て体感している。
そんな時、ふと何年か前に聞いた噂話を思い出した。
友人と飲みに行った際に話してくれたのだが、彼は仕事の取引先から雑談程度に聞いたものだという。酒の肴に丁度良い、と嬉々として耳を傾けたのを覚えている。
俺の住むアパートから二駅先に、小さな公園がある。遊具の少ないその公園の一角は草木が生い茂っており、奥に進んでいくと小さい池があるという。
池といっても水深は浅く、子どもが入っても膝より上にはいかない程度だ。とはいえ危ないということで、普段は立入禁止となっている。
ならば埋めてしまえば良いという声もあったが、そうもいかない。その池を埋め立てようとすると不可解な事故が相次いで、死人こそ出ないものの怪我人が多発するのだそうだ。
そしてそんな池には、一つの噂があった。
丑三つ時、池を覗き込めば当然自分の顔が映る。しかし、そこに映った自分はこちらとは違う動きをするというのだ。
池に映った向こう側はこことは違う世界――所謂、パラレルワールドになっている。
池を通ることで、向こうの世界の自分と入れ替わる形で別の世界に行けるという。
それを聞いた時は、ただの戯れ言だと思った。その辺に転がっている、根も葉もない都市伝説だと。
正直、今でもそう思っている節がある。しかしながら現状に嫌気が差している今、その戯れ言に縋りたい気持ちも多分にあった。
その日の夜、俺は件の公園に足を向けた。
公園の前は何度か通ったことがあるが、入ってみたことはない。だが、昼に見た時と今とでは、雰囲気がまるで違う。
昼間は子ども達の笑い声が飛び交う公園が、暗くて誰もいないというだけで、こんなにも不気味に目に映る。申し訳程度に立っている外灯が遊具を暗闇に浮かび上がらせ、子ども達の姿もないというのに、ひとりでに動き出しそうだ。
恐ろしい考えを振り解くように首を振った俺は、池があるという方を見遣った。夜の黒の中に繁った草木が、更に夜を深くしている。
あそこに入っていくのだと思うと、気が滅入りそうだ。しかし、精神的ダメージを抱えたまま真夜中にここまで来たのだ。肩透かしな結果になるだろうが、確認をしないと気が済まない。
俺は意を決して、立入禁止の看板を横目に張ってあるロープを乗り越えて、草むらに足を踏み入れた。
丈の長い雑草が足に纏わりついて、気持ちが悪い。黒に染まった足許は見えず、まるで沼の中を歩いているような錯覚を起こす。
スマートフォンで先を照らすと、海のように風にさざめく草が広がっていた。
程なくして、ぽっかりと空いた空間に出た。差し込む光に導かれるように顔を上げると、そこだけ不自然に枝葉が避けるみたいに伸びておらず、満月がよく見えた。丁度、雲が流れて月が顔を出したらしい。
視線を下げた先には、月光に照らされた水面があった。ぐるりと円を描くように、直径十メートルはあるだろうか。
淡い光を返すその様は幻想的で、それを目の当たりにすると噂も本当ではないかと思えてくる。
俺はスマートフォンをポケットに仕舞って、そっと池の縁に近づいた。膝をつき、水面を覗き込む。
僅かに吹く風が水面を揺らして、歪んだ自分の顔が映る。数分間そうしてみたが、特に変化があるわけでもなかった。
やはり噂は噂でしかないのかと身を引こうとしたその時、池に映った自分の顔が笑ったような気がした。
俺は笑っていないのでそんなはずはないと、確認するつもりで水面に顔を近づける。
その瞬間、池の中から音を立てて二本の腕が突き出した。そして、それは俺の腕を掴んだ。
俺は慌てて振り解こうとしたが、腕の力は強くて指が肌に食い込んでいるのではないかと思うほどに痛かった。
そしてそのまま、俺は落ちるようにして池の中に引き摺り込まれた。
息の苦しさにもがいて、伸ばした指先が水を掻く。ここは浅いはずなのに、身体は沈む一方で一向に底につかない。
まさかこのまま死ぬのかと怖くなった次の瞬間、はっと気がつくと俺は草の上に寝ていた。背の高い草が、顔のすぐ横から夜空に向かって伸びているのが見える。
起き上がると、すぐ傍には何事もなかったかのように静かな池が横たわっている。自分の身体を見下ろすが、服も特に濡れていない。
なんだ夢だったのかと、ほっと胸を撫で下ろす。
しかし、いつの間に眠ってしまったのだろう。この時間はいつも既にベッドに入っている頃合だから、疲れも手伝って寝落ちてしまったのかもしれない。
それにしても、厭に生々しい夢だった。思い返すだけでも恐ろしくて、もう池を覗き込む気にはなれず、俺は帰宅することにした。
大通りに出てタクシーを捕まえる。運転手にアパートの住所を伝えると、何故か怪訝な表情をされた。
不躾な態度に腹が立ったが、何も言われなかったのでそのままアパートに向かってもらう。
しかし、タクシーが辿り着いた先は――。
「……何だ……これ…………?」
アパートがあったはずのその場所は、更地になっていた。
四角い土地の周囲にロープが張られて、立入禁止の看板が立つ。その様が、つい先ほどまでいた池の手前にあったものと被る。
数時間前まで、確かにここにはアパートがあった。隣家も周囲の景色も、見慣れたものだから間違いない。
俺はそこの一室から出かけてきたのだ。そんな短い間にアパートが丸々一棟なくなるはずがないのだ。
けれど、目の前の光景がどうしようもない事実を突きつける。
「お客さん」
声をかけられて、俺はびくりと肩を跳ねさせた。タクシーに乗っていたことも忘れて、信じられない光景に釘づけになっていた。
「こんな夜中に、火事現場の跡地に何の用なんだい?」
運転席から振り返った運転手の顔が、酷く怖いものに見えた。そんなはずはないのだろうが、俺の目にはこの世のものではないように見えたのだ。
背筋を凍らせた俺は、タクシーから飛び下りて走った。
「お客さん! 料金払って!」
後から追いかけてくる声が自分を捕まえて拷問にでもかけるような気がして、俺は我武者羅に逃げるしかなかった。
*
あれから調べたところによると、俺の住んでいたアパートは数ヶ月前に火事を起こしたという。放火ではないかという話だが、犯人はまだ捕まっていないらしい。
建物が古い上に炎の勢いも強かった為、アパートは全焼。幸い隣家に火が燃え移ることはなかったが、アパート自体はもう使い物にならないということで取り壊された。
更に、同時期に勤務していた会社が倒産。俺は一度に職も住処も失くしたらしい。
田舎の両親は一年以上も前に交通事故で他界したようで、実家も売り払ったということで帰る場所がない。スマートフォンの脇見運転をしていたトラックに二人が乗っていた乗用車が激突され、打ち所が悪かった結果だという。
銀行の口座を確認したが、残高はほぼないに等しかった。そもそも貯金を碌にしていなかったし、保険にも入っていなかった。
俺は、全てを失った。
あの噂は本当で、俺はこの世界の俺と入れ替わったのだ。
こんなことなら、元の世界の方がずっとましだった。
あの日から毎日池に通ってみているが、他の世界に通じる気配は微塵もない。
未だに腕に残る赤い手形を摩りながら覗き込む黒い水面には、憔悴し切った自分の顔と嫌になるほど綺麗な月だけを映していた。




