後編 治癒術師の種明かし
「——で、奥さんは三日後、奇跡的に快復。葡萄の効果って騒がれて、どこの果樹園でも、葡萄、売れまくってるそうだ。どこも品切れ。おれも仕入れときゃ良かった」
悔しげに言ったドレッド頭の大男が、背負い梯子を土間にどさりと置いた。『薬あり〼』と書かれた朱塗りの幟旗を払いのけ、積んであった木箱のフタを開ける。狩ってきたばかりのウサギ2羽と、採ってきたばかりの山菜・薬草・たけのこ・キノコを、どさどさと診察台の上に並べた。
お気に入りの絨毯の上で昼寝していた黒猫がぱちりと目を開ける。しっぽをぴんと立てて、話し込む人間二人のもとへ寄ってくると、食材まみれの診察台にぴょいと飛び乗る。耳を縛られて横たわるウサギの身体をじぃと眺める黒い瞳。
薬棚から薬包をいくつか取り出し、治癒術を付与した小石や木札を木箱に詰めていた作務衣姿の細身の男が、ふぅん、といつも通りの平静な顔でたずねる。
「逃げた男は?」
「上手く国境付近まで行ったらしいが、昨晩ついに捕まったって。州長がらみのトラブルだからって、王国奉行所からじきじきに役人が来て、来週裁くらしい」
「へぇ、どおりで役所通りが賑わってるわけだ」
木箱を背負い梯子にくくり直していたドレッド男が目を輝かせる。「なに、ホントか?!」
慌てて通りへ飛びだしていこうとするのを呼び止めて、作務衣の男が何かを紙にすらすらと書きつけて手渡す。「急ぎで頼めるかな。明後日の昼までに」
「珍しいな。はいよ、毎度あり」
怪訝な顔をしたドレッド男はひとつうなずくと、診療所を足早に出て行く。乱暴に押し退けられた珠簾戸がざらざらと音を立てる。
遠ざかる足音が聞こえなくなるまで聞いてから、ウサギの前に丸く座り込んでいた黒猫が、ふわふわの前脚を伸ばしながら天井を見上げる。「こないだ本で読んだな、えーと、刺激欲求だっけ。帰還兵が戦場のスリルを忘れらんなくなるやつ」
「そういうんじゃないよ」作務衣の男は薄く笑って、黒猫の背をそっと撫でてから、丸々と太った野ウサギをひょいと持ち上げる。「今晩は豪勢なウサギ鍋にするから——キミもおつかい、頼まれてくれるかな」
***
三重の手枷をはめられた囚人服の男が、円卓の中央の地べたに座り込んでいる。諦めたように長い息を吐いてうつむく彼を、厳しい顔をした老若男女が四方から睨みつけている。
そこへ、硬質なノックの音が鳴り響いた。
裁判を遮る不躾な騒音に、円卓の役人や陪審員たちがまなじりを吊りあげ、壁際の兵士たちが剣の柄に手をかける。
流れるような木目が美しい両開きの扉が外側から開く。かつん、と黒い革靴が鳴る。ところどころ擦り切れて穴の開いた、縹色の二重ローブをまとった男が現れる。数多の魔族の魔力や瘴気や血液の染みついた歴戦のローブが放つ、異様な、獰猛な気配に、耐性のない市井の人々は訳も分からず背筋を凍らせて気圧されて押し黙る。
ローブの男は丁寧な言葉で進行の中断を詫びると、肩章から上着の胸ポケットへと伸びている黄銅色のマンテルチェーンを引いた。房飾りの下に垂れ下がる、紋章入りの飾り小盾。それを見るなり、王国奉行所の役人たちは泡を食った顔でアームチェアを蹴り飛ばし、一斉に立ち上がる。男は彼らに着席をうながしながら、盾をポケットに収めると、中央でへたりこんでいる男に歩み寄る。
片膝をついて旧友の背に手を回し、穏やかな声で告げた。「遅くなってごめん」
「お前どうやって……やめろ、共犯にされちまう」
蒼白な顔で首を振る旧友。
扉の隙間からするりと入ってきた真っ黒な毛並みの猫が二人のそばにやってくる。
猫を抱き上げたローブの男は、笑顔を浮かべて円卓に向き直る。
「今から、こちらのお医者さまの、荒唐無稽に見える主張が学術的に正しかったことを——彼の無実と功績を、証明します」
腕の中の猫が「は?」と呟いたマヌケ声は、にわかに部屋を満たしたどよめきに掻き消された。
ローブの男の手招きに応じて、ガチガチに緊張した様子のドレッド頭の商人が台車を押して入室し、箱を覆っていた暗幕を取り払った。その下には鉄製の小さな檻。檻の中で2匹の吸血蟹がカサカサと這いまわっている。
州長の隣から、耳をつんざくほどの悲鳴があがった。
黒猫を肩に載せたローブの男は手袋をはめると檻のフタを開け、一匹つかんでとりだすと、その口に注射器を押し込んだ。
「これ、件の毒沼の水です」
言いながら、濁った液体を注入する。手の中で暴れていた蟹はすぐに動かなくなる。
「この沼の毒——黒毒は、蟹などの節足動物には即効性、人間には遅効性の毒として作用します」
人差し指を立てて短く詠唱。囚人の男の両腕を拘束している手枷のひとつが外れて、ゴトンとタイルの上に落ちた。
「オイ何を」真っ赤な顔で役人が言いかけるのに、
「治癒魔法だけです。攻撃と移動の枷はそのままですから」
と答えたローブの男は囚人の肩を軽く叩いて、
「俺も改めて分析し直してみたけど、黒毒で間違いなかったから。——それじゃ、3分後に解毒魔法、よろしく」
「は?」
「そしてこれも、沼の水を濾過した、黒毒です」
黒い液体の入ったカップを皆に掲げて見せると、ローブを払ってその場に座り込み、目を閉じてぐいっと飲み干した。腹部を押さえ、顔をしかめて、ゆっくりと身を横たえる。みるみる血色を失う顔と汗ばむ額に、悲鳴と驚きの声が上がる。
「おいバカ!!」
青ざめた囚人の男が、慌てて治癒魔法の詠唱を始めようとする、その背中に——
「いって!」
黒猫がいきおいよく飛びかかった。
「バカ猫、飼い主が……」
反射的に言いかけて、止まった。
背中からすたんと着地するなり飼い主に駆け寄った小さな猫は、タイルの上に広がっているローブの下にもぐりこむと、真鍮製の懐中時計をくわえて出てきたからだ。
囚人が、カチカチと正確に秒針を鳴らす精巧な時計に目を落とす。
「……なるほど、やっぱ創薬始めたんじゃ、なさそうだ」
医者を呼べ、術師は何してる、と騒ぎたて駆け回る者たちと、事態を呆然と見つめているだけの者たちの中央で、囚人の男は強気な笑みを浮かべ、時計を片手に、旧友の横にどっかりと座り込んだ。
かすかに震える汗ばんだ大きな手が、黒猫の背を撫でる。
***
夕暮れの下。
縹色のローブと薄汚れた白衣が、並んで大通りを進んでいく。
「なぁ、その猫、人間に変身できたりするんだろ」
「しないよ」
「それはお前が知らないだけだ、絶対にそうだ」
「ふーん」
「……オイ飼い主、これ結構重要な問題だぞ」
「そう? なんにせよ、あんまり構うと嫌われるよ」
白衣の男が、好奇心と恩猫への敬意のはざまで苦渋の表情を浮かべ、黒猫に伸ばそうとしていた手を止める。
あほらし、とあくびをひとつ、ローブ姿の男の腕の中からひらりと飛び降りた黒猫は、往来をのんびりと歩きながら話し続ける二人を置いて、さっさと診療所の中に入った。お気に入りの絨毯の真ん中に寝っ転がって目を閉じる。丸い腹部がゆっくりと上下する。
「あれ、またなんか来てる」
ポストに突っ込まれていた分厚い封筒を家主が引き抜く。その封かんに国王の紋章が入っているのを見て、白衣の男がぎょっとのけぞる。
「そうだ、お前一体、どうやってあの場に、ていうか、あのとき見せてたあれって——」
「あんまり構うと、嫌われるよー」
ローブを脱ぎ捨てた男がそう繰り返して荷物を置き、もそもそと作務衣に着替えるのを前に、白衣の男が口をぱくぱくさせながら固まっている。
「さて、お茶入れるね」
奥の部屋に消える家主の足音を聞きながら、めんどくさがりを発揮するマイペースな飼い主に呆れて、目を閉じたままの黒猫はもう一度大きなあくびをひとつ。