第2話:果たされなかった約束
幽霊になった、と自覚するまでに、さして時間はかからなかった。何しろ、自分の死体という決定的な証拠がそこにある。警察が来て、救急隊が来て、大家が来て、そして遠縁の親戚が来て、蓮だったものは手際よく処理されていった。その間、蓮はただ、部屋の隅で体育座りをするように宙に浮かび、その一部始終を眺めていることしかできなかった。誰にも、その姿は見えない。声も、届かない。
孤独だった。生前も孤独だったが、死んでからの孤独は質が違った。それはまるで、分厚いガラスで世界から隔てられたような、絶対的な断絶感だった。壁も、ドアも、いとも簡単に通り抜けられるのに、世界との間には決して越えられない透明な壁が存在した。
そんな蓮の唯一の慰めは、やはり虹乃そらだった。自分の部屋のパソコンは証拠品として警察に押収されてしまったが、そらの配信は世界中に溢れていた。街角の大型ビジョン、電車内の広告モニター、カフェで他人が見ているスマートフォンの画面。蓮はそれらを覗き込み、彼女の活動を追い続けた。幽霊になって良かったことなど一つもないが、どこへでも自由に行けることだけは、推し活において多少のメリットと言えたかもしれない。
ある夜、蓮はとある大学のキャンパスにいた。夜間学部の講義を終えた女子学生が、イヤホンを耳に、ベンチでスマホを眺めている。画面に映るのは、今日のそらの雑談配信だった。蓮はそっと彼女の隣に浮遊し、画面を覗き込む。
『みんな、いつも応援ありがとうね。スパチャもコメントも、ぜーんぶそらの宝物だよ』
そらは屈託なく笑う。コメント欄が「そらちゃんこそ宝物!」「愛してる!」といった言葉で埋め尽くされる。その中に、色とりどりのスーパーチャットが流れていく。緑、青、黄色、そして、ひときわ目を引く、鮮やかな赤。
その赤い奔流を目にするたび、蓮の胸、いや、胸があったはずの場所が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。赤スパ。それは、ファンが送れる最大の感謝と応援の形。一万円という、学生だった蓮には大金だったそれを、いつか彼女に送るのが夢だった。
そして、思い出す。
《レン:初スパチャで新曲の感想を書きます!》死ぬ直前に打ち込んだ、果たされなかった約束。あの時、僕は確かに彼女に誓ったのだ。新曲は最高だった。そして、君のおかげで僕は今まで生きていられたんだ、と。その感謝を、最大の形で伝えると。
「……約束、したのにな」
誰にも聞こえない呟きが、虚空に溶ける。感謝を伝えたい。闘病中の暗闇を照らしてくれた、一筋の光だった彼女に。存在を証明したい。誰にも看取られず、ひっそりと死んでいった僕というファンが、確かにここにいたのだという証を、彼女の記憶に刻みたい。そして、約束を果たしたい。男に二言はない、なんて格好つけたことを言うつもりはないが、推しとの約束は、何よりも重い。
「スパチャ、したい……」
その想いは、もはや単なる願望ではなかった。それは、夜桜蓮という幽霊をこの世に繋ぎ止める、唯一にして絶対の存在理由となっていた。
「どうしても、そらちゃんに……僕の想いを届けたいんだ……!」
その強い感情が、蓮の霊体から迸った瞬間だった。隣の女子学生が飲んでいたペットボトルが、カタン、と音を立ててベンチの上をわずかに滑った。「え、なに?」学生は訝しげにペットボトルを見つめたが、気のせいかと首を傾げ、再びスマホに視線を戻した。
蓮は、自分の半透明な手を見つめた。今、確かに、僕の想いが、現実に干渉した。ポルターガイスト。感情が高ぶると、物を少しだけ動かせる。それが、幽霊としての蓮の唯一の能力だった。不可能かもしれない。無謀かもしれない。だが、蓮の心に、一つの計画が芽生え始めていた。