私の家の地下倉庫には悪役令嬢が転がっている
何でこんなことになったんだろう。
ひょんなことから有力貴族の令息令嬢が多く通う王立魔法学園に入学した時はまさかこんなことになるとは思ってもいなかった。
私の家の地下倉庫には悪役令嬢が転がっている。
見る者の心を掴んで圧殺するほどに美しい金髪碧眼の美女が。
シルディニア=ゴージャスパリア公爵令嬢。王族に継ぐ家柄たるゴージャスパリア公爵家の一人娘というだけでも恵まれているというのに天は彼女にどれだけのものを与えているんだと言わんばかりに恵まれてまくっていたご令嬢よ。
同じ学園に通っていた頃のシルディニア様はそれはもう有能過ぎて名を馳せていたものだった。令嬢には必須の礼儀作法やらダンスやらは当然として魔法やら武芸やらの戦闘能力も名門たる王立魔法学園でも首位を独走していたし、芸術関連でも名だたる賞をかっさらっていたし、頭脳に関しても学者顔負けで、実務に至ってはゴージャスパリア公爵家当主と肩を並べて領地経営に携わっていたというし、地位が下の者にだって見下すことなく接してくれるし、何よりどこぞの絵画から飛び出してきたんじゃないかってくらい美しい人だったのよ。特に笑顔がもう綺麗でさいっこうだったよね! よく遠目に盗み見て悶えていたものだよ!!
あれだよ、もうそこまで突き抜けていると嫉妬しようもなかったよね。なんていうか、あの頃のシルディニア様は私にとって違う世界の住人だった。私なんかが同じ学園に通っているのが信じられないくらいで、ほんの一声かけることすらできない憧れだったのよ。
というわけで当時の私とシルディニア様とが関わることはなかった。いやもう絶対に無理だから! 公爵令嬢と平民の身分差以前にあんな国宝級の絵画だの巨大な宝石だのが普通に霞む美人さんなんて遠目に見つめるのが限界だって!! それこそ廊下ですれ違う時に端っこに避けて頭を下げてやり過ごしていると見せかけて実は気付かれないようそっと目を上げてそのご尊顔を脳裏に焼き付けるとかね!!
ごほん。ええと、あれだよ。美人ランクなんてものがあればSランクと言わず一発で殿堂入り間違いなしなくらい突き抜けたシルディニア様が次期国王たる第一王子の婚約者に選ばれたのも必然だったよね。シルディニア様には未来の王妃って金看板くらい当たり前に献上されるべきものだしね。……まあ婚約発表の日には三日三晩寝込んで世界を呪いましたけどっっっ!!!!
まあ私がどう思おうとも、私以外の全員がその婚約は必然だと納得していて、私以外の全員がその婚約は後の王国の繁栄のために必須だと考えていて、私以外の全員がその婚約が脅かされるなんて考えてすらいなかったはずよ。
当たり前に、普通に、常識的に、慣習に則って、パワーバランスを考慮して、その婚約は結ばれた。そこに愛なんてものは一切なく、無味無臭に、流れ作業のようにね。
完全なる政略目的。
シルディニア様の幸せなんてどこにも考慮されていない、総合的に見て都合がいいというだけで結ばれたもの。
そのことに何か思わないわけじゃなかったけど、逆に言えばそれまで。私のような平民が天の上のお貴族様の世界の決定に対してどうこうできるわけもないんだから。
憧れは憧れでしかない。
それだけの話なんだから。
そんな私にはせめてシルディニア様の相手が政略だろうが何だろうが婚約者を大切にする男であれと祈ることしかできなかったのよ。まあ、もしもそんな男であれば現在シルディニア様は地下倉庫に転がっていないわけだけどね。
つまり第一王子にしてシルディニア様の婚約者『だった』あの男、グルファルト=フォックガーデンはどうしようもないクソ野郎だった。政略結婚だからと、そこには愛なんてないからと、シルディニア様を蔑ろにしやがったのよ。
あまりにもシルディニア様が優秀だから嫉妬しているなんて噂も聞いたけど……真偽はどうであれ、どんな理由があったってシルディニア様を蔑ろにしていいわけじゃないっての!
とにかくあの頃のシルディニア様と第一王子との間にはろくに会話もなかった。それどころか第一王子はシルディニア様を敵視しているような雰囲気さえあったのよ。政略結婚だっつってんのに人目のあるところで、しかも平民である私でも察しがつくくらい不仲だってありありと示すとかもう馬鹿じゃないのって話よね。クソ野郎め!
だから、そう、予兆はあった。
確かに予兆はあったのに、あの時の私にはどうすることもできなかった。
だからあの日、第一王子主催のパーティーで全てが決した時も、所詮は平民でしかない私はそのパーティーに参加できるわけもなく、翌日になってシルディニア様の末路を知ったのよ。
高位の貴族が集うパーティーでシルディニア様は第一王子から婚約破棄を告げられた。それだけでなく第一王子の婚約者という立場を利用して得た機密情報を敵国に流出──すなわち国家反逆の罪により拘束されることになったのよ。
単なる平民には真偽なんてわかりようもない。
シルディニア様が罪を犯したかどうかなんて探偵でも高位の貴族でも希少な魔法の使い手でも何でもない私に調べようもないんだから。
だから。
だけど。
それから一週間後、いつものように帰り道の近道だからと路地裏を歩いていた私は血だらけで地面に倒れていたシルディニア様を発見した。単なる傷じゃない、できるだけ痛めつけるように執拗に、憎悪さえ滲むほどにボロボロの……ど素人の私にだって拷問によるものだってわかるほどに傷だらけのシルディニア様を。
『しっシルディニア様!? どうしてこんなところにっ、いやそれより大丈夫ですか!?』
『……くし、は……』
私の声なんて聞こえてなかったんだろう。
目は虚で、声音は悲痛に満ちていた。
それは私に向けられたものじゃなくて、だけど確かに私に届いたのよ。
『わたくしは……機密情報を、流出など……していません。しんじて、ください」
私には探偵のように少ない証拠から真実を見出す能力はない。
私には多くの人材や財力を存分に使って真実を明らかにする力はない。
私には基本属性である火や水や風や土に分類されず未だに詳細が明らかになっていない希少な魔法で真実を暴く力はない。
何で有力貴族の令息令嬢も通う魔法学園に通うことができているかもわからないような、どこにでも転がっている平凡な女でしかないのよ。
だからどうした。
こんなに傷だらけになってでも、そうよ、嘘でも何でも認めてしまえば楽になれるとわかっていてなおも首を横に振って無実を訴える女の子の言葉を疑う理由なんてどこにもない。
『うん。信じるよ、シルディニア様』
そうして私はシルディニア様を担いで孤児院を出てすぐにひょんなことから手に入れた一軒家まで連れ帰った。
簡単な傷の手当てくらいなら私にもできた。本当は本格的な医療施設に任せたかったけど、それはシルディニア様に拒否された。脱走中だから仕方ないにしても傷が痛んで呻き声を上げるのを見ていると心が張り裂けそうだった。何もできない自分が心底憎かった。
……気がつけばシルディニア様は隠れるように地下倉庫に蹲るようになった。あの何をやらせても完璧で、美しく、自信に満ち溢れていたシルディニア様はすでにどこにもいなかった。常に怯えたように身を縮こませて、声をかけただけで大きく身を震わせて、壊れかけの無機質な人形のような虚な目をしていて、とにかくできるだけ見つかりにくい場所にいないと不安で仕方ないらしく地下倉庫から出ることもできなくなっていたのよ。
あのシルディニア様が。
目を合わせることも畏れ多いと思うくらい憧れていた、完璧で美しく自信に満ち溢れていた私の憧れが完膚なきまでに『死んで』いた。そんなになるまであのクソ野郎はシルディニア様を追い詰めたのよ。
私はどうしようもなく無力だった。
私にできることなんて何もなかった。
私ではシルディニア様を助けることなんて無理だろう。
それでも、だとしても、見捨てることなんてできるものか。単なる平民にできることなんてたかが知れているとしてもそれは何もしない理由にはならない。後になって結末を知って後悔するくらいならやれることは何だってやってやる!!
ーーー☆ーーー
シルディニア=ゴージャスパリア公爵令嬢は貴族令嬢の見本のような女であった。
貴族令嬢に求められるあらゆる項目を高水準でこなし、その価値を存分に社交界で見せつけていた。それこそ野心溢れる高位の貴族たちであっても彼女こそが第一王子の婚約者になるのが当然だと認めてしまうほどに。
そう、シルディニア=ゴージャスパリア公爵令嬢は常に権謀術数を張り巡らせて暗躍する高位の貴族たちでさえも蹴落とすことは不可能だと悟らせるほどに完璧であった。
それほどまでに彼女が評価されていたのには様々な要因があっただろうが、その最たるものは保有魔力の多さであった。頭脳や武術などであれば後天的にある程度伸ばせるだろうが、魔法の規模や継続性に深く関与する魔力量だけは先天的な才能が全てである。
シルディニア=ゴージャスパリア公爵令嬢の魔力保有力はずば抜けていた。それこそ一人で軍勢に匹敵するほどに。そして、幼い頃に魔力の暴走によって当時魔法の腕前から賢者とも評されていたシルディニアの母親を消し飛ばすほどに。
皮肉なことに魔法使いの中でも最上位に君臨していた母親を殺すことになったその事故がシルディニアの『力』を知らしめたのだ。
……その事故から年月も経ち、今のシルディニアは魔力を暴走させるようなことはなくなった。だが、そのトラウマは未だシルディニアの心の奥深くに根付いている。
物や人に直接魔法をぶつけて傷つけようとすると、母親を魔法で殺す幻想を突きつけられるほどに。そのことは王族直属の騎士による調べによって第一王子の耳にも入っている。
ゆえにシルディニアは『力』はあっても第一王子による策略によって傷つけられようともろくに抵抗できなかったのも必然だった。自分の命よりも大切な母親をもう一度殺してでも、なんて思えるわけがないのだから。
ーーー☆ーーー
こんこんこっここん、と床下を私だよってわかるよう決めておいたリズムで軽く叩いて、そして私は微かなとっかかりに手をかけて床をめくるように開ける。
地下倉庫の端の端に縮こまるシルディニア様の姿に胸が締め付けられるようだったが、そのことを表情に出しても仕方ないと笑顔で覆い隠して声をかける。不敬だとわかっていても、できるだけ明るく。
「へい、かーのじょっ。元気してるうー?」
「み、つり……ちゃん」
「そうそうそうだよ、ミツリちゃんですよーっと。いやあ、シルディニア様に名前を覚えてもらえるだなんてちょー嬉しいってもんだよっ」
いや本当に。
だってあのシルディニア様が私の、どこにでも転がっているありふれた平民の名前を口にしているんだよ? なにそれいくら貢げば享受できる幸せなわけ?
「よっ、ほっと」
できるだけ元気に私は軽やかな足取りで地下倉庫に降りてシルディニア様の近くに歩み寄る。もう傷つきに傷ついたシルディニア様がこれ以上余計な心労を感じないように。シルディニア様に気を遣わせないように。
そのためなら空気の読めない道化だって演じてやる。
それで少しでも気が紛れればいいし、何なら不敬だって叱責してくれてもいい。
下手な同情で空気を重くしたってシルディニア様には負担にしかならない。それならとにかく正にしろ負にしろ今の壊れかけの無機質な人形のようなシルディニア様の目に感情が灯るために明るく元気に空気を読まずに何だってやってやる。
「ねえねっ、シルディニアさーまー? ご飯持ってきたから一緒にたーべよっ?」
無遠慮に、ほんの少し昔だったならば絶対にできないほど気安く私はシルディニア様の隣に腰掛ける。持ってきたお手製の料理を載せたトレイをシルディニア様の前に置く。もう一つ持ってきたトレイにあるパンを摘んで自分の口に運ぶ。
ああ、本当ならこんなことはあり得ないことなんだよね。あのゴージャスパリア公爵令嬢と隣り合って食事をとるなんてさ。
私は何でもなさそうにパンを摘みながらも横目でこっそりシルディニア様を見やる。黄金のように煌めいていた金髪は無茶苦茶に切り裂かれて不揃いな上に痛みきっていて、星のように輝いていた碧眼は無機質に澱んでいて、未だ塞がらない全身の傷が白く綺麗だった肌の至る所に刻まれていて……完璧で美しく自信に満ち溢れていたシルディニア様はとっくに『死んで』いた。
だから。
それでも。
だからこそ。
「そうだ、シルディニア様っ。あれ知ってますあれっ。あと三日もすれば流星群が見られるんだって!」
「…………、」
「しかも空一面が流れ星で埋め尽くされるくらいちょー大規模なものだって星読みの魔法使いが予測しているとか! シルディニア様は流れ星って見たことある? 私は昔に孤児院を抜け出して一回見たっきりなんだよねぇ。だから今からちょー楽しみだったり! 一つきりの流れ星でもあんなに綺麗だったんだし、空一面ってなればすっごーく綺麗だろうしね!!」
「…………、」
「というわけで、どう? 私と一緒に流星群見に外に出てみない?」
「…………、」
「って脱走中の身の上だってのに気軽に外になんていけないかっ。あっはっはっ。それなら家の窓から見るくらいならどう? ほらほら、こんな薄暗い地下倉庫にずっといたんじゃ気が滅入るだろうしさ!」
「…………、」
「はは、はははっ! 私なんかがシルディニア様をお誘いするとか図々しかったかなっ。うん、うん。あ、そうだっ。一回言ってみたいことがあったんだよね! 本当は流星群見ながらにしようと思っていたんだけど、ごほん。へい彼女っ、君は幾千の流れ星よりも美しいよ……なーんてね、あっはっはっ! ほらほらここはツッコむところだよ? クソダサいからその口閉じろとかね!!」
「…………、」
「は、あはは……。そうだ、後ね、聞いたところによると──」
痛々しさなんて出すな。辛いのはシルディニア様なんだから。
私じゃシルディニア様を真に助けることなんてできないかもしれない。できることといったら中身のない、我ながらくだらないと思えるような話をしてでも気を紛らわせてあげることくらい。
それだって余計なお世話なのかもしれない。それならそれでもいい。鬱陶しいって、邪魔だって、そうやって負の感情を露わにすることだって今のシルディニア様にとっては無駄にはならないはずだから。
今のシルディニア様は『死んで』いる。
息をしているだけで中身は空っぽな死体のような現状から一歩でも前に進めるならばそれがいいに決まっている。
余計なお世話だとしても、だとしても、私はシルディニア様には笑っていて欲しいんだ。まあ本当ならシルディニア様をここまで追い詰めたクソッタレな第一王子どもをやっつけるなり、敵国への機密情報流出の真相を明らかにしてシルディニア様の無実を証明するなり、今のシルディニア様を一発で笑顔にして救えるような劇的な何かができればいいんだろうけど、私なんかじゃそんなことは絶対にできない。
だからこれは単なる手慰めで、言い訳で、実は意味なんてないのかもしれない。何かやってあげられているんだと、自分に言い聞かせているだけに過ぎないのかもしれない。
本当に、ほんっとうにどうしようもなく情けないけど、だからと言って立ち止まる理由になんてならない。できることは何だってやるって誓ったんだから。
ああ。
完璧超人な英雄でもご都合主義の勇者でも何でもありな神様の化身でも何でもいい。ぽっと出の誰かに出番を奪われたって構わないから、誰でも何でもいいから、早くシルディニア様を笑顔にしてよ。
ーーー☆ーーー
魔法とは人が紡いだ叡智の結晶である。
魔力とは魔法という技術を最大限に活かす絶対的な力である。
魔力そのものは物理的な破壊を招くことはない。ゆえに人間がどれだけ持ち合わせていようとも内側から破裂するようなことはないのだ。
あくまで魔力を炎の剣だの水の槍だのといった基本形とか転移だの重力操作だの未来予知だの希少な性質を発揮する魔法という形に整えて初めて世界に影響を及ぼすことができる。
それが、一般的な説であった。
あくまでそれは普通の人間の場合に限ると賢者と評されるゴージャスパリア公爵夫人は考えていた。
過ぎたるは害となる。
一滴の雨粒は石の表面に弾かれる無力な存在でも幾千幾万もの月日をかけて数えきれないほどの雨粒が降り注いだならばどんな強固な石だろうが穿つことができるのだから。
これまで魔力が無害であると考えられてきたのは単に害を与えるほどの量を持ち得る人間が存在しなかったからだ。
つまり、
『お母様。全てが煩わしいんです。憎いんです、だいっきらいなんです!! 吹き飛ばして、捻り切って、抉って、裂いて、ぶち壊したいのです!! そんなわけないのに、本当は大好きなのに、わたくしはお母様のことだって……!!』
それはいつかどこかの出来事。
膨大すぎる魔力によって精神をぐちゃぐちゃにかき乱されて、自分のものじゃない破壊衝動に訳もわからず錯乱しているシルディニアをゴージャスパリア公爵夫人は抱きしめた。
誰もがその魔力に怯えて足をすくませようとも、母親として当たり前だと言わんばかりに。
いつかどこかで魔力の暴走によってその身が砕かれた時だってゴージャスパリア公爵夫人は後悔なんてするわけがなかった。
だけど、大切で大好きな娘がひとりぼっちになってしまうことだけが気掛かりだった。
願わくば、自分に代わってシルディニアに寄り添ってあげられる誰かが現れてくれればと。
ーーー☆ーーー
私は学園からの帰り道で苛立ちげに舌打ちをこぼしていた。
世間ではシルディニア様は醜い売国奴と唾を吐きつけるような悪評ばかり流れている。有力貴族の令息令嬢がうじゃうじゃいやがる王立魔法学園ではそれは顕著で、シルディニア様を貶すことでシルディニア様を裁いた第一王子がいかに素晴らしいかと囀り、次期国王に擦り寄るクソッタレばかりなんだから。
少し前まではシルディニア様に擦り寄っていたくせに、今では昔の絵本の悪役令嬢のようだと貶してやがるのよ。
敵国への機密情報の流出云々ってのはあくまで第一王子グルファルト=フォックガーデンがそう言ったってだけで、実は明確な証拠はどこにもないってのに。あるのは何人かの目撃情報とか何とか王族が部下に命じればいくらでも捏造できる不確かな証拠しかないってのに!
あいつらにとって真相なんてどうでもよくて、どう立ち回れば利益になるかしか考えていないのは丸わかりだった。そんな奴らにシルディニア様が築き上げてきたものが踏み躙られているってのに私は何もできなかった。
貴族の令息令嬢に逆らってもろくなことにならないからって、そうやって言い訳してあることないこと散々ばら撒くクソッタレどもに何の反論もできなかったのよ。
今のシルディニア様のそばにはこんな情けない奴しかいない。多分シルディニア様が私の家から出ようともしないってことはゴージャスパリア公爵家だってとっくの昔にシルディニア様を切り捨てているんだろう。
誰にも頼れないから、こんな情けない奴のそばから離れることもできない。都合のいい英雄も勇者も神様の化身もいないから、悲劇のヒロインを救うヒーローが現れてくれないから。
……ここで私がヒーローになってやるって言えないから私はどうしようもないのよ。力がないと、ハナから諦めてしまっているんだから。
「はぁ。別に世界を救う力なんていらないのに。たった一人の女の子を救えるだけの力があれば、それだけでいいのに」
多分、本当の意味でのヒーローは力の有無なんて関係なく戦える奴のことを言うんだろう。力の有無程度で足踏みするような奴にはハナからヒーローになる資格もないんだよ。
わかっていて、それでもと足踏みしてしまう私じゃできることなんてたかが知れているよね。
ーーー☆ーーー
ミツリは物心ついた時には孤児院にいた。
実の両親との記憶なんてどこにもなく、それでもそれが不幸だとは思わなかった。周りには孤児院を管理しているシスターや同じ孤児の者たちがいて、血の繋がりなんて気にならないくらい大切だと思えたから。
ミツリは好奇心が旺盛であった。夜に孤児院から抜け出すことも一度や二度ではなく、どこか目的地があるわけもなくふらふらと歩き回っていた。
強いて言えば楽しい何かを探していた。
夜だからとじっとして寝るだけだなんてつまらないと、せっかく生きているなら楽しいことをこれでもかと味わってやりたいと。
ある日、幼い頃のミツリは噴水がある広場のベンチに腰掛けて、キラキラと輝く星空を見上げていたはずだ。
そこで流れ星を見たことは覚えている。
だけど、本当にそれだけだっただろうか?
『へい、かーのじょっ。どうかしたのかな?』
誰かに話しかけたはずだ。
『わあっ、流れ星だっ。わたし、はじめて見たよっ』
あの時のミツリは誰かにこう言ったはずだ。
『せっかく生きているなら楽しいことだけ味わって、幸せを存分にかき集めるべきだよ』
あの時そうやって話しかけた誰かの顔はもう思い出せないけど、流れ星と同じかそれ以上には綺麗な誰かだったようなという感覚だけがミツリの胸の奥に残っていた。
ーーー☆ーーー
いつものようにひょんなことから孤児院を出てすぐに手に入れた一軒家に帰り、地下倉庫に転がっているシルディニア様にご飯を運ぼうとした時だった。
どんどんっと乱暴に玄関の戸を叩く音がした。
この感じはシスターや孤児院を出たみんなやリリィさんではないだろうし、どうせ怪しい宗教の勧誘とかよね。こちとらひょんなことから魔法を教えてくれるようになった元冒険者現どこかの誰かが家とは関係なく個人的に雇っているとかいうメイドのリリィさんのお陰で王立魔法学園でもそれなりにやっていけるくらいの魔法の腕はあるし、いざとなれば力づくでも押し返してやればいいよね、うん。
っていうか、うるさいなぁっ。
さっきからどんどんって何度も何度も叩いてさ! そんなに叩かなくても聞こえているっての!!
「はいはいなんですかーっと!」
玄関の戸を開けて、私は思わず息を呑んでいた。
そこに立っていたのは今最も会いたくない相手だったから。
何人もの騎士を引き連れたその男。
学園でも何度か顔を見たことがある見た目だけは整ったクソ野郎。
つまりは第一王子グルファルト=フォックガーデンが単なる平民の家にやってきたのよ。
「くだらない腹の探り合いをする気はないから単刀直入に言わせてもらおう。シルディニア=ゴージャスパリアを連れてこい」
「……っ。は、はは。どうして私のような平民が公爵令嬢──」
「おい、俺様はくだらない腹の探り合いをする気はないと言ったぞ。貴様があの女を匿っているのはわかっているんだよ」
直後、私は吹き飛んでいた。
机や椅子を薙ぎ払ってなお止まることなく壁に叩きつけられて、床に転がって、そこでようやく全身に走る激痛を知覚できるくらいにはその攻撃は速く、重く、高度なものだった。
魔力の残滓から魔法ってのは何となくわかったけど、直接叩き込まれてもなおそれ以外は何もわからないくらいには。
「が、ばぁ、ぶぇぐぶえっ!?」
今更のようにあまりの痛みにのたうち回っていた。口の中に鉄錆臭い味が広がったかと思ったら真っ赤な液体を吐いていた。その赤を見て血を吐いたんだってどこか他人事のように素通りしそうになった。それくらい私の日常に『こんなこと』はなかったから。
ああ、私、今魔法で攻撃されたんだ。
血を吐くくらい傷ついているんだ……。
「ひっ、ひぃっ……ふっはひっ」
怖い。
とにかく怖くて震えが止まらない。
涙がボロボロと溢れて視界が歪む。
どうしてこんな簡単に人を傷つけられるんだろう? いいや、違う。こんな簡単に人を傷つけられる奴だからなんだ。だから、だから!!
「さあ、大人しくシルディニア=ゴージャスパリアを連れてこい」
気づいたら、もう駄目だった。
「お前、が……こんなにも簡単に、人を傷つけられる奴だから……」
「あん?」
今だって怖いよ。本当に怖いけど、それ以上の感情が湧き上がっていた。その熱は私が意識するよりも前に叫びとなって溢れた。
「何が敵国への機密情報の流出よ……。それが真実かどうかはともかく、本当にシルディニア様にあんな拷問まがいの暴力を振るわれないといけなかったの? 国家防衛のためにはどんな手を使ってでもシルディニア様がどこまで情報を流出させたか引き出さないといけない。そんなそれっぽい理由を用意したかっただけじゃないの!? お前が余計な指示をしたから、命令一つで簡単に人を傷つけられる奴だったから、だから! シルディニア様はあんなにもボロボロにならなきゃいけなかったんだ!! そうなのよね!?」
「何を今更。何のためにあの女に冤罪を被せたと思っている? たかが王の血を後世に残す肉袋の分際で俺様よりも優秀だと持ち上げられていい気になっている大罪を償わせるために決まっているだろう」
目の前のクソ野郎はなんでもなさそうにそう言った。
こんなのは当たり前だと、当然だと、非難している私のほうがおかしいと言わんばかりに。
こんな奴のせいでシルディニア様はこれまで築き上げてきた全てを失った。自信に満ち溢れていた目を壊れかけの無機質な人形のように死なせてしまった。
こんな奴がいたから。
しかもこいつは、しかも!!
「なんで、まだシルディニア様に固執するわけ? シルディニア様は全てを失った! もう第一王子の婚約者ではなくなって、あんなにも傷だらけになって、お前のせいで罪人として一生逃げ回る羽目になった!! それじゃだめなの? それ以上に何がしたいってのよ!?」
「まだ生きているだろう?」
一言だった。
淡々と、それが世界の真理だと示すがごとく。
「あそこまでしてもなお一部ではあの女のほうが俺様よりも優秀だったなどと言われているんだぞ!? だから、いや、そうでなくとも、そうだ、そうなんだ、あの女だけは必ずや殺さなければならない!! 俺様の手で殺すことで初めてあの女よりも俺様のほうが上だと証明されるのだから!!」
「つまりくだらない劣等感を払拭するためにシルディニア様を殺すってこと? いいや、どんな理由を並べたって人を殺すのは悪いことだってそんなこともわからないわけ!?」
「何を言い出すかと思えば。俺様はいずれこの国を統べる王となるのだぞ? であればこの国にある全ては俺様の所有物だ。俺様のものを俺様がどう扱おうが、殺そうが、文句を言われる筋合いはないな」
「……ッッッ!!!!」
怖くないかと言えば嘘になる。
今だって身体は無様に震えて仕方ない。
私の本質はありふれた平民で、ヒーローになんてなれないのはわかっている。英雄でも勇者でも神様の化身でもなく、どこにでも転がっている有象無象の一人でしかないのは私自身が一番理解している。
「……そこまでシルディニア様に執着しているってわけね。だったら教えてやるわよ」
だけど、いくらありふれた量産品のような平民にだって意地はある。どれだけ怖くても、力がなくても、情けなくても、それでもやれることは何だってやるって誓ったんだ。
だから。
だから!
だから!!
「シルディニア様はもうここにはいない! お前の手が届かない場所に逃げていったのよ!!」
できるだけ大きく私は叫ぶ。
地下倉庫に転がっているシルディニア様に危機が迫っているって伝えることができればそれで十分。
「くだらない腹の探り合いをする気はない? ぷっ、はっはっはっ!! お前らがここらを探っているってバレていることにも気づかずに馬鹿だよねぇ!? もちろん気づいたのは私じゃないわよ? お前らなんかよりもずっとずっとずうーっと優秀なシルディニア様がよ! だったら逃げるに決まっているじゃん。それを、ぷっぷっ、自分がどれだけ間抜けなことしているか気づかずに格好つけちゃってさあ!! 本当ばっかみたい!!」
どうにか逃げ切ってよね、シルディニア様。
もう一度クソ野郎に捕まってあんなにも酷く傷つけられることなく、貴女に気づかれないようそっと盗み見た時のあんなにも胸がドキドキするほどに綺麗だった笑顔をもう一度浮かべることができるようになるまで遠くに。
私じゃヒーローにはなれなくても。
呆気なく倒される有象無象の一人が精一杯でも。
それでもと繋げるだけの理由は確かに胸の奥にあるのよ。
たった数日とはいえ、まともに言葉を交わすこともなかったとはいえ、だから諦めてもいい存在だったならば初めからシルディニア様のことを地下倉庫に匿うこともなかったんだから。
「ふん」
言葉による返答なんてなかった。
単純な暴力。いくら元冒険者に鍛えてもらったとはいえ護身術程度にしか使えない私の魔法の腕じゃ抗いようもない力が襲いかかってきた。
窒息。
痛みもなく一瞬で私を殺す力があるだろうに、第一王子グルファルト=フォックガーデンはわざわざ私ができるだけ苦しんで死ぬ攻撃方法を選んだのよ。
「ぁ……ひゅっ!?」
「たかが平民が俺様に楯突きやがって。大人しくシルディニア=ゴージャスパリアを差し出していれば部下の慰安のために少しは生かしてやってもよかったというのに。精々苦痛の中で己の罪を悔いながら死ぬがいい」
魔法によって強固に固められた空気によって全身を拘束されて手足をばたつかせることもできなかった。あまりの苦しさに叫ぶこともできず、目の前が不気味に明滅していた。
意識が遠くなる。
もう死ぬんだってそう思った時、脳裏によぎったのは家族のように大切なシスターや同じ孤児のみんなでもリリィさんでもなくて、シルディニア様の顔だった。
できることならば、もう一度シルディニア様が笑うところを見たかったなぁ……。
ーーー☆ーーー
ゴッッッ!!!! と凄まじい轟音がミツリの家を揺さぶった。途端にガラスでも割るように呆気なくミツリを蝕む魔法の一切が粉砕された。
だからこそ、意識が沈む前に彼女はその姿を見ることができた。
黄金のように煌めいていた金髪は無茶苦茶に切り裂かれて不揃いな上に痛みきっていて、星のように輝いていた碧眼は無機質に澱んでいて、未だ塞がらない全身の傷が白く綺麗だった肌の至る所に刻まれていて……それでも美しく輝いている大切で大好きな人を。
「にげて、って……伝えていた、つもり……だったんだけどなぁ」
「馬鹿言うのではありませんわ。ミツリちゃんを置いて逃げられるわけがないでしょう」
「そ、っか……え、へへ。そっかぁ」
このままではまたシルディニアが第一王子に捕まって痛めつけられてしまうとか、自分が囮になった意味がなくなったとか、普段なら色々思っていただろうが、今にも意識を失う寸前のミツリはそこまであれこれ考える余裕はなかった。
だから、一つだけ。
やっぱりシルディニアは憧れだったと、彼女こそ英雄も勇者も神様の化身も霞む格好いいヒーローだとそう思った。
そうして彼女は意識を失った。
ーーー☆ーーー
決着まで一分も必要なかった。
ーーー☆ーーー
目が覚めると、星空が煌めいていた。
「ん? あれ……???」
頭がぼーっとする。何か、そう、とっても大変なことがあったような……。
「目が覚めましたか、ミツリちゃん」
その声と共に覗き込んできたのは金髪に碧眼の美女だった。ああ、シルディニア様が私のことを見ている……。
「って、そうだ! シルディニア様大丈夫!? 怪我してない!?」
「きゃっ」
私は慌てて飛び起きてシルディニア様の全身を両手で撫でながらどこか怪我が増えていないか確認していた。新しい傷はなさそうだけど、相手は第一王子。しかも騎士を何人も連れていたんだよ。あいつらが王族直属の騎士だったらその実力は私なんかの想像を軽く超えているはず。見た目は大丈夫でも中身はどうなっているかわからないよね!?
「あ、あの、ミツリちゃん……。そんなに触られると、その、恥ずかしいですわ」
「えっ、あっ、ごめんねっ。嫌だったよね!? これはもう不敬罪で首切り待ったなしとか!?」
「い、いえ、嫌とかではありませんけれど」
そう言いながら赤くなった顔を隠すように俯くシルディニア様。そこで私はようやく気づいた。
シルディニア様が普通に喋っている。
あんなに何度も声をかけたってほとんど返ってこなかったのに。
気づいたら、もう駄目だった。
どうして急にとか、そんな些細なことを考える暇もなく涙が溢れていたのよ。
「ねえシルディニア様。もう大丈夫なの?」
急で具体的な説明も何もない問いかけだったけど、シルディニア様には伝わったみたい。真っ直ぐに私の目を見てこう答えてくれたのよ。
「ええ。ミツリちゃんのお陰ですわ」
我慢の限界だった。
私の頭の中から細かいことなんて全部吹っ飛んでいた。
気がつけば私は思いっきりシルディニア様を抱きしめていたのよ。
ーーー☆ーーー
これにて物語はハッピーエンドで幕を閉じる。
確かに存在する真実が誰にも知られることなく。
ーーー☆ーーー
ミツリはひょんなことから有力貴族の令息令嬢も多く通う王立魔法学園に入学ことになった。正確には『誰か』の推薦によるものだったのだが、ミツリ本人には詳しいことは知らされてはいなかった。
ミツリはひょんなことから孤児院を出てすぐに一軒家を手に入れた。正確には十歳になって(現場の考えはどうあれ大元の国家が決めたからと)孤児院から出ることになったミツリが酔狂なお金持ちの『誰か』が主催するプレゼント企画に何ともなしに応募したら一軒家をもらうことができたのだ。その他にも孤児院から出てすぐの何の後ろ盾もない子供を食い物にしようとする者たちに狙われないような安全な職場を紹介してもらっていた。
ミツリはひょんなことから元冒険者現『誰か』が家とは関係なく個人的に雇っているというメイドのリリィに魔法を教わっているお陰で王立魔法学園でもそれなりにやっていけるくらいの魔法の腕はある。リリィがなくした両親の形見であるネックレスを見つけたのをきっかけに色々と親身になってくれたのだが、全ては『誰か』からの命令でそうなるよう動いていたに過ぎない。
はっきり言おう。その『誰か』はシルディニア=ゴージャスパリアである。そう、王立魔法学園で出会う前から彼女はミツリのことを大切に大事に守ってきたのだ。
では、なぜ?
それはシルディニアが母親を魔力の暴走によって意図せずに殺してしまって何日か経過した時にまで遡る。
あてもなくシルディニアは彷徨っていた。ゴージャスパリア公爵令嬢という立場であれば本来なら護衛やメイドが止めるものだろうが、周囲の人間が本来の仕事をしないほどには彼女は恐怖の象徴だった。
魔法使いであれば誰もが知っている賢者でさえも殺すことができる莫大な力の塊。それも本人は制御できないともなれば、下手に口を出して反感を買って暴走に巻き込まれて殺されるなんてごめんだと護衛やメイドは元より実の父親でさえもそう考えていたのだ。……あるいは自分たちを巻き込まずにどこかで死んでくれればとも。
だからその日もシルディニアはひとりだった。
虚な目で自分がどこを歩いているかもわからずに彷徨っていた。
だから、その女の子に出会ったのは偶然だった。
『へい、かーのじょっ。どうかしたのかな?』
同じ歳くらいの女の子は無遠慮に近づいてきた。シルディニアがどこまでおぞましい化け物かも知らずに。
『来ないでください!』
『うおっ。なになに、どうしたの? そんなに嫌がることなくない?』
『わたくしになど関わらないでください。わたくしのようなバケモノには誰かと触れ合う資格などないのですから!!』
『ふーむ?』
だから。
なのに。
『まあ何でもいいや。なんて言われたって私があなたみたいな綺麗な人と関わりたいって思ったのに変わりはないし。というわけでデートしようよ、ねっ?』
『なっ、なにを、やめっ』
シルディニアの気持ちなんて無視して強引に手を繋いできて、引っ張って、どれだけ嫌がったって屈託のない笑顔を浮かべて。
『いやあ、私だって本気で嫌がっているなら大人しく引き下がるけどさ、そうじゃなさそうだもん。だったら遠慮はしないよ。えっへへ、こんな綺麗な人に出会えたなんて今日はなんていい日なんだろうっ。これだからお散歩はやめられないよね!!』
『なんなんですか、もう』
『それはそうと疲れたよねっ。どっかで休もっか!』
噴水がある広場にあるベンチに二人並んで座った。
二人で何ともなしに夜空を見上げた。
『わあっ、流れ星だっ。わたし、はじめて見たよっ』
キラキラとその女の子は目を輝かせてそう言っていた。隣にどれだけ醜く凶悪なバケモノがいるかもわからずに無邪気にはしゃいでいた。
その姿がどうしようもなく眩しく、だから心惹かれて、だから殺したくて仕方なかった。
母親を殺してもなお魔力なんかに振り回されているそんな自分のことが死にたくなるくらい大っ嫌いだった。
『わたくしはあなたを殺します』
『んう? そうしたいの???』
『したくなどありませんわ!! ですけどこのままではそうなるのです!! どれだけ大切にしようと思っても、殺したくないと願っても、わたくしの中の力がわたくしの意志をねじ伏せて全てを壊してしまうのです!! ですから!!』
『嫌ならしなかったらいいじゃん』
『……は……?』
無茶苦茶だった。前提条件なんて無視して、話なんてろくに聞いていなくて、幼く無知で現実の冷たく残酷なルールを無視して彼女はこう続けたのだ。
『せっかく生きているなら楽しいことだけ味わって、幸せを存分にかき集めるべきだよ』
『わたくしだって、できるのならばそうしたいのですわ! ですけれど魔力が、わたくしの中の力がそれを許さないのです!!』
『ねぇ』
根拠なんてなかっただろう。
シルディニアが抱える事情なんて知らなかったし、聞こうともしていなかった。
ただただ無邪気に、残酷なまでに女の子はこう言った。
『あなたはどうしたいの?』
『……っっっ!?』
そんなの聞かれるまでもなかった。
だけど『それ』ができなかったからシルディニアは母親を失ったのだ。
『何があったか知らないけどさ、本当にしたいことがあるなら手を伸ばさないと。無理だって諦めたら絶対に叶えられないけど、諦めずに手を伸ばせば叶えられるかもしれないんだから』
『その結果、失敗して……誰かを傷つけることになってもいいと言うのですか?』
『あっはっはっ。その時はその時だよ! まずは自分が幸せにならないと生きている意味ないじゃん! 他の人のことを気にするのはまず自分が幸せになってからじゃないと』
『……そんな我儘で……いいのでしょうか?』
『少なくともわたしはわがままし放題だから幸せだよ。その代わりにいろんな人に迷惑をかけているんだろうね。それこそ今まさに孤児院抜け出してシスターに迷惑かけている真っ最中だし。……いやでも迷惑かけすぎて嫌われたりしないよね? なんか不安になってきたっ! ごめんねわたし今日はそろそろ帰るとするよ!!』
またねっと彼女は嵐のように去っていった。いっそ無邪気に、ゆえに幼く残酷なまでにシルディニアの心に決して消えない想いを刻みつけて。
それがシルディニア=ゴージャスパリアとミツリが初めて出会った日の出来事だった(ミツリはこの時のことなんてほとんど忘れていたのだが、シルディニアがそのことを知るのはもう少し後の話である)。
それからというものシルディニアは虚な目であてもなく歩き回ることはなくなった。心の奥にあの女の子のそばにいたいという想いが灯ったがために。
あの女の子は失敗してもその時はその時だと言っていたが、だからといってあの女の子を求めるだけ求めて、その結果母親のように魔力の暴走に巻き込んで殺すなんて嫌だった。
だから訓練した。寝る間も惜しんで、何の憂いもなくあの女の子のそばに立つために。それとは別にミツリのことを公爵家の力を使って調べて、一日の行動の全てを把握していた。そうして知れば知るだけ惹かれていくのを実感していた。
ミツリが孤児院を出ることになる半年前にはシルディニアは膨大な魔力をコントロールする術を身につけることができた。そのことで基本属性の魔法は元より、希少な魔法の数々も使いこなすことができるようになった。
重力操作や転移、そして未来予知というここ数百年賢者と呼ばれていた母親でさえも使えなかった秘術すらも幼いながらに習得してみせたのだ。
だからこそ、シルディニアは未来を知った。
もしも未来予知を使わなければ高確率でこうなっていたという未来を。
孤児院を出た直後のミツリをシルディニアはできるだけそばに置いておきたくてメイドとして雇った。それから数年は幸せな日々が続いたが、シルディニアの婚約者となった第一王子は狡猾で野心に満ちた男であったのが悲劇の始まりだった。完璧と評されるほどに優秀なシルディニアが万が一にでも裏切れないようにと第一王子はミツリに特殊な毒を盛った。認証登録された人間しか使うことのできない専用の解毒用魔法道具で症状を軽減させなければ死に至る毒を。つまりミツリを生かすためには第一王子に従わなければならない構図を作り出したのだ(そもそも特殊な毒も解毒用魔法道具も過去の支配者が特定の人間を脅すために用意したものなのだろう)。
シルディニアにとってミツリは絶対に失いたくない大切で大好きな存在だったからこそ人質として利用された。いくら症状を軽減させているとはいえベッドから起き上がることもできないほどに傷つけてしまった。
その他にも狡猾なあの男はあの手この手でシルディニアはもちろんのこと周囲の人間を支配して、他国に戦争を仕掛けて、やがて大陸全土を統一するに至る。その本質は悪なれど、その悪どい能力だけは本物であったがために。
シルディニアが感情のままにミツリを求めたら、そんな最悪の未来が待っている。だけどそれはあくまで未来を知らなければの話だ。
シルディニアは未来を知った。ならばそこから対策を考えて、未来予知を使い、望む未来になるかどうか確かめればいい。その繰り返しの果てに最善の未来を選び取ることができるのだから。
ゆえに第一王子の企みを粉砕することそれ自体は簡単だった。その過程でシルディニアは多くの未来を見た。
ミツリと主従関係となって共に歩む未来。
ミツリと共に高め合うライバルになった未来。
ミツリと親友のように仲良くなった未来。
ミツリに構いすぎてどこか距離ができた未来。
ミツリが自分以外と結婚して疎遠になる未来。
ミツリを束縛しようとして嫌われた未来。
ミツリとは二度と会わなかった未来。
ミツリに近づく男を遠ざけて一人きりにした未来。
ミツリを地下に監禁してそばに置いた未来。
ミツリが嫌がるのも無視して一生を添い遂げた未来。
ミツリにとって大切なシスターたちを殺した未来。
ミツリ以外の全員を殺して二人きりになった未来。
ミツリが死んだって構わずずっと一緒だった未来。
他にも何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度だって繰り返した。だけど、どこか納得いかなかった。何かが違った。第一王子には早々に退場してもらって、あの日心惹かれた女の子と向かい合って、様々な選択肢の果てを見据えて、そのどれもに満足できなかった。
そう。
どの未来でもミツリは最後の一線だけは超えてくれなかったから。
誤解のないよう言っておくが、ミツリは優しかった。求めれば最初はそばにいてくれたし、仲良くしてくれたし、尊敬されている自覚もあった。
だけど、そこまでだった。
シルディニアの抱く想いとは致命的に乖離があった。
だから繰り返していく度に破綻していったのだろう。最初こそ一定の距離までは近づくことができていたのにどんどん血生臭い方向に進んでいったのはその乖離に感情が爆発してせっかく紡いだ絆をシルディニアの手で壊してしまったからだ。
だけど我慢ができないのだ。魔力はコントロールできているので魔力による破壊衝動に支配されているわけではない。シルディニア=ゴージャスパリアという一人の人間がミツリを求めてしまうからこそうまくいかないことに我慢がならず最後には全てを台無しにしてしまっていた。
未来を予知すればする分だけ、シルディニアだけがミツリとの未来を積み重ねて想いを強くしてしまっていたから。皮肉にもよりよい未来を求める試行錯誤が幸せな未来を遠ざけていた。
未来予知なんて反則に頼りすぎず、第一王子という脅威を排除できた段階で満足していればよかったものをミツリとの一切の妥協なき幸せな未来を得ようと欲張ったがために。
もうここまできては普通の方法では拗れた未来をほぐすことはできないだろう。
ならばどうすればいいか。
決まっている。シルディニアが求めれば求める分だけ遠ざかるのならばミツリのほうから求めるように未来を紡げばいい。
どうやってと考えて、シルディニアは思いつく。いつもは邪魔だからと早々に排除していた第一王子。その素顔を知れば誰だって悪党だと気づく消耗品を使えばいい。
恋を彩るための波瀾万丈の物語。
ミツリにシルディニアを想ってもらうための舞台装置、わかりやすい悪役に第一王子ほど相応しい人間もいない。
だから膨大な魔力を利用した。幼い頃のシルディニアがコントロールできずに精神に異変をきたしたほどの魔力を他者にぶつければ誰に気づかれることなく精神を壊し、歪めて、望む形に『調整』することもできるはずだ。
シルディニアの未来予知さえなければ大陸を統一するはずだった男の狡猾さを発揮させないよう精神を『調整』し、普通ならあり得ないと思えるほど迂闊な行動ばかりを繰り返す安っぽい悪役に落とすことだってできるだろう。というか、そのための『調整』はどの程度か判明するまで何度だって予知を繰り返せばいいだけなのだから。
ゆえに第一王子は望むように転がった。シルディニアに冤罪を被せて、庇護欲を誘うほどに痛めつけた上で脱走を許し、どの未来でも初めてシルディニアと出会った時のことも忘れてしまっている薄情な(それでいてそんなところも愛らしい)ミツリがシルディニアに愛着が湧くまで待ってから現れてわかりやすく悪意を振り撒いた。
そうやって第一王子は悪役としての役目を果たした。
役目が終わったものは処分しなければならない。
第一王子が連れていた騎士たちの腕が吹き飛んで、足が捻れて、胴が抉られて、首が裂かれて、何の抵抗もできずに血飛沫と共に崩れ落ちた。過去のトラウマから母親を殺したのだという錯覚があったが、より大切で大好きなもののためだと思えば路傍の石ころを蹴り飛ばしたような心地で受け流すことができた。
ミツリが気を失ったのを確認してから十秒もなかった。たったそれだけで第一王子直属の騎士が全滅した。
騎士だった赤黒い残骸を全身に浴びた第一王子は今更ながらに己の迂闊な行動を後悔していただろう。
その狡猾さだけでいずれは大陸を統一するはずだった男が致命的なまでに追い詰められて、ようやく。
本来の彼であれば自分自身がこんなところまで出てくるような迂闊な行動はしなかっただろうが、そうなるようにシルディニアが『調整』したのだからこの末路は必然であった。
『……俺様は間違っていなかった……』
『お母様、ああっ、お母様……。ごめんなさい、痛いですよね苦しいですよね怖いですよね悲しいですよねですけど仕方ないのですわ。これも全てはミツリちゃんを手に入れて幸せになるためですもの。そのためなら、ええ、ええっ、わたくしの命よりも大切なお母様だって殺さないと』
『この女だけは絶対に殺さなければならなかった!!わかっていたはずなのに、くそっ。どうして痛めつけるなんて無駄なことをしていた!? あの時、冤罪で捕まえた時に殺していればこんなことにはならなかったというのに!!』
『せっかく生きているなら楽しいことだけ味わって、幸せを存分にかき集めるべきで、ですから、わたくしが幸せになるためにも何度だって死んでくださいな、お母様』
第一王子を八つ裂きにしてでもシルディニア=ゴージャスパリアは己の望む未来を手に入れる。楽しいことだけを味わって、幸せを存分にかき集めるために。
ーーー☆ーーー
なんという完膚なきまでのハッピーエンドだろうか。
これまでどんな未来でも一緒にいてくれてはいても決して自分から抱きしめてくれることはなかったミツリが今まさにこんなにも熱烈に抱きしめてくれているのだ。これ以上のハッピーエンドなどこの世にあるものか。
流星群が夜空を彩る。
まるで二人の門出を祝うようだと、シルディニアはうっとりと煌く空を見上げながら大切で大好きな人を抱きしめ返した。
──本当にしたいことがあるなら手を伸ばさないと。無理だって諦めたら絶対に叶えられないけど、諦めずに手を伸ばせば叶えられるかもしれないんだから、とミツリは言った。だから決して諦めずに手を伸ばし続けた。
──まずは自分が幸せにならないと生きている意味ないじゃん! 他の人のことを気にするのはまず自分が幸せになってからじゃないと、とミツリは言った。だから他人がどうなろうが気にしなかった。第一王子を筆頭に必要な人間の精神を『調整』し、都合よく動かして望む未来に至るようにした。もちろん大切で大好きなミツリにだけは一切手を出さなかったが、それ以外を壊すことに何の遠慮もすることはなかった。
──少なくともわたしはわがままし放題だから幸せだよ。その代わりにいろんな人に迷惑をかけているんだろうね、とミツリは言った。その通りだった。だからシルディニアは今まで感じたことがないくらい幸せだった。
「せっかく生きているなら楽しいことだけ味わって、幸せを存分にかき集めるべきですものね」
「ん? 何か言った、シルディニア様?」
「いいえ。……大好きですよ、ミツリちゃん」
「ぶふっ!? なんっ、えっ、いきなりなに!?」
「ずっとずっとずうーっと想ってきたのですもの。これからは我慢せずにぶつけていきますので覚悟してくださいね?」
「なになにどうなっているのまあシルディニア様にそう言われるのが嫌ってわけじゃないけどそれにしても急展開すぎない!?」
何が急展開なものかとシルディニアは口の端を裂くように笑う。幾千幾万もの未来の積み重ねがあるのだからいっそ遅すぎるくらいである。
蛇のようにミツリの胴に回した両腕に力を込める。
強く、強く。
「もう絶対に離さないですからね」
「え、ええー? それを言うとしたら私のほうじゃない??? 私のような平民が見切りをつけられてシルディニア様が離れていくってならまだしも、私が率先してシルディニア様から離れていくとかあるわけないし」
よく言いますわね、という呟きはミツリには聞こえていないようだ。暗く、冷たく、心の臓を抉るようなそれをわざわざ聞かせる必要はない。
なぜならこの結末こそがハッピーエンドなのだから。
ここから先は幸せしかない未来が待っている。
……もしもつまらない未来が待っていたとしても、そこに至る前に何をしてでも楽しく、幸せしかない未来に変えてしまえばいい。