志野木先輩は人間社会に絶望した社畜である。
◆序章 ──声の出どころ
「こんな世界に、一番いらないのは、人間じゃね?」
その言葉は、どこかで誰かがつぶやいた不吉な予言のように、嶋の耳にだけ繰り返し残った。
それが最初に発せられたのがいつだったか、彼にはもう思い出せない。
ただ、いつも淡々とした声が、世界の底に小石を落とすように言ったのだけは覚えている。
言葉の重さに気づいたのは、ずっと後のことだった。
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◆第一章 焼け跡に残された言葉たち
20XX年、核戦争は人々が望んだ形とは別の終わりを迎えた。
廃墟となった地表の割れ目から、古い鱗をまとった異形たち――リザードマンが這い出した。
人間は、彼らにとって“この星に湧いた害獣”にすぎなかった。
屠られた人間は山のように積もり、血の匂いは季節の風より確かなものになった。
だが世界は終わらない。
人間はいつでも滅びかけるが、ほんとうに滅びたことはない。
それは希望ではなく、むしろ呪いのような現象だった。
突然変異したヒーローたちが現れ、世界の均衡は再び歪められた。
彼らは「英雄」と呼ばれたが、その呼び名の空虚さは、誰も指摘しなかった。
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◆第二章 志野木先輩という空洞
志野木先輩は、その“英雄”の中でも突出した存在だった。
感情の欠片すら見せない。
怒りも、喜びも、疲労も、他者へ向ける関心すら希薄で、まるで世界から一歩だけ浮いた場所に立っているようだった。
ある夕方、嶋は寮の玄関で彼女が“バカ”と悪意を記した室内靴を黙って履くのを見た。
その瞬間、気づいた。
「こんな世界に、一番いらないのは、人間じゃね?」
あれは口癖ではなく、世界への冷たい観察だったのだと。
彼女の部屋をのぞいたことがある。
机、ベッド、棚。どれも必要最低限の形だけで、生活の匂いはなかった。
ひとりの人間の痕跡が欠落していた。
まるで世界のどこにも属していない空洞を見た気がした。
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◆第三章 英雄の檻、人間の檻
人類軍という施設は、英雄を守る場所ではなかった。
人間が“強すぎる存在”を囲い、監視し、使い潰すための檻だった。
週七日、二十四時間、呼ばれれば応じる義務だけがあった。
嶋たちはまだ自由が与えられている方だった。
志野木先輩は、休みを申し出たことすらないらしい。
上司が言ったという。
「君、休みいらないよね?」
言葉は雑談のように軽かったが、人間に寄りかかる僅かな優しささえ欠けていた。
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◆第四章 学校という小さな地獄
学校が襲われた日のことを、嶋は生涯忘れないだろう。
現場へ向かうと、瓦礫の山はまだ崩れ落ちる途中だった。
志野木先輩は、すでにすべてを片付けていた。
瓦礫の下から救い出す仕事だけが嶋に残されていた。
泣く生徒たちが、志野木先輩に「ありがとう」と言った。
かつて彼女を嘲った者たちだった。
志野木先輩は、彼らの涙を理解しようともせず、ただ短く言った。
「仕事だから」
その声には、感謝も憎悪もなかった。
世界への期待がとうに失われている者の声だった。
嶋は背筋が冷えた。
もし彼女がわずかに方向を変えたなら、人間は簡単に消滅するだろうと悟ったからだ。
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◆第五章 雨のように落ちる血の下で
転校しても、志野木先輩はいじめられた。
無口で、何を考えているか分からない者は、人間社会にとって“余剰”として処理される。
ヒーローは人間に手を出せない。
だから彼女は黙り続けた。
嶋ができたのは、毎日バイクで送り迎えをすることだけだった。
ただの動作に過ぎない。
だが世界のどこにも居場所を持たない彼女を、わずかに現世へつなぎ止める役目になっていた。
任務へ向かう途中、血が雨粒のように落ちた。
志野木先輩はそれを眺めて、言った。
「こんな世界に、一番いらないのは、人間じゃね?」
その声音は、ただ事実を告げる科学者のように無機質だった。
嶋はケーキのことを叫んだ。
彼女の誕生日のために予約したケーキだ。
「……誕生日?」
「そうですよ!明日です!」
「……そっか。それは大変だね」
彼女は表情を変えなかった。
だがその無表情の奥には、かすかな躊躇の影があった――嶋にはそう見えた。
血霧を裂きながら異形を屠る彼女を、人々は化物のように見た。
その視線を浴びながら、嶋は気づいた。
――祈るしかない、と。
人類が、彼女の中でまだ「不要」にならないように。
***
◆終章 世界が終わる速度
世界は、すぐには終わらない。
だが、終わらないことが救いであるとは限らない。
リザードマンたちは駆逐され続け、人類はそのたびに数を減らし、また生き延びた。
ただし、それは“生”と呼ぶにはあまりにも薄い持続だった。
嶋は、ときどき、夢想する。
もし世界に二人だけになれば、志野木先輩はようやく休めるのではないか、と。
彼女を拒む世界が消え、彼女が拒む世界がなくなれば、少なくとも誰も傷つかないのではないか、と。
虚無は救いではない。
けれど、人間のいらない世界で人間を続けることよりは、まだ静かな終わり方かもしれなかった。
嶋は今日も祈る。
志野木先輩が、世界を殺す決心をしませんように。
そしてもし彼女が決めてしまったなら――
その最後の瞬間まで、隣に立てますように。
世界が終わる速度は、案外、人間ひとりの呼吸と同じくらいかもしれなかった。




