第3話:幽霊ハッカーの挑戦
スパチャを送りたい――その一念は、夜桜蓮という存在をこの世に縛り付ける、重く、そして唯一の錨だった。彼は気づいていた。自分の感情が昂ぶった時にだけ、現実に干渉する力が生まれることを。ならば、この力を極限まで高め、制御することができれば。物理的に触れることなく、電子機器という精密な機械の内部に、僕の意思を送り込めるかもしれない。
蓮の無謀な挑戦、名付けて「幽霊ハッカー・プロジェクト」は、そうして幕を開けた。
まずはスマホを操作できるようになることだ。深夜の家電量販店。全ての展示品がスリープモードに入り、静まり返った店内で、蓮は真っ暗なスマートフォンの画面の前に浮いていた。音はない。光もない。頼れるのは、自身の記憶の中にだけ存在する、虹乃そらの歌声と笑顔だけだった。
「起動できるか...」
蓮は一体のスマホに意識を集中させた。脳内で、そらの最も好きな歌を再生する。感謝の念を、ひたすら純粋に増幅させていく。「そらちゃん、いつもありがとう」その静かな想いが、蓮の霊体を淡く光らせた。すると、真っ暗だったターゲットのスマホ画面が一瞬、チカッと点灯したように見えた。
「おお……!」
手応えはある。だが、そこからが地獄だった。ロック画面を解除しようと、スワイプ操作に相当する信号を念で送ろうとする。しかし、少しでも「好きだ!」「可愛い!」といった興奮の念が混じると、エネルギーは暴走した。近くにあったスマートウォッチが勝手に脈拍の計測を始めようと動き出し、ワイヤレスイヤホンの充電ケースのランプが意味もなく点滅する。それは、蓮の心の乱れがそのまま周囲に漏れ出しているかのようだった。
「違う、違うんだ……!もっと、澄んだ想いでないと……」
爆発的な興奮は、瞬間的なパワーは生むが、精密操作には向かない。必要なのは、推しへの感謝を込めた、静かで、しかし揺るぎない、澄み切った想いの奔流。それをエネルギーに変換し、細く、鋭く、対象に送り込むこと。蓮は数週間かけて、ひたすらその一点に集中する特訓を続けた。
そして、決行の夜が来た。蓮は幾多の壁をすり抜け、厳重に管理された警察署の証拠品保管室へと侵入した。棚の一角に、自分の名前が記された箱を見つける。その中には、見慣れたスマートフォンが、完全に電源が落ちた状態で静かに眠っていた。
「待たせたな、相棒」
蓮は深呼吸をし、スマホから少し離れた位置に浮遊した。全神経を研ぎ澄ます。今までの特訓の成果を、ここで全て発揮するんだ。
まず、電源を入れる。バッテリー回路に直接、微弱な電流を流すイメージで、澄んだ念を送る。一秒、二秒の沈黙の後、画面にぼんやりと、見慣れたロック画面が灯った。
次は難関、パスコードの解除だ。四桁の数字。そらの誕生日。一桁目。心の雑念を払い、ただ「ありがとう」だけを念じる。蓮の想いが電子信号となり、内部のチップに働きかける。ピ、と軽い電子音が、静寂の中で響いたように感じた。二桁目。額に汗が滲む(ような気がする)。呼吸を整え、再び念を送る。ピ。三桁目、四桁目と、蓮は奇跡的な集中力で入力を成功させた。カチリ、とロックが外れる音がして、ホーム画面が表示される。
「やった……やったぞ!」
歓喜に打ち震える蓮。だが、その安堵が、致命的な隙を生んだ。成功したという喜び。そのわずかな感情の揺らぎが、これまで糸のように細く保っていた念の奔流を、ほんの少しだけ太くしてしまったのだ。画面の隅に表示されたバッテリー残量が、いきなり半分以下に減っている。霊力による強制的な起動と操作は、蓮が思う以上にバッテリーを消耗させていた。
「まずい……!」
途端に、蓮の心に焦りが生まれた。せっかくここまで来たのに、ここで終わるわけにはいかない。その焦りが、澄み切っていたはずの念を決定的に濁らせ、霊力のコントロールをさらに乱し始める。
急いで動画アプリに念を飛ばす。指がもつれるように、念が空回りする。虹乃そらのチャンネルページを開くと、幸運にも、彼女がゲリラ的に歌枠配信を始めたところだった。画面の中で、そらがマイクに向かって微笑んでいる。
間に合う!急げ、急げ、急げ!スパチャのボタンに念を合わせる。金額選択画面。迷わず一万円を選択する。そして、最後のメッセージ入力欄に、ありったけの想いを乗せようとした、その瞬間だった。
「届けえええええ!」
焦りと喜びと感謝が入り混じった、制御不能の巨大な感情エネルギーが、蓮の霊体から迸った。それは過電流となり、スマートフォンの脆弱な電子回路を駆け巡った。
バチッ!
耳障りな破裂音と共に、スマホの画面は真っ暗に落ちた。基盤の焼ける微かな匂いが、蓮の鼻先をかすめた(気がした)。もう二度と、このスマホが起動することはないだろう。
「あ……あ……」
目の前が、真っ暗になった。証拠品保管室の冷たい静寂の中、蓮の絶望のため息だけが、虚しく響いた。自力で想いを届けるという壮大な挑戦は、あと一歩のところで、完璧な失敗に終わった。