第22話 怒りの世界
今日も今日とて、忙しくて堪らない。
メンバーとの打ち合わせ、楽曲制作、タレントとのコミュニケーション。
ミュージックビデオ作成や配信の動画編集。
その全てを俺は1人で担っている。
20代はバンドを通して色々な楽曲を制作してきたが、
中々花は咲かず、半ば諦める形で解散となった。
その後は普通のサラリーマンとなり生計を立てていた。
バンド時代はあれだけ貧乏な生活だったのに、
就職してからはご飯も食べれて、電気も止まらない。
やっぱり諦めて良かったかな、とその時は思っていた。
だが、やはり自分の音楽を世に送り出したいと言う気持ちが強くなり、
休みの日はもっぱら楽曲作成に取り組んだ。
PCがあれば、プラグインでどんな音源も手に入る。
ドラムもギターもベースも、PC上で打ち込めるので実物は必要ない。
それから暫くして、とあるVtuberの人から楽曲の制作依頼が来た。
自分の曲を認めてくれている人がいる事が凄く嬉しかった。
その子は俺が作った曲を大層気に入ってくれたらしい。
ある日その子から、今後も俺と仕事をしたい、楽曲提供の契約がしたいと連絡があった。
俺は、これを機に会社を設立した。
Vtuber事務所として立ち上げた会社は、小規模ながらも今では3名所属タレントもいる。
また、バンド時代の友達も一緒に参加したいと言ってくれて、現在社員は2名だ。
ただ正直な所、儲けが出ておらず給与を渡す事は出来ないので、名前だけ借りている様な状態だ。
それでもそいつは楽曲の作成を手伝ってくれるし、経営の相談にも乗ってくれる。
いつか、会社が大きくなったら俺は精一杯こいつに恩返し出来ればと思う。
会社を立ち上げると言うのは、何もかも分からない事だらけだった。
税金はどうするのかとか、登記はどうするのか、どこに相談すればいいのか。
色んなセミナーや講義を受けて、ようやく設立したこの会社。
今現在勤めている会社は辞めず副業として行なっている為、
朝から夜まで会社、その後から自分の会社の業務開始だ。
深夜で作業が終わる事なんてほぼ無くて、早朝まで行い数時間寝て会社に行く。
ただ作業量が多すぎて、徹夜になる事も月の半分位の頻度である。
そんな生活をしている影響か、俺は半年間で6キロ痩せた。
でも、それでも良かった。
自分がやりたい事が、自分の会社で仕事として出来る。
バンド時代は諦めてしまった夢の続きが、今ようやく始まっているんだ。
会社の人たちは、痩せていつも眠たそうな俺を心配してくれるが、
見た目は貧相でも心の内は野心でいっぱいだ。
「はー眠すぎ、だるい。」
会社終わりに1人呟く。
本業の会社が終わり、家まで歩いていると引っ切り無しに携帯から通知音が鳴り響く。
タレントからの連絡は、毎日の様に届く。
歌のリテイクや配信内容の相談、メンタル的な相談事まで色々だ。
1人1人真摯に向き合いたいが、2日続きで徹夜をしている今の俺は、
心底疲れていて、兎に角直ぐにでも眠りたかった。
届いた内容の中身だけ確認し、返信する事なく携帯をしまう。
栄養ドリンクを日に何本も飲んで、何とか頑張ってはいるが今日はもう限界の様だ。
眠すぎて、足取りが重く、視界もふわふわと目の前が揺れている。
余分に使えるお金の余裕がないので、タクシーに乗るなんて贅沢な選択肢はない。
「あー、目がおかしーい。」
俺はそのふわふわした視界のまま、足を踏み出した。
その瞬間、パッと視界が一色に染まった。
赤い。全てが赤い。
建物も、地面も、空までもが真っ赤な世界だった。
世界が変わった一瞬の変化に、途端に目が覚めた。
「何だよここ。」
俺は周りを見るが、誰もいなかった。
疲れすぎていて幻覚でも見ているのだろうか。
それともこれは、夢なのだろうか。
不安に思いつつも、
その場で立っていも何も起こらなかったので、仕方なくその道を歩き始める。
暫くすると、前方から歩いてくる人が見えた。
瞬間、人がいる事に安堵感を覚える。
取り敢えず何か聞ければ、と思いその人に向かっていくが、近づくにつれ様子がおかしい。
顔が見えたその時、その人の表情に驚いた。
目は多く開いた状態で血走っていて、息が荒い。
拳は強く握られており、全身からもの凄い怒りを感じる。
声をかけようと開けていた口を瞬時に閉じ、早歩きで別の方向へ向かった。
あれに近づいてはいけない、と直感で思った。
怖い。先ほどの表情が頭の中で再生され、恐怖しか感じない。
あれが殺意と言うものなのだろうか。
漫画とかでよくある「殺気」を感じるなんて、普通に生活していたら分からないだろう。
だが、先ほどの人からはソレを感じた。
本当にそんな気配と言う物は存在するのだ。
冷や汗をかきながら俺は道を進んでいくと、
およそ100メートル程前から、4名の人が俺に向かってきた。
その人たちの顔を見てまたゾッとする。
先ほどの人と同じく、皆目が血走っていて怒っている。
その人たちは全員同じ様な表情で、俺に向かって何か叫んでいた。
何と言っているのか、言語すらも分からないが確実に怒って喚いている。
俺は直ぐに逃げようとしたが、道が分からない。
取り敢えず自分が来た道へと戻ろうとしたが、
その人たちは物凄い速度で走ってきて、俺を捕まえた。
叫び声と共に、ある男性がナイフの様な鋭利な物を取り出した。
「やめろって!おい!!!」
残った3人が俺の手と足を地面に押さえつける。
必死に制止を促しても、相手に通じていない様で無視される。
「ちょっと!離せって!!!」
大声で叫ぶが、相手ももっと大きな声で被せてくる。
日本語でもない、地球上のどこかの言語でもない。
言葉と言うより耳鳴りの時のキーンと言う様な、高音の音を発している。
そのまま男性は俺にナイフを突き刺した。
足の辺りから強烈な痛みを感じる。
目線をそこにやると、自分の太ももにナイフが突き刺さっていた。
大きな血管を損傷したのだろうか、血が溢れ出し地面を赤く染めていく。
あまりの激痛に、声が出せなかった。
男が、ナイフを遠慮なく抜き出す。
その瞬間血がぶわっと溢れて生温な感触がした。
その男は怒った表情で俺を見つめている。
そして俺の胸目掛けてナイフを振りかぶった。
「アマギリ、やれ!」
急に声がしたと思ったら、俺以外の人の動きが止まった。
何かがこちらに飛んできた。だが姿は見えない。
でもその瞬間から時間が停止したみたいにピタリと止まっている。
「おい、助けるからな!」
黒髪の男性が、俺の体を起こそうと引っ張り上げた。
もう1人の短髪の男性も、その人と一緒に必死に体を起こそうとしている。
もしかして俺は助かるのか、と安堵しかけた瞬間、短髪の男性が声を荒げた。
「ダメだ、動きます!」
その声と同時に、俺を取り囲んでいた人たちはまた気が狂った様に俺達を睨み出す。
振り上げたナイフは、俺ではなくその黒髪の男性の腕に刺さった。
でもその男性はそんな事気にしないかの様に、俺を引っ張りあげようとしていた。
「逃げて下さい!」
俺はその人に咄嗟に叫んだ。
助けてくれようとした、この人達まで死んでしまう。
「大丈夫ですから。」
そう言って、黒髪の人に微笑んだ。
全くもって全然大丈夫じゃないのに、勝手に口からそんな言葉が出てきた。
その瞬間、ナイフを持った男が俺の胸を突き刺した。
最後に「あ、死ぬ。」と思った。
そして俺の心臓は止まった。
「アマギリ!緊急帰還!」
セイガさんが、大声で俺に叫ぶ。
転送装置を使い、AUPD第2課へ瞬時に戻った。
その後セイガさんは傷の手当てを受け、暫くしてデスクに戻ってきた。
あの世界線は、異常な相違偏移を起こしており、
人々は常に「怒りの構文」によって思想を支配されている。
言葉も何もかも、怒りを前提に成立している。
トラベラーは「未知の存在」だ。
その世界線の人たちにとっては、存在破壊の対象だった。
正直、こう言った特殊な感情だけがある世界線は、山ほどある。
トラベラーが助かる保証など、一切存在しない。
今回使った時間軸停止装置も、あの世界線では数秒程度だった。
その世界線自体の構築解析速度が早い場合、この様な結果になってしまう。
俺はセイガさんへ問いかける。
「世界に怒りしかないなんて、そんな世界線があっていいんでしょうか。」
セイガさんは、傷跡を押さえながら冷静に言った。
「お前にとっても俺にとってもあんな世界線は無い方が良いだろうな。
でもそれを裁けないし、無くす事は存在の殺人だ。
それでも俺たちは、ただ観測するしかないんだよ。」
AUPD第2課 報告番号:SUH-β99
対象者:トオノ ヒロタカ
バディ番号1103
・セイガ・カイ
・レン・アマギリ
事件名:世界線越境死亡事案(コード:KBAD0990)
結果:対象者死亡。転送不可。