深夜の電話ボックス
「噂話っていうか、都市伝説なら一つとっておきがあるよ」
がやがやと騒々しい大衆居酒屋で俺の前に座る女はそう言いだした。
「都市伝説って、口裂け女とかターボ婆さんとかじゃ困るよ。
皆が知らないようなやつあるの?」
女はジョッキをあおってから頷いた。
俺の方はさっきからケツに何かがぶつかっているのが気になってしょうがない。
許容範囲を超えた座席数だし、少し肘を引けば誰かの背中にぶつかってしまうような店だからしょうがないっちゃしょうがないが、くすぐったくて仕方がない。
そんな具合にあまり話に集中できない状態だったが、女は構う事なく話し始めた。
×
新月の夜、中年の男が一人道を歩いていた。
道、と言っても住宅街のそれじゃない。廃棄物置き場が左手に、右手は真っ暗な林が続いているそんな静かな道だった。
男がそこを通り道に何処かへ向かおうとしていたのはまず間違いないが、男はその薄気味悪い道を足早に通り過ぎる代わりにすっと立ち止まった。
見ると、右手に公衆電話のボックスがある。
右手と言うと、つまり林の方だ。
暗い林を背に蛍光灯が煌煌と緑色の電話機やボックスの中を照らしている。
男は光に誘われる蛾のようにふらふらとそちらへと向かった。
男はボックスの中に入り、電話機の前に立った。
しかし、特にどこかに電話を掛ける必要もないのに何故自分はこの中に入ったのだろう。
不思議に思いながらも、何故だか電話を掛けたくてしょうがない。
それも知っている人に、ではなく適当に押した番号に掛けたい。
幼い頃にあったいたずら心が無性に込み上げてくる。
推しちゃいけないボタンのように、やってはいけないと分かっている事をどうしてもしてやりたい気持ち。
それに突き動かされて、男は受話器を取った。
10円を入れると、赴くままにボタンを押した。
時刻は午前2時。家人も寝ているだろうし、普通であれば電話に出る人もいないだろう。ましてや非通知だ。
ところが、受話器越しにガチャンと音がして向こうから人の声がする。
女の声だ。
男は急に背筋が冷えていくのを感じた。
何か女の声には不気味なところがある。どういう女の声か、、形容のしがたくしかし確実に不自然であることが理解できる__そんな声だった。
女は黙りこくった男の事など気にもかけず、延々としゃべり続ける。
理由は分からない。だが男はこの女の話を最後まで聞いちゃいけないと思った。
このままいけば何か悍ましい事が待っていると第六感が告げる。
だが、受話器は男の手に貼り付いてしまったように離れない。
男は金縛りにあったように受話器を耳にあてながら女の声を聞いている。
最後まで聞いちゃいけない、最後まで聞いてしまったら、、と思いながら
×
「馬鹿らしい」
俺の横やりに女は黙る。俺の方はまだケツの違和感があっていよいよ不機嫌になっていた。
もしかしたら、痴漢かもしれない。男の自分にと思いもするが、世の中物好きもいる。
「馬鹿らしい。その話があんたにまで伝わっている時点で、そいつが無事だったのは分かり切っているじゃないか。怖がらせるにも底が見えてるよ」
それから俺は後ろの奴に文句を言ってやろうと、体を思い切り捻った。
見えもしないのに女が笑みを浮かべているのが分かった。
背後にいるはずの女の声が真横から聞こえる。
「最後まで聞きたい?」
×
はっと我に返ると、辺りはうっすらと暗い。
酒も、汚れたテーブルや椅子、壁に貼られたマーキーペンのメニュー達も無い。
人は誰もおらず、自分だけがぽつりとそこに立っていた。
ぼうとした俺の耳に何かが聞こえる。
ズボンの右ポケットから着信を知らせる携帯をとり、耳にあてると女の声がした。
「やっとでた!ちょっと今どこにいるの?」
彼女の声に慌てて謝る。
そう言えば、彼女の家に行く途中だった。
それがもう空が白けている。
「ねぇ、大丈夫?」
またぼうとしていたらしい。向こうから心配げな声が聞こえる。
直ぐにそちらに行くと言って、最後にもう一度謝ってから俺は携帯を切った。
ふと、背中をうすら寒いものが走る。
彼女からのこの電話がなかったら、自分はここに戻ってこれなかったんじゃないかという考えがふと胸に浮かんだ。
何を馬鹿な事をと鼻で笑う。
辺りの様子が人気が無く、夜明け前で少し気後れしてしまっただけだ。
__多分、寝ぼけてここに入ってしまったんだろう。
何か夢を見ていた気がする。が、もうどんな夢を見ていたのか思い出せない。
何故か外れていた受話器を元に戻すと、俺は公衆電話のボックスから出て、トタン板で囲まれた廃棄物置き場を横目にその場を離れた。
今日になって思い出したから、公式企画の期間に間に合わなかった。
という体。