第17話 消えた世界
研究員になってから、もう何年経っただろうか。
毎日毎日色んな数式を追い続けては、解を求める。
それが間違っていても、次は違う数式からアプローチをして解を導き出す。
比較的高次元の世界線で生きる私達にとっても、10次元の理論はまだ確立されている訳ではない。
仮説、仮説、仮説。
どれほど【仮の世界】に時間を費やしてきた事か。
10年に1回程度に行われるこの機関の研究職員募集は、
世界各国・近隣の世界線からも沢山の応募があったそうだ。
以前は違う場所で研究を続けてきたが、私はずっとここに入りたかった。
今までの研究所より、設備のレベルが段違いに素晴らしいのだ。
元よりこの分野については興味深く、いつかこの手で謎を解明したかった。
以前の研究施設での功績や、今までの論文実績が評価され、私はついにこの研究施設に入る事が出来だ。
どれほどの募集があっても、1名しか入る事が出来ない。
その狭き門を私は見事突破したのだ。
それからは長い間、昼夜も問わずに研究室に入り浸り、仮説と検証を続けていた。
高精度のシュミレーションシステムや、仮想世界線空間を作り出すプログラム等、
初めて研究所に入った瞬間から、胸の高揚が止まらなかった。
ここでなら、きっと私なりの解を導き出せる。そう思った。
私の歳はもう35になっていた。
それまで誰とも付き合わず、交友関係もない。
誰かと過ごす時間よりも、研究が1番の楽しみだった。
人によっては哀れに思うのかもしれない。でも、私にとって今の環境が最高の幸せだった。
ここの職員は、皆私と同じ様に研究の依存者ばかりだ。
納得いくまでとことん研究。身なり、容姿等気にもせず一心不乱に研究をしている。
私達の事を「研究ジャンキー」と世間では呼んでいるらしい。
まあ、至極真っ当な人から見たら、我々は気味の悪い集団なのかもしれない。
仮説を出した時点で、「これはもしや成功するのでは」と毎回思うのだ。
まあ、ほぼ99.999%その仮説は間違っているのだが、その高揚は次に繋がっていく。
0.0001%でも成功する可能性があるのであれば、それは確実に大きな数値なのだ。
そんなある日、
私は過去データからのシュミレーション結果を元に、新たな仮説を作り上げた。
今までの研究により、大元まで作り上げてきた、
【高次元重力構造における10次元展開理論】の数式定数のズレに気付いたのだ。
様々なパターンの数式で行ってきたのだが、結論そのズレが仮説を無構築にしている。
ここまで構築するのに、8年以上はかかったと思う。
だが、この発見は将来に繋がる偉大なる1歩だ。
私は直ぐ様研究と検証に没頭した。
これが成功すれば、私の努力が全て報われる。
だがそれ以上にこの成功はこの世界、いや全世界線にとって危険な事とも分かっていた。
10次元展開理論が完成すると、
世界線と言う概念そのものを構造的に解体・再定義する事が出来てしまう。
時間の概念、世界線間の理論や法的境界が崩壊する恐れがある。
既にAUPDでは、10次元に関わる捜査をする部署があると聞いた事がある。
まあ、機密事項を扱う彼らが外部に口を漏らす筈がないので、巷では噂程度の話だ。
だがもしも既に10次元を扱ってるのなら、切実に私にも教えて欲しい。
私が求めている結果を彼らは既に活用しているなら、
死ぬまでに1度で良いから会って話をしてみたい。
AUPDは、かなり遠い世界線からの観測をしているらしいが、
その世界線が時間軸で言うとどの辺りなのか、座標は勿論だがそれすらも情報開示されていないのは残念である。
まあ、開示するメリットがないので当たり前の事ではあるが。
私の世界線は、この研究施設と隣接している違う世界線だ。
勿論、個人による世界線の越境は違法行為でで禁止されている。
越境が出来る様なシステムは、中々独自で開発出来る様な物ではない。
かなりの高次元理論と、それに合った構築理論があれば作れる事も出来るのかもしれない。
でも、もし実行したとして0.00000001%でも間違いがあれば作動しない。
最悪、誤作動による観測不明になって、突然全世界線から存在が消えるだろう。
なので私の様に研究目的や、その世界線を行き来する必要がある場合AUPDにて管理される。
初回は担当者が私の世界線にやってきて、その場で全身スキャンされて自己存在波の登録をする。
その後、AUPDにて存在波から得られた情報で様々なシュミレーションをするそうだ。
担当者はあまり詳しい説明はしてくれないので、されるがままに色々な実験の様な事をされた。
そして、今の私はこの世界線で研究をしている。
数式定数のズレを正す為、その日から私は研究室に1ヶ月はいたと思う。
必要な物は研究施設内に全部揃っているので、自分の世界線へ帰る必要がないのだ。
だが、私は唯一この研究所内にない特別な薬を取りに帰る必要があった。
1ヶ月分しか用意してなかったので、もう帰らないといけない。
その薬は、本来自分が存在していない世界線にいる私を【異物】と観測されない様、
その世界線での自己存在安定波が含まれる特別な薬だった。
これは世界線越境をする人は必ず飲まなければならない。
まあ、こんなアナログな方法を提示してくるので、私の世界線はAUPD世界線と大きく離れているんだと思う。
未来の世界線の人は、また違った方法になるだろうと仮定している。
その日、久しぶりに世界線を越境し、
自分の世界線-オリジナルライン-に戻ってきた。
暫く研究漬けだったので、薬を取りに戻るついでに少しだけ寝ようと思っていたのだ。
「はー、疲れた。」
自室のベットに座ると、今までの疲れがドッと押し寄せてきた。
そのままベッドに潜り込むが、
薬を取りに帰ったんだと言う事を思い出し隣の部屋に向かった。
机の上に無造作に薬が沢山置いてある。
今回は長丁場になりそうだし、もう全部持って行こうと薬を袋に入れ、忘れない様に玄関前に置いた。
ざっと1年分位ありそうな量だ。
これだけあれば暫くオリジナルラインに戻る必要はない。
そのまま、またベッドに入る。
目を閉じ、寝る前に頭の中で数式のシュミレーションをする。
頭の中が数字でいっぱいになるこの瞬間が堪らなく好きだ。
ただ、ふと奇妙な気配に襲われ、目を開けた。
誰もいないのに、誰かに見られている様な不思議な感覚だった。
見渡すも部屋の中は何も問題なく、変な音もしていない。
気のせいか、と思った瞬間、自室の窓が音もなく波打っていた。
「…世界線の歪み?」咄嗟に呟く。
私がこの世界に戻ってきた時に、何かしらの条件で異常を起こしてしまったのだろうか。
恐る恐るその窓に近づき、ゆらめいている部分を見る。
私がそこで見た風景は、数式が無数に浮かぶディスプレイだった。
そして、それを見ている私を覗き込む、誰かの目が見えた。
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AUPD第2課内にて、緊急警報が鳴り響く。
「ORAXです!」
俺はセイガさんへ叫ぶ。
セイガさんは第1課から送られてきた速報情報を確認した。
「第1課、PSD装置にて、位相基底反転・時間構文崩壊確認。隣接の世界線に観測波の異常伝搬が発生。」
セイガさんは読み上げた後、悔しそうに舌打ちをした。
彼女のいた世界線は、そのまま観測不可になった。
今更我々が行った所でその世界線は存在すらなくなっているし、
彼女はORAXの独自世界線へ連れていかれてしまっているのだろう。
隣接した世界線もその影響は激しく、彼女の存在が「始めからいなかった」様に構築が進んでいた。
「…無茶苦茶な事しやがる。これは【観測される筈だった未来の暗殺】だ。」
彼女に関わる世界線丸ごと、ORAXによって消されてしまった。
「何で…。」
俺は下を向いて呟く。
セイガさんは腕を組みながら、教科書を読む様にスラスラと言葉を紡ぐ。
「各分野で特定される人物は強固なAUPD構文を作って越境者を保護してる。
でも、彼女は「理論観測用」「非接触指定」だったから、観測連続性が緩かったんだ。
彼女のような「純粋研究者」は過度な保護対象として見ていない。」
俺はその言葉を聞きつつ、
彼女の世界分岐シュミレーションを発動した。
「…可哀想ですが、彼女の研究は未完成のまま終わる筈でした。だからAUPDの保護も薄かった。」
「だな。でもORAXは彼女が欲しかった。だがなあ…やり方が汚すぎんだよ!」
セイガさんは拳で机を叩いた。
大きな音に驚きつつもセイガさんの様子を見ると、
彼は怒るでもなく悔しがるでもなく、無表情で言った。
「昔のアクシスだったら、絶対にこんな事しなかった。」
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ORAX世界線 U-Glz219
「え、私生きてる。」
自分の手をまじまじと見つめて驚いた。
多分あの出来事は、世界線の越境だったんだと思う。
最悪消滅すると思っていたので、自分が生きている事に先ず驚いた。
「生きててくれなくちゃ、困るんだよ。」
突然男性の声が聞こえてきて驚いた。
私は周りを見渡すが、他に誰もいない。
そこは私がいた研究室に酷似した場所だった。その中に、私だけが立っている。
「ここで、10次元展開理論の構築を続けなさい。」
声はするが、姿は見えない。
「ここは、どこ。」
「ORAXの世界線だよ。AUPDにも分からない。君の世界線は消した。戻る場所もない。」
男性の声は穏やかで優しいが、言ってる事が全然優しくない。
「ORAXなんかに協力するか!バカ!」
私は腹が立って大声で怒鳴った。
私がいる世界線でも、この名は誰もが知っている。
AUPDとは違い、違法行為を次から次へと起こす問題ばかりの組織だ。
世界線事消して、対象人物を拉致する事もあると聞いてはいたが、
まさか私がその対象人物だとは。
「それは君の自由意志ではないね。」
何が自由意志だ。
自由意志でこんな所なんかに来るものか。
私の意志が尊重されるなら、ORAXに協力するかしないか位聞いてくれ。
「私を戻せ!」
「それは君の自由意志ではないね。」
それからは、私が何を言い返してもその言葉しか返って来なくなった。
つまり、私はORAXが作ったこの空間に閉じ込められている。
そして彼らが言う様に、私の世界線はもう無くなっており、
観測が出来ない場所にいるから、私の存在証明も出来ないと言う事だ。
この空間の中をよく見てみると、私が求めていた最新の装置も配備されている。
理論計算に必要な道具だけが配置された、監視構文空間。
つまり、ここでずっと研究をしろと言う事だ。
こいつらが求める解を導き出す為、私は拉致されたんだろう。
私は自分の意思では絶対に出られないし、
AUPDでもORAX独自の世界線の特定は出来ない。
「君は今、最も純粋な状態にある。誰にも観られていない、完全な自由だ。」
男性の声が優しく微笑む様に、そう言った。
本当に、こいつは馬鹿な事ばかり話す。
私は怒りが溢れ出し、装置を蹴ったり殴ったりしたが、全く痛くなかった。
少しノイズが走った後、直ぐに元の姿に戻っていく。
ここにいる限り、何しても、ダメだ。
誰も助けは来ない、空間を壊す事も出来ない。
もしここで何もせずにいたら、こいつらによって消される可能性もある。
世界線も消され、ここで自己の存在も消される。
仕方がないが思惑通り、私はここで研究するしかないのだろう。
私は男に吐き捨てる様に言った。
「観測されなければ、私の正しさも誰も証明出来ない。観測がなければ意味も残らない。馬鹿が。」
少しの沈黙が流れる。
「だからこそ、その数式は永遠に私たちだけのものになるんだよ。」
男性の声はそれ以降聞こえなくなった。