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第25話 心の洗浄

今日は何日で、何曜日なのだろうか。


手元にあったスマホを見るも、いつの間にか電源切れになっていた。


カーテンはあの日から一度も開けていない。

部屋の空気が澱んでいるのは分かるが、窓を開ける事すら面倒だ。

散らかった室内にはコンビニ弁当の空の容器が山積みになっている。


もう、仕事を辞めて何日経ったのかも覚えていない。



退職の原因は、度重なるストレスだった。


その職場では私は若くして役職をもらい、必死になって働いていた。

でも、ある女が入社した事で私の人生が大きく狂い始めた。


その女は自分よりも若く、外見に相当気を使っている事が一目で分かった。

彼女はブランド品を身につけており、髪はふわふわとカールがかかっている。

メイクも濃すぎず清楚で、まるでテレビのアナウンサーの様だった。


可愛いなあ、と素直に思ったのだが、

彼女の方はと言うと、私を上から下まで舐める様に見た後、ふっと笑った。


「よろしくお願いしまーす。」

と可愛らしい声で笑いながら彼女は言った。


でも瞬時に「今私は、この人に見下された」と感じた。


まあ、会社なので色々な人がいる。

初対面での出来事はあまり気にせず、出来る限り普通の態度で接した。


でも、彼女はあからさまに男性社員に媚びていた。

「これ、教えて下さい。」「すみません、これどうやればいいでしょうか。」

女性社員が近くにいても、彼女は必ず男性社員に聞きに行く。



自分が教える手間が省けるので、それはそれで楽だなと思っていたのだが、

他の女性社員は違った。


彼女の見た目はとても可愛らしいので、男性社員も頼られると嬉しいらしい。

でも、私は上司として彼女を何度も注意しなくてはいけなかった。


彼女が来てからは毎日の様に相談が来た。


女性社員たちの言う事は聞かず、

男性社員には彼女達にいじめられていると相談しているらしい。

自分の発注ミス、入力ミス。

全て女性社員から、わざと嘘の数字を教えられやったと言いミスを認めない。


面談室に呼び出して、私は彼女と何回も話をした。


責める訳でもなく、淡々と事実と今後の再発防止策について話をするも、

彼女は髪の毛をいじりながら興味なさそうに返事をする。


それは何度面談しても同じで、彼女は何も聞いていない。

注意した事は必ずまたミスを起こすのだ。


半ば諦めの形で、女性社員は彼女と関わるのを避けた。


私は何度面談しても改善されない状況に苛立っていたし、

女性社員からは毎日の様に愚痴と言う名の相談を受け、

逆に男性社員からは他の女性陣から彼女を守ってやってくれ、とか検討違いの相談に疲弊していた。



だがある日女性社員が、彼女に向かって

「私のせいじゃない!自分のミスを人のせいにするな!!!」と社内で怒鳴った事があった。

その大声に、デスクにいた私たち全員が固まった。


だが、彼女は目に大きな涙を浮かべ、ひたすら怒鳴った女性社員に謝った。

「私のせいで…、先輩方にいつも迷惑をかけてしまいすみません。」


女性社員全員、その「かわいそうな私」の演技をしているその女を、冷ややかな目で見ていた。


でも、それを見た男性社員達は彼女を庇った。

怒鳴った女性社員に、「やり過ぎだ」と言った人を皮切りに、

「泣かすなんて酷い」とか「いじめて楽しいのか」とか、次々と声を上げてきた。


私はこの場を納める為、直ぐに別室に彼女を呼んだ。


部屋に入って直ぐ、扉が閉じた瞬間に彼女は舌打ちをして言った。

「あー。うっざー。」

驚いて彼女を見ると、涙はもう出ていなかった。

可愛らしい彼女の顔は、苦虫を踏み潰したかの様に歪んでいた。


「あのね、自分のミスだったら人のせいにしちゃいけないよ。」

私はため息をつきながらそう言うと、彼女はそれにも舌打ちをする。


「先輩、人間って自分よりも可愛い子が入ると、やっぱ嫉妬しちゃいますよね。」


笑いながらそう話す彼女に、もはや怒りも起きない。


「あなたの性格は、女性社員全員が分かっています。

男性社員だけを味方につけて、仕事は上手くいきますか?いきませんよね。今日みたいに。」


私は冷静に彼女に話をするも、彼女は全く真面目に聞かない。


「あれ、先輩も焦ってます?だって彼氏もいないんでしょ、先輩全然モテてないですよー。」


仕事の話をしているのに、彼女と話をするといつも男の話になる。

その思考は理解不明だが、放っておくと社内が大変な事になってしまう。


「今、彼氏の話はしてません。仕事の話をしています。」


「やだ〜。年上の僻み怖〜い。やっぱ若い女子ってターゲットにされますよねえ。」


彼女との会話は成り立たない。



その後も彼女はミスを多発し、責任は全て私に覆い被さった。

何故なら彼女は部下で、私は上司だから。


女性社員、男性社員、彼女との板挟みがずっと続き疲れる。

そんな日が何日も、何週間も、何ヶ月も続き、ついに私が壊れた。


私は会社を休む事が多くなり、もう耐えきれずに会社を辞めた。



それからは毎日、ほぼベッドの上で生活をしている。

何十時間も寝て、ようやく起きてご飯を食べる。そして食べ終わったらまた寝る。


シャワーを浴びるのも億劫で、もう何日も入っていない。

食べ物だけは買いに行かねばならないので、1週間に1度コンビニに行って食事を買う。


そのゴミは床中に捨ててあって、酷い匂いがする。でも片付ける気も起きない。

自分からはすっぱい匂いがするが、それすらもどうでもよく着替えも出来ない。


あの女がいたから私の人生が狂った。


ずっと、ずっと、ずっとそう思ってる。



目を覚まして何か食べようと思ったが、もう家に食べるものがなかった。

重くだるい体をやっとの事で動かして、財布を持ちコンビニへ出かけた。


時間は分からないが、人通りがやけに少ないので深夜なのだろう。


月明かりが綺麗で、久しぶりに外の空気を吸った。

立ち止まり、目を瞑って、深呼吸をする。



——————————


目を開けた時、ふと今までと違った匂いがした。


あれと思い足を踏み出すと、今まで鉛がついていた様に重かった足が妙に軽い。

肩も手も、何だか凄く体が軽かった。

いつもどれだけ頑張っても、

体は重力が自分に集中している様に重く動けなかったのに、急にスムーズに動き出す。


そのまま、ちょっと走ってみた。


やっぱり軽い。先ほどまでのだるさは感じない。

それが楽しくなってきて、そのままどんどん走った。


自分の事だけに集中して、全然周りを気にしていなかったが、

そこは至る所に植物が植えてあり森の中に町がある様な、自然豊かで素敵な場所だった。


そのまま走っていると、少し先にカフェが見えた。


ここは夢の中なのだろうか。

でも、この体の軽さ、気持ちの高揚は止められなかった。


カフェに入り、アイスラテを注文する。

会社を辞めてから、誰とも目を合わせる事もしなかったが、

何故かここでは目を合わせ笑顔で注文が出来た。


料金を支払うと、店員さんが声をかけてくれた。

「この町では見ない顔ですね。どこからかいらしたんですか?」

私は、自分の町の名前を伝えるも、聞いた事ないですと言われた。


「でも、ラッキーですよ。ここのアイスラテとても美味しいですから。」

店員さんは満面の笑みでラテを渡してくれた。

私は笑顔でお礼を言って外に出る。


近くのベンチに座ってアイスラテを飲んでみると、

本当に今まで飲んだ事のないくらい美味しかった。


暫くの間、雲ひとつない青空を眺めアイスラテを飲んだ。

そう言えば先ほどまで深夜の様だったが、何故今は青空なんだろう。

でも、そんな事どうでも良い。だってここにいると何だか調子が良い。


「私、生きててもいいんだ。」


ずっと忘れていたこの感情。それが不意に現れた。



次に、目に入ったお店に足を踏み入れた。

そこには見た事もないお菓子だったり、服だったり、食器だったり沢山の物が売っていた。


私は財布の中を確認したが、残り数千円しかなかったので、

よく分からないお菓子を1つだけ買った。


買う時に店員さんが、「あと1分で、雨になりますよ。どうぞ。」と言って傘をくれた。


不思議に思っていると、外を出て数歩したら本当に雨が降ってきた。

しかもポツポツ雫が垂れる様な雨ではなくて、バケツをひっくり返した様な土砂降りだ。


傘を差して、急いで他のお店を探した。

でも突然突風が吹いて、貰った傘がどこかへ飛ばされてしまった。


私は慌てて軒下に向かおうとしたが、既に全身びしょ濡れになっていた。

傘が漫画みたいに飛んでいった事も面白いし、こんなに雨が降るのも面白い。


雨によって私が自動洗浄されている様で、不思議と笑ってしまった。


「ははは!気持ちー!!!」


私はその場で天を仰ぎながら雨を受け続けた。


髪の毛をかきあげると、脂ぎった部分に強烈な雨が降り注ぎ流されていく。

体は軽いし、汚い自分が雨によって流れ落ちていく。


こんなにも気持ちが良い事があるだろうか。


私は幸福だった。

久しぶりにそんな気持ちが私の中に芽生えた。

先ほど買ったお菓子を、濡れるのを気にせず食べてみる。


パッケージでは分からなかったけど、そのお菓子はグミだった。

そのまま2個3個と口に入れる。爽やかで、甘くて。でもすっぱくて美味しい。


雨に濡れながら笑って、グミを食べる。

側から見たら相当不思議な人に見えるだろう。

でも、そんな事気にならなかった。


今までとは違う。


私は今楽しいと思える。幸せだと思える。美味しいと思える、気持ち良いと思える。


土砂降りの中私は笑いながらぐるぐると回った。



「すみません。AUPDです。」

急に男性の声が聞こえて私はピタリと止まった。


近くに2人の男性が立っている。

土砂降りなのに、その人達はまるで雨が避けているかの様に濡れていなかった。


「私がアマギリ、こちらがセイガさんです。あなたは今別の世界線に来ています。」


私は笑ったまま答える。

「だったら、何?私ここにいたいんだー。だって体がこんなにも軽い。」

私はその場でジャンプする。

子供の様に地面の水溜りの上でバシャバシャと飛び跳ねた。


「ここにはいられません。限りなく近い世界線に移送します。」

アマギリさんは硬い声でそう言った。


「嫌だよ、またあの世界に戻るのは。私はここにいる。」

そう言って走り出そうとする私を、セイガさんが腕を掴んで止めた。


「ごめんな。でも移送しなきゃいけねえんだ。」

掴まれた腕を振り払おうと力を出しても、全然びくともしなかった。


「完全に元の世界線には戻せません。限りなく近い世界線に移送します。」

アマギリさんは1歩づつ近寄ってきて言う。

「99.999%一緒ですが、0.0001%違う世界線です。」


私には全然言ってる意味も分からないが、兎に角ここにいたかった。


「だって、ここはこんなにも楽しい。体が軽いんです。こんな風に感じるのが久しぶりなの。」

私は泣きながら笑った。


この人達は私のあの現実を知らないだろう。

でも、どうしてもあそこには戻りたくない。


セイガさんが腕を掴む力を弱めた。

「ここは、重力の作用が軽い世界線なんだ。だから体が軽く感じる。それだけだ。」


それから私は泣いて、叫んで、喚いた。

長い間泣き叫んだので、声が枯れていた。

どれだけここにいたいかを必死に必死に叫んだ。


でも、彼らはここに留まる事を許してはくれなかった。


「もう移送しますね。」

アマギリさんが号泣する私にそう言った。

私はまだ納得できずに泣き叫んでいたけれど、セイガさんも「こればっかりは、すまねえ。」と言った。



次に感じたのは、異様な体の重さだった。


先ほどまで軽かったこの体は、手足にも肩にも頭の上にも、

何十キロのおもりを乗せられている様に、重く苦しい。


以前よりもずっと重く感じる。


私はそのまま家に戻った。

空腹だったがとてもコンビニまで歩く気力はなかった。


そのままベッドに倒れ込む。

もう、体が重すぎて一歩も動けない。

こんなにも体は思い物なのか。以前はコンビニ位は行けたのに。



目を閉じると、先ほどまでの「自由だった感覚」が鮮明に残っている。


軽い足取り、ジャンプした時の体の軽さ。

美味しいと思い、生きてて良いんだと思ったあの瞬間。


雨の中、幸福と感じたあの感情。


それに比べ、今はどうだ。


あの経験をしたからこそ。

してしまったからこそ、今が余計に地獄に感じる。


——————————


数日後、

水も食べ物も摂っていない私は、半ば死んでいるも同然だった。


暗く汚い部屋の中で、乾いた声で呟く。


「だったら、見なきゃよかった…。知らなきゃ良かったんだよ。」


今の私には、あの時の幸福感はもう思い出せなかった。

目を開けた瞼すら重く感じる。



私はそのまま眠りについた。


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