6. 黄金の手
死者の骸が立ち並ぶカラゴル博物館。その一角に、小さなガラスケースがある。
その中に展示されているのは人間の右手だ。掲げられた札に説明文はなく、この展示物の名称のみが書かれている。
――【黄金の手】と。
* * *
その手の持ち主はロランといった。エルハオール王国、フイヤード伯爵家の生まれである。といっても嫡男ではなく、三男だ。
彼は幼い頃から容姿に恵まれていた。美しい銀の髪にくりくりとしたブラウンの瞳。その蕩けるような笑顔に母親はもちろん、乳母や侍女たちも夢中になった。
三男という気楽さもあったのだろう。ロランは母親から溺愛された。勉強や剣の稽古を嫌がっても許される。偏食で好きな物しか口にしなくても、母は「あらあら、仕方のない子ねえ」とニコニコしているだけだ。
ロランは美しい物が好きだった。
絵画や音楽、劇。もちろん、美しい女性も。
ロランを取り巻く女たちは、みな自分を愛し、慈しんでくれる。だからロランも彼女達を愛した。それはもう、万遍なく。
ある時、気まぐれに母親の絵を描いた。幼いながらも精緻な遅筆と斬新な構図を見た大人たちは絶賛。それ以降、彼は絵へのめり込んだ。
父親は母親ほどには彼を甘やかさなかったが、ロランの行動に何も言わなかった。
彼に厳しい眼を向けたのは、長兄と次兄だけだった。「遊んでばかりでは、将来苦労するぞ」と何度も忠告した。兄たちは本当に彼を心配していたのだが、ロランの心には響かない。
母親に「あの子たちは、才に溢れた貴方を嫉妬しているのよ」と言われ、そうかと思っただけだった。
貴族学院への入学が決まった日、父親はロランを呼び「将来はお前の好きな道を選びなさい」と伝えた。
三男である彼には継げる爵位も領地もない。だから、自分で生きる道を選べと父は言いたかったのだ。
だがロランは、「自分の好きなように生きていいのだな」と都合よく解釈してしまった。
学院へ入ってからも、彼は自堕落に過ごした。成績はいつもぎりぎりだ。
頭が悪いわけではない。会話で人を楽しませるのは得意だ。だからそれなりに友人はいたし、何より美しい容姿のおかげで令嬢たちには大変人気があった。
彼女たちはロランに自分の絵を描いてくれとせがみ、彼はたくさんの絵を産み出した。その一枚が、ある画商の目に留まる。
「貴方の絵は素晴らしい。高値で買い取らせて欲しい」と言われ、彼は喜んで数枚の絵を画商へ渡した。
在学中から有名な画家となったロラン。数々の美しい絵を生み出すその右手は、『黄金の手』と持て囃された。
美しい女性たちに囲まれ、どこへ行っても賞賛される。彼にとってそれは人生で一番幸せな時だったろう。
卒業も間近となったロランは、一人の令嬢と恋に落ちた。エテュアン侯爵家の令嬢であるレオノールだ。彼女は女性たちの中でも一際麗しく、何より侯爵令嬢という立場で他の令嬢たちをかしずかせていた。
こんな最高の女性が自分に夢中なのだ。そう思うだけで鼻が高かった。
だが、レオノールには既に婚約者がいた。一人娘である彼女は、伯爵家の次男を婿養子として迎えることになっていたのだ。
「ああ、ロラン様……。私たちはこんなに愛し合っているのに、引き裂かれてしまうなんて」
「泣かないでくれ、レオノール。俺も胸が張り裂けそうだ。君と一緒になれるなら、どんな手も使うのに」
その後、突如としてレオノールの婚約が破棄された。婚約者がレオノールの侍女と浮気をしていたという理由で。
令息は身に覚えがないと言い張ったが、侍女と睦みあっている姿を目撃したという証言者がいたのだ。令息の実家は膨大な慰謝料を払い、息子を勘当した。
「これでロラン様と結婚できますわ。父も承諾してくれました」
ロランの父、フイヤード伯爵も快諾した。持て余していた三男坊を引き取って貰えるのだから、文句があるはずもない。
縁談はとんとん拍子に進んだ。
随分と都合の良い展開に、普通ならば不審感を抱きそうなものだ。だがロランは何も考えず、ただ現状を受け入れた。
きっと、自分は天運に恵まれているのだな。そんな風に思っただけだった。
娘可愛さにロランとの結婚を受け入れたエテュアン侯爵は、すぐに後悔することとなった。
なにせ、婿となった男は何の役にも立たないのだ。領地経営について教えようとしても右から左へ聞き流す。家中を仕切ることもできない。
出来ることといえば、絵を描くことと女性を侍らすことだけ。
エテュアン侯爵は、早々に娘夫婦を切り捨てることを決断。後継ぎは親戚筋から迎えることにして、二人を領地へ追いやった。
とはいえ小さな家と使用人を用意し、毎年暮らしていけるだけの生活費も出してくれたのだから、甘いものだ。
妻は王都から離れることに不満たらたらだったが、ロランはこの暮らしも悪くないと思った。生活に不自由はないし、働く必要もない。ただ好きに絵を描いていればいいのだから。
時折は二人で王都に出かけ、観劇や買い物を楽しんで美食に舌鼓を打つくらいの余裕はあった。遊興が過ぎてお金が足りなくなると、描いた絵を売ってそれに充てた。
だが侯爵が亡くなり、後継ぎの代になると状況は一変した。彼は二人に対し、生活費は出さないと言ったのだ。
酷いと騒ぐレオノールに対して、「侯爵は資産の一部を貴方へ残した。それが貰えるだけ有り難いと思え」と言い放った。
ここでレオノールは、ハタと気付いた。
自分にはこの家と、父の残した遺産がある。そして隣には高価な画材と遊興で無駄遣いをする夫。
この男さえいなければ、遺産でなんとか生きていけるのではないか?
何の役にも立たないのに遊ぶことだけは得意なロランに、愛情はとっくに消え失せていた。
そうして妻から一方的に離縁を突きつけられ、家から追い出されたロラン。
彼は自分勝手な妻にちょっと腹を立ててはいたが、実家に帰ればいいかと暢気にとらえていた。
だが、現実はそれほど甘くはない。
既に両親は亡く、長兄は縁を切ると告げてロランを放り出した。むろん、他家の婿養子となった次兄も同様である。
ロランは途方に暮れた。苦し紛れに残り少ない画材で絵を描くも、全然売れなかった。
彼は今までずっと、美しいものに接した感動を描写してきた。それが見るものの心を捉えたのだ。今のロランの周囲には、美しいものなど何一つない。彼の絵にはもう、以前のような輝かしい魅力はなかったのである。
ついに手持ちの金がつき、ロランは宿を追い出された。食べる物もなく、寒風に晒されてもはや行き倒れる寸前。
そこへ、声をかけて来る男がいた。
「もしや、ロラン様ではありませんか?……ああ、やはりそうだ!俺は貴方の絵のファンなのです」
行くところが無いロランを、男は自分の家へと誘った。
連れて行かれた先は、町外れにポツンと立つ一軒家。すぐそばに鬱蒼とした森がある。ずいぶんと錆びれた場所だとロランは思った。だが今は、雨風を凌げるだけでも有り難い。
「寒かったでしょう。さあ、暖炉のそばへ」
暖かい炎の前で、こわばった手足がほぐれていく。
出された酒を口にしたせいだろう。少し饒舌になり、「貴方はここに一人で住んでいるのですか」と疑問を口にした。
「ええ、俺は独り身です。婚約者がいたのですが、先立たれまして」
男はつらつらと過去を話し出した。
婚約者はアメリーという名であること。とある令嬢の元侍女であったこと。そして主の婚約者であった令息との不貞を疑われ、解雇されたこと。
どこかで聞いたような話だ。そう思いながら酒を飲むロランに、男は話し続ける。
「社交界では、それなりに話題になった話だと思いますが。そうですか、覚えていらっしゃいませんか。……本当に救いようがないな、お前は!」
突如男が立ち上がり、憎々しい目で睨みながらロランへ剣を向けた。慌てて逃げようとするが、足がもつれて倒れ込む。
身体が自由に動かない。
酒に何か入っていたのだと気づく頃には、もう遅かった。剣の切っ先が彼の足を切り裂く。
悲鳴を上げるロランを、男は歪んだ笑みを浮かべながら見つめていた。
「アメリーはお前の妻、レオノールの侍女だったんだ」
令息との不貞は真実ではなく、婚約を破棄するためにレオノールがついた嘘だった。愛するロランと結婚するために。
アメリーは何度も無実を訴えた。
男もまた、婚約者の無実を信じた。男とアメリーの婚約は親が決めたものだったが、二人は深く愛し合っていたのだ。
彼女の人柄を知る者は、薄々嘘だと分かっていたかも知れない。だが公爵家の権力と財力にモノを言わせてでっち上げられた証人が相手では、沈黙するしかなかったのだ。
男の両親は不貞をするような娘を嫁にするわけにはいかないと、婚約破棄を申し立てた。それを知ったアメリーは首を吊って自害。
男はアメリーの遺体にすがりついて号泣した。そして、復讐を誓ったのだ。
自分は何も知らなかった。レオノールが勝手にやったことだと、ロランは必死で訴える。
「そのおめでたい頭でも、少し考えれば分かっただろうに。まあいい。お前の次は、あの女を殺しに行く」
何でもする、俺の絵を全部やるから助けてくれと叫ぶロラン。
「お前の絵に何の価値があるんだ。今や全然売れてないらしいじゃないか。以前は黄金の手と呼ばれたそうだが……もう要らないな、そんな手は」
そうして男は彼の右手を斬り落とした。
ロランは悲鳴を上げ、痛みに悶絶する。
床を転がりながら助けてくれと懇願する彼を、男は黙って見下ろしていた。
その冷酷で無慈悲な瞳に、心が絶望で染め上げられていく。
そうしてロランが血だまりの中で絶命するまで、男はその様を眺めていた。
* * *
「……それは、本当の話なのでしょうか?」
「さあ、どうでしょう。真実かもしれませんし、遺体の売値をつり上げるために作られた話かもしれません」
来訪者の問いに、黒づくめのキュレーターはにこやかな笑みで答える。
これ以上、詮索しないほうが良さそうだ。
目の前の男の慇懃ながらも有無を言わせぬ微笑みに、来訪者はそう思った。
「いや、面白い話をどうも。私はそろそろ失礼しますよ」
「本日はお忙しい中ご来館頂き、誠にありがとうございました。またのご来訪をお待ちしております」
深々とお辞儀をするキュレーターに手を振り、来訪者は博物館を後にした。