【第5話】
吉良は、まるでテーマパークのジェットコースタに乗っているかのような浮遊感の中にいた。
器用に人の死角を抜けながら、吉良は見えない何かに山の方へ運ばれていく。
あいかわらず腕の中にいる、可愛らしい黒猫を吉良は撫でた。
この猫が、どんな考えで吉良に本当の姿を見せずにいるのかは分からない。
けれど、ここまで暴かれておいて、いまだに猫の姿でいることが、吉良にはいじらしく思えた。
「(別に違う姿でも、嫌ったりしないのに)」
そんなことを思っていると、急に吉良を運んでいた見えない物の動きが大きく崩れる気配がした。
はっとして吉良はあたりを見渡す。
自分を運ぶ力が、何かに引っかかって動けなくなっているのだ。
目を凝らすと、糸のようなものが見える。
「網…?」
追ってきていたはずの青年は、いつの間にか見えなくなっていたが、十中八九、青年の仕業だろう。
「動いたら駄目だ、切ってあげるから、そのまま…」
そう言って背負っていたリュックを下ろそうとした吉良に、何かが降ってくる。
「うわ、」
ばしゃりと音を立ててぶつかったのは、蓋の開いたペットボトル。
辺りに広がる強烈な酸っぱい香りには、覚えがある。
「これ、お酢…、あ」
理解した途端、腕の中の黒猫が暴れだした。
当然だ。人でさえ顔をしかめるくらいだから、猫にはとてつもない刺激臭だろう。
黒猫は吉良の腕から逃げ出した。
見えない力に抱えられていた吉良は、そのまま地面に投げ出される。
「い、た」
下手な受け身を取ってから、吉良は立ち上がる。
走り去ろうとしていた猫の後ろ姿を追おうとして、コンクリートに描かれた不可解な文字に目が行く。
お経のようなその文字は、明らかに車のための表示ではない。
猫は、気付かずにその上を走る。
すると、バチン、と電が落ちたように、猫が吹き飛ばされた。
吉良は目を見開いて、猫に駆け寄る。
先ほどまでは興奮で瞳を輝かせていた猫が、今はぐったりと地面に横たわっていた。
痛々しい姿に唇を噛みながら、吉良は大事に猫を掬い上げる。
「…やめてくれよ、心が痛む」
先ほどの青年が、曲がり角から現れた。
やれやれ、と溜息をついているその様子は、到底心が痛んでいるようには見えない。
ゆっくりとこちらに近付いてくる青年から、吉良は猫を隠すように抱え込んだ。
「なら、引いてください。…この子は、何もしてない」
「いや。既に現在進行形で、貴方からいのちを奪ってるんだ、それ」
青年の言葉に、吉良は瞬きをする。
確かに、今の吉良は怪我以上に、貧血のような気怠さを感じている。
そしてそれは、明らかに猫を抱き上げた途端に強くなった。
実は、不自然な気怠さを感じるのは、今回だけではない。
猫を拾ってから、時折こういう脱力感を感じることはあったのだ。
「けどそれは…。私だって、物を食べて生きてる。この子にも、それが必要なんでしょう」
「あなたは別にいいかもしれないけどさ」
どこか飄々としていた青年は、表情を変え、吉良を見つめる。
酷く静かな顔をしていた。
「死んだ後も、面倒見れるの?」
その問いに、吉良は言葉を詰まらせる。
そうだ。
自分は別に、この猫に取り殺されても構わない。
けれど、その後、この子はどこに行くのだろう。
腕の中の猫を見る。
うっすらと目を開ける猫の瞳を見つめる。
しばらくそうしていた吉良は、ひとつ、決心をした。
青年を見上げる。
「…私が死んでしまうときは、…その時は、私がこの子も連れて行きます」
吉良の返答に、青年は「はあ?」と声を上げる。
「連れて行くって言ったって。…そいつを殺すの?あなたが?」
「飼い主の、責任だ」
青年は呆れているようだった。
「貴方は『犬や猫と会話できる』とか言い張るタイプ?」
「…」
「どんなにお互いを愛していても、どんなにお互いを信頼していても、痛みや死の恐怖に抗うのは本能だ。それを克服できる生物なんてそういないよ」
確かに人ではないかぎり、本能に抗うのは難しいのかもしれない。
現に、猫が青年から逃れて吉良の腕の中に逃げ込んだことも、吉良を投げ出したことも、本能によるものだ。
けれど、吉良には確信があった。
「他の生き物は知りませんが、この子は違います」
臆病で、気まぐれで、プライドは高いこの猫は、きっと、出ていけと言えば出ていっただろう。
それでも、追い出さなかったのは、吉良だ。
「私が、傍に居ることを許した。だから、私が連れていきます」
吉良はじっと青年を見つめた。
「それでもあなたがこの子を消すと言うなら、…私もこの子の後を追います」