【第4話】
「貴方を傷付けるつもりは無いんだ、心身共に。…だから困ってる」
そう言って大きくため息をついた青年を、吉良は睨む。
どの口が、と言いたかった。
現に吉良の身体は、斬撃から逃れようと転んだりぶつかったりで、ボロボロだ。
「この子は、何もしていない。私の傍に、いてくれているだけだ」
吉良は、初めてこの黒猫と会った時のことを思い返す。
橋の下で、小さく丸まって震えていた黒猫。
近付いても、逃げる気力さえないのか、動かずに毛を逆立てて吉良を威嚇していたそれを、吉良は連れて帰った。
別に飼う気は無かったのだ。
ただ、同じように一人だった自分に「似ている」なんて思ってしまったのかもしれない。
優しくすることで、自身の寂しさを埋めたかった。
回復した猫は、出ていくかと思いきや、そのまま吉良の家に住み始めた。
元は飼い猫だったのか、頭が良い黒猫との共同生活は、吉良にとってかけがえのないものだった。
「この子が私の傍にいてくれるなら…私も、この子の傍にいる」
この猫がただの猫では無いことは、うっすらと吉良も勘付いていた。
先ほど、見えない力が地面を抉ったのも、多分この黒猫によるものなのだろう。
しかし、たとえこの猫が、吉良にとって不幸を招く黒猫だったとしても、吉良の生活に新しい幸福を与えてくれたことは確かだ。
だから、吉良はこの腕の中の存在を見放さないと決めたのだ。
***
藤二は少年と対峙しながら、冷静に少年を観察する。
おそらく、少年は猫魈をただの猫としか認識していない。
暗示にかかっているのだ。
それは猫魈によるものでもあるが、あるいは少年自身の「そう信じたい」という思いからくる暗示であろう。
「…珍しい事案じゃないんだよ。貴方みたいに情で育てて、結局どうにもならない事態になるの」
藤二は槍の刃先に目を落とす。
「だから、もしそれを殺すことで、あなたが傷ついても。…毎晩貴方が夢枕に立って俺が罪悪感に苛まれても、俺はそれを殺すよ」
仕事だからさ、と藤二は笑う。
「何を言っても、貴方は納得しないと思うけど」
静かに藤二の言葉を聞く少年の腕の中に、もう一度槍を向ける。
「そうですね」
少年は目を伏せる。
完全に平行線だった。
暫くの沈黙の後、ぐ、と両者が足に力を入れた、その時。
少年の腕の中の黒猫が、どろりと溶けるように形を変えた。
先ほどまで猫だったソレは、みるみる大きく膨れ上がる。
思わず口を開いて固まる藤二の前で、黒い影はまるで吉良を守る翼のようになった。
びりびりと肌を刺す敵意に、藤二は冷や汗を垂らす。
一体どれだけの「餌」を与えればこんな大きくなるのか、と藤二は思わず笑う。
おそらく、少年からの生気を現在進行形で喰っているのだ。
「…随分と、甘やかしたね」
「かわいいんです」
少年はいまだ、腕の中に何かを大事そうに抱えていた。
彼にはまだ、ただの猫として見えているのか。
「…その子にとっても、そうみたいだよ」
あんな至近距離で、あんな風に力を晒した状態なら、一般人であっても猫でないものが見えるはずだ。
それでも少年には猫に見えているというなら、まさしく「猫を被っている」状態であるとしか思えない。
重圧を紛らわせるように、藤二は大きく深呼吸をする。
人ではないものに力や速さで叶わないことなんて、よくあることだ。
大切なのは、相手を観察し、上手に追い込むこと、
要は、狩りなのだ。
「その猫かぶり、剥がすのは大変そうだ」
黒い翼は吉良を巻き込んで、浮き上がる。
そのまま逃げていく一人と一匹を、藤二は追った。