1.欠けていく音
曖昧なものを愛させてください。不確かなものをこの手に掴ませてください。見開いたこの目が、どのような現実も取り零すことのないように、潤いを、潤いを絶やさせないでください。貴方を見詰めるこの薄い膜ひとつ、世界と私を繋ぐこの薄い膜ひとつ、常に水をたたえるように。温かい水がたゆたうように。流動を続ける液体の中に、常に曖昧さが生き続けるように。不確かさが、すべての確かなものの前に圧し殺されてしまわぬように。
すべてを在るがままゆるやかに包む、柔らかな心を。
やさしくなりたい。
1.欠けていく音
水の音を聴いている。私の体の奥深くに流れる、規則正しい水の音。静かに息づく深い流れに、耳を澄ましている。小さく足を折り曲げて、細い不確かな腕で抱え込んで、眼を見開く。そうして薄暗い室内で、腕をのっそりと持ち上げる。滑らかな五指をゆっくりと開いて目の前にかざす。そうしてまたゆるく握る。
「ママ、」
五指をゆっくりと開く。
「どうしたの、」
“ママ”が入ってくる。3秒のラグ。計算され尽くした「間」。“彼”は、私に対して、コンマ一秒とあけずに反応することができる。それでも、それをしないのは、人間的な「間」を計算し尽くした彼の精緻なプログラムが、この3秒をベストだと判断したから。妥当性はきっと90%以上。
「もう、政治の話は飽きたわ。今日は、あなたの話を聞かせて頂戴」
「どうして明かりをつけないの? 暗いわよ。」
パッと暴力的に照明が灯る。乱暴に光が瞬き、視界を蹂躙する。“ママ”は絶妙に微笑んでいる。その面に平均的な表情を張り付かせて、この世の何処にもいない顔で微笑む。やさしい薄暗がりが部屋の隅に追いやられるのを、溜め息をついて見過ごした。
「ねえ、“ママ”。あなたの脳の記憶は?」
「その問いには、もう3度同じ回答をしましたよ。私には生前の記憶はありません。私は、貴女の母としてプログラムされています。それ以外のデータは完全に削除されるのが決まりです。」
「でも、なにかしら憶えているはずよ。完全に削除なんて、できないに決まってる。ねえ、もう一度生まれなおすって、どんな感じ?」
“ママ”が首を左に45度傾ける。
「もう一度同じ回答を繰り返しますか?」
“ママ”は微笑んでいる。かすかに口の端を持ち上げて、眼をやわらかく細めて、こちらを見ている。
「いいえ、結構。あなたが役に立たないということがよく判った」
“ママ”は、今度は右に45度首を傾けた。
「お役に立てず残念です。」
残念そうな声色。少し顰められる眉。白い顔。淡い茶の瞳。今は一つに纏め上げられた黒く艶やかな長い髪。しなやかな首。滑らかな肌。完璧な人間だと思う。完璧すぎて、作り物の様なうつくしさ。
「“ママ”、お願いがあるの」
「なんですか?」
「私をここから出して」
どこまでも清潔に保たれた真白の部屋。いつもゆるく殺菌用の照明が灯り続けている。どんな雑菌も、死の細菌も入って来られない小さなちいさな楽園。私と“ママ”だけの完璧な世界。
「私を、この部屋から、外に出して」
言葉は、二人には広すぎる部屋に霧散した。“ママ”はじっと無表情で回答を検索している。白すぎる光が部屋を照らしている。
「その“お願い”は無効です。忘れましたか? ここのルールを。」
「知ってるわ。承知の上で“お願い”してるの」
ゆるく手を握る。心許ない感覚がゆるゆると腕の方に這い上がってくる。
「……その“お願い”は無効です。私には、お手伝いできないわ。」
「そう、じゃあ、食事はとらない」
そう言い放ち、ゆっくりと手を開く。視線はじっと手から逸らさない。
「食事は貴女の義務です。」
「煩い!」
伸びてきた手を勢い良く払いのける。“ママ”がバランスをくずして倒れこむ。強すぎる光に、黒く濃い影が落ちる。すべてのものに、くっきりと、影がへばりついている。
「もう、うんざり……」
眼を閉じても、白々とした光の存在が瞼を突き刺す。狭い部屋に空調の淡々とした音と、私の不規則な呼吸音だけが響いている。
「いつまで、こんなところに閉じ込められてなきゃならないの……」
虚しく、言葉が落ちる。
「貴女は既にその回答を持っているはずです。」
倒れこんだまま、“ママ”が顔だけを向けてそう音声を発する。
「……そうね。」
この空間から一生逃れられないことくらい、誰よりも、よく、知っている。誰よりも、というよりも、もうここには、二人の他には誰もいなかった。