前編 毒殺と旧友
#ファンタジーワンドロライ 参加作品
お題「桃源郷」、「毒沼」、「抜け道」
構想2日、執筆30分オーバー
広い芝生の庭に点々と並べられたガーデンテーブルに、色とりどりの料理が並ぶ。うやうやしく一礼した給仕が差し出す銀色の盆からグラスを受け取って、着飾った男女たちが談笑している。庭を囲む四棟の建物の、それぞれの屋根に座り勇ましく吠えている真っ白な守護獣の彫刻。
細身の男の腕に抱かれた小さな黒猫が、焼きたてパンの欠片を口からこぼしながら、「ほーう」と小さく感心の声をあげた。
「ここは理想郷か桃源郷か……」
つぶらな黒い瞳が、ずらりと並んだごちそうと、ほかほかの小麦パンと、綺麗に飾り付けられた小さな小さな砂糖菓子とを、じいっと、穴が空きそうなほど見つめる。
「今まで数千年間、世界を地獄一色に染めてた張本人の言えるセリフじゃないよね、いてて」
へらりと笑った男の顎と首が、黒いふわふわの前脚でぐいと押しのけられて変な音を立てた。
不満そうに息を吐く猫。「こーいう、キラキラのふわふわのはできなかったんだ」
「……きみ案外メルヘンだよな。いてててて別に悪口じゃないって爪、爪っ」
もがく男のローブから、はずみでひらりと落ちた封筒を、通りがかりの給仕が拾い上げる。
「ああ失礼、ありがとうございます」
男が給仕から封筒を受け取ったすきに、男の腕を抜け出した黒猫がローブをよじのぼって肩に乗る。飼い主の手元を見下ろして、その、例年送られてくるものより一回り小さな封筒が元通りローブの下に消えるのを見てから、そういえばと男に問うた。「こういうの、出席するなんて珍しいな」
「ああうん、国宴を欠席し続けてたら、そんなに気兼ねするなら州単位ならどうかって、今度は州長からのお誘いが来ちゃって……そろそろ、さすがにね」
困り顔で呟く男。同情するような、面倒くさそうな息を吐く黒猫。
その後ろ、自慢話に花を咲かせながら楽しげに歩いていた壮年の集団が、ポツンと立っている貧相な男を見つけてまなじりを吊り上げる。「なんだあの男は。本当に招待客か?」
付いて回っていた給仕が慌てて耳打ちした。「こ、国賓とのことです」
ひっ、と短い悲鳴を押し殺してそそくさと去っていく男たち。
野菜と果実が盛り付けられた小さな陶器の皿を手に取りつつ、男が眉を下げる。「やっぱりダメかぁ」
怪訝そうな顔をした黒猫が男のローブを見下ろす。いかにもこのために間に合わせで買ってきましたと言わんばかりの、真新しい正装。「もう一着あっただろ。ほら、最初に会ったときに着てたやつ」
「あれは、ほら、君たちの瘴気とか呪詛とか血とかいろいろ、染みついてるからさ、ちょっとね」
それが?と首をかしげる黒猫の、催促するように開いた口に、男の手が、綺麗な色の果実をふたつ放り込む。
「——ようこそいらっしゃいました。州長の妻です」
客たちに順に声をかけながらやってきた一人の女性が、男の前で立ち止まりスカートをつまんで優雅に一礼する。
「お招きいただき、どうもありがとうございます」男が帽子を外して礼を返す。
「とんでもございません。楽しんでいってくださいね。——まぁ可愛らしい、お客さまは愛猫家でいらっしゃるのね。あなたも楽しんで」
女性は顔をほころばせ、男の肩に座りしっぽを揺らす黒猫にも声をかける。
彼女の死角で、猫のしっぽがべしべしと男の背中を叩き始めたのを見咎める人はおらず。
「ええと……」なんだかんだでそれなりに社会性のある年長者からの催促に、厭世的な朴念仁は慌てて視線をさまよわせ。「ああ、葡萄柄のスカートとは珍しいですね。よくお似合いで」
ゆったりとしたロングドレスのすそに描かれた、みずみずしい果実と、豪華なつるのアラベスク模様。
女性はぱっと顔を輝かせる。「特別にあつらえたんです。あちらに本物の葡萄棚もあるんですよ、ご覧になります?」
「見に行く?」男が肩口の猫に問い、猫は目を細めて「なー」と鳴く。
「こちらです。葡萄は古来から諸病を治す薬と言われていまして——」
スカートを揺らし、先導して歩き出す女性。バラ園を抜けた先、2色の果実がなる見事な葡萄棚が広がっていた。細いツルが優美な曲線を描き、森からの風が大きな葉を揺らす。
男の肩からひらりと降りた黒猫が、地面に落ちた葡萄の粒に駆け寄っていく。
「あ、そちらには毒沼がありますので、」女性が慌てて猫を拾い上げる。
短い脚を宙でじたばたと揺らし不満そうに鳴く黒猫の視線の先、綺麗な花を咲かせている茂みの間に、濁った水面が広がっているのが見える。
「いくつもの伝承がある有名な沼で、埋め立てるのは不吉を呼び寄せると、占い師が言いまして」困り顔で女性の説明。
沼のフチに、丸い背中がひとつしゃがみこんでいる。
おや、と男が呟いた。「少し見ていっても?」
「ええ、ごゆっくり。葡萄、お好きに召し上がってくださいね」
女性は猫を飼い主に手渡して一礼すると、他の来客たちの呼び声に応じて歩き去っていった。
ローブの男は、濁った水面に白い紙のようなものを浸している白衣の男のもとへ歩み寄って、のんびりと口を開いた。「久しぶり。宴席でも研究かぁ、相変わらずだなぁ」
「おわ、びっくりした。落ちるとこだった」
変色した紙を振りながら立ち上がった白衣の男は、ローブ姿の男の顔を見て驚いた顔をしたあと、ニカリと笑う。それから肩の上にいる黒猫を見つけて、「お、創薬も始めたの?」と目を輝かせる。
言葉の意味に気づいた猫が、耳をぺたりと下げて低くうなる。
「ペットだよ」飼い主は穏やかに答えて猫の名を呼び、白衣の男を指さして「こちら、人医コースなのに動物病理まで履修してた変人仲間」と紹介した。
「心配してたんだぞ、失踪してたって聞いたから」
「色々あってね」
二人が尚も積もる話に花を咲かせようとしたところで——屋敷の方角から悲鳴があがった。
さっと表情を引き締めた二人は同時に身をひるがえし、騒ぎの方向へ駆け出す。
「お、奥さまが!」若い女性の悲鳴。
「医者を呼べ!」人ごみの中から、切羽詰まった男性の声。
白衣の男は大声を張り上げて医者を名乗る。数人が振り向く。パニックを起こしている人混みを乱暴に押しのけ、騒動の中心に飛び込んだ。
つい先ほどまで楽しげに案内してくれていた女性が、目を閉じて芝の上に横たわっている。汚れた葡萄の刺繍。青白い顔。苦しげな呼吸音。
「私が主治医だ!」別の方角から声がして、仕立ての良いベストを着た老人が飛び出してくる。「なにがあった?!」
群衆の中から、誰かが震える声で叫んだ。「小さい吸血蟹が、とつぜん奥さまの口の中に」
白衣の男と老人、それからローブの男の表情が変わる。白衣の男が女性を抱えてうつ伏せにし、老人がためらうことなく自身の指を女性の口に突っ込んだ。大量の血液があふれ出る。
数秒ののち、主治医の老人が小さく首を振る。「……だめだ、頸部を通り過ぎて、食道の奥にへばりついてる」
友人らしき女性が、近くで大声を上げて泣き崩れる。
青ざめた顔の白衣の男の頬に、つうと一筋の汗が伝う。
じわじわと広がる血だまりを見下ろして、ローブの男が呟く。「失血がひどい、これだと開胸する前に……どうしたら」
急に立ち上がった白衣の男が、来た道を駆け出した。濁った色の液体の入ったグラスを手に戻ってくると、主治医を押しのけてそれを女性に飲ませた。
人混みの後方から誰かが叫んだ。「おい、それ……毒沼の水だぞ!」
屋敷の警護兵が慌てて白衣の男を取り押さえた。空のグラスが芝の上に転がる。
地に伏した男が、必死の形相で叫んだ。「たぶん黒毒だ、解毒魔法を!」
「黙れ毒殺犯!」激昂した兵士が剣を抜こうと片手を離した隙に、白衣の男が兵を振り払う。群衆を押しのけて、近くの茂みに飛び込んだ。
一方——患者の元には数人の術師たちが殺到し、めいめいに詠唱をしては様々な解毒魔法をかけていく。それを見てから、ローブの男は身をひるがえして、白衣の男と追手の兵士たちが消えた茂みに分け入る。
「奥さまにこちらを!」葡萄棚の方角から現れた着飾った女性たちが、大量の葡萄を抱えて向かってくるのが見える。ローブの男は足早に茂みを抜け、毒沼のほとりを半周ほど駆けると、塀をよじ登って森に飛び込んだ。
「ああ、ここに繋がってるのか」男の肩にしがみついたままの黒猫が、黒い瞳に木々を映しながら少し楽しげに言った。
「来たことある? あいつ、逃したいんだけど」
王の信頼も篤いはずの男の意外な言葉に、へぇ、と黒猫が長いひげを揺らして。
「そこの獣道を辿って、ああ崖になってるけどがんばれ、その先に良い抜け道がある」
言われたとおりに進んだ男がずるずるときつい傾斜を下り終えたところで、ちょうど、白衣の男が横の茂みから飛び出してきた。
目が合う。驚いた顔をする旧友。兵士たちの足音と恫喝の声が近づいてくる。
黒猫がローブの上を滑るようにして地面に降りると、二人を先導するように、太い木々の間に飛び込んだ。
「早く、こっちだ」
白衣の男の腕を掴んで、真新しいローブをひるがえし、男は黒猫を追って駆け出す。
作業BGM
・ことほぎ/tele
・杮落し/小林私