桐霧とアリス⑩
「でさ、なかぴーが宿題忘れた罰だって、プリント追加されたんだって。せっかくの四連休に可哀そうだよな」
「二週連続で提出しなかったなら自業自得だろう」
「だからって、放課後サッカー部の部室までプリント抱えて押しかけてくるとか、先生の執念深さに驚いたよ、俺は」
マグカップに注がれたカフェオレを一気に飲み干した昴は、いっぱいになった腹をさすりながら大きく伸びをする。つい二週間前に自身もリーチをかけていたことを忘れてしまったのだろうか。自分への戒めのためにこの話をし始めたとは思えない。大きな体と派手な金髪には似つかわしくない水色の可愛らしいマグカップには毎日コーヒーか紅茶が注がれており、内側に茶色の色素がこびりついている。家にあるマグカップをまとめて重曹に浸けなければならないなと、狼希は連休の予定を頭の中で確認する。
連休の初日とて寝坊を許さない、のは実は狼希ではなく昴の方で、普段起きるのと変わらない時間に起床したらしい昴は起きて早々にコーヒーマシンを動かしていた。寝ぼけまなこの狼希が淹れたてのコーヒーの香りで満ちた小さなリビングに出てくるのを目ざとく見つけた昴は、狼希の背中を押し早く朝食を作ってくれとせっついてくる。今日は狼希がご飯担当だからそれは仕方がない。
キッチンのコンロ下収納からフライパンを取り出し、冷蔵庫からは冷凍された食パンと卵、ベーコンを取り出す。それから忘れてはいけない、スライスチーズ。フライパンにさっとオリーブオイルを引き香りがたってきたあたりで、ようやく狼希の目も少しずつ開いてくる。
育ち盛りの男子高校生二人、朝食とはいえ一日の栄養を補給するための大事な一食。十分な量を食べないと昼までもたない。平日は前日に炊いた白米、土日はパンを食べるのが昴と狼希の暗黙の了解になっていた。
昴と狼希が二人きりで一緒の家に住み始めたのは高校に通い始めて少し経ってからだった。食事についてはお互い妥協が出来ず、当初から男二人のルームシェアにしては珍しく、曜日で担当を決め自分達で作ることが多かった。他の掃除、ゴミ出し、洗濯などは狼希が行うことが殆どだったが、狼希は粛々と家事をこなしていた。昴の方も、昔から他人に自分の生活を任せることに慣れているため、特に労うような言葉もなく当然のようにその生活を享受していた。
「僕は眠気覚ましにでも外に出てくる。昴、今日の予定は」
「ん。特にないから適当にのんびりするよ」
「そうか。ついてきたかったら来るか」
「いや、いい」
外出のため着替え中の狼希はちょうど服を被っていたため、昴の返事が聞き取れなかった。だが恐らく答えはNOだろう。真っ白のパーカーのフードの位置を整えながら、黙って頷く。
玄関のドアを開けると、眩しい日差しと春の生暖かさが狼希を出迎えた。薄手とはいえパーカーを着てきたのは失敗したかもしれない。そんなことを考えながら、他に住民が住んでいるのかも怪しいくらいひっそりとしたマンションのエレベーターホールでエレベーターが上がってくるのを待つ。
昴が休日に出かけないのは今に始まったことではない。社交辞令、を言うような仲でもないが、何となく昴を外に連れ出した方が良い気がして毎回声だけはかけてしまう。昴が狼希についてきたことは殆どない。“俺も誘ってくれよ”が口癖のくせに、いざ誘うと断られるんじゃこちらも面目が立たない。昴を知らない人間はきっと昴の発言を訝しむだろう。
マンションを出ると向かいの少し大きなファミリーマンションの階段の前で子供たちが遊んでいる。それぞれ段ボールで作ったお面を頭につけ、何やらポーズを決めている。自身をヒーローに模して戦っているようだった。狼希が最後にヒーローになりたいと思ったのは、いつだっただろうか。
子供たちから目を逸らし行く先の道路に顔を向けると、まだ昇りかけの太陽の光が眩しく狼希を照らす。細めた目をゆっくりと開き、狼希は目的もなく歩き始めた。