桐霧とアリス⑦
「昨日はバイト、間に合った?」
1限目が始まるよりも少し早い時間。珍しく席についている桐霧くんの声に思わず振り返る。
机から身を乗り出した桐霧くんは私と目が合うと、よっ、と片手を上げる。昨晩のバイトで寝る時間が遅くなった私は、まだ開ききっていない目を開くために何度か瞬きをしてから挨拶を返す。
昨日は放課後の教室で2人して話し込んじゃって、慌ててバイト先に向かったんだっけ。準備をするのに多少余裕のある時間に着けたから大丈夫だったが、気を利かせて朝一番に声をかけてくれる桐霧くん。なんて心遣いの出来る男の子。
ばっちり問題のなかったことを返すと桐霧くんはよかったと顔を綻ばせる。なんで優しいんだ、桐霧昴。
その笑顔があればファーストフードやカフェ、ちょっとお高めなレストランのホールだって接客業ならばなんでもお手の物だろう。
「桐霧くんはバイトしてないの?」
「んーしてない」
私の期待とは裏腹に、特に興味がないといった様子で返事をされる。確かにこの金髪で接客業をやっているとは考えにくい。私なんて自分の好きな作家の本や漫画、毎週新商品が発売されるコンビニのお菓子、目に映るどれもが欲しくて仕方がないからお小遣いだけで生活するなんてとても無理だ。デザインも重視されたカラフルな文房具、流行りのキャラクターのガチャガチャ、私の物欲は留まることを知らない。
「あ、でも事務的なことはしてる。家の手伝いで」
「事務、かぁ。なんか難しそう」
「はは、感想浅いって」
「ごめん、だってイメージできないんだもん」
ドラマで見るような、広いフロアにスーツやオフィスカジュアルの服を纏った大人たちがパソコンの画面を真剣な表情で見つめる中、金髪の桐霧くんが?大人たちに囲まれて静かに座っている桐霧くんは、普段廊下で友達とじゃれあっている姿からはまるで想像がつかない。
それとも家の、ということは、もしかして小さな工場の小さな部屋で和気あいあいと行っているのだろうか。
「角野さん、なんかシツレイなこと考えてなーい?」
「ないない!」
「そんな慌てて手を振らなくても」
「昴、もう授業が始まるんだから。話も大概にしろ」
桐霧くんより少し高い、だけど落ち着いた声が後ろを向いている有朱の背中に降ってくる。くるっと首を向けると、有朱にも見覚えのある顔があった。
ロウキくん。みんながそう呼んでいる男の子だ。
「体育着、今日使うのに干しっぱなしで出ただろ」
「あ、そうだった。助かるよー狼希」
「しまったって顔でもしてみせろよ。今日に始まったことじゃあないんだから」
桐霧くんがいるグループにいるのはいつも見かけるが、こんなに間近で会うのは初めてだ。桐霧くんに負けず劣らずの目立つ銀髪と、何よりもその整った顔立ちに目が奪われる。
「話の途中でごめん、えっと」
「角野さん」
「そう、角野さん。昴がいつも迷惑かけてるっていう」
「そんな、とんでもない、です」
「一言多いんだよ狼……」
「あ、先生」
ロウキくんはかなりマイペースなのか、先生の姿を目の端で捉えると桐霧くんの返事も聞かず勝手に話を切り上げ、その場を離れようとする。私と桐霧くんの会話もそれが合図のように自然と終わる。有朱は心の中でさっき狼希が言った言葉を反芻する。
”昴がいつも迷惑かけてるっていう”
それは、桐霧が友人である狼希にも自分のことを話しているということを意味していた。今までだったら絶対に関わることも、下手したら名前を知られることさえなかっただろう人達が自分のことを口にしているというのは少し怖くもあり、嬉しくもある。そんなことを感じている自分の存在もなんだか恥ずかしい。
むず痒く感じる背中をぴんと立て直し、有朱は黒板に書かれ始めたチョークの白い文字に集中することにした。