桐霧とアリス④
「角野、角野がしっかり宿題に取り組んでいることは、1年生の頃を見ていてもよく分かっているんだよ。その上で敢えて言うが……」
宿題の英訳箇所を1ページ間違えるなんて、バカだ。しかもよりにもよって今日当てられてしまうなんて本当についてない。
しんとした家庭科室にはパタパタと動き回る私と桐霧くんの足音だけが響く。私が宿題の範囲を間違えていたことなど誰の記憶にも残っていないのは分かっているのに、それでもやっぱり凹んだ心の傷はなかなか埋まらない。
そういえば桐霧くんは勉強が出来ない、わけではないらしい。
一昨日のノートを見られた事件から、ちらちらと桐霧くんの様子を観察していると、隣の席の子と交換採点した英単語のテストは一問ミス。急に当てられても辿々しいながらしっかりと答えを導き出し先生に予習していて偉いと褒められているし、さっきの国語の授業では漢字テストの満点者一覧に名前が載っていた。
そう思うとピンクのペンを差し出してノートの取り方なんか偉そうに教えていた私ってものすごく恥ずかしいんじゃないか。
これ以上考えると、この家庭科室に桐霧くんと2人きりでいることが耐えられなくなりそうで、慌てて頭から悩みの種を振り払った。それはもうブンブンと音が鳴るくらいに頭を振って。
「角野さん、そっちキットの個数足りるー?」
「あーうん、足りてる。ありがとう」
2人きりになったからとて何か話さなければと気負う必要もない。何故なら授業の準備というものは兎に角時間がないからだ。
運ぶものは最後、とようやく綺麗に揃った机の上を見渡し、うんと頷く。これで私の方の準備はばっちりだ。
「こっちは終わったよ。桐霧くんの方は……って、桐霧くん!!!」
「早いね角野さん」
「桐霧くん、ミシンの準備は!」
「今からしようと思って、まだ時間あるよね?」
あと5分あるし、とスマホを確認する桐霧くん。
違うよ桐霧くん、5分後には授業が始まるのであって、もうそろそろクラスの人達が教室に来ちゃうんだよ!
結局早めに教室に来た子達にも手伝ってもらい、なんとか準備を終えた私はぐったりとしたまま授業の席についた。
放課後、教室に忘れ物をしてしまった私は早足で廊下を歩いていた。オレンジ色に染まった教室。誰もいないと思って駆け込んだが、奥の方の席で伏せっている人が目に入り、慌てて忍足で自分の席へ向かう。目当てのものを鞄にしまい、同じように抜き足差し足でドアに戻り扉に手を掛ける。少し気になって振り返り教室を見渡すと、伏せっている生徒が頭から被っていたブレザーが今にも床に落ちそうになっていた。
時間があるわけじゃないが、どうしても気になる。そっとそばへ近づき申し訳ないと思いつつブレザーに手を触れる。
「ん……」
「あっごめんなさい起こしちゃって……ってあれ、桐霧くん」
「あ、れ。角野さん?どうしたの」
うーんと長い腕を伸ばして起き上がった桐霧くんは、そのまま起きるのかと思いきやまたしても突っ伏してしまう。
「ブレザーが落ちそうだったから直そうと思って、起こしたら悪いかなと思ったんだけど」
「そっか」
「起こしてごめん」
「いや、こちらこそさっきは俺のせいでごめん。準備、遅れちゃって」
まさか先程の授業の件を気にしているなんて思ってもいなかった私は、突然の桐霧くんからの謝罪に次の言葉がすんなりと出てこなかった。
「私こそ、終わらないんじゃないかって焦って……急かしちゃったから」
「いや、角野さんが手伝ってくれなかったら、先生来るまでに準備が終わってなかったよ」
しどろもどろな私に厳しい桐霧くんの言葉が重なる。
桐霧くんは授業が終わってからずっとあの時のことを気にしていたのだろうか。
「ここで、反省してたの?」
「そう、まぁ人待ってて、そいつの机座って考えてたら寝ちゃったんだけど」
「それはご苦労様なことで」
通りで見慣れない場所で桐霧くんの姿を見つけたものだ。
眩しく差し込む西日が教室の後ろの壁をじんわりと暖色に染め上げ、桐霧くんの髪は反射しキラキラと光る。色素の抜けた髪一本一本が、まるで糸のようだった。
「綺麗な髪」
「……角野さん怖くないの?」
「怖がられるの、この髪」
「うん中学の頃は。元々強く見せたくて染めたから仕方がないんだけど」
「いつから染めてるの?」
「小学生の時、狼希……ってここの席座ってる奴に強くなりたいならまず見た目からだーって。それ以来ずっと」
にかっと笑う桐霧くんはとても強そうには見えなかったけど、かといってか弱くはない。どんな経緯があったのかは分からないが、この金髪が桐霧くんを守ってきたのは確かなようだ。その証拠に、桐霧くんは、今もこの金髪なのだから。
「角野さん、目合わせてくれないし。また女の子のこと怖がらせてるかもって心配してた」
「そっそれは髪色とかじゃなくて、桐霧くん全体的に話すと緊張するっていうか……」
「なんだそれ、それもショック。まぁでも暫くはこのままにしよっかなー」
本当はそろそろ辞めようかと思ってたんだけど、角野さん褒めてくれるし。と桐霧くんが得意げに髪を払ってみせる。その様子が妙に様になってるのがおかしくて、私は笑った。
「あ、初めて角野さんが素で笑った」
「そんなことないよ」
「あるある。角野さん意外と表情固いの自分で気づいてないでしょ」
本当は自分でも分かるくらいに自然に桐霧くんと話せているのを感じる。
桐霧くんと目が合うと思わず頬が緩まり、それは桐霧くんも同じようで2人で目を見合わせて笑い合った。
灰色で渦巻いていた今日という1ページはオレンジ色で上塗り。失敗などお互い忘れたかのように、桐霧くんと私は吹っ切れた気持ちでその後も会話に花を咲かせた。