桐霧とアリス③
「ねーねー、角野さんって勉強は得意?」
“角野”さんという聞き馴染みの深い名前が、聞き馴染みのない声に乗って耳に入ってくる。その声を辿って振り返ると、声の主は机から身を乗り出して私のノートを覗き込んでいた。
「いや近い!ノートすごい見てるし!」
「ごめん、いや授業中かなり真剣にノート取ってるからさ。どんな風に書いてるのか気になって」
そう言った桐霧くんの手元のノートは一面真っ黒で、先生の言った言葉を一字一句書き取っているんじゃないかと思うほど、みっちり詰まっている。要は、見にくい。
ちらりと目を移すと、ノートの横にはこれでもかというくらい使い古し、黒ずんだ教科書達が置いてある。新学年を迎えて2週間とは思えない年季の入りっぷりだ。
白い場所を残すのは無駄だとでもいうようなノートの使い方、そして明らかに中古のような教科書。もしかしたら桐霧くんはあまり裕福ではないのかもしれない……なんて。
「角野さん聞いてる?」
「聞いてる、ごめん」
「俺、勉強ちゃんとやりたくってさ。角野さんが出来るならちょっと教えてもらいたくて」
「私が、桐霧くんに」
「うん。角野さんが嫌じゃなければ」
ぐいぐいと距離を詰めてくる桐霧くん、怖い。
動揺した私は咄嗟に肯定も否定も出来ず、視線を巡らせる。ふいに目に入った物、机の上に置きっぱなしになっていたペンを手に掴み差し出した。
「……それならこれあげる!」
「ペン?」
桐霧くんに渡したのは淡いピンク色のペン。このペンでどうにか時間稼ぎができないかと考える。
桐霧くんのノートが真っ黒なのはそう、多分ペンを買う余裕がないからだ。勉強を教えることは出来ないかもしれないけど、少なくとも板書の色分けはあった方がいい。うん、そんな、アドバイスは良さそう。
「私じゃ上手く教えられないと思うけど、先生が言っていた大事な所とか、分かりやすくしておいた方がいいかな……みたいなことならば」
「そっか、だから角野さんのノートは見やすいんだ。ちょっと、借りてもいいかな」
私のノートを手にした桐霧くんは、なるほどなぁと感心した様子だ。
「ほらこことか、先生が3回くらい繰り返していたからこうやって色付きで星をつけて」
「角野さんやっぱり頭良いんだ」
「違うよ。私は真面目にしようって思ってるだけで、中身はからっきし……」
俺にも貸して、と言われピンク色のペンを渡すと、桐霧くんは慣れた手つきで星印や波線を次々と記入していく。
「角野さんは努力家なんだね」
「え?」
「ううん、なんでもない。ペンありがと、貰うのは申し訳ないから少しの間借りててもいい?」
「うんもちろん、いいけど」
あげても良いのに、というのは何か悪い気がして言葉を飲み込んだ。
桐霧くんの呟いた言葉は聞こえなかったけど、顔を上げて見せた桐霧くんの笑顔に悪い気がしなくて何と言っていたのか聞くのもやめた。
「おい、キリー!休み時間まで何ノート開いてんだよ。メシ行くぞー」
「いやこの時間って何メシだよー。悪いすぐ行くー。角野さんごめん、俺から話しかけたのに」
「気にしないで、それより早く行ってあげて」
待ちきれない様子で桐霧くんの名前を呼び続けているサッカー部の男子達を見て、私も慌ててノートを閉じ、机の中に戻す。
「いつも後ろ姿ばっかり見てるから、角野さんと話すの新鮮。これから3ヶ月頑張ろうな」
「あ、りがとう」
「お礼を言うのは俺の方、それにそこは頑張ろうって返すとこ」
普段なら真っ先に友人の元に駆けていく桐霧くんが、今日はいつもと違う行動をしている。もしかしたら桐霧くんなりに私との距離を縮めようとしてくれたのかもしれない。
立ち上がって駆けていく桐霧くんを目で見送ると、ふわっと柔らかい風が吹き立つ。
「喋ってもいない人の心を理解できないなんて、失礼だったかな」
心地のいい春風が、私と桐霧くんとの間にあった隙間にも吹き込んできたようだ。隔たりとなっていた氷の壁が溶かされていくのを感じた。