桐霧とアリス⑧
「なーんか気に食わない」
「僕のことを睨んでいる暇があったら、手を動かしたら。次の授業までに終わらせなきゃいけないんでしょ、その問題集の宿題」
「なんで狼希は終わってるんだよ。いつの間にやったんだよ」
「一昨日の夜。昴がテレビ見てる間に」
「一緒に住んでるんだから俺を誘ってくれたっていいだろ」
「遊びじゃないんだから」
狼希は相も変わらず澄まし顔だ。猫の手も借りたい俺を前に、小説のページを捲る手は一向に止まる気配がない。
大体、狼希は朝から格好をつけすぎだ。颯爽と現れて出た発言が体操服なんて、別に後でだってよかったし。先生が教室に入ってきたのだって気づいていた。体育のバスケットボールでは俺が外したボールをリバウンドで取りシュートを決め、挙句昼休みになってから“昴、5限目の数学の宿題やってないんじゃないの”ときた。親切をするならもっと早くにしてくれればよかったのに、今の今までずっと黙っていたなんて意地悪だ。
「仕方がないだろ。昨日は僕も夜に予定があって、言うのを忘れていたんだ」
「一昨日の時点で一緒にやろうって言ってくれればよかったじゃん」
「声はかけたさ。テレビに熱中して聞いていなかったのは昴だろ」
あぁ言えば、こう言う。
小さい頃、母親に叱られる度にそのように言われてきたが、狼希だって大概だ。口じゃ狼希に勝てないことが分かっている昴は反論したい気持ちをぐっと堪え、目の前のノートに視線を戻す。タイムリミットまであと20分、残り2問だからなんとか解き終わるだろうが、後半に進むにつれ難しくなる問題集の構成を考えるともしかしたら自力では無理かもしれない。
「陽子さんも、路郎さんも気にしてたよ」
「今それどころじゃない」
「今度は忘れないようにと思って伝えただけ」
狼希は顔も上げずに静かに本を読み続けている。狼希は上手い、生き方が。自分の気持ちの折り合いのつけ方も知っているし、どのようにしたら自分が最悪の状態にならないかを考えて動ける。
子供の頃、昴は喜怒哀楽が激しすぎると言われたことがある。それは一見良いことのようにも思えるが、度が超えると周りも、そして本人もとても疲れてしまう。
対する狼希は感情が読み取りにくく、落ち着いていて大人っぽい。一方で周りはどこまで彼に対して心配をしていいのか戸惑う。本音が見え辛いのだそうだ。
長く一緒にいる昴からしてみれば狼希はいたって分かりやすい。確かに不満を見せずに態度や行動をとれるが、自分が正しいと思わないことに関しては意外と無視していることも多い。人から言われたことを気にしない、というより人との関係構築が苦手なだけで、本人はそれさえ気にしていない。少し鈍感なところがある。かと思えば、興味のあることには一点集中、今だって二人でいるのに本を手放せないのはそれだ。今更自分との時間を大切にしろだなんて言わないし、こうして気を遣わずにいられるのは昴にとっても楽だが、狼希は他の人相手にだってそれをするだろう。
「終わった」
「おつかれ」
頑張ったご褒美だとでもいうように、狼希が丸く包まれたチョコレートを差し出してくる。宿題のせいでコンビニに寄れなかった昴を思ってのことだろうと思うと、なんだかそれも腹が立った。
「やっぱりここのチョコ旨いな」
「それ、陽子さんから」
「っく、それを先に言えよ」
「別に毒が入ってるわけじゃあないんだし。喜んで食べてるんだからいいじゃないか」
「良くないんだよ」
分かっているくせに。こんな時、なんでも分かっているような顔をしてくれればもっと責められるものを、昴の反応には興味がないといった様子で表情を一切変えないのが狼希だ。
「あーもうやだやだ。先戻る」
「僕も一緒に行く」
「先戻るって言ってるだろ」
「だってもう授業始まるし」
昴の機嫌が悪いことは分かっているくせに、お構いなしだ。
昴が笑っていようと怒っていようと、そして泣いていようと、狼希はいつも自分の隣にいてくれる。