前編 魔王御用達
#深夜の真剣物書き120分一本勝負 参加作品
お題「カーペット」「黒猫」「楷書」
「徴税監査だ!」
乱暴に押し退けられた珠簾戸がざらざらと音を立てて揺れる。大声を張り上げて室内に入ってきた小太りの役人たちが、下劣な笑みを浮かべて室内を物色するように眺め回す。
「はぁ」
埃っぽい部屋の中に、古びた薬棚の前に座り込んで気の抜けきった返事をする、痩せこけた男が一人。よれよれの作務衣をだらしなく羽織るようにして着ている。鎖骨の下に浮き出た肋骨が見える。
「先月分はもう払いましたけど。ええと、先週だったかな、その前だったっけな」
ぼんやりと答える男の様子を役人たちは気味悪そうに見、役人の一人がフンと鼻を鳴らす。
「過少申告だという密告があったぞ。脱税は重罪だ、知っているな?」
それが、言いがかりをつけて市民の金品を押収し着服するための悪徳役人の常套句だということは、広く市民に知れ渡っているが、男は相変わらず「はぁ、そうでしたっけ」と他人事のような返事をするだけ。骨ばった手が薬研を回し、ごりごりと茶色い実をすりつぶしている。
部屋のあちこちには乱雑に積み上げられた埃まみれの古い医学書。破れた革の背表紙の隙間から、切れかけの綴じ紐が覗く。
都合のよいカモだと気づいた役人二人が、顔を見合わせて笑みを深め。
「ああ、そこの絨毯、これは西国産の高級品だな」
一人が指さした先、陽当たりのよい格子窓の近くに、赤と白の豪華な絨毯が敷かれていた。羊と鷲を模した精緻な文様がびっしりと並ぶ。そのちょうど真ん中で、ぬぬぬぬ、と気持ちよさそうに前脚を伸ばす黒猫が一匹。
「こんなものを買えるということは、やはり所得を誤魔化しているな」
「いやそれは、えーと、知人の持ち物で」
男の弁明を聞きもせず、役人は側仕えに『あの絨毯を回収しろ』と声高に言いつけた。
男が薬研から手を離す。ごとんと重い音が鳴る。「それは、知人の唯一の大事なもので」
「ならそいつに伝えるんだな。脱税のカタに持っていかれたから、相応の金をくれと」
側仕えの男が絨毯の端を掴み、載ったままの黒猫を追っ払おうとして噛みつかれる。首根っこを掴まれた猫が部屋の隅に放られる。
そのやりとりを薄目で眺めて、うーん、と男は危機感のない声を上げて、
「ああ、これでどうかな」
あくびを噛み殺しつつ、だらしなく開いた胸元の合わせから木簡を取り出して「はいよ」と役人に手渡した。
真新しい木材でつくったそれにクセの強い楷書で記されていたのは、たったの五文字。だが、それを見た役人たちは、呼吸を止めた。
ここ数年見ていなかった、だがよくよく見覚えのある筆跡でーー「魔王御用達」と。
それも、伐採してまだ一年も経っていないだろう、真新しい木材に、だ。
ひゅ、と役人の一人の喉が鳴った。
目を見開いて固まる役人たちの元へ、絨毯を巻き終えた側仕えの男が不思議そうに寄ってきて、その木を見るなりざあっと青ざめて慌てて絨毯を戻しにいく。「ははは早くしろ!!!」と喚きながらその背を蹴り飛ばした役人は、土間に額を数回擦り付けながら、恥も外聞もないようなあらん限りの謝罪の言葉を並べ立ててから、競うようにしてその建物から飛び出していった。軋んだ音を立てて閉じるボロい木戸。ざらざらと鳴る珠簾戸。
「役に立ったね」と男がぽつりと言う。
絨毯の中央に歩いて戻った黒猫が、ごろんと寝そべって、毛づくろいをしながら言った。「また客が減るぞ」
「いいよ」
木板を元通りに服の下に戻してから、男は再び薬研車を手に取り、眠そうな顔でこともなげに返した。
***
かつて、この国には『魔王』がいた。
一個体の生物とは思えないほどの膨大な魔力と、それによる長い寿命を持ち、険しい岩山の頂にそびえる真っ黒な石城に住まい、気まぐれに他種族を襲っては好き勝手に大地を荒らす、最強で最悪の無秩序。魔族の頂点にして、全種族の恐怖の象徴。
そして、人間種には、それを討伐するべく任命された『勇者』と呼ばれる者がいた。
魔王を倒すため、勇者は何度となく代替わりして勝負を挑んでは敗れることを繰り返してきた。有史以来ずっと、長い長い争いが続いていた。数千年にも渡る永い諍いだ。
それが、数年前、ようやく終焉を迎えた。
最後の勇者は、長い戦いの末、ついに魔王を討ち果たすことに成功したのだ。彼と、彼の四人の仲間とともに、苦難の末の相討ちで、だ。
当代の人間種の国王は、すべての国民にこの事実を発表し、安寧と勝利を宣言した。
だが、『魔王がまだ生きている』という不穏な噂は、この国の至るところに残っている。それを信じている者たちも多い。
……そして、噂はもう一つある。
これが事実だということは、国王とその側近のごく数人だけしか知らないことだが。
最後の勇者は、長い戦いの末、ついに魔王を討ち果たすことに成功した。
彼と、彼の三人の仲間とともに、苦難の末の相討ちで。
ーーただ一人だけ。
英雄譚の記録係にして後方支援の治癒術師、苦楽を共にした仲間たちの中で、ただ一人きりを、この世界に遺して。
***
がらがらと大量の瓦礫が一斉に崩れ落ちる。豪華絢爛な家財道具や折れた柱が、はるか下へと落ちてゆく音。立ち込める白い粉塵。
瀕死の魔王が放った渾身の生命力吸収魔法と、瀕死の勇者が放った最高の剣撃魔法の衝突で舞い上がった、周囲のあらゆるものが、重力に従ってゆっくりゆっくりと収まっていく。
倒れた柱の下から、一人、呻き声とともに立ち上がる者がいた。しどどに流れる鮮血が革のブーツを伝って、赤と白で織られた豪華な絨毯に染み込んでいく。羊と鷲を模した精緻な文様を、泥まみれの靴底が汚す。
鎧をまとった細身の青年だ。傷だらけの口元が小さく動いて、治癒魔法を詠唱。ぼろぼろの手袋の破片から覗く指先に、うっすらと点る魔法の光。
鎧の青年は、四肢をばらばらに散らしたままぴくりとも動かない仲間の死体を横を通り過ぎ、見るからに失血死している傷だらけの勇者の身体の横を通り過ぎて、魔王の玉座のすぐ前にひざまづいた。
綿を散らしたクッションの上にうつぶせになっていた、小さな黒猫がゆっくりと頭を上げた。なんの変哲もない、ただの猫だ。魔力の気配など微塵もないただの猫。
黒い、滑らかな眼球が、じいと青年の顔を見上げる。
「……全部終わったんだから、もういいだろ」
掠れた声でそう呟いた青年の、ほのかに光る右手が、黒猫の小さく丸い頭部をそっと撫でた。
***
寝室からのそりと出てきた作務衣姿の男が、絨毯の中央で丸まっていた黒猫に朝の挨拶をして、窓の鎧戸を開ける。差し込んでくる朝日を避けるように寝返りを打つ猫。
日差しが当たって薬棚から漂ってくる薬草のにおいに、猫のひげがひくひくと動いて、そのまま二度寝に入ろうとしてーーパチリと目を開けた。昨晩の考え事を思い出したのだ。
奥の物置の2階で診療院の看板を見つけたと、黒猫が口にすると、ああ、と男はうなずいた。
「いいんだよ、ここはもう。俺とお前の……終の住処としてあるだけだから」
男は気怠げにそう言って、庭に面した窓を大きく開いた。
きちんと剪定された木々の中に、六つの丸い墓石が並んでいる。
二つは古い。墓標に刻まれているのは、男の両親の名前だ。この家で数十年診療院を営んだあと、先代の『勇者』に同伴して魔王討伐に向かいその命を散らした後方支援の治癒術師、その二人の名前。
残り4つは数年前に作ったもので、まだ新しい。
黒猫は、庭に背を向け目を閉じる。
朝の西風をゆっくりと吸い込み、男はいつもどおり、六つの墓石に朝の挨拶をした。